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“科学の参謀本部” - Hiroshima Universityエム・ヴェー・ロモノーソフ (М.В....

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“科学の参謀本部” ―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミー の総合的研究― 論集 Vol.2 平成 22 年度~24 年度日本学術振興会科学研究費補助金 [基盤研究(B)]【課題番号:22500858】研究成果中間報告 2012 年 3 月 編集 (研究代表者): 市川 浩
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“科学の参謀本部” ―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミー

の総合的研究―

論集 Vol.2

平成 22 年度~24 年度日本学術振興会科学研究費補助金

[基盤研究(B)]【課題番号:22500858】研究成果中間報告

2012 年 3 月

編集 (研究代表者): 市川 浩

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“科学の参謀本部” ―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミー

の総合的研究―

論集 Vol.2

平成 22 年度~24 年度日本学術振興会科学研究費補助金

[基盤研究(B)]【課題番号:22500858】研究成果中間報告

2012 年 3 月

編集 (研究代表者): 市川 浩

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論集 Vol.2 刊行にあたって

本論集は,日本学術振興会科学研究費補助金[基盤研究(B)](課題番号 22500858):「“科学の参謀

本部”―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミーの総合的研究―(研究代表者:市川 浩)」による

研究成果の一部である.昨年刊行した論集№1 に続いて本論集をお届けできることは研究班メンバ

ー全員の深く喜びとするところである.

ロシア人寄稿者の原稿のうち,エカチェリーナ・Yu.バサルギーナ氏のものは研究分担者の梶雅範

の推薦により依頼したものである.タチヤーナ・I.ユスーポヴァ,コンスタンチン・A.トミーリン両

氏のものは,研究協力者の金山浩司が 2011 年 5 月 24~26日にモスクワで開催されたロシア科学ア

カデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所第 17 回年次学術集会(XⅦ Годичная Конференция Института истории естествознания и техники им. С. И. Вавилова Российской Академии наук)に参加した折,寄稿者たちに直接依頼したものである.また,論集№1への寄稿者のうち,と

くに関心を呼んだ原稿の著者,ゲンナジー・P.アクショーノフ,ボリス・I. イヴァノーフ両氏には

本巻にも再度の寄稿をお願いした次第である.これらはすべてオリジナルな原稿である.

訳出にあたっては,広島大学大学院総合科学研究博士後期課程に学ぶナターリア・ロジナさんに

協力していただいた.

日本人による寄稿のうち,市川のものは,広島大学大学院総合科学研究科紀要Ⅲ『文明科学研究』

第6号(2011年 12月)に掲載されたものを,同研究科広報・出版委員会,『文明科学研究』編集委

員会の許可をえて転載したものである.金山,齋藤両名のものはそれぞれオリジナルな論稿である.

掲載の順番は,概ねそれぞれが扱っている年代順としている.

なお,事前の打ち合わせが不充分で,各章はそれぞれの著者,訳者の好みにより形式がまちまち

となってしまった.これを統一する時間的余裕が余りなかったので,多くの場合そのままになって

しまっている.また,文書館資料を引用する場合,出所の表記は簡略化し,文書館名はしばしば頭

文字だけで表記している.さらに,ロシア科学史に精通しない限り,あまりなじみがあるとはいえ

ない人名,地名,機関名については,当然訳注が附せられるべきであったが,論集№1に引き続い

てここでも時間的余裕がなく果たせていない.訳文の生硬さについては読者にご寛恕をお願いした

い.

わたしたちの研究のそもそもの問題関心,課題と方法については,ご面倒ではあるが,論集№1

に掲載した研究代表者による「はじめに―研究の課題と方法―(pp.1-3)」をぜひご参照いただきた

い.論集№1 は,インターネットでも参照が可能である(http://home.hiroshima-u.ac.jp/

ichikawa/kagaku_1.pdf).

2011(平成23)年度,われわれが努力を傾注して実施した企画に,2012年2月5日(日),東京工業

大学を会場に開催された,日本科学史学会生物学史分科会との共催企画=合同シンポジウム「ルィセ

ンコ事件再考」があったが,その成果については,まず日本科学史学会生物学史分科会の雑誌『生

物学史研究』に特集として掲載され,われわれの論集には来年度刊行予定の第 3 巻に転載される予

定である.

