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Osaka University Knowledge Archive :...

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Title 最もらしからぬ旧帝大 : 大阪大学発展の系譜 Author(s) 斎藤, 諦淳 Citation 大阪大学史紀要. 3 P.1-P.16 Issue Date 1983-11-30 Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/11094/12060 DOI rights Note Osaka University Knowledge Archive : OUKA Osaka University Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/ Osaka University
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Page 1: Osaka University Knowledge Archive : OUKA...流をもっていることは幸せである。大阪大学の場合、その源流は適塾に求められている。これは、大阪

Title 最もらしからぬ旧帝大 : 大阪大学発展の系譜

Author(s) 斎藤, 諦淳

Citation 大阪大学史紀要. 3 P.1-P.16

Issue Date 1983-11-30

Text Version publisher

URL http://hdl.handle.net/11094/12060

DOI

rights

Note

Osaka University Knowledge Archive : OUKAOsaka University Knowledge Archive : OUKA

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/

Osaka University

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』土

り、

し、

か、

り、

ぬ、

口H

!大阪大学発展

マ主ノ』、

;欠

はじめに

緒方洪庖|旧帝大らしからぬさの先逮

ぬえ一

週塾よりも侠徳俊一|紛尚子問の系議

総合大学への発問問i法文系、歯学部の創設

研究機能の拡大i蛋白質研究所の創設

新機軸の学部|基礎工学部、人間科学部、

医療技術短期大学部の創設

発日間の指数i規模の拡大

戦前の七つの帝国大学を母体とするいわゆる旧帝大には、大学の中

でも学術研究の中核的な機関としておのずから伝統的、高踏的な性格

がある。ところが、これら旧帝大の中にあって、大阪大学は相当趣き

を異にする。戦後の新制大仮大学の発展の跡を具体的に追ってみてそ

譜lt

3事

i学

れが明らかになるが、要するに大阪の風土、気性そのままに驚く程現

実主義的であり革新的である。この意味で最もそれらしからぬ出帝大

なのである。そして、この特質は、大阪大学の源流といわれる適塾及

び懐徳堂の伝統そのものでもある。

この大学は、その旧帝大かいがい九叫がのために非常な発展をしてき

た。格式ばらない現実性と先見性で新機軸を次々と打ち出し、それを

実現してきた活力あふれる大学であった。

今回、自ら大阪大学を卒業し、その後、たまたま二十五年余にわた

いわば内外から大阪大学を見つめてきた立場

で、多少の独断も加えながら、その最も「いいかか恥旧帝大」の発展

って文教持政に関与し、

の軌跡をみて行きたい。

緒方洪庵i

旧帝大らしからぬさの先達

大学には伝統や建学の精神の拠りどころが必要で、その拠るべき、採

五まもらしからぬ!日帝大Z

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流をもっていることは幸せである。

大阪大学の場合、その源流は適塾に求められている。これは、大阪

帝国大学が昭和六年に発足した時、大阪窪科大学を継いだ医学部を中

心にし、理学部を新設してこれを加えて創設がなされたように、註学

部が大阪大学の中で最も伝統ある学部であること、その毘学部の前身

が幾多の変選を経てはいるけれどこの適塾であることによる。その適

塾は、今一兇いうまでもないが、幕末における洋学研究の第一人者と仰

がれた緒方洪路の闘いた誌で、その門下生から明治維新の原動力とも

いうべき数々の人材を輩出したのであった。吏にいえば、一方では東

京大尚子医学部は洪庵及び鼓生の長輿専斎等によって開かれたものであ

るし、又

方ではその塾長をつとめた福沢諭吉が慶応義勢大学の創始

存在であり、

いわば適惑が日本の官立、私立大学の源流ともいえる

したがって大坂大学の関係者は凡そ大学一般の精神的拠

者であるため、

りどころと、自分の大学の先駆とをオーバーラヅプさぜて適~紘一を源流

と思い、愛惜することとなるのである。

適地一から大阪大学医学部に至るまでは度重なる改廃なくりかえし、

その関、組織的にも多少の断絶はあるが、適塾が大阪大学の源流であ

るというのはむしろその学風なり、それを支える大較の精神的土壌に

おいてである。

たとえば大坂における謝学の発展について梅漠昇氏が

「関学が大坂に根を下ろしたことは、この地の経済の発達にともな

ぃ、町人の間に数迎観念の普及したことが関学の合理性を理解し受谷

する素地となったと考えられる。(中同時)普及の実情についてみれば、

保守的で形式を震んじる武士階級よりは、実質を尊重する町入社会に

適合するものがあった。従って、わが関経済界の中心に位していた大

2

坂に蘭学の発達する条件が存在したのである。L

(巡塾記念会『綴方洪路

と遊塾』)

と述べているのを見たりすると、当時の関学の本でなく、現在の大阪

大学に鶴有の学風を支える地域的特性にそのままあてはまる。背景と

なる土地柄に皮応しながら学風は紋読されるのであり、叉そういう学

風に合った人々が更に集まって伝統合拡大生産して行くのである。

洪施は「安政六、七年のころ、英学の前一要性なみとめ、優秀な紘一生

の一人に英語の学習を勧めていることがある。その理由はオランダよ

りも強力な英米などの列強と新しく接触するに至って関学の復命は一

応その限界に達し、やがて英学がこれに代ることな見通していたので

ある。ここに事態の本質を見きわめる本見と常に最新知識を求めよう

とする精神がよく示されている。L(前賠訴)

