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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title ディベートにおける「推定」の機能() : 授業ディベートの新たな展開 のために(function of ' presumption ' in debate ( the second volume ) - for establishing a new explanation on educational uses of debate in classroom -) 著者 Author(s) 吉永, 掲載誌・巻号・ページ Citation 神戸大学発達科学部研究紀要,3(1):71-86 刊行日 Issue date 1995 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81000202 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000202 PDF issue: 2020-03-03
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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

ディベートにおける「推定」の機能(下) : 授業ディベートの新たな展開のために(funct ion of ' presumption ' in debate ( the second volume ) -for establishing a new explanat ion on educat ional uses of debate inclassroom -)

著者Author(s) 吉永, 潤

掲載誌・巻号・ページCitat ion 神戸大学発達科学部研究紀要,3(1):71-86

刊行日Issue date 1995

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81000202

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000202

PDF issue: 2020-03-03

(71)

神戸大学発達科学部研究紀要

第3巻第 1号 1995

ディベートにおける 「推定」の機能 (下)

一授業ディベートの新たな展開のために一

吉 永 潤

Functionof"PresumptionHinDebate(thesecondvolume)

-ForEstablishingANewExplanationonEducationalUsesofDebateinClassroom-

JunYOSHINAGA

Ⅱ 「推定」としての正 しさ-N.レッシャーの 『対話の論理』に基づいて

1. ディベー トの勝敗決定性への懐疑

ディベートの教育的効用に対する懐疑のうちおそらく最大のものは、ディベー トのもつ勝敗決定と

いうルールに向けられていると考えられるoI章でも述べたように、そこでいくつか引用したディベー

トの勝敗決定性に対する懐疑的議論は、次のような暗黙の前提を共通にもっているように思われる。

すなわち、 《議論で勝ち負けを争うことと、 「真理」 「真実」の究明あるいは 「共に深められた問題

の理解」をもつこととは、どこかで矛盾する》という前提である。

この前提は、いく人かの哲学者の議論に共通に見出される。

井上達夫の懸念を、すでにⅠ章で紹介した。加えて、島崎隆は、自ら大学でディベー トを実践した

上で、次のように評するO 「こうしたディベートに強くなることが知的な意での言語的コミュニケ-

ションのすべてではない。このいわば、西洋流のゲーム的な議論法は、必ずしも対話の奥底にあるも

のに達するものではない。」 1)また、∫.ハーバーマスは、ゲーム的状況や経済競争などの勝敗や利啓

を争う状況における行為を 「戦略的行為」と呼んで、対等な市民間の自由な対話すなわち 「コミュニ

ケ-シ占ン的行為」から区別し、現代における後者の復権を説いている2)O各議論とも、やはりその

根底に、 《議論で勝ち負けを争うことと、 「真理」 「真実」の究明あるいは 「共に深められた問題の

理解」をもつこととは、どこかで矛盾する》という前提を置いていると考えられるのであるO

やや角度は異なるが、基本的な点で上と同じ暗黙の前提を含む考え方に、ディベートのル1 L,は一

部の討論のエキスパー トを育成するためのもので、少なくともそのままのルールでは一般の子どもた

ちにrは向かない、という主旨のものがある。たとえば、高校 「現代社会」の授業にディベー トを取り

入れた杉浦正和3)の主張がそれである。

杉浦の実践は、最終段階の勝敗判定 (聞き手の生徒による多数決)は残しながらも、全体としての

*神戸大学発達科学部人間発達科学科教育科学論講座

ー71-

(72)

神戸大学発達科学部研究紀要 第3巻第 1号

ルールを以下のように一部改変してディベートを導入している。 「反駁」ステージを 「相互討論」と

する、 「反対尋問」をなくしてすぐ立論への反論を行なわせる、 「相互討論」での新論点の提出を認

める4)などである。杉浦は次のように言う。 「競技ディベー トと同じ方法では、普通の高校生にとっ

て討論が難しくなる面が多い。」 5)「私たちは、ディベー トそのものを厳密に教えるという立場では

ない。むしろディベー トという方法を通して、生徒にいろいろなテーマについて多面的に考えさせた

い。ディベート 『を』 (教える)ではなくディベート 『で』 (教える)というところに力点があるO

そういう意味で 『ディベート学習』という言葉を使っているんです。」 6) ( ()内引用者注) 「ここ

(競技ディベー トのルール)から多くのことを学べるだろうが、われわれが望むのは論争術を鍛える

討論ではなく、肯定側と否定側が各々建設的な理論を準備し、現状の問題分析を深める討論なのであ

る。」 7) ( ()内引用者注)このように、杉浦は、 「競技ディベート」と 「現状の問題分析を深める

討論」とを対比的、二者択一的にとらえている。その理由の一つは、 「競技ディベー ト」ルールの 「

普通の高校生」にとっての難度という杉浦自身の判断である。しかし、同時にその底にはやはり、

《議論で勝ち負けを争うことと、 「真理」 「真実」の究明あるいは 「共に深められた問題の理解」を

もつこととは、どこかで矛盾する》という前提があると考えられる0

本章の課題は、この、広く共有されていると考えられる前提が誤りであることを明らかにすること

である。本章では逆に、ディベートは子どもたちに、世界についての 「真理」 「真実」探究の共同的

な営みへの参加、あるいは社会的意思決定への参加を促すものであることを明らかにしたい。

以下で論じるポイントは三つである。

①ディベートにおける 「論題」の性格

②ディベートにおける 「勝ち」の意味

③ディベー トにおける 「審判」 「判定」の役割

2.ディベー トにおける 「論題」の性格

(1)勝敗を決することの社会的意義

すでに、I章において、ディベー トにおける論題の性格自体が勝敗決定を不可欠のものとしている

ことを、松本道弘の議論に依って考察した。松本は、ディベー トで検討される論題は、 「肯か否か、

いずれかに決めざるをえないほど」 「煮詰まった」 「意思決定をせざるをえない」問題でなければな

らないと言う。

松本は、ディベー ト論題の適格性要件として、 「ディベータブルかつトビカル」であることをあげ

る8)。 「ディベータブル」とは、 「賛否両論、議論が分かれる」ということであり、論理的に答えが

自明であったり、すでに決着がついていたり、調査すれば容易に答えが判明したりするものであって

はならないということである。次に、 「トビカル」とは、 「話題性がある」ということであるOこの

「話題性」をより敷桁すれば、(∋その間題に緊急性があること、あるいは(診その間題に重要性、つま

り社会的影響度の広がりの大きさがあること、あるいは③現在、社会的に、その間題の賛否をめぐる

意見の対立が先鋭であること、あるいは④社会的に賛否の議論を巻き起こしうるような、一種の大胆

さをもった問題提起となっていること、などとなるであろう。つまり、ディベートの論題は、その間

題の決着が今現在要請されていたり、それをめぐる議論の帰趨が社会的に注目されうるものでなけれ

ばならないわけである。

このことが、ディベートに、明瞭な勝敗という形でその決着を要請する理由になっていると考えら

れる。また、このゆえに、子どもがディベートに参加することが、社会的、共同的な探究や意思決定

への参加を意味することになると考えられるのであるO

このことをきわめて端的に示す実践例がある。すでに幾度か言及した実践家佐久間順子による、小

ー 72-

(73)

ディベートにおける 「推定」の機能 (下)