われわれの研究が関心をもって参照されることを願ってやまない.

2011年 3月3日

編者記.

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目次

Ⅰ.19 世紀~20 世紀初頭における帝室科学アカデミーの賞与金制度(エカチェリーナ・ユリエヴナ・バサルギーナ 1)

/市川浩 2)訳) …p.1.

Ⅱ.科学アカデミー会員ヴラジーミル・イヴァーノヴィチ・ヴェルナツキー ―学問分野別か,課題別か?―(ゲンナジ

ー・ペトローヴィッチ・アクショーノフ 3)/梶雅範 4)訳) …p.6.

Ⅲ.ロシア科学アカデミーとモンゴル科学アカデミーとの間の協力の形成史とその展開の特徴(タチヤーナ・イヴァノヴ

ナ・ユスーポヴァ 5)/市川 浩訳) …p.13.

Ⅳ.セルゲイ・ヴァヴィーロフと 1930 年代ソ連科学アカデミーの組織上の改変 (コンスタンチン・アレクサンドロヴッ

チ・トミーリン 6)/金山浩司 7)訳) …p.18.

Ⅴ.ソ連科学アカデミー常任書記 Н. П. ゴルブーノフの解任(1937 年) ―ロシア国立社会政治史文書館所収

史料にみる― (金山浩司) …p.24.

Ⅵ.戦時期におけるルィセンコと農業科学の実情をめぐる考察 ―ルィセンコがソ連権力に送った書簡内容から―

(齋藤宏文 8)) …p.28.

Ⅶ.ソヴィエト科学の“脱スターリン化”と科学アカデミー ―1953-1956 のソ連邦科学アカデミー幹部会議事録・

速記録から― (市川 浩) …p34.

Ⅶ.科学アカデミーの再編期(1959-1965年)における工学諸科(ボリス・イリィチ・イヴァノーフ 9)/ナターリャ・ロジナ

訳) …p.47.

※執筆者紹介

1) Екатерина Юрьевна Басаргина/ロシア科学アカデミー文書館サンクト=ペテルブルク支部出版・展示課長. 2) いちかわ ひろし/広島大学大学院総合科学研究科教授. 科学・技術・社会論,技術史.

3) Геннадий Петрович Аксёнов/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所上級研究員.

科学史.

4) かじ まさのり/東京工業大学大学院社会理工学研究科准教授. 科学史,化学史.

5) Татьяна Ивановна Юсупова/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所サンクト=ペテルブ

ルク支部学術書記,歴史学博士候補.科学アカデミー史.

6) Константин Александрович Томилин/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所上級

研究員,物理学・数学博士候補.物理学史.

7) かなやま こうじ /日本学術振興会特別研究員(PD),東京工業大学.科学史・物理学史.

8) さいとう ひろふみ/東京工業大学教育工学開発センター特任助教.科学史,遺伝学史.

9) Борис Ильич Иванов/ロシア科学アカデミー・S.I.ヴァヴィロフ名称自然科学史=技術史研究所サンクト=ペテルブルク支

部主任研究員.技術史・工学史.

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「ほら,アメリカにはアカデミーなどない.でも,あそこでは,なんと科学機

関,科学研究機関の仕事が発展していることか.ご覧なさい.アメリカではど

れほど嵐のように急速に科学が発展していることか」

1946 年 12 月 12 日,モスクワ国立大学物理学部党員報告・選挙集

会での同志セルゲーエフの発言(ЦАОПИМ, Ф.478, Оп.1, Д.114, л.169).

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Ⅰ. 19世紀~20世紀初頭における帝室科学

アカデミーの賞与金制度

エカチェリーナ・ユリエヴナ・バサルギーナ

(市川浩訳)

傑出した学術上の成果にたいして賞を授与す

ることは科学アカデミーの伝統的な機能である.

論文の著者にたいして帝室(ペテルブルグ)科

学アカデミーが賞を授与する伝統は 18 世紀の

後半にはじまる.それは,通常,祝賀の集いで

公にされる“課題”を与える,というかたちを

とっていた1.