といわれている。これなども、職務上付きあう仰の大学に比べ、大薮

大学の学長や学部長にそのままゐてはまる顕著な性格である。適勃一及

び洪施について知識があるわけではないが、ものごとにとらわれない

で新しい方向にどんどん進んで行く大阪大学人の性向なみていると、

殆ど確信に近い感触で洪踏の思想や思考のパタ!ンが理解できる。

権勢や格式ばったことを嫌う洪掘は幕府奥医師、すなわち将蝦の侍

医という栄誉に召されるが、これを不本意とし「世にいう有難迷惑な

るもの

L

としながら幕府勤めに赴いたという。そして江戸へ出てわず

か十か月で急死する。

「己の適するところを溺」として適々斎と名の

った自主独立精神の旺盛な洪路は、権威主義の

へ向うのが余程進

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まなかったのであろう。大肢を出る捺、

よるベぞとおもひしものをなにはがた

あしのかりねとなりにけるかな

と詠んだという(前掲投)。大阪、適塾からはなれ、水のあわない江戸

に出向く洪庵の気持が切々と伝わってくる。

凡そ旧帝大特有の権威主義とは無縁で、格式ばらず進取の気性に富

む大阪大学の性格は、洪庵に代表される適識の群像に重なるのである。

適塾と洪路こそ、

泊帝大らしからぬ大阪大学の源流でありその先達の

最たるものであった。

史蹟「緒方洪庵旧宅及塾」は、昭和十七年、ゆかりの深い大阪大学

に寄附された。その後、都会の真中にもかかわらず脊跡的な幸運とい

うべきか、戦災をもまぬがれ、見学者に生々しい迫力でその歴史を語

ってくれる。今日、大阪大学にとってその源流としての適塾の存在は、

とにかく大きな意味をもっている。

ぬえ

適塾よりも懐徳堂|鶴学問の系譜

適塾を大阪大学の源流とすることには誰も兵存はないが、他方、も

う一つの大阪大学の源流として、山甘や保九(一七二凶)年に創設された懐

徳堂を忘れてはならない。

般には無名であるが、大阪大学の関係者

が貴重な研究をしていることな氏関する。それから推量すると、現代

の大阪大学の発展の思想的系譜は適塾以上に懐徳堂に源流をもってい

る。思想的系譜というのは町人の学問所としての性格であるが、その

実態は作道洋太郎氏によって端的に指摘されている。

初代学主の一一一宅石底等によって展開された学問は「陽羽尚子止を主とし

ながらも封建朱子学や、京都の伊藤仁斎にはじまる古学などもとり入

ぬえ

れ、諸説止をあわせて折衷したものでφめったので可懐徳堂の鶴学問』と

評されたことは有名である。」(「近位大阪町入学の系諮と特質」

町大紋大学

史紀妥』第

戦後、新制大薮大学になってから

e新しい学際領域等の学部を増設し

発展する動向を見ていると、この町人的発想ともいうべき、諸説の折

表的な「懐徳堂の鶴学部」という特質が、大阪大学の学問的系譜とい

って間違いで沿い。

懐徳堂は、中井竹山、履軒兄弟の代の頃黄金時代を築き、

の回一回

平替を凌ぐ勢いであったといわれたが、

四五年間の活動をおわり明

治二(一八六九)年に廃止されたという。なお、その後明治四十一一一(一九

一O)年、懐徳堂記念会が組織され市民教化を行った。昭和一一十四年、

開会から関設が大阪大学文学部に贈られ、これを懐徳堂丈庫として運

用している。

懐徳堂の場合、明治二年に廃止されたままであったため、その後の

大阪大学に人的な系列があるのでなく、叉組織としても献承したもの

でもない。

ただここで述べたいのは、直接の沿革的継続性より、壊徳

堂を育てた土地柄やその思想的問質性のことである。伝統とはそうい

ぅ、ものであると思う。

大学が建学の精神の系譜としてひきつぐものは必ずしも確実な継承

を経なければならないものでなく、それよりもその大学の背景をなす

最もらしからぬ!日帝大3

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社会的土壌や、教官、学生が共有する思想的関一性が重要なのである。

それが学風を形成して行くのである。ワセダマンの気風は明らかに慶

応ボl

イと異るが、これは、政府を追われ、学問の独立を主張した大

隈重信の反官在野の精神を何らかの制度として継続したために培われ

たものではなさそうである。むしろ、学生が本当にワセダの学生にな

るのは、春の早慶戦を体験してからといわれるが、これが最も当って

いるのではないか。

神宮の森で応援歌合大声ではりあげ、勝っても敗けても新宿の町を

一局くみあってねり歩いて早稲岡精神は育って行く。その時、慶応のよ

うに揺、沢諭士口を呼びすてにすると顔をしかめるような幼稚舎上りのエ

lト摺はいないし、大体が都会式問ちの多い麗応にくらべた場合、東

北や九州四国地方の出身者が多い。球場では、慶応の側にはめったに

見かけない下町のおぢさん逮が早稲田側のファγ

席には数が多い。勝

利の長調会女子学生と一局一をくんで汲みかわすのも、慶応の場合はレス

トランといってもよいが、早稲田の場合は食堂といった方がぴったり

する。多分、その女子学生の容水の呑も、慶応の場合に比べうすい

である。こうしてスマ

i

トな慶応ボi

イに比べ、活力あふれるワセダ

マンが育って行くのであるが、

いわば組織的な沿革が大学の伝統を育

てるのでなく、

の社会的背景や地域のかかわり、或いは

OB

、教

長はては学生街の商人等まで含めた大学関係者の行動や雰囲気の中で

伝統と学風は作りあげられるのである。

その意味で、懐徳堂と現在の大阪大学には明らかな継承の系譜はな

、命、喝、

、LV4μ

いいかえれば懐徳堂を育てた土壌が、叉同じような学風をもっ

大阪大学を育てたというのが正確な分析であろう。

4

「懐徳堂では、

(大学・中川・論語・孟子)・五経(易経・詩経・説経

-春秋・礼記)を教えたが、その解釈は折衷的で、そのためさきに述べ

たように「鶴学問L

ともいわれた。首は朱子で、島は陸(陵象山)、脚

は王(主防閉山)のようで、鳴く戸は医に似ているといわれた。その医と

いうのは、活庖が丸薬の「反魂丹」を市販し、病弱の

の療養費

に充てていたからである。石庵はまた『中席bの解釈においてすぐれ、

ひろく学んで、これを自由に批判し、かつ中正を持ることが自由討究

の学問精神であることを明らかにした。こうしたところに懐徳堂の特

質がうかがわれ、や罰としての整会性よりも、その実践性を主視し、

町人向けの教義的儲学を創造したところに大きな意義が認められる。

その点、江戸幕府の学問一別であった江戸湯舟(はじめ上野忍ケ限)の

脅とは性格をいちじるしく異にしており、懐徳常一の学問は虚心担能で、

町人教育の本旨にそうものであった。」(作道前掲諮)