学校5年でのディベー ト実践 「『置き勉』を自由にすべし」である9)0

「置き勉」とは、学校の机の中に教科書やノー トを置きっぱなしにして帰宅することである。

「『置き勉をしないではしい』と、帰りの会の反省事項に掃除の当番から毎日意見が出されていた。

だが、一向に改善されない。そこで 『ディベー トで決着をつけよう』ということになった」 10)とい

う。結果は、肯定側の勝ち。 「この日以降、帰りの会で 『置き勉』が話題に上らなくなった。 『机が

重い』 『教室が落とし物だらけ』という声もほとんど聞こえてこない」 ll)という。

この実践について、江間史明は次のようにコメントしている。 「第一に、論題の条件である 『置き

勉』の是非は、このクラスの子どもにとって、さし迫った争点である。それは、各自の自由の行使に

かかわる倫理学的問題である。このように誰もが 『置き勉』を争点と認めるからこそ、互いに役割分

担 (肯定 ・否定 ・審判)をして解決の方向をさぐってみようということが可能になる。ディベー トと

いう方法の導入は、論題が当事者にとって 『どれほど煮つまったものになっているか』に関わってい

るのであるO第二に、ここでディベートという方法が、子どもたちが社会的決定の当事者としてふる

まうことを支えているということである。」 Ⅰ2)<()内原文>

この佐久間実践は、まさしく自分たち自身が構成する学級という社会における 「さし迫った」問題

の解決と意思決定のためにディベー トが用いられた事例であるOディベート入門期において、その技

術指導と同時に、このような当事者性のある論題でのディベー トを経験しておくことは、のちに広く

一般社会の諸問題を扱ったデイベ- トへと進んでいく上で重要な原体験になると思われるOそれによっ

て、勝敗を明瞭に決着させるというディベー トルールの社会的意義が、子どもたちに理解されると考

えられるからである。

したがって、逆に、それについて勝敗を決めることの社会的な意義が見えてこないような論題によ

るディベー トは、むしろ有害な効果をもちうる。ディベートの実践が、論争術、主張と論破の技術を

それ自体として自己目的的に習得することを促すことになりうるからである。つまり、この場合、本

章冒頭に述べたディベー トへの危倶が的中することになる。

一例として、 「シルバーシートを廃止すべし」という論題を考えることができる。この論題は、賛

否に分かれての討論は可能であろうOつまり、ディベータブルではある。しかし、①そのことの緊急

性、(塾社会的影響度の重大さ、③それをめぐる社会的議論の盛り上がり、④その問題提起が関心を集

める可能性、などの点で、いずれも高いとは言いがたいであろう。つまり、この論題は、トビカリティ

に乏しいということができる。

ディベー トの論題は、 《決する意義》をもたねばならない。特に、授業ディベー トに適した論題の

要件を研究する作業は、現在、緒についたばかりという段階であるⅠ3)。子どもにとって意義と魅力の

ある論題開発と実践的蓄積が、授業ディベート研究の現段階での最大の課題の一つである。

(2) 仮説に関する大胆さと立証手続きに関する細心さ

ところで、以上の問題と類似した問題は、自然科学、あるいは心理学などの実験系の学問領域にお

ける研究者育成においても見られるという。仮説を検証する技術、厳密な手続きを習得させることは

是非必要だが、しかし、逆にその習得によって、 (実証できる仮説しか立てなくなる)という傾向が

生じるというのである。科学の進歩に寄与しうる可能性をもつような認識上の冒険よりは、ケガのな

い手堅い確証を選ぶようになるというわけである。これも、やはり一種の技術の自己目的化現象と見

ることができるだろう。

N.レッシヤーは、 『対話の論理』において、興味深い問いを立てている。彼は、どうして科学者

は革新的な仮説を立てるのか、と問う。なぜ科学者は、 「その確証を始めから確信できるようなひじょ

うに安全な、ほとんど当たりまえに近い仮説に自分の活動を制限しないのか。」 14)

この問いに対して、従来の科学的認識論は答えを供給できない、とレッシヤーは言う。一つは、カ

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.//

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神戸大学発達科学部研究紀要 第3巻第1号

ルナップ流の 「確証主義」、もう一つはボパー流の 「反証主義」である。

前者は、科学者を、 「自分の仮説に有利な証拠を蓄積する収集家」としてモデル化する。ゆえに、

科学者がしばしば見せる大胆な理論予想を説明できない。また、後者は、理論に反証されやすさを要

請し、科学者を 「認識的な破壊のエキスパー ト」としてモデル化する。ゆえに、なぜ科学者が、どう

でもよい仮説ではなく反駁し反証する意義のある仮説を臭ぎ分けるのかを説明できない。

レッシヤーは、以上の二つの認識理論に欠けているのは、科学という営みの社会性への顧慮である

と言う。 「確証主義も反証主義も本来的に社会的な傾向をもっていない。人間間の相互作用のプロセ

スという面がこれら二つの学説にはまったく欠けている。」15) これに対して、彼は、科学の営みを、

「論争的モデル」によって把握する。このモデルは、「科学的探究を基本的に社会的あるいはコンミュー

ン的な企て、すなわち、中立的な裁決者を前にして競いあう当事者たちの論争と見る。」 16) すなわ

ち彼は、科学的探究の営みを一種のディベートとみなしているのである。 「確証主義」は、科学者の、

新仮説を証拠によって支え提唱するという肯定側的活動の側面だけを、 「反証主義」は、その仮説を

吟味検証する科学者の否定側的活動の側面だけを、それぞれ強調していたということになる。また、

双方とも、科学者 (の社会)が、 「中立的な裁決者」すなわち審判としての役割をも果たしているこ

とを見逃していたわけである。

レッシヤーは、この 「論争的モデル」に依拠して、冒険的に革新的であると同時に、仮説の立証に

細心の注意を払う現実の科学者の一見矛盾した行ないを説明する。まず、なぜ科学者は大胆か。それ

は、 「彼のテーゼは 『挑戦的』でないかぎり、つまり本質的な点で創造的に革新的でないかぎり、思

想家によって顧みられないことになるからである。拾い上げるのに値しない手袋が投げられ (手袋を

投げるのは決闘の申し込みのしるLである)、わざわざ出席する気にもならない討論への招待が発せ

られたことになる。そうすると論争プロセスはお流れになるだけである。提案者は、科学的討論の進

行中の騒ぎへの参加を得るためには大胆でなければならない。<略>十分に 『議論の余地』がなけれ

ば、聴衆を得ることもできない。」 17) (()内引用者注)次に、科学者はなぜ立証手続きに厳密か。

「『ゲームをする』ということは勝とうとすることである。上首尾な 『解決』の本質的な条件を実現

することによって勝利を得るといういくらかの成算をもってそうするのである。」 】8) (傍点原文)

このことが、 「確証主義者がなぜもっともらしさ、安全、証拠上の警戒を主張するかを説明してくれ

る。」 19)

以上のレッシヤーの科学的探究についての説明は、ディベー トにおいて、その論題が社会的重要性

や提案的大胆さを必要とすることと、その論戦において敵に勝ち審判の判定を引き寄せるための論証

と説得の技術を必要とすることの統一的な理解を提供するQディベートは、 「わざわざ出席する気に

もならない討論」であってはならず、また互いが 「勝とう」と努めないゲームであっても無意味なの

である。

3.ディベー トにおける 「勝ち」の意味

(1) 絶対的真理か、相対的優越性か

ディベートと科学的探究との類比は、さらに、有益な論点を照らしだす。

古典的、伝統的な科学観では、科学とは隠されていた 「真理」や 「真実」をあぱく営みである。確

実で疑いえない 「真理」 「真実」を確立する営みである。一方、ハンソンやクーンらに代表される今

世紀の科学哲学においては、科学とは世界に関する一種の共同主観的な解釈と説明の枠組みである。

あるいは、人間行動を意味付け方向付ける共有された規約の体系である。つまり、それは一種の言語

体系である20㌦

この二つの科学観と突き合わせて、以下、ディベートにおける 「勝ち」の意味を考えてみようO

174-

(75)