帝室科学アカデミーにおける金銭による賞は

1831年に初めて設立された.それを創始し,資

金を与えたのは偉大な工業家のペー・エヌ・デ

ミドフ(П.Н. Демидов)であった.この賞は学

問のあらゆる分野におけるすぐれた論文にたい

してロシア人科学者に与えられ,受賞者の選考

は科学アカデミーに委ねられた.1832 年から

1865年にかけて,選考委員会は900件以上の論

文を審査し,約300の賞を授与した.デミドフ

賞が廃止されたのは,設立者の死後,ただ 25

年間にわたってのみ賞の基金に資金を与える,

というその遺言の条件によるものであった2.

国の学術活動の活性化にたいする賞の有益な

作用をデミドフ賞の例で確信した科学アカデミ

ーは,国民教育省にたいして科学の諸分野にお

ける国家賞の制度化を陳情した.この企画は政

府の支持するところとなり,1865年3月皇帝ア

レクサンドル2世によって認可された.賞の授

与は,国の科学問題における 高の専門家とし

ての科学アカデミーに委任された.この目的の

ために,科学アカデミーは,毎年,国庫から

1,000ルーブリを受け取った.

科学アカデミーの創意により,ロシア 初の

国家賞は, 初のロシア人科学アカデミー会員

エム・ヴェー・ロモノーソフ(М.В. Ломоносов)の祖国の啓蒙に果たした功績を記念して,「ロモ

ノーソフ賞」と名付けられた.「ロモノーソフ賞」

は,本質的に科学を豊富化し,物理学,化学,

鉱物学,およびロシア・スラブ文献学に重要な

寄与をなした研究にたいして授与された.受賞

者のなかには,アー・エム・ブトレーロフ(А.Н. Бутлетов),エフ・エフ・ベイリシュテイン(Ф.Ф. Бейльштейн),エヌ・エヌ・ベケトフ(Н.Н. Бекетов),エヌ・アー・メンシュトキン(Н.А. Меншуткин),アー・アヌ・ロドィギン(А.Н. Родыгин),エヌ・アー・ルィカチョフ(Н.А. Рыкачев),ヴェー・イー・ダーリ(В.И. Даль),イェ・エフ・カルスキー(Е.Ф. Карский),ヴェ

ー・エヌ・ペレッツ(В.Н. Перетц),その他多く

の傑出した科学者,発明家がいた.

国家賞の制定は多くの機関,個人の科学アカ

デミーのなかに賞基金を設けたいという気持ち

を目覚めさせた.まさにこの時点から,科学ア

カデミーにおける賞は系統的なものとなった.

19 世紀前半にはたったふたつの賞の基金が生

れただけで,しかもそのなかで現実に機能して

いたのはたったひとつ,つまりデミドフ賞だけ

だったのにたいして,19 世紀の後半には35 の

名称付きの賞が付け加わった.20世紀のはじめ

には,科学アカデミーにはいってくる賞の原資

はさらに豊富になった.しかし,遺言者の要求

が実現不能であったために原資の受け入れを科

学アカデミーが拒否した事例もあった.

第1次世界大戦によっても原資の流入はとど

まらず,1915年 12月 1日から1917 年12月 1

日にかけて,賞のリストには6つの賞の名前が

加わった.1917 年 12月 1日付で科学アカデミ

ーの管理下にあった名前付の賞の基金は 59 件

であった3.

科学アカデミーに賞のための原資が入ると,

それは国立銀行に有価証券(5%銀行券)のかた

ちで預金された. 初の原資は賞の授与に必要

なパーセンテージで増加し,基本となる原資そ

のものは変化なく残ることになっていた.科学

アカデミーには,原資を提供した人物の意志に

照応した授賞規則を準備する委員会が設置され

た.こうした規則のうち,立法府が確認したも

のもあったし,国民教育省の管理下に置かれた

ものもあったが,残りは科学アカデミーによっ

て,その総会の決定によって定められた.

諸規則は,賞の種類と規模,さらにその他の

奨励策,たとえば,名前付きの金メダル,顕彰

の種類を規定していた.顕彰は,研究が疑いな

1

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く優れた価値を有していても,資金の不足から

金銭による奨励ができない場合に贈られた.賞

の受賞者,顕彰を授与された者は,毎年 12 月

29 日の科学アカデミーの祝賀集会で発表され

た.