今日の大阪大学の特質を考えながらこういう分析なみても、懐徳堂

はかりに適塾に比べ制度的断絶があっても、更に大阪大学の立派な源

流であるといってよいのである。

学問問がそうであるばかりでなく、地元による大学の支援体制やそれ

の具体的現れともいう寄附等も、俊徳弦と大阪大学の吻合はおどろく

程類似している。亭保九年に捜徳堂を設立した中心メンバーは「懐徳

堂五同志」といわれる大阪町人たちで鴻池家一一一代当主の女婿にあたる

鴻池屋叉四郎をはじめ鵠油醸造業者、雨林健海、貸家業合常む者連であ

ったという。叉、天明元(一七人一)年、懐徳堂修恕のため義余募集を

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名前が上っている。

行った記録をみても白木慶彦太郎、鴻池宗太郎、橋賂撞九郊兵衛等の

他方、大阪帝国大学

覧を調べていると、次のような記録に出合つ

元大薮医科大学基本金寄附者氏名

たが、天明元年より百四十年下っても同様の支援体制である。

大正六年一一月十九日ノ火災一一依リ大学及病院ノ再築ト予科ノ拡張新

商亦大正七年ノ

築ノ必要ニ迫マラレ為メニ巨額ノ建築資金ヲ要シ

テ大正七年ヨヲ八年ニ一羽一F

普ク大阪市ノ有志

大学令ニ拠ル大学認定一一関シ一定ノ基本金ヲ要スルニ歪リタルヲ以

シテ基本金ノ寄

附ヲ乞ヒ即納或ハ年賦ニ依リテ約を百万円ノ牒金ヲ

ムルコトヲ得

ル寄問者氏名左ノ如シ

之ヲ大学基本金トナシ病院建築費一二時繰入レタリ而シテ其ノ主ナ

(寄附金額)

(氏名)

拾万円

男爵

拾万円

住友吉左衛門氏

八万円

久原一房之助氏

大阪商船会社社長

堀一務次郎氏

五万円

五万円

参万円

参万円

岸本土悶布衛門氏

弐万円

弐万円

日本生命保険株式会社

弐万円

(寄附金額)

(氏名)

合名会社藤間組社長

男爵藤間平太郎氏

箱岡龍太郎氏

男爵

鴻池

右衛門氏

原田六郎氏

株式会社大阪鉄工所取締役

山開順太郊氏

(吋大阪常悶大学一覧μ昭和十八年度)

(以下略)

なお明治五年に国立政轄になっていた大阪医学校が廃止され、適塾

以来の伝統が消えかかったことがあるが、この時も大坂の財界人鴻池

議右衛門、住友吉左衛門など有志一一一百名が際金して明治六年に大阪府

病院を開設し、後の霞学部への学灯を維持したといわれている。地元

が肝入りして支えるこれらの行動様式はすべて懐徳堂以来の伝統なの

である。昭和六年に大阪帝園大学が設置された時も、創設関係予算が

貴族院で紛糾し、

一日間の会期延長を要したと倍えられているが、そ

の理由は従来の帝国大学が関家目的に沿うものとしてその

向、計内出又

V1

下広22円札

されるのに対し、大阪の場合財政的に多くを地元公共団体等に依存す

}〉

Tーや冶

ZJ4カ

つの問題になったといわれる。医学部にもいろんな寄附金が

入っていたが、恕学部創設の母体となった壌見理化学研究所も、大阪

医学校卒業生取見政次病没に際し私財百万円を大正五年に寄附したも

のであり、これがあったため理学部乃五大阪情国大学が創設できたと

伝えられる。

このように地元が経済的に援助するからこそ、その学部自体が地域

に稗益することが要請されるのであり、叉このことによって大学にお

ける教育、研究のあり方が大阪国有のあり方をもって発展して行くの

である。その関係は次の叙述によく表れている。

「徳川時代の大阪高人は、誰からも援助会}受けられないで、大名や

幕府から郷用金と上金で苦しめられながらも、成長して

って、幕府

をおさえ、大名を経済的におさえた。その

の根源は、大阪北浜

了間にあったこつの大学(今流にいうと大学)であった。理工系と文科系

の学校、すなわち緒方洪庖の♂姐塾』と、もう一つはコ様徳堂』であ

った。慎徳堂は大阪高入学の基礎づけを敢行した有名な学校である。

中井竹山も、山片幡桃もここでの人であった。私の家は代々

助右衛門として北浜に住んだが、その東側が懐徳堂で、毎年銀五OO

主主もらしからぬ!日干若大5

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匁以上を寄付した記録が残っている。L(扇子勝久「これからの大学経償」

民主教育協会『茨代の高等教育』二三九号)

適誌も緒方洪踏の思想にあらわれるように大阪的|大阪大学的特質

をもっているが、大寂商入学な基礎づけした懐徳堂は、それ以上に旧

帝大らしからぬ大阪大学の源流としてティピカルなのである。

このようなわけで大阪大学存在の仕方及び思憩的源流としては、適

塾よりも懐徳堂を更に重視すべきではなかろうか。作道洋太郎氏は蝶

徳設学、を復興し、近世大阪における学問の独自な性絡を再検討し、大

荻町人の行動諒理ないし価船体系の形成過程を明らかにして行く必要

な説く。それはまた「関商復権」の学問的指標を確立することにもな

ることを指摘する。本当にそうだと思う。関西のためにも、大阪大学

のためにも大阪大学の思想的源流というべき懐徳堂の事績は吏に評価

し、研究されるべきであると思う。そのようにして大阪大学の鹿史文

はその学問的系譜が明らかになることは又わが国大学、学術のあり方

及びその発展のためにも大きな貢献をすることにもなるのである。

総合大学への発展||法文系、

歯学部の創設

昭和二十一一年、大抜帝間大学は大阪大学となり、法文学部を設置し

て総λ山口大学の突を備えた。つづいて昭和二十四年五月、日州立学校設置

法(法律第一一九きが公布され、文学部、法経学部、理学部、医学部、

の五学部からなる新制大学として出発した。法経学部は昭和

十八年八月に改組され、法学部と経済学部が設立された。総合大学に

とって法学部が生れたことの意味は大きく、これでいわば一人前の大

6

になったといえる。

法学部での恩師熊谷間作氏による「大阪における法学教育事始」は

法学部の存在意義について次のように述べている。

「法学部の'欠けた大学とは、西洋の大学の事情をいくらか知ってい

る者にとっては、きわめて奇兵なことである。

ヨーロッパでの最も古

い大年としては、イタリアのサレルノとボロ!ニャの同大学とパリ大

の一一一つがあげられるのがつねである。そのうち、サレルノが医科の

単科大学であったのに対し、ともに一二世紀に成立したといわれるボ

ロ!ニャとパリの両大学は文芸、法学、神学とならんで法学の教育が

行なわれた。そのうち、パリ大学では、二二九年以後市民法の教育

が禁じられ、教会法だけが教えられたが、ボロIニャ大学は教会法と

ともに市民法を研究・教育する大学として名をはせ、

ヨーロッパ各国

から多くの学生を集めた。(中将)大甑には可法省法学校や大学南校に

あたる悶立の法学教育機関はながく設けられなかった。それは、罷学

をはじめとする現科系教育機関が早く設けられたのと対照的であった。

(中略)文化の中心ならばその文化を研究し教育する部門が必要であり、

高工都市ならばそれが進むべき方向やそこに生起する複雑な問題に対

処しうる知識を装う経済や法律を研究する分野が必要なはずである。

(後同時)し(咋大奴大学史紀要』第

間やヴ

)