ディベートにおける 「推定」の機能 (下)

まず、ディベートにおける勝ちが、古典的、伝統的な意味での疑いえない 「真理」 「真実」への到

達、あるいは少なくともそれへの一歩接近 (つまり認識の深まり)を意味する、という考え方があり

うる。この考え方は、先にみたディベー トへの疑義、すなわち 《議論で勝ち負けを争うことと、 「真

理」 「真実」の究明あるいは 「共に深められた問題の理解」をもつこととは、どこかで矛盾する》と

いう疑義に対する一つの答え方である。

しかし、この考え方は、いくつもの重大な難点を抱えている。

まず、この考え方によれば、そのディベー トで負けた側は、そもそも最初から勝ち目がなかったこ

とになる。ただ試合前はそれに気付いていなかっただけ、ということになる。これは明らかに、ディ

ベートのゲームのセッティングとして不誠実であろう。

次に、もし試合の展開の結果として 「真理」 「真実」ならざる立場の側が勝利を収めたとしたら、

主催する教師は、試合の後で、 「本当は違う、本当はこうだ」という講義を行なわなければならない

だろう。しかし、これは明らかに、ディベートを行なったことと矛盾している21)。

何より、同一の論題で、何度も、あるいは各所で試合が行なわれうるのがディベートである。当然、

論者の力量その他個々個別のファクターによって、試合の勝敗の帰趨が左右される。このことを、

《疑いえない 「真理」 「真実」への到達》論は説明できない。

結局、古典的、伝統的な科学観、 「真理」 「真実」観は、ディベー トというゲームの性格と根本的

に矛盾するのである。

次に、ディベートにおける勝ちを、20世紀科学哲学の流儀で意味付けることを試みる。

この立場では、古典的 「真理」 「真実」観は相対化される。ある理論の採用とは、絶対的真理への

到達ではなく、ものの見方や考え方についてのある枠組み、規約体系の採用である。ある一つのディ

ベー ト試合である立場が勝利を収めたことは、その主張がその反対の主張に対して相対的に説得力

(議論の首尾一貫性、事実に対する説明力、あるいは説かれた利益の優越性などの点において)であっ

たことを意味するD

したがって、この考え方では、古典的 「真理」 「真実」観に基づいた場合に発生した上記のような

難点をクリアすることができる。ある試合の展開においてある立場が勝つことを、もう一方の立場に

対する相対的優勢として意味付けるからである。さらにこの考え方は、ディベートの教育的効用の一

つとしてよく指摘される 「子どもに多様なものの見方、考え方を身に付けさせることができる」とい

う議論とも整合する。負けた側の議論にも、相対的に不十分であったとはいえ、それ相応の長所、見

識が存在することを認めるからである。

しかし、この考え方の決定的な難点は次にある。すなわち、ディベートを学習した子どもたちが、

「世の中、何も確からしいことはないではないか。何が正しいかは結局その場その場の議論の組み立

て方や語り方、あるいはそれへの賛同者の数に依存する」といった懐疑主義、あるいは相対主義に悩

まされることを防げない、という点である。このゆえに、 《議論で勝ち負けを争うことと、 「真理」

「真実」の究明あるいは 「共に深められた問題の理解」をもつこととは、どこかで矛盾する》という

批判に、結局は答えることができない。 「真理」 「真実」などその場の議論の構成と試合運びでどう

とでも決まる、ということになりかねないからである。

では、ディベートにおける勝ちとは一体何なのであろうか。それが、絶対的真理への到達や接近で

もなく、またその場その場において相対的に優越したものの見方 ・考え方の採用でもないとすると、

それは一体どう説明されるだろうかo

(2) 「推定」-状況のもとで合理的に期待できる確かさ

レッシヤーの 「論争的モデル」は、上の問いに対して答えを提供するものである。

『対話の論理』序論において彼は、 「科学的探究を含む認識的方法論の合理化にたいする弁証法的

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神戸大学発達科学部研究紀要 第3巻第 1号

モデルを開発する」 22) ことをめざす、と述べる。プラトンに始まり、アリストテレスを経てヘーゲ

ルによる中興を得た弁証法を、現代における認識探究の方法論として再び復活させることが、彼の目

的なのである。

では、なぜ弁証 ・対話 (dialectic)の事例として、特に 「論争」が選ばれるのか。彼は言う。 「な

ぜこの焦点が論争に置かれるのか。一つの主要な理由としては、論争が、社会的に制約された相互作

用の場面で働いている認識論的プロセスを示すからである。」 23) っまり、あらゆる形態の対話のう

ち、それが現実的な社会的制約条件のただ中で進行中の相互作用であることを最も端的に示すのが、

論争であるという判断が、彼にはある。さらに、諸々の形態をもちうる論争の中でも、特に明快に手

続き化された 「形式的論争」を、彼は分析対象として戦略的に選んでいる。この彼の言う 「形式的論

争」とは、のちに見るように、ディベートそのものである。

彼は言う。このような 「認識論への弁証法的なアプローチは、反デカル ト的な意思によって刺激さ

れている。」 24) 「それは、近代認識論の自我中心的な定位の有害な影響を調べる。 『私はどのよう

にして確信できるか』 『私はどのようにして確実でありうるのか』という問題に対して哲学の伝統や

正統派は強調をしてきたが、それは、立証的推理の根本ルールが持つ社会性を忘れるという事態を招

いている。」 25) (傍点原文) 「論争や議論の弁証行為は、このような認識論的自我中心主義にたい

して有益な解毒剤を与える。それによって、認識というものがそもそもコンミューン的な規範に従う

コンミューン的な企てであることを忘れていないことが力説される。」 26) 「本論の主要目的は、合

理性の基礎の社会共同的な根を明らかにし、デカル ト的な方法のもつ認識論的自我論に潜む懐疑主義

の批判のための道具を提供し、合理的論証や探究、特に科学的探究が、コンミューン的であり、議論

というものに深くかかわっているという側面に光を当てることである0」27)(傍点原文)