初から賞の規模は厳格に決められていたが,

現実には修正がおこなわれることもあった.賞

の金銭面での反映は変化することもありえた.

というのは,賞の原資が減額,ないし増額した

からである.状況がすすむと,額面通りの賞を

与えるためには基本的な原資をも利用する必要

が出る場合もありえたが,そうなると賞の将来

における存続を危機に陥れることになる.それ

ゆえ,科学アカデミーの賞のすべてについて,

実効規則は再検討されていた.

賞の金額は全額でも,通常,1,000 ルーブリ

を超えることはなかったし,小さな賞,奨励賞

などは200から500ルーブリ程度であり,これ

に金メダルの原価も評価されていた.賞金は,

慎ましい科学の働き手にとっては数ヶ月から 1

年間生きて行くことができる金額であった.

賞の原資のなりたち,構成と使命はたいへん

まちまちであった.その多くは,科学の擁護者

たる個人の,生存中の,あるいは死に際しての

寄付によるものであった.

1867年には,このようなものとして,マカリ

ー(Макарий:俗名,エム・ペー・ブルガーコフ

-М.П. Бургаков-)府主教記念賞の基礎が据え

られた.この科学アカデミー会員で,12巻から

なる『ロシア教会史』という基礎となる書物の

著者は,この賞の設立のために,自分の出版物

の販売によって蓄積した 12 万ルーブリを寄付

した.この寄付者の死後,この金額の利子で祖

国の有能な学者に金銭のかたちでの賞が与えら

れた.この科学アカデミーの賞の 初の受賞者

は1885年に登場した.

1885年,エム・エヌ・アフマトフ(М.Н. Ахматов)とかいう人物が遺言をつくり,それによってみ

ずからの資金のかなりの部分を科学アカデミー

に賞の創設のために遺贈した.1891年,アフマ

トフは自殺によって人生に終りを告げたが,そ

の遺言には姉妹から異議が申し立てられた.ア

フマトフが遺贈した資金に関する民事訴訟の法

廷が終結し,エム・エヌ・アフマトフ記念賞が

初に授賞されたのは 1909 年になってのこと

であった.

いくつかの賞は寄付申し込みによる募金から

成り立っていたし,あるものは社会グループに

よって創設されていた.たとえば,1880年,シ

ムビルスク市貴族会の寄付による資金によって,

アレクサンドル2世皇帝陛下記念賞が制定され

た.1881年にはアー・エス・プーシキン(А.С. Пушкин)賞が生まれたが,その原資は,市民の

寄金を基礎としてモスクワに建立されたこの詩

人の記念像建設資金の余剰であった.1905 年,

ポルトヴァ県自治会(ゼムストヴォ)によって

偉大な同胞で作家のエヌ・ヴェー・ゴーゴリ

(Н.В. Гоголь)の名を冠した賞が創設された.

科学アカデミーにとって特別の意義をもって

いたのは,そのふたりの総裁を記念した賞であ

った.1856 年,親族からの寄金による資金で,

帝室科学アカデミー総裁にして,国民教育大臣

であったエス・エス・ウヴァーロフ(С.С. Уваров)伯爵を記念する賞が創設された.ウヴァーロフ

のあと四半世紀を経てそのポストに就いたのが

デー・アー・トルストイ(Д.А. Толстой)伯爵で

あった.1880年,トルストイが国民教育相のポ

ストを離れるとき,彼のかつての同僚たちが寄

付申し出により1万ルーブリを超える資金をデ

ー・アー・トルストイ伯記念学術賞のために集

めた.トルストイはこれに自分の資金を加え,

その額を3倍にして,1884年にはじまるこの賞

の授与を毎年行えるようにした.

科学アカデミー自身も自分たちのメンバーの

名を冠した,一連の賞を創設した.たとえば,

1864年にはカー・エム・ベル(К.М. Бэр)記念

賞が,1875年にはヴェー・ヤー・ブニャコフス

キー(В.М. Буняковский)記念賞が創設された.

この両賞は同じ由来をもっていて,これら両科

学者の博士論文公開審査 50 周年の祝賀のため

に創設されたものであった.記念となる日に科

学者の友人や同僚が寄付申し出により,科学ア

カデミーが賞に活用する原資を集めたのである.