」の所論は、大阪大学の歴史が医学乃

工系に重点がおかれ、総

合大学のあるべき理想設についての展望を欠き、法の論却を媒介とす

る権利と義務の体系的教育、研究を行う法学の分野が発践しなかった

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ことを述べているのである。他方、法科万能の権威主義的な自で

のあり方を挑める立場からも法学部の存在怠設は重視される。

「昭和のはじめの帝国大学としては、東京、京都、東北、九州、北

海道の五校があった。その後、柿誌地であった京域、台北に一一校が置

かれ、さらに大阪、

にも開設された。このうち、大阪、名古屋

の両帝関大学は、戦後に万一るまで法学部もしくは法文学部を持ってい

なかったから、法学部をもっ帝国大学が帝国大学の中の帝国大尚子たる

地位を得たのではないだろうか。}(教育社『官僚お)(注北海道大学の場

ムロも法文学部が設院されるのは昭和二十二年である。)

こういう立場から見れば大阪大学は、皮肉にも戦後、常国大学の名

称を廃止した正にその時にはじめて真の帝商大学の地位を得たことに

なる。

しかしながら、

旧帝大の地位を確保するために必要不可欠の学部と

いわれる法学部にあっても、やはり大阪大学の場合は旧帝大らしから

ぬ色彩をもっ。卒業生の動向を見ても官吏養成の彩はうすく、他学部

同様民間中心型である。

「阪大法学部の併で卒業生の業程をみると、

官公庁(地方自治体、特殊法人を含む)四四四(人)

一一……(%)

司法関係

ニ一一一回

戸じ

新開・出版社等

v七

各種民間企業

二一七七

ノ\

大学・教育関係

在日

その他

四八

一一一五回一一OO

(昭和五十五年度大阪大学法学部同窓会名簿より)

となっている。もはや官吏養成や言論文化等法政凶有のエリート人

材を養成するのでなく、通常のや部と河様、サラリ!?ン又は市民義

成の大衆の学部になったことが明らかである。L

(『前燦溺淳「エリートの

尚子部から大衆の学部へ」吋法学救出日記』一九八

O、一一一月)

他からは或極の期待があるかもしれないが、

にも権勢欲の旺

盛な肩ひじを張ったエリート性はなく、

やはり大阪町人的学部なので

ある。

格式と正統派を重んじる旧梢帝大の系列からみれば、たえず現実的

な企附を構想する大阪大学発展の特質は、その後の殆どすべての学部

の新設の跡に一一服あきらかでおる。大半の部局は、旧制帝大的感覚

から見ると新奇をてらうか、権威を失墜させるかの試みによって他の

大学関係者や文部省を甑然とさせながら拡張してきたといっても誇張

ではない。

その筆頭ともいうべきは昭和二十六年の断学部の創設である。戦前

のわが関の術学教育機鈎は専門学校までであって、大学になるのは戦

後である。当時の歯科医療の医学に比した地位からみても、大学関係

者はその養成機関が専門学校から大学に昇絡することに典和感をもっ

ていたに違いない。それを事もあろうに旧帝大に設けるとはというの

が正直な感覚であったろうと推察される。又、医学部から見れば歯科

口腔外科は、大世帯の内科・外科等にくらべ、通常識践にすらなって

いないクラィ、ネハッハ(小診療科)である。学部はもとより学科に昇格

最もらしからぬ!日帝大7

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させることすら考えも及ばない。

それにも拘らず、大阪大学では

々と終戦直後の昭和二十一年から

歯学部設置を検討していたのである。

「大阪大学に歯学部設置の空気がかもし出されたのは終戦後のこと

であった。霞尚子部教授会に、そのことが報告され、はじめて、その具

体化の第

歩を踏んだのである。ときの総長八木秀次、さらに引統い

て総長今村荒男を始め評議会・医学部長黒津敏行・寵学部教授会に対

する弓倉教授の真禁・熱心な働きかけにより、係一学部歯科学教室を基

礎として、大阪大学に商学部の新設を文部省に申請する方向に進ん

en由。

ゃれい

年九月に医学部教授会及び学部長会議ならび

そして昭和一一十

に評議会に案件が上程され、向年度の追加予算に必要経費を要求する

ことが決められたという(吋大阪大学ニ十去年誌』)0

71nHH‘

4品

印川d不二斗i

では、私立東京歯科大学がその七月十九日に専門学校

から大学になり、他方国立の東京医科的科大学は同年八月二十七日に

大学に昇格したばかりである。そして八木、今村総長のこの時期はま

だ大阪帝掴大学であるから、まぎれもなく帝悶大学の中でいわば全く

新参ものの歯学部をかかえこむ方針をかためたことになる。学問とし

ぬえ

ての整合性よりも実践性を震視する懐徳堂の鶴学期については前に述

べたが、何でも必要なら実現しようとする新学部部設の思惣に懐徳堂

以来の而院が躍如としている。

多分、

の中でも白い自で見られ、又、財政の逼迫する戦後

整俄で余裕のない文部省でも冷遇された模様である。当時の担当課で

は財政的不如意のためその整備に当たって相当抵抗したときく。この

間の大学側の事情は次のように述べられている。

8

一一十ニ良部局長、評議員合同会議においてニ十五年

度から歯学科を段くことになっていたが、故障があり行悩みの状態と

なり、このことについて係官が上京折衝中である旨総長から報告がな

された。問中小津低学部長は、たとい反対があるにしても、学生募集の公

募後では今さら中止することは出来ないので、医学科と同時に、

J欠

(一一月二十五・六日)、次(一一一月十八・九日)の入学試験を行い、歯学科な

第二志望とするものでも成績上位の学生を少数入学させ、万一、歯学視

学委員によって歯学科の設置を否決された場合には、それらの学生を

毘学科に吸収して責任をとるべく決意された。」(『大阪大学二十五年誌』)