このように、レッシヤーが試みているのは、我々の認識の営みをデカル トの孤独な 《思唯》に始ま

る近代認識論的なモデル、すなわち、絶対的な確信や究極的な確実さの追求というモデルから解き放

つことである。疑いえない絶対真理を求める自我の作業は、すぐに、人間の認識能力の限界 (ことに

経験の有限性と欺かれやすさ)に突き当たるがゆえに、懐疑主義、あるいは不可知論を結果すること

になる。もしここで、いわば開き直って、真理とはその場その場において説得力が高く支持者の多い

規約にすぎないと考えれば、これは相対主義を結果することになる。レッシヤーは、このどちらをも

退ける。彼は、我々の認識の妥当性、合理性の根を、我々の社会共同体において営まれる議論におけ

る適切性判定の基準、すなわち決着の付け方に求める。適切性判定の基準とは、妥当な証拠について

の考え方、立証責任の所在、もっともらしさ (受容可能性)についての観念などからなる、 「推定」

(presumpsion)の規則である。

では、以下、レッシヤーの議論、論争の分析の内容を概観する。

前述のように、彼は分析を 「形式的論争」に絞る。 「おそらく最も明確であり、歴史的にはもっと

も顕著な弁証法的プロセスの例は、形式的論争である。」 28)それは、中世の大学以来の伝統的な論

戦形式であり、その形式はローマ時代の法廷裁判からそっくりそのまま引き継がれてきたものである、

という。そこには、法廷で裁判官がやるのとまったく同じような、論争問題の裁決を行なう者 (大学

においては教師)がおり、その前で提案者は、あるテーゼを提案し、これを敵の反対論証に対して面

とむかって弁護する。反対答弁者は、この提案者の論点を論駁することを努める。論争のルールもま

た、ローマ法廷から引き継がれた。特に、主張と応答のプロセスを通じて、テーゼの立証責任はその

提案者の側にのみおかれる (「弁証法的非対称性」と呼ばれる)というのは重要なルールであった。

以上のように、レッシヤーの言う 「形式的論争」とは、今日のディベートそのものであると解釈して

さしつかえない。

以下、論争の、ありうる二つの推移の仕方を、 (レッシヤーは特別な記号をいくつか導入している

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ディベートにおける 「推定」の機能 (下)

が)記号を使用しない形に翻訳してモデル化する。

①提案者は、まず 「pである」と主張する (無条件的主張)。これに対して反対答弁者は、 「なぜp

と言えるのですか。Pを証明してください」と問う (異義申し立て)。これに対して提案者は、 「Q

という事実がある。そして,QであるならばPである」と証拠をあげる。反対答弁者には二つの方演

がある。 「しかし、Rという事実がある。RならばQとは言えないはずである」と主張する方法と、

「しかし、Rという事実がある。Qであるとしても、QかつRであるならばpは成り立たないはずで

ある」と主張する方法である。前者なら、提案者は、Rを切り崩す方向に向かう。後者ならば、 「Sという事実がある。QかつRかつSならばpであるはずである」と切り返す方法がある。後者では、

当然、Sの成立を提案者は新たに証明しなければならない。

②提案者は、まず 「pである」と主張する (無条件的主張)。これに対して反対答弁者は、 「Qとい

う事実がある。そして、QであるならばPであるとはいえない」と反論する (条件的否定)。提案者

には二つの方法がある。 「しかし、Rという事実がある。RならばQとは言えないはずである」と主

張する方法と、 「しかし、Rという事実がある。Qであるとしても、QかつRであるならばpは成り

立つはずである」と主張する方法であるO反対答弁者は、前者の出方に対しては、Rを切り崩す方向

に向かう行き方と、別に新たにSを持ち出して再び直接Pの不成立を主張する行き方とがある。後者

の出方に対しては、 「Sという事実がある。QかつRかつSならばpとは言えないはずである」と切

り返す方法と、やはり別に新たにTを持ち出して再び直接Pの不成立を主張する行き方とがありうる。

(反対答弁者はQにこだわることなく、ともかくPの不成立を立証すればよい。)

以上のようなレッシヤーの論争のモデル化における第-の特徴は、 「Qならばp」というときの

「ならば」の意味である。 「各々の場合に問題となるのは、一分のすきもない保証というより適当に

まちがいのない推定である。大多数の場合にAがBであったり、状況の 『一般規定』によってⅩがY

であったり、 『自然の成行き』でFがGであったりすれば、それに対応する条件付き主張は一般的に

議事規則にかなっている。問題になっている関係は、 『通常のもの、自然なもの、当然のこととして

期待されているだけのもの』に関係のあるものである。」 29)このような常識的妥当性としての推論

の正しさという考え方は、伝統的な論理学においては見出せないものである30) 0 「Qならばp」を

伝統的論理学では包含関係として扱う。しかし、常識的推論においては、 「Qならばp」と、 「Qで

あっても同時にRであるならばpではない」とが同時に真ということがありうる、とレッシヤーは言

う。 (たとえば、 「酒は体によい」と主張する人でも、 「深酒は体に悪い」ということを同時に承認

しうるであろう。)このように、日常的推論における 「適当にまちがいのない推定」の機能を明白に

したことによって、少なくとも、次のような点が説明可能になる。すなわち、 《同じ事実を共有しな

がら主張において対立する》というディベートの性格が説明可能になるのである。

レッシヤーの論争のモデル化における第二の特徴は、論争の当事者たちの役割における非対称性な

いし不均衡性 (「弁証法的非対称性」)が明瞭になっている点である31) 。先の二つのモデルのいず

れのプロセスにおいても、論争を開始する義務があるのは提案者の側である。そして、提案者側は、

論争の全プロセスを通じて、その提案の 「立証責任」を背負い続ける。提案者は、提案PとPを証拠

付けるために持ち出したすべての主張を証明しつづけなければならず、反対提案者のあらゆる異義を

退け続けなければならない0-万、これに対して、反対提案者側は、常に、質問するか、異義をさし

はさむだけでよい。先のモデルにおいて、相手の追及に行き詰まると、それまでとは別の論点を持ち

出して攻撃を続けることができるのは反対答弁者側だけである。このような回避は自動的にその点で

の提案者への同意を意味するO 「沈黙は同意のしるし」であるOしかし、反対答弁者は、 「提案者の

論議が依りどころにしている主張のどれかが不十分であることを暴くのに成功すれば、彼の仕事は十

分に成就されるのである。」 32)以上のような両者の役割分担の上で、論争過程は、全体として反対

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(78)

神戸大学発達科学部研究紀要 第3巻第 1号

答弁者が提案者の論理的根拠を 「はぎ落として行く」プロセスとしてモデル化されている。

では、このような論争は最終的にどのようにして裁定されるか。 「論争の 『決定』の枢軸となる面

は次のことである。提案者が反対答弁者によって追い込まれて最後に自分の議論をそれに依存させざ

るをえなくなったテーゼのもっともらしさ (受容可能性)を評価する手段に、論争の決定が本質的に

依存しているということO<略>というのは、提案者はたえず自分の論議をもっともな主張の安全な

陣地へもっていこうとし、反対答弁者はたえずそのような安全な港へ着くのを阻止しようとするから

である。」 33)<()内原文>

次に、レッシヤーは、 「立証責任」という概念の考察へと進む。

形式的論争 (ディベート)が手本とする古代ローマの法廷ルールにおいては、 (今日同様)立証責

任は民事訴訟では原告に、刑事訴訟では (代理原告としての)国家にあったという。つまり、全体に

わたって 「立証責任」は申し立てをするときに積極的な方に置かれた0 「立証の必要性は主張をする

側にあるのであって、否定する方ではない。」 34) (傍点原文)この大原則が、のちの英米法におけ

る、 《有罪が立証されるまでは被疑者は潔白である》という 「推定無罪」の概念を支えている。

以上のように述べた上で、彼は、 「立証責任」という概念に関するきわめて重要な区別を行なって

いる。 「現代法では、 『立証責任』という語句は二つのいずれか一方を意味することができる。しか

しこれらはよく混同されているO一つは、訴訟がそれに依存しているところの問題になっている命題

を確証する責任であり、もう一つは、訴訟の始めあるいは後の段階で特定の論点にかんする証拠を提

出する責任である。前者の意味での責任は普通原告とか起訴者にあり、後者の意味での責任つまり特

定の論点にかんして証拠を持って進む責任は、訴訟が進行するにつれてあちこちに移動できる。」35)