このふたりの記念日を迎えた人物は,自分の名

前を冠した賞の授賞規則草案づくりに積極的に

関わり,生涯にわたり選考委員会の長をつとめ

た.

1905年,科学アカデミー会員エリ・エヌ・マ

イコフ(Л.Н. Майков)記念賞が創設されたが,

それは『エリ・エヌ・マイコフを記念して』と

題する論集の販売によってえられた1,000ルー

ブリから生まれる利子から与えられるものであ

った.1906年,法学者にして名誉科学アカデミ

ー会員のアー・エフ・コーニ(А.Ф. Конь)の崇

拝者で,かつての同僚のひとりが,彼の国家的・

社会的活動 40 周年を記念して多額の原資を彼

2

Page 9: “科学の参謀本部” - Hiroshima Universityエム・ヴェー・ロモノーソフ (М.В. Ломоносов) の祖国の啓蒙に果たした功績を記念して,「ロモ

の名を冠する賞の授与のために差し出した.

それぞれの寄付者は,みずからの貯蓄を科学

アカデミーの管理下に渡すことで,ロシアの啓

蒙に応分の役割を果たすことを夢見ていたこと

には疑いはないが,同時に彼らは,ロシアの学

界という視点で見た場合,科学アカデミーの権

威の強化をも助けていたのである.

すべてがそうだとは言えないとしても,賞の

授与によってその科学的研究が促進された一連

の問題はきわめて広範に及んでいた.賞の獲得

競争にはアカデミーの研究室が代表する,すべ

ての学問分野にわたる研究をおこなう科学者が

参加していたのである.デミドフ賞,エム・エ

ヌ・アフマトフ記念賞,デー・アー・トルスト

イ記念賞、マカリー府主教記念賞は学問分野の

指定がなく,いずれも,すべての学問分野にお

ける,新しい事実,観察,見解を科学に持ち込

んで,本質的な意味でそれを豊富化した,独立

した研究にたいして与えられた.ロモノーソフ

賞は自然科学・人文科学の多くの分野を包含し

ていた.

傑出した科学者,作家,教育者(動物学者の

エフ・エフ・ブラント ―Ф.Ф.Брандт―,数学者の

ヴェー・ヤー・ブニャコフスキー,生物学者のカ

ー・エム・ベル,文献学者にしてスラヴ学者のエ

リ・エヌ・マイコフ,詩人のアー・エス・プーシ

キン,歴史家のエス・エス・ウヴァーロフ,教育

学者のカー・デー・ウシンスキー ―К.Д. Ушинский―)を記念した創設された賞の選考は,その選

考に携わる者がもつ関心の範囲にある学問分野

に属する研究者だけを奨励した.

その他,創設者自身が選考作業のテーマを制

限していた場合もあった.一般的な意義をもつ

テーマと並んで,特殊な課題にたいしても賞が

設けられた.歴史のある一定の時代,ある地方,

ある言語,ある国家的活動家の研究にたいして,

である.

賞の多くが年に1度,2年に1度,或いはそ

れ以上の間隔で定期的に授与された.「与えられ

たテーマに関する」論文にたいして1度だけ授

与される賞は特殊な位置を有している.たとえ

ば,アー・アー・アラクチェーエフ(А.А. Аракчеев)伯記念賞はアレクサンドル1世皇帝崩御100年

(つまり,1925年)を経て,その治世の歴史を

もっとも良く叙述したロシアの作家に与えられ

ることになっていた.この種の賞には,エム・

ヴェー・ロモノーソフの良質な学術的伝記にた

いする賞も含まれよう.

各賞の規則により,科学アカデミー会員は選

考の対象になる権利を有してはいなかった.こ

のような条項のおかげで,大学やその他の学術

機関の有能な研究者が活発に競争に参加するこ

とができ,科学アカデミーとアカデミー以外の

科学者の仲間との接触を広げ,様々な学問分野

における研究の状況を広範に知ることを助けた.

主要都市や地方の科学者を支持することで全

体としての科学の発達を促進したほか,非常に

しばしば科学者の運命そのものに影響を与えた.