結果的には昭和一一十近年度中に歯学科が整備され、二十六年度に歯

学部が設けられたのであるが、講座や病院の人的・物的整備は悪く、

その後昭和田十七年から五年弱の間大尚子局医学教育課長として職務を

執った時、東京医科歯科大学やその後設寵された治学部に比べ、大阪

大学は教職員数等の措置状況は思く、

追加整備を際らなければな

らない状態であった。

大阪大学に設置され、その学部としてのステータスが篠立されてか

ら、東北、北海道、九州等の各市帝大にも歯学部が置かれることにな

ったが、その後時期を失した京都、名合展の同大学は、激しい

にも拘らず実現な見なかった。これらの大学では、多分永久に歯

学部の設霞を見ることはないと思われる。東京大学では、今まで終始、

その設泣の話は出ていない。

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研究機能の拡大||査白質研究所の創設

時系列的に見て、次の大阪大学の事政は、大学附置共同利用研究所

としての蛋由貿研究所の設置である。この研究所の設誼は前学部の場

ム口程、新奇、異端の卒業ではないが、赤堀四郎氏左中心とした大阪に

おけるこの分野の研究レベルの高さよな基盤とし、大学内で研究活動を

閉鎖的に行わず、全国に開放した共同研究推進のための新しい組織の

あり方に柔軟に対応して設けられたものである。戦後の学術研究の進

民や新しい研究用機器の開発、精度の向上或いは実験装置の大型化等

による研究の高度化・結街化合背景として、装伎の集中と全国の研究

者の共同研究を促進するための場の設定が緩めて

になってきてい

た。文部省では、これらの要請をふまえて昭和二十八年、従来の国立

大学附註研究所(狭義の鮒震研究所)のほかに、当該大学の研究者のほか、

広く他の大学等の研究者にも共同して利用させるための悶立大学的位

共同利用研究所の制度の創設にふみきり、蛋白質研究所もいち早く名

のり出たのである。この結果、東京大学の宇宙線、原子核、物性の各

研究所及び京都大学の基礎物理学研究所についで、第五番目の大学附

置共同利用研究所として設置されたのがこの研究所である。その後名

古監大学のプラズマ研究所等も設けられ、阪大自体も昭和田十七年に

溶接工学研究所を設け、この種の研究所は現在十二になっている。東

北大学では、名声の高い金属材料研究所を含め八つも研究所を持ち、

研究所大学の異名をもっ程でありながら、まだ共同利用研究所はなく、

北海道、九州の両大学にもない。

学界を含め、学術政策の方針が研究所の共同利用化の方向にあるた

め、このような研究所を間援することにより、

おのずから教職員の整

備や予算措置が行われ、要するに時流にのって発展が期せるのである。

叉、悶内問外の研究者に門戸を聞いた客員部門や外国人研究員の制度

等がこういう研究所に優先して整備されるとともに、その研究所の性

格上人の交流が盛んとなる。情報の交流も増え、研究は発展する。研

究のアクティブィティは確実に上る。

東京工業大字鹿伊富長氏によって内外の化学者の研究活動の調査と

分析がなされたことがある。それによると、日本の化学者の研究活動

は近年、佐界のトップレベルに位置し、大学別では次のようである。

ケミカルアブストラクト掲故論文概数(一九七九年)

東大

一、

七六

京大

、八六四

阪大

、七一O

カリフォルニア大・パi

クレ

l

一、六一一五

王、レぃ“、、

甘スJBぺ斗ノ

一、五00

ウィスコンシン大

一、四O九

マサチューセッツ工大

てニムハO

コi

ネル大

(以下略)

この数字は、米国で発行され国際的に定評のある化学学術誌「ケミ

カルアブストラクト誌」に収録された論文数を分析して比べたもので

設もらしからぬ旧日w大9

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ある。

同一誌は、

に多数の調査員止を泣き、それぞれの悶拘の学術誌に

発表された化学関係論文で枇界的水準のものをピックアップして趣旨

を紹介しているが、その紹介論文数を比較したものなのである。調査

に若干の誤差はあるが、この数字は鹿伊教授をはじめ、欧米各問の大

学に出張し

しばしば出席する多くの実感とも

致する

という(日本絞淡新問、昭和五十近年六月九日版)。

このような研究活動の旺機さは、理工系の各学部の業績もあるが、

同時に、

いち早く設位された蛋均質研究所の活動に負うところが多い。

なお、このほか、諸般の理由で研究所とはならなかったが、核物取

研究センターも、全関共同施設として設既されている。

新機軸の学部111

基礎工学部、

部、医療技術短期大学部の創設

人間科学

北ハ間利用研究所は、同一の専門領域について人が交流するいわば人

際研究組織であるが、

つづいて昭和三十六年に設践を見た基礎工学部

は、思〈る専門領域を一つにまとめようという学際組織の試みであった。

学長時代にこの学部の創設に努力した正田建次郎氏は、了茂昭和一一十

九年に学長に就任され、昭和一一一十年にたまたま卒業生として

加わった者として、先生が送辞に述べられた一一一一口業を記憶している。要

するに、人組は理論だけでは駄目で、

たとえば自動車のメカニズムを

現論的に知って、運転できるというだけでは不十分である。具体的に

部品や機械の構造や機能をγスタl

し、故障が起きても自らの手でき

10

ちんと修理できる技術をともなっていなければ殆ど価値はない。

もそういう技術の一投付けの伴った恕論なり思想をもった人間として社

に巣立ちなさいという趣冒の話であった。四川学や、っこ

zqJ

L

・7

計三pl

領域の枠にとらわれない、いかにも。フラグマティッグな大阪大学人ら

しい内容であるため、二十八年を経た今でも鮮明に覚えているのであ

'ue川、仁へ

\rdA

21J山寸左廿叩仰寸J

の創設はこの趣旨を実現したものでゐる。銘板に

かれた次の

この考えなはっきり示している。

っ科学と技術の融合による科学技術の根本的な開発それにより人類

の誌の文化を創造する学部

一九七一年一一月

正問建次郎L

外部からもこの学部の創設は評価されている。朝日ジャーナルは昭

和五十閉年三月から継続ルポルタージュ「……一OO万人の大学」をはじ

に大阪大学をもってきている。

そこでは、この基礎

にふれて、次のように述べている。

dtU」\

ι

一イノ

Jノ

(昭和一一一士ハ)年、高度経済成長、科学技術ブ

l

ムのゆし

子として、基礎工学部が誕生した。理と

科学と技術を・なしで結

んで、最新のディシプリン(専門的訓練)を身につけた科学技術者を社

の市安に応えて送り出すために設けられたものである。当時、どの

大学も工学部の拡張を試みていた。だが、それが学部の新設という形

fこ

で行われたのは、

(朝日ジャーナル、

旧帝大では抜大が唯一である

OL

九七九、tt

二十三日号)