レッシヤーは、この前者の意味での立証責任を 「提案立証責任」と呼ぶ。 (よりディベー トに引き付

けて表現すれば、 「論題立証責任」と呼称してよいだろう。)この責任は、常に提案者の側にのみ置

かれるものである。これに対して、提案者であると反対答弁者であるとを問わず、個別的な主張の個々

において、その一応の (primafacie)証拠を提出する義務が平等に双方に課せられる。このような、

常に 「証拠を持って進む責任」のことを、 「証拠立証責任」と彼は呼んでいる。この意味での立証責

任は、論争の進行につれて 「あちこちに移動できる」。

この 「証拠立証責任」という概念は、次のような考えを含んでいる。すなわち、 「論証の過程が進

行するにつれて、適当に人を納得させるだけの量の証拠があれば責任を一方から他方へ移転させるこ

とができる」 36) という考えである。先の論争推移モデルの一部を再びみる。 《①提案者は、まず

「Pである」と主張する。②これに対して反対答弁者は、 「Qという事実がある。そして、Qである

ならばpであるとはいえない」と反論する。③提案者は、 「しかし、Rという事実がある。Rならば

Qとは言えないはずである」と主張する。》この②のステップにおいて反対答弁者は、Pに対する適

切な反証Qを提示したわけであり、いわば、証拠ゲームのボールは提案者のコー トに投げ返されたわ

けである。しかし、(卦のステップでは、提案者はRという適切な証拠をあげてQの承認を拒む。こう

なると、今度は、証拠立証責任のボールは再度反対答弁者に移ったことになる。以上からわかるよう

に、証拠立証責任とは、 「証拠を持って進む責任」であると同時に 「反証する責任」でもある。それ

が一応の証拠の提示によって果たされたならば、反証責任は相手側に移動するO

以上をまとめれば、ディベートにおける肯定側は全体としての「提案立証責任」(「論題立証責任」)

と個々の論点についての 「証拠立証責任」 (「反証責任」)の双方を担い、否定側は個々の論点につ

いての 「証拠立証責任」 (「反証責任」)のみを担う、ということになる。この意味で、責任は非対

称、不平等である。- ただし、肯定側の個々の論点のみならずその提案 (論題)自体を葬り去る責

任が否定側にあるわけで、この点を否定側の全体的責任ととらえて 「(論題)検証責任」などと呼ぶ

ことは可能であろう。すると、肯定側否定側双方の責任は非対称ではあるが不平等ではないと言いう

ー78-

(79)

ディベートにおける 「推定」の機能 (下)

るかもしれないo

さて、証拠立証責任は、さしあたっての適当さをもった一応の証拠の提示によって解除され、相手

側に移動する。この 「さしあたっての適当さ」 「一応」性が何によって満たされるのかが、 「推定」

という概念と関わってくる。レッシヤーは、この点を (すでにみたように) 「通常のもの、自然なも

の、当然のこととして期待されているだけのもの」に求めるのである。彼は言う。 「推定とは、情報

の任意の段階でわれわれが直面するかもしれないようなギャップを少なくともしばらくの間埋める方

法を表わしている」 37) 。つまり、ものごとについての我々の現在の情報の欠如を少なくとも当面の

間埋めるような常識的に無理のない期待や予測が 「推定」である。ある主張に、この推定という身分

が獲得されたならば、その主張の妥当性を問う証拠立証責任は、常にそれを疑う側にある。また、あ

る主張に推定という身分が獲得されない間は、その証拠立証責任は主張者にある。その主張がある者

の有罪の主張ならば、その主張が推定の身分を獲得するまでは、被疑者は無罪である。このように、

推定と立証責任とはメダルの裏表の関係にある。

このような 「推定」の性格についてレッシャ-は言う。 「命題が推定とみなされることは、それが

真とみなされることとはまったく別のことであるO推定というのは真理のもっともらしい希望者であ

り、 (略) 『それ以上の解除通告がでるまで』にかぎって確保され続け、またそのような通告がでる

こともまったく可能である。」 38) (傍点原文)また、推定とは、確実性の低い推測とはまったく別

物である。 「受容性というのは、 『不確実性』から 『確実性』へ並ぶ一次元スペクトルにそってある

ものではない。受容性には程度ばかりでなく種類もある。そして推定というのはこのような一つの種

類を表しており、ユニークであって、たんに 『確実性としての受容性』といったものの薄められた別

形にすぎないといったようなものではない。」39) (傍点原文)つまり、推定とは、古典的論理学や

伝統的科学観における 「真理」 「真実」ではなく、また今のところ確実性に欠けたその近似物でもな

い。それはまったく種類の違う受容可能性である。推定的真理とは、 「暫定的に、 『今後解除の通告

があるまで』真として受容するのに値するような類いの主張」 40)である。

また他方、 「推定」とは、合意による何らかの規約の採用と考えるべきでもない。むしろそれは、

我々における 「自然な」何かとの整合性である。 「それはわれわれの認識図式にそのテーゼが適合す

る見込み、そのテーゼがそのような図式に含まれることを保証する源や原理の存続を考えての見込み

を反映する。」 41)現状で手にしている信頼できる根拠に整合的で、それによって説明されている方

を、我々は選ぶ。これは、いわば認識の安全運転である。 「だからこそ、 『専門家の証言』や 『一般

的同意』 (人々のコンセンサス)がもっともらしさの条件とみなされるようになるのである。」 42)

< ()内原文>

以上のように、「推定」とは、絶対的な真理でもなく、また何らかの規約的合意でもない。それは、

我々の 「自然」で 「安全」な、明白な反対証拠が提示されない限りにおいての最も合理的な選択を意

味するのである。

では、以上のような 「立証責任」 「推定」の概念によって、ディベートにおける 「勝ち」の意味を

考察する。

論争を終決させるのは、ひとつは時間である。しかし、同時に、 「勝利者」を判定する 「査定と評

価の手段」がなければ、論争は決着しないばかりか、もともとの論争自体が無意味となる。このよう

にレッシヤーは言う。では、論争において、まず提案者 (ディベー トの肯定側)が勝つとはどういう

ことか。 「発端の立証責任がすべて提案者によって解除されたときその提案者は勝ちになる。」43)

すなわち、提案立証責任が遂行され、提案者の提案が推定的真理の身分を獲得したときである。ただ

し、通常論戦の中で提案者の論証の樹は広汎に広がっている。したがって、ここで有効な原理は、

「鎖の強さは一番弱い鎖の強さにひとしい」である、と彼は言う。したがって、この 「弱い鎖」が、

-79-

(80)

神戸大学発達科学部研究紀要 第3巻第 1号

その証拠立証責任を残し、推定的真理という十分なもっともらしさによって保護されないままで残っ

たとき、それは常に反対答弁者 (否定側)の勝ちとなるわけである。この場合、何らかの積極的テー

ゼの擁護に提案者は失敗したのであるから、出発点における状況に関する一般的推定 (現状の推定)