受賞者リストは,偉大なロシアの科学者の多く

がアカデミーによってしばしば複数回授賞され

ていることをしめしている.科学アカデミーの

賞の受賞者がその後科学アカデミー会員になっ

ている例も珍しくない.

学術共同体の視点から見れば,ロモノーソフ

賞は単に特別本質的な物質的な援助というだけ

でなく,学術的な論争において科学アカデミー

が「首位に立つ学術的な職業団体」として仲裁

人の役割を担うという状況のおかげで,大きな

道徳的な意義をももっていたのである.学術研

究の選考における 高の専門家としての地位が

学術共同体における科学アカデミーの権威を強

化したことには疑いの余地がない.

学術的選考は査読と研究連絡という文化の形

成を促進した.賞の獲得をめざして提出された

論文は入念で厳格な審査に附された.自分の専

門に関係した無報酬の査読は,科学アカデミー

正会員の義務のひとつとなった.科学アカデミ

ーにおいては,賞を与えられなかった論文につ

いては,印刷される報告にはまったく記載しな

いという一般的規則が遵守された.印刷された

報告のなかには,著者名も論文題名も記載のな

い,選考の対象となった研究の数に関する資料

だけが含まれていた.著者名などをしめす資料

はただ文書館資料のなかにのみ見いだすことが

できる.

査読批評の作成には多くの時間を要した.と

きには追試をしなければならなかったが,査読

批評の作成には3ヶ月はかからなかった.賞の

選考がまだ終っていない状況で仕事をするのが

どれほど難しかったかを確認するためには,ど

のような年次のものでもよいので,科学アカデ

ミーの報告書を開いてみるだけで充分であろう.

たとえば,1915年,ロシア語・ロシア文学部の

アカデミー会員たちは5つの賞の選考に関する

査読批評作成に参加しなければならなかったが,

その年の始めの段階でこの部に属していたアカ

3

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デミー会員は9名だけだったのである.

科学の発達は研究のテーマを広げたが,科学

アカデミーのなかに常に論文選考の全面的検討

に必要な専門家がいたとは限らず,そのため外

部の科学者に助けをもとめることもあった.一

方では,このことが科学アカデミーと専門家が

招かれることとなった高等学術機関との連携を

強化したのであるが,他方では,潜在的な査読

者の探求と査読の組織化に関連した行政的な仕

事を増加させた.

多くの偉大なロシアの科学者が選考作業にお

いて裁定者としての役割を果たした.時として,

査読批評の科学的水準が査読を受けている研究

そのものを凌駕していることもあった.このよ

うな場合,外部査読者の仕事は記念メダルで表

彰された.一連の科学者にとって,あるいは賞

を与えられた科学研究の論文著者として,ある

いは選考対象論文の査読者として選考に関与す

ることは,科学アカデミーの名誉会員,通信会

員,正会員への選出のプロローグとなった.

アカデミーの賞のすべてが,同じように内容

濃く扱われたわけではなかった.一連の賞の選

考では何年にもわたって1つの論文も授賞対象

とならなかった.賞が授与されないということ

は,原資が蓄積され,何も利益を生まずに,死

重のまま横たわることを意味する.科学アカデ

ミーはこのような状況を完全に異常なものとみ

なして,賞の規則を再検討する決定を下したり,

これらの資金を,他の,科学アカデミーにとっ

て有益な用途に渡したりした.しかしながら,

1905 年に企画された諸規則の再検討によって

わかったことは,多くの場合,賞の創設の条件

により科学アカデミーが原資の利子だけでも流

用することさえできなくなっていたために,き

わめてわずかな額が再利用できるだけであると

いうことであった.たとえば,1850年に創設さ

れた,「万物の創造主の聡明さ,計り知れなさを

しめす論文にたいする賞」は1度も授与された

ことがなかったにもかかわらず,その規則を再

検討する試みはまったく実を結ばなかったので

ある.科学アカデミーは自身の科学活動拡大の

ための資金を必要としていたが,賞のための資

金は蓄積されてゆく一方であった.