その後、経済成長策や技術革新に関連して各大学工学部に諮住増が

相ついだが、そのため…つの学部としてマンモス化して動きがつかな

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Page 12: Osaka University Knowledge Archive : OUKA...流をもっていることは幸せである。大阪大学の場合、その源流は適塾に求められている。これは、大阪

いところにきている。東京大学で

一六七講座、京都大学では

一六一講座である。大阪大学では

一入学科一一六諒,臣、

基礎工学部入学科五人講座におさまっている。学部がマンモス化する

と、教授会といってもマイクをもって大戸で立見を述べなければなら

ない。自然、建前の大議論を展開するか、或いは立見を述べないで腹

ふくるるところとなる。学科主任会議がこれにとって代ることになる

が、それは学部内民主々義を諜外する。新しい発想で認礎工学部に拡

張の道をとった大阪大学は賢明であったといえよう。

拡張の手段としての現実問題だけでなく、理念としても正

主唱する科学と技術の融合を関るというのはいネ見であり、近年急速に

伸びてきた新しい科学技術の発展をになう人材の養成にとって有益で

あった。

さて、

00万人の大学」では、

、ノ

TーくじhrLリJPK441

中a,、ノ

ovvEyhド作μチ九百一昨ゲσj

例に生物工学科について述べている。

「基礎工学部の中でもっともユニークな学科は、生物工学科であろ

一九六七年に創設されたこの学科は、

吋生物的機能を対象にした

理学と

の境界領域を開拓する人材の育成』とその理念をうたっ

ている。教師陣のディシプリンやその扱う研究テlマも多彩で、バイ

オニグスもあれば生物物理学もある。Lこのため、

学生に、生物工学

とは何か、という統一的なイメ

i

ジが持てない。

つしかし、

『そのえ

たいの知れぬところが魅力でとびこんで来た初期の

こ士、工、

4

b・f

7

f

か個性に富んで面白い奴がい

とある教師は回想する。」

懐徳堂の鶴学問が大販大学の源流だということは蒋一一一述べた。多分、

、、

そういう懐徳堂を意識しない人が、基礎工学部の学科について「えた

、、、、、

いの知れぬところ」と評している。えたいの知れぬということは、正

に様である。そういう学問をどんどん展開して行くのが、大阪大学の

、、、、、、

しかし、鶴といい、えたいの知れぬといっても、そ

系譜なのである。

れは今日的にいえば学際領域のことである。能にも引用したが「首は

朱子で、尾は陸(陛品郡山)、脚は王(烹隊問的)」というのは、要するに学問

の対象に応じて、諸学を融合させる学際研究で、大阪大学では基礎工

学部にそれな新しく実現したのであった。

時様の学際領域として、大学紛争を経た昭和間十七年に他の大学の

後を追って教育学部を設ける代りに、人間科学部を創設する。

行動科学、社会学、教育学等を融合した人間科学部的構想は、紛争

前から大阪大学にあったときく。

しかし、多分文部省の窓口も新しい

学部の名称にとまどったであろうし、特に大学設慌審議会は新学部に

ガードが固かったことが想像される。このため駁大側は「社会学部L

と名称をかえて計画を練りなおしたという。

ところで、

の文部省は、外から見られている程悶循姑息ではな

ぃ。大学紛争を経た影響も若干はあろうが、イデオロギi

の問題とし

てではなく、もともと性格的に進取の気性にとみ、或いは発想が革新

テイプ的な幹部も多い。昭和四十四年から四十六年まで事務次官の立場でこ

の問題に関与した天域勲氏が、現存の学問領域そのままではなく、経

験科学を統合した新しい学探領域をいかに構築するかは章一袈なことで

あり、その後のこの学部の発展について一評価するとともにふーでも、人

関学の学際的パイオニアとしてのこの学部の動向について技意を払っ

散もらしからぬ!日帝大11

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Page 13: Osaka University Knowledge Archive : OUKA...流をもっていることは幸せである。大阪大学の場合、その源流は適塾に求められている。これは、大阪

ている。もう一人は、この学部の創設と整備の時期に当る昭和四十六

年より四十九年まで衡に当った、当時の木出宏大学学術局長である。

人間科学という用語止を、大阪大学の関係者と一緒になってフランス語

の類似の表現にその語掠を求めたこと。大学設置審議会に説明するた

めに、私立大学の或る大学で学科の名称に人間関係の名を既に使用し

ている例を見付け、先例があるからと意を強くしたこと等、大学学術

局長の立場では一大学の一学部の事であるのに、今もこの学部の誕生

について、まるで我が事のように語るのである。文部省の次官や局長

がその創設と発展に期待をかける程、この新機軸の学部は幸運な環境

にある。

考えて見れば、大坂大学は、国家須要に応じる人材を育成する帝爵

大学としては、もっともそれらしからぬ大学として発畏してきた。

わば帝関大学の異端児であった。それは、創設の時からもそうであっ

た。前に、昭和六年、大阪情国大学発足時に、容間金援助を地元公共

団体等に依存しすぎることが問題になって、貴族院で会期延長まです

る程多難であったことにふれた。大体に近畿地区にもう一つの帝国大

学合設けることは、政府として反対であったことは想像にかたくない。

帝隈議会における予算審議の難産ぶりは、阿部移民「大阪帝国大学

創設過程に関する覚え書」(可大波大学史紀婆』第二号)に詳しい。衆議院

でも、鳩山

郎らの政友会で大抜形割大学の当該予算の全問削除を嬰

求する修正動議が提出されたり、貴族院では、前述一日延長の上附指

決議を付せられ、政府の教育諮問機関である文教審議会に対し、諮詞

手続を先行させるという極めて異例の手続になったという。この十年

問、文部省で数多くの大学や学部の創設に関与し、その予算折衝や障

12

会対策等に身を削る背労の絞殺を重ねたが、筑波大学の慨を捻けば大

阪常国大学創設時の話程激しい難産は知らない。

こういう事情を反映して、大阪帝悶大学の歴史、沿革に関するあJく

の冊子は、この大学創設期の苦悩のドラマを語っている。

しかも苦労

して生れたこの大学は、旧帝大の権威を破る現実主義で人の意表をつ

いてきた。

しかし、そういう異端を続けているうちに、

いつのまにか

社会や時代の進展止を先取りし、文部省の関係者からも高く評価される

、、、、

地位な確保していたといえる。鶴学問は決してえたいの知れないもの

ではなく、突はこれからの二十一位紀に生きる学関であったともいえ

る。

L

大体、我が閣の正統派といわれる大学の指向には問題がある。理論

化され、体系化された既成のディシプワンに関執することが本来の

間であると考えられがちである。このような大学の傾向が生じる根は

深い。明治以緯の百年間、近代西洋社会をモデルケースとして、それ

に見倣う事だけがわが同社会の進歩発展の原動力となってきたという

歴史が、わが国社会の基底を決定してきた。こういう本慣を背景とし

て、凡そ諾科学にわたる学術研究が追い付きと模倣におわったのも、

客観的に見ればやむを得ない現実であるかも知れない。そして、欧米

のどこかで、それぞれの社会や自然の諮現象を基盤に抽象化し、体系

化してきた学説、理論や分析手法をそのまま移入して披露することだ

けでおわる傾向が強かった。

しかし、教育、研究の対象は複雑で流動

的である。大学の学部その他の組織の専門領域が、いつまでも大学設

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置基準に定められている既成の専門領域だけで対応出来るものでない。