が勝利した、と言うことができる。

以上から、ディベートにおける 「勝ち」とは、 「推定」としての真理、正しさという身分の獲得で

ある、ということができる。それは、その状況において最も自然 ・安全 ・確実で最も合理的と考えざ

るをえないものの選択である。そのような状況、社会共同体の現実のあり方から離れて何らかの絶対

的確実性を想定することはできない。 (「探究においては常に、われわれの今いるところから始めざ

るをえない。」 44) 何らかの理想的な確実性を想定することは、結局 「不適当に大げさな基準への愛

着から帰結する私的で特異な厳格主義のために、合理的企てから外れたところで選択をする」 45) こ

とを意味すると、レッシヤーは言う。)また、最も自然で合理的と考えられるものの選択は、相対的

に優勢な規約、ものの見方考え方の選択でもない。それは、可能な認識の枠組みのうちの一つを選ぶ

ことではなくて、何らかの合理的な基礎をもち、何らかの状況的、社会共同体的必然性の根をもって

いると考えるべきである。

以上のように、ディベー トの勝利を推定の勝利と意味付けることの、より具体的な意味もある。推

定のルールとは、言い換えれば 《反論なき主張は自動的に生き残る》というルールである。 (それは、

いわば議論における 「慣性の法則」である。)このルールが、ディベートにおいて肯定側と否定側が

可能なかぎり議論を 「噛み合わせる」ことの必要を示す。反論を有効に突き付けることができなかっ

た相手側の主張は、そのまま生き残るからであり、それに同意したと自動的にみなされるからである。

(3) 実在的矛盾の反映論について

最後に、これまで触れなかったタイプの、ディベートの 「勝ち」についてのありうるもう一つの説

明について簡単に紹介しコメントする。それは、民主主義社会における対話、議論過程において、賛

成と反対の主張が括抗する様と、どちらか一方が勝利を収めることとを、 《自然的あるいは社会的過

程の客観的矛盾と統一の過程の反映》とみなす考え方である。

この観点からは、ディベー トという、ルール的、時間的にきわめて制約されたゲームにおける肯定

側否定側どちらかの勝利は、 《自然的あるいは社会的過程の客観的矛盾と統一の過程の反映》といて

は、かなり懐疑的にみられることになる。

一例として、そのディベー トに対する疑義を本章の最初に引用した島崎隆をあげることができる。

実は、彼は、 『対話の哲学』において、ディベー トを、大学などの教育機関においてもっと活用する

ことを提唱しており、ディベートの普及を、社会の民主的成熟度の一つの基準であると述べている。

(彼自身、大学においてディベート教育を実践している。)しかも、ディベー ト論戦の論理的構造を

明快に分析したものとして、レッシヤーの 『対話の論理』を評価し、その議論をかなり詳しくトレー

スしている。しかし、そののち、レッシャーに対する次のような批判をも行なっている。 「結局、レッ

シヤーにとって弁証法は対話の論理以外に成立しないO彼は、自然と社会が客観的な意味で弁証法運

動をしていることを認めないし、マルクス主義哲学を頭から否定している。この意味で、ヘーゲル弁

証法の合理性も正しく継承されていない。 (略)そこでは対象をいかに正しく深く反映するかという

視点がない。」 46) 島崎が指摘するように、レッシヤーは、たしかにこの点では古典的な論理学的前

提に与しており、 「現実の自己矛盾は生じることが許されない」 47) 立場であると自分自身のアプ

ローチを規定している。

この間題は、明らかに、高度に形而上学的な様相をもっている。ただし、島崎の主張について一言

しておくならば、やはり、いかなる認識が対象を 「正しく深く反映」したのかを、誰がいつ、いかな

る根拠、基準によって裁定するのか、というのが最大の疑問である。その裁定を、民主主義社会が高

-80…

(81)

ディベートにおける 「推定」の機能 (下)

度に発展した遠い未来の 「弁証法的統一」に待つのだとすれば、やはりそれは、レッシヤーの、現実

に現在進行中の論争を合理的に裁定する弁証法的基準の提示に対して噛み合った批判とは言いがたい

のではないだろうか。

4.ディベー トにおける 「審判」「判定」の役割

筆者の大学の講義におけるディベートにおいて、特に初期の段階に、審判 (役の学生)が次のよう

な判定を下すことがあるOそれは、 「私にとって説得的だったので勝ち」、あるいは、 「この一言が

印象的だったので勝ち」といった判定であるoこれに対して、時にディベーター (特に負けた側)が

審判の判定に必ずしも納得しない、という事態も生まれる。

ディベートは、肯定側と否定側の各々が、審判の判定を自分の側に勝ち取ることをめざして戦うゲー

ムであるOところが、この審判が、たとえ一方の側に心から説得されて判定を下しても、それが本当

に 「正しい」判定なのか、という疑問は生じうるO実際に、当のデイベーターが納得しないというこ

とすら起こるのである。

この間蓮は、やはり、 《議論で勝ち負けを争うことと、 「真理」 「真実」の究明あるいは 「共に深

められた問題の理解」をもつこととは、どこかで矛盾する》という疑義の発生源の一つである。その

場での審判の個々個別の判定が、どうして 「真理」の名に値するような確からしさをもちえようか。

勝つための論弁や、気の利いた一言や、審判がもつ個人的好みが判断を大きく左右するではないか.

あるいは、複数の審判が多数決や合議によって判定を下しても、それが個別的誤謬の集積や増幅に陥

らないという保証がどこにあるだろうかOディベートなどというルール的、時間的に制約されたゲー

ム的状況下ではなく、やはりホンネで自由にかつ徹底的に討論することこそが、衆愚的判断に陥るこ

とを避け、 「真理」 「真実」の究明あるいは 「共に深められた問題の理解」に至るために必要ではな

いか。このような疑問が、当然ありうるであろう。また、このような疑問をもつならば、仮に授業ディ

ベートを行なったとしても、審判による勝敗の判定は、一種のしめくくりの儀式か、あるいは子ども

に対する勝敗による動機付け、という意味合いのものとしてのみ理解されるであろう。

以上のような疑問や、ディベートの勝敗判定に対する理解は、しかしながら、ディベー トにおける

審判、判定の役割に対する基本的な誤解に基づいている。

ディベ- トにおける審判は、基本的に、展開された議論の自分自身に対する説得性や印象度に基づ

いて判定を行なうのではない。そうであってはならないのである。

レッシヤーは、社会的討論過程と個人内での探究の過程が基本的に同形性をもつことを主張する文

脈の中で、次のように言う。 「議論は (誰かを)納得させることによって 『十分』である」 0 48)

(傍点原文、 ()内引用者) ただしそれは、納得させる対象が誰であるかとは関係がない、と彼は言 う。 「承服させるのに足りる論証とか十分な理由という概念は、 (略) (討論において)他人を

納得させようとするものであるか、 (合理的探究において)自分自身を納得させようとすることであ

るかにかかわらず一様であるQ理由や根拠という概念は非個人的で客観的なものである.私的言語と

いうものはないかもしれないが、推理基準の個人に特有な教理つまり私的論理というようなものは確

かに存在しない。」 49) (傍点および ()内原文) 「立証的基準は個人から中立であり,本来中共的

でコンミューン的である。 (略)適切に正当化された認識要求という概念そのものが公に確立され間

主観的に作用する基準に関係がある。このような基準を捨てて、個人化されていると考えられる探究

の基準を選ぶことは、いくら好意的であったとしても私的尺度の使用に引き下がることであり、合理

的推論者のコミュニティーから脱退することであり、それだけで理性の企てを放棄することになる.」50) 以上のようなレッシヤーの主張は、そのままディベー トの審判哲学となりうるものである。

また、Ch.ペレルマンは、 『説得の論理学』において、 「聴衆は、話し手が特に呼びかけようとす

-81-

(82)