科学の真の要求にもっとも鋭敏であったのは,

科学アカデミーの会員たち自身であった.たと

えば,1915年に科学アカデミー総裁コンスタン

チン・コンスタンチノヴィッチ大公(вел.кн. Константин Констатинович)がアカデミーに寄付

した原資は「コンスタンチン基金」と名付けら

れ,アカデミーの科学的事業を支えるために制

定された.1916年,副総裁ペー・ヴェー・ニキ

ーチン(П.В. Никитин)記念寄付金,アカデミ

ー会員ベー・ベー・ゴリツィン(Б.Б. Голицын)記念寄付金が科学アカデミーの科学的事業のた

めに寄付された.

このように,アカデミーの賞をめざす競争は,

国の科学の全般的な状況と,帝室科学アカデミ

ーをその不可欠の一部とするロシアの科学共同

体に起こった諸過程を反映していたのである.

メダルのもう一方の面は,科学アカデミーの掌

中に集まった賞のための基金の抑制できない成

長であった.

全体として,様々な学問分野において国の科

学的潜在力を明らかにするうえで賞が果たした

重要な役割について,そしてまた,科学アカデ

ミー諸研究室の次世代要員の候補となるにふさ

わしい者を,賞の受賞者や選考対象研究の査読

者のなかに見いだした科学アカデミーそのもの

にとっての意義について,語ることができるで

あろう.

1917 年 10 月の大転換とそれに引き続く銀行

国有化は科学アカデミーが独自に賞の基金を管

理する可能性を喪失せしめた.1917 年 12 月 1

日から1918年12月1日にいたる時期,科学ア

カデミーには,賞に関する原資からの収入はま

ったく入ってこなかった4.

二月革命には多くのアカデミーの科学者たち

は肯定的に関わり,省のなかで新政府に積極的

に協力したが,十月革命にはこのような態度を

採らなかった.にもかかわらず,革命と内戦の

重苦しい時期でも,科学アカデミーの科学活動

は継続された.科学者の生活と活動の条件は破

局を迎えていたが,彼らは科学の継承のために

闘いを繰り広げた.全般的な危機は直接に賞の

受賞に影響し,応募される論文がなかったため

に選考の数は激減した.

科学アカデミーによる賞選考結果が 後に好

評されたのは,1919年12月29日の科学アカデ

ミーの公開祝賀集会においてであった.常任書

記エス・エフ・オリデンブルグ(С.Ф. Ольденбург)の申し立てによって,総会は,追って新しい布

告が出るまで,1920年におけるすべての賞の選

考を取りやめた.そして,このような布告が出

されることはなかった5.

科学研究にたいする賞をめざす選考がふたた

び行われるようになるのは 1930 年代のことで

4

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ある.1934年,ソ連邦人民委員会議の布告によ

ってイー・ペー・パヴロフ(И.П. Павлов)記念

賞が制定された.第2次世界大戦終結までに,

科学アカデミーの金メダルや名称付きの賞をめ

ざす選考が行われるようになった 6.1990 年代

になるとふたつの革命以前の賞が復活した.

1993年にはデミドフ賞が授与された.選考をお

こなうやり方は,申請書の提出を前提とせず,

ロシア科学アカデミー会員の 良の研究は専門

委員会が決定する.1997年,マカリー府主教記

念賞が復活した.新しい賞の創設者はロシア正

教会,モスクワ市政府,ロシア科学アカデミー

であった.

傑出した科学的成果にたいして賞を授与する

という伝統への回帰は,科学アカデミーにとっ

て賞の分配が常に科学者の活動振興の重要な手

段であったこと,昔も今もその科学に外部から

支えが必要とされるロシアにとってとくに重要

であることを物語っているのである.

1 Указатель конкурсов Императорской Академии наук и художеств. 1751–1796 / Сост. М. Ш. Файнштейн. СПб., 2003.

2 Мезенин Н. А. Лауреаты Демидовских премий Петербургской Академии наук (1832–1865). Л., 1987.

3 Академия наук в пространстве поощрения ученых (XIX — начало XX века): Препринт / Сост. Е. Ю. Басаргина, Н. В. Бекжанова, И. В. Черказьянова. СПб., 2007. Барыкина И. Е. Благотворительные премии Императорской Академии наук // Вопросы истории. 2007. № 7. С. 105–112; Рязанцева Е. В. Академические награды в исторической ретроспективе XVIII–XXI