ここで、個々の教官の研究領域が特定の専門分野に属してそれを深

化して行くことを否定しているのではない。叉、拠るべきディシプリ

ンもない然原則の学際領域を賞揚しているのでもない。組織としての

大学が従来の既成の領域だけに囲執し、又は安住する事を問題にして

いるのである。尚子聞は、それ自体の発展法則をもっている事実は石定

できない。

しかし所設は、現実との対応で展開すべきものである。現

突を踏まえた実践性をたえず検証しながら教育、研究の新しい領域は

きりひらかれる。適J惑にとって、関学は関学としであったのではなく、

西洋文明の導入という現実的効用に即して研究されたのであり、洪施

にとって竪部の戒めを明らかにし、

コレラや天然痘の防疫を行うとい

う現実目的のために医学はあったのである。懐徳堂が儲学その他の学

間を研究、教育したのも、大阪町人の現実の社会生活に活用する道を

求め、商家の経営理念の樹立とその実践のために行われたのである。

そして、凡そ位界の大学の起掠ともいわれる学問領域が医学、

神学である事を見ても、それらは純粋科学ではない。人を治療し、社

会の秩序を維持し又は宗教活動の理論化な溜るという、現突に却した

応用的なものである。今日、長い歴史な経たためオiソドックスな体

系をもっているように思われがちであるが、その学閉鎖域は、雑然と

し混沌とした現実と悪戦苦闘しながら少しずつ発展してきたに違いな

し、

前にもふれた中世大学の起源が抽象的な正統派学問のためでなく、

具体的な現実民的の解決のため発生した事情は皇室道『大学制度の研

究』で具体的に見ても明らかである。

ボロニアの法学研究の起源は北部イタリアのこの地に都市が勃興し、

!こ|コ

[止の

一大勢力である教会と国家から自治権を獲得しようとして、

!?法の研究の気運がかもし出されたことによるという。都市が自ら

の権利を確保しようという現実がボロニアの大学の法学を支えたので

ある。パリの神学大学は、元来教区内の世俗僧の養成を目的とし、僧

正、大僧上を育てるためのものであった。要するに後進を育てるとい

う図的的な本山学校なのであった。

イタワア半島の南部、

サレルノに

なにゆえ医学の研究が起ったかということに関しては、その地方が療

養に適する健康地帯であり、かつ間近によい鉱泉のあることが多くの

人々によって指摘されているという。これら大学の起源の学問の状況

は、その体系化を見る前は、現実の課題に対処するための

の混在

するえたいの知れない鶴学問であったにちがいない。

わが閣の大学が、既成の倍統的な学問、研究だけが本来であると考

えるならば、それは輸入学、翻訳学を中心としたわが関の、わずかこ

の歴史的な状況からくる特殊な現象であるといえよう。むしろ、

現実に即して新しい領域を求めて行く創造的な大阪大学の思想と行動

の方が、大学の発展法刻の正統であるかもしれない。そのような傾向

が今日の文教行政で評僻されるのは、理由なしとしないのである。

基礎工学部も、人間科学部も、その卒業生の社会的評価も定着して

きているときいている。

さて、伝統を破り、時代の先端をきりひらいて行く大阪大学の

は、仔細に述べればっきない。紙数にいとまがないので、最後に昭和

最もらしからぬ!日帝大13

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四十二年に創設された医療技術短大についてふれる。これも泊帝大と

しては思いきったプロジェクトで、その意義はまことに大きい。その

意識を列挙してみれば次のようである。

何一段低い技術者として、その養成を各種学校・専修学校に位置付け

られていた目指護婦、医療技術者教育機関をいわゆる一条学校にひきあ

げたこと。

同出帝大はもとより、国立大学でも初めての試みであること。

制急速に複雑、高度化ずるパ一プメディカル!コ!メディカルの関係者

養成の水準向上に郎し、現代毘学の発展の趨勢止な先取りしたこと。

大阪大学に先鞭をつけられ、その後各閣立大学でも、医療技術短大

の創設は糸、なひくように続いている。同じ間関立大学の中でも、

大学教育の機会に絡した大阪大学医療技術関係者は宰喰というべきで

あろう。東京大学医学部附属君護学校では、遂に今日に至るまで知大

昇格は話題にもなっていない。文厚生省所管の各穏の養成施設も、

修学校のままであり、今日、短大になりえないことが大きな問題とし

て残っている。

発展の指数il

規模の拡大

文部省で仕事をしていると、大学の気風や、付き合いのある教官の

性格に顕著な額向がある。

旧制高校において、

J

九O七年(明治問十年)前後までに、既設のナ

ンパl

校に於ては、

一山口問の吋自治弘、二高の弓雄大剛建』、の吋自

白河師、開高の吋超然L

の『剛毅朴前』等の標語に代表される積極

14

的で例性の強い校風の型が成長していたのが実際である。いという指

摘がある。(高橋佐門「旧制高等学校における校風」国立教脊研究所紀姿第九

五銭)こ

れらの高等学校をひきついだ今日の各大学にひきなおしてみても、

手会]打ちたい

その特徴を表して実感が出ている。別の角度から今

日の大学をみれば、例えば東京大学は、その歴史や或いは政府者議会

多いこと等もあって、体制的権威主義であるし、京都大学

は、東京批判的な土地柄も反映しながら、反権力的権威主義である。

大阪大学の教官の場合は、

の話をしていても、やはり何か商人と

認をしているように思える。如才はなく、建前にこだわらずそして才

知にたけている。この方が大学の先生なのかと思わせながら、

いつの

まにか主張合通して行く。

文部省等では、俗々の教官とのかけひきで政策や予算を決めて行く

のでなく、基本的には組織としての要求を、担当諜で原案としてまと

め、局議、省議ともちあげ、予算に閉山するものは大蔵省に概算要求と

して出して行く。大きな政策決定の機序の中できまって行くので、子

算の採配に個人的な感情の入る余地はない。しかし、教官の僧人的な

対応が、全体としての大学の動向に影響を与えて行くようである。そ

して、前述のように、過去の経緯や建前にこだわらず、数々の新機軸、

新構想を樹てて行くため、他に比べ拡充、発展が著しい。

歯学部の創設のように、かりに政府で財政的に不如意のところを強

引に実現させてしまい、当初整備の欠陥が残ったような場合でも、

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日一組織が出来上ると、既成事実として、予算や定員措置或いは施設、