神戸大学発達科学部研究紀要 第3巻第 1号

る人びとから成るものでも必ずしもない」と言う51)。彼は、 「普遍的聴衆」という概念を提示して

いる。それは、眼前の具体的聴衆でもなく、話し手が直接意識している聴衆でもなく、また、ある暗

黙の同意や定説を共有する集団でもない。それは、 「人類全体、少なくとも人類の中で能力と理性の

ある人びと」であるという52)。この 「普遍的聴衆」という概念もまた、ディベー トにおける審判と

その判定の役割を説明する概念になりうるものである。

ディベートにおける審判は、 「私的尺度」による個人的納得の度合いに基づいて判定を下してはな

らない。それが判定の主要な理由であってはならないのである。

では、審判は、何を基準とし、何に基づいて判定を下すのか。

西部直樹 (ディベー ト・トレーナー)は、 「ジャッジの観点」について論じている。まず西部は、

次のように述べる。 「私は受講者がどの程度ディベー トを理解しているかをはかるために、ジャッジ

という行為をどのようにとらえたかを聞くことにしている。/肯定、否定、審査を順に体験させ,ど

のパートが一番楽だったかを問う。受講者ははじめのうち 『審査の順になると少し休めると気が楽に

なった』などと答える。 (略)しかし、試合を重ねてゆくにしたがって 『審判は本当に疲れる、わか

らない』と嘆息が漏れだしてくる。こうなると、やっとディベートがわかってきたと判断する。」53)

西部は、ジャッジの心構えを、 「心を無にして試合に臨む」と端的に表現している。これに関して、

次の三つの要素をあげている。(∋論題に関する知識を捨て去ること、②デイベーターに対する個人的

感情は捨て去る、③議論の組み立て方、発表の仕方が自分の好みと違うからといって減点の対象とし

てはいけない。以上のように述べた上で、西部は、実際の審査の方法として、審査基準54) をわかり

やすく設定すること、コミュニケーションの責任に主眼をおくこと、を提言している。

ここで西部が 「ジャッジの心構え」として述べる三点は、自分自身 (という特定個人)の知識、感

情、好みは、 「論」の妥当性判定の根拠としてはならないということである。これは、本論文 Ⅰ章で

述べた 「人と論の区別」に相当するものであろう。

また、審査方法として挙げられている二点は、断片印象的な判定を、より実際のゲーム内容全体に

即した判定にする具体的方法である。特に、 「コミュニケーションの責任」の遂行が判定の着眼点と

して挙げられている点に注目したい。それは、レッシヤーに依って本論文で論じた 「提案 (論題)立

証責任」 「証拠立証責任 (反証責任)」という概念 (言い換えれば、 《証拠なき主張は無効》 《反論

なき主張は自動的に生き残る》という原則)からなる共同的探究のルールと符合するからであるOディ

ベートにおける審判判定は、肯定側、否定側おのおのの立証責任の遂行を追跡、評量して、必ずどち

らかの主張に合理的な 「推定」としての真理の身分を付与しなければならない。それゆえ、それは

「本当に疲れる」役割なのである。

したがって、審判の判定の質が、ディベート全体の論戦の質と、ディベー トによって学習者が学ぶ

ことがらの質を左右すると言っても過言ではない。ディベートの試合が、その論戦の中身の分析、立

証責任の遂行の評価を踏まえて判定されることによって初めて、ディベートが世界についての公共的

な探究過程となりえ、あるいは社会的意思決定のための民主主義的な手続きとなりうる。それゆえ、

授業ディベート研究において、判定論、審判育成論のより一層の充実が急務であるO

Ⅳ ディベー トは学習者に何をもたらすか

以上、本論文は、主にレッシヤーに依って、ディベー トが、(∋社会的重要性やインパクトのある論

題について、②肯定側否定側がそれぞれ、立証責任を相手側に残そうとすることによって、その主張

に 「推定的真理」の身分を確保することを争い、③その帰趨が中立的、客観的観点から裁定される、

ものであることを明らかにした。

-82-

(83)

ディベートにおける 「推定」の機能 (下)

この 「推定的真理」とは、次の三つの性格をもつような、主張の妥当性、確からしさ、受容可能性

のあり方であった。(a)広く常識に合致しうる合理性、 (b)現状において最も合理的と考えられる (し

たがって、将来誤りであることが判明するかもしれない)暫定性、 (C)絶対的真理への到達と、その

ような真理の特権的な保持者を想定せず、常に挑戦者の疑いと社会的な裁決に開かれているという意

味での公共性。

ディベートは、このような真理観と真理探究観を前提に置くものである。

「真理」 「真実」の究明と勝敗を争うこととを対立的にとらえる、ディベートの教育的効用につい

ての疑念は、主に絶対主義的教育論の立場 (つまり、教育を絶対確実な 「真理」 「真実」への導きと

みなす立場)に立って表明されていたものであると考えられる。また、従来の授業ディベート推奨論

者が、ディベー トの教育的効用を、 「聞く・話す能力」 「論理的能力」 「批半掴勺思考」などの能力陶

冶に求める傾向があることを、Ⅰ章でみた。これは、結局、 「絶対確実な 『真理』 『真実』」の教授

をいわばあきらめたか、あるいはそのような教授観を批判する立場であるということができるだろう。

教師がそれを教授するかわりに、子ども自身の能力や主体性を開発することが重要だという立場であ

る。

しかし、この前者の立場によってはもちろん、後者の立場によっても、ディベー トの教育的効用を

十分に説明することができない、というのが、本論文の主張である。学校教育 ・授業においてディベー

トを経験するとき、子どもたちがそこから学んでいるもの、学びうるものは、上記のような 「能力」

だけであるとは考えられないのである。

以下、 「推定」という真理観、真理探究観に基づき、第 Ⅰ章ですでに行なった考察をも踏まえて、

ディベー トのもちうる独自の教育的効用、学習効果について考察を行なう。

(D 「人」と 「論」を区別した、主張の妥当性吟味の必要

まず、ディベートは、常に主張の立証を要求する.ディベー トでは、主張はいつも反論にさらされ

ている状態であり、また、審判が、常に主張の立証の有無を注視しているからであるOしたがって、

勝とうとする限り、主張の根拠付けを、自分自身にとってのもっともらしさの私的感覚から、より公

共的な、観察できる事実や広く共有された常識へと移転させなければならない。このことから、子ど

もは次のことを学ぶと考えられる。すなわち、ある主張を行なったり、他者のある主張を受容したり

論駁したりする際の、 「人と論の区別」の重要性である。 「人」に固有に張り付いた事情以外の、何

らかの一般性をもつ理由の必要性である。

②慎重さと寛容

次に、子どもたちはディベー トにおいて、何らかの判断、意思決定を下す際の望ましい慎重さを学

ぶと考えられる。これは、ディベー トの判定方法が基本的に、よりもっともらしく、より誤りのなさ

そうな方を選ぶという 「認識の安全運転」の思想に基づいているからである。同時に、ディベー トに

おいて子どもたちは、異論への寛容、異論の存在の重要性をも学ぶと考えられる。それは、ディベー

トが、そこでのいかなる主張にも 「疑いえない真理」の身分を認めず、それへの異論提出を奨励する

構造になっているからである。その判定の結論すらもが、 「推定」、すなわち当該の論戦を勝ち残っ

たという限りでの暫定的な正しさという身分を出ない。これもまた、 「認識の安全運転」の思想であ

るということができるo当面最も 「安全」と思われる判断に対しても、それが誤っているかもしれな

いという留保条件を付け、その安全性をより確実にするために、それに対する新たな反証、異論の提

出を常に妨げないわけであるOこのように、ディベー トは、確実さの終着点、探究の終着点の存在を

認めないのである。

このようなディベー トを通して学ばれる慎重さと異論への寛容は、しかし、臆病さ、優柔不断さや

無定見とは別種のものである。なぜなら、まず、ディベートはその論題の性格上、争うことと決する

- 83 -

(84)