設備の整備がなされて行く。共同利用の研究所や学際領域の人間科学

部のように、政府の政策や時代を先取りしたような場合には、更に積

極的な整備拡充がはかられる。

そのような、大学の組織的な動きが重なって、戦後の大阪大学は顕

に成長してきた。発展の指数を関係大学の要覧から作成したのが表

である。

十戸じ

王手で、

( )は指数113七帝大入学定員の推移表 1

たとえば表ーにあるが、学生数は昭和一一一十年で八六O人が五

一一混入になっている。旧六帝大の仲率はこの間一・五

人860 (100)

57年度ー

人2,115 (246)

50年度

人2,115 (246)

40年ー皮

人1,635 (190)

昭和30年度年度

1I反

道北京陸部州

海合北東東名京ん

2,195

2,214

3,063

1,660

2,526

2,150

2,120

2,164

3,063

1,660

2,506

2,050

1,758

1,874

2,831

1,405

2,240

1,730

1,132

1,864

2,092

840

1,580

1,180

2,301 (159)

2.261 (156)

1,973 (136)

1,448 (100)

六大学(平均)

( )は指数!日七千ií'大決算額の推移章受 2

55年度

億円49ヲ(636)

50年度

{~円261 (333)

昭和40年度

低円79

(100)

年度

大阪

九倍であるのに対し二・四六倍である。恭一数が小さかったから倍率が

大きいのは当然としても、表で明らかなように絶対数としても相当な

仲率となっている。

他方、財政規模の推移を見てもその傾向は変らない。表2

にあるよ

うに、昭和田十年度で歳出決算は七九億円であったが、五十五年度に

四九九憶円で六・一一一六倍になっている。旧六帝大の平均は五・七

である。(金額一千万円で四捨五入)

426

466

948

369

537

434

260

315

599

225

346

261

66

90

176

61

94

69

北海道

東北

東京

名古屋

京都

九州

530 (570)

334 (360)

93 (100)

六大学(平均)

さて、これらの発展の指数にも明らかであるが、今

までは大阪大学は活力にあふれで成長してきた。まだ

発展の余力ももっている。

しかし、この稿の最後にあ

〉えて一つの事に触れたい。

一つは、卒置にみて、これら種々の新しい試みが果し

て所期の成果をあげているかどうかということである。

発想だけで具体化が伴わなかったり、折角学際領域だ

といいながら、区々の専門家の集合に過ぎず、ディシ

プリンの交換による研究の発酵を伴わなかったりして

いるところはないだろうか。或いは新機軸の綴織だと

いいながら、侭々の講座や部門にまでたち入ってみる

と従来型のテ!?や研究方法を指向したり、叉、折角

活力にあふれる産業都市止を背景にもちながらそれを研

究フィールドとすることもなく、研究室に閉じこもっ

た従来製のままということがないだろうか。危慌の念

設もらしからぬ!日帝大15

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Page 17: Osaka University Knowledge Archive : OUKA...流をもっていることは幸せである。大阪大学の場合、その源流は適塾に求められている。これは、大阪

に過ぎなければ幸いである。

もう一つの問題は教育上の配慮の問題である。具体的にいえば、例

えば入学者選抜の改善工夫等である。推せん入学の実施、面接、実技

その他ニ次試験の多角的な工夫等、既成の入試では求めえない独創的

な受験生を選ぶ努力はもっとあってしかるべきではなかろうか。更に

又、社会人入学を試みるとか、公開講鹿を大規模に行うとか、昼夜間

議制の課程を設けるとか、大学と社会の接点のところで新しい構想な

導入し、教育上も旧帝大らしからぬ発践を是非望みたい。向関学生の数

や他大学又は外悶の大学との単位の互換等もまだ少ない。

門外漢の口はばったい評価は、さしひかえるべきであるが、大学に

対するわが国社会の評価は意外にきびしく、その評価に応える大学側

の努力がなおざりにされた瞬間に、大学の発展はとまるといって過言

でない。

過去の成長の軌跡の今後への一一般の発展な祈りたい。

(さいとう

たいじゅん

文部省大学局稼談窓)

大阪大学史紀要

第1

号局次

16

大阪大学創立ぬ年を迎えて:・山村総/大阪大学史紀要創刊にあたって

中馬一郎

〔論文〕大阪における法学教官同事始:・熊谷淵作/大阪における商業・経済教

育事始・-L

宮本又次/大阪における財界と学問・・・祭凶孝郎/大坂品同綴局史・・・芝

哲夫〔

研究ノIト〕

「総長」の呼称について:水野克彦/近世大阪町入学の系議

と特質l

綴徳鐙学の一舟間関l:

・作道洋太郎/大坂府仮病院の創設(二・:松岡

武〔座談会〕大阪帝国大学の創立と法文学部の創設/大阪大学工学部の戦後史

〔日記〕数戦前後の日記:::井本稔〔回想〕ラポルテ教授の友情:::問中

晋締/「糠ノ木祭」建設あれこれ:・紙野桂人

三十周年を迎えた大阪大学万業旅行会

〔資料紹介〕エルメレシスの寓居

大阪大学史紀姿第

2

号目次

〔論文〕大阪帝国大学創設に関する党え設き|文政審議会における審議を中

心にi:

・阿部移/山口玄澗のことどもと公共奉仕・:宮本又次/大阪大学の送

怒!大阪大学略史i---

一一一谷裕様

〔研究ノi

大阪府仮病院の創設(二)・:松岡武

〔座談会〕法文学部の創立と文学部/法学部のふ/昔止をめぐる/産業科学研究

所四十年の歩み

ー、

2

号ご希望のかたは希望の号数を明記の上、在日記編集室までお申し込

みください。(送料

-冊250

円)

遊中市待叶氷山町111

大阪大学的印刷間皇制館内

大阪大学五十年史資料・編集室

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