神戸大学発達科学部研究紀要 第3巻第1号

こととを要請するからである。また、その決定が常に暫定的で誤りうる性格のものであるとしても、

それは 「一応の」常識的根拠に支えられたものであり、 「何も確かなことは言えない」ということと

はまったく別だからである。

③探究と決定の当事者性の自覚

ディベー トの真理観、真理探究観は、敵対する論争の当事者たちの外に、何らかの特権的な真理や

真理基準の保持者を想定しないO当該の論争を通して得られた結論が、現状において受け入れられる

べき最も確からしい真理である、と考える。このことは、ディベー トが、民主主義という政治形態に

きわめてよく合致したものであることを示している。

したがって、ディベー トに参加することによって子どもたちは、他ならぬ自分たちが、未知の世界

についての探究や、社会的問題に関する決定の当事者である、という自覚をもつと考えられるOディ

ベー トは、民主主義的議論と決定の訓練であると同時に、民主主義的議論と決定の実践そのものなの

である。

以上の、ディベー ト独自の教育的効用についての考察は、現在のところ、ありうるもっともらしい

仮説という域を出ない。ディベー トの基本的思想とそのゲームの構造を正確に踏まえた授業ディベー

ト指導の方法を構想することと、子どもにとってのその効果の検証が、これからの課題である。

(注および参考文献)

1) 『対話の哲学』1988、みずち書房、P.95

2) たとえば、ハーバーマスは次のように述べる。 「戦略的行為 (たとえば、掛けごとや勝敗を争うゲームな

ど。つまり、目的合理的行為という功利主義の範型にしたがう行為)は、-あるひとつの妥当請求 (つまり誠実

性-)が停止されているということによって、コミュニケーション的行為から区別されるように思える。」

Habermas,J.'washeistUniversalpragmatik?'、藤原保信ほか編 『ハーバーマスと現代』1987、新評論、P.171

より重引、 ()内原文

3) 芝浦工業大学柏高等学校

4) ディベートでは、反駁段階において立論では述べなかった新しい論点を提出することは禁止されている。

これを通常、ニューアーギュメントの禁止という。その理由は、その論点が相手側による反対尋問を経ていない

からである。裁判で、通常、反対尋問を経ない証言が証拠として採用されないのと同様である。

5) 杉浦正和、和井田清司編著 『生徒が変わるディベート術 !』1994、国土社、P.ll

6) 同書P.155

7) 同書P.167

8) 『やさしいディベート入門』1990、中経出版、P.42

9) 佐久間順子 「立場を替えて考えることの魅力」、 『授業づくりネットワーク』1995・2、学事出版

10) 同書P.12

ll) 同書P.15

12) 「ディベートは教師のものか、子どものものか」、 『現代教育科学』1995・4、明治図書、P.8

13) たとえば、 『教室ディベートへの挑戦』第1集、 『授業づくりネットワーク』別冊1995・5、学事出版、P.

142には、授業ディベート論題づくりについての考えられる要件が列挙されている。

14) 『対話の論理』内田種臣訳、1981、紀伊国屋書店 (原著/'I)ialectics"Rescher,N.,1977)、P.178

15) 同書P.179

16) 同書P.179

17) 同書P.181

-84-

(85)

ディベートにおける 「推定」の機能 (下)

18) 同書P.181

19) 同書P.181

20) 村上陽一郎は、ハンソン、クーンらに代表される立場を明快に 「規約主義」と規定する。 「『規約主義』

とは、大まかに言って、われわれは、何らかの 『規約』化された理論体系に基づいて、この世界を眺め、この世

界の構成を看取している、という考え方を指す。」 『科学と日常性の文脈』1979、海鴨社、P.173

21) たとえば、成田喜一郎 (東京学芸大附属大泉中学校)は、同校の吉田章のディベー ト実践 「戦争は必要

か」の結果、 「戦争は必要ない」から 「必要」あるいは 「どちらともいえない、わからない」へと意見が変容し

た生徒が存在した事実を紹介した上で、 「果たしてこれでよいのか。まさに、アフターディベートが問われるの

である」と述べている. (「社会科授業の 『論題』-どこが問題か」 『現代教育科学』1995・4、明治図書、P.28)

成田は、同論文冒頭では、 「社会科ディベートの (説明と啓蒙)の時代は過ぎ去り、今や (批判と創造)の時代

に入った」 (同書P.25)と述べているのであるから、その議論は破綻していると言わざるをえない。

22) 前掲書p.14

23) 同書P.14

24) 同書P.14

25) 同書P.14

26) 同書P.15

27) 同書P.15

28) 同書P.19

29) 同書PP.24-25

30) S.トゥ-ルミンのモデルは、日常的推論の常識的妥当性に光を当て、これをシステマティックに分析す

ることを初めて可能にした。 (Toulmin,S.E.,"TheUsesofArguement",CambridgeUniv.Press,1958参照。)

レッシヤーの 「推定」概念における 「通常のもの」 「自然なもの」 「当然のこととして期待されるもの」等々の

概念は、明らかにトウールミンの 「ワラントwarrannt」の概念をベースにしている。トウールミンモデルについ

ての邦書解説は次の3書を参照。①井上尚美 『言語論理教育への道』1977、文化開発社②足立幸男 『議論の論理』

1984、木鐸社(卦中村敦雄 『日常言語の論理とレトリック』1993、教育出版センター

31) レッシヤーは、論争当事者の双方が正反対のテーゼをそれぞれ主張し合う討論大会的状況は、非対称的論

争構造を基本としたバリエーションであると言う。 「それはただ、当事者間の立証にかんする対称の状況を強め

た論戦の一変異形へと論争が進展したことを反映しているだけである0」 (前掲書P.40)

32) 前掲書p.40

33) 同書P.47

34) 同書p.50

35) 同書p.51

36) 同書p.52

37) 同書p.56

38) 同書p.62

39) 同書PP.71-72

40) 同書p.72

41) 同書p.67

42) 同書p.67

43) 同書PP.73-74

44) 同書p.91

45) 同書p.143

-85-

(86)

神戸大学発達科学部研究紀要 第3巻第 1号

46) 前掲書p.67

47) 前掲書p.110

48) 同書p.92

49) 同書p.93

50) 同書PP.95-96

51) 『説得の論理学』三輪正訳、1980、理想社、PP.38-45参照

52) 同書PP.37-38

53) 「ジャッジの観点」 『授業づくりネットワーク』1994・7、学事出版、P.29

54) 西部によれば、審査の方法としては、① 「論理性」「分析力」「発表力」 「証拠力」などの個別観点ごと

に得点を割り振ってその得点合計を算出する 「バロットタイプ」、② 「立証責任」 「反証責任」 「議論の伸び」

「争点の優劣」 「具体性」などの指標に即して、それを得点化せず全体としての試合の流れを見ていく 「総合評

価タイプ」、③これらの折衷型、がある。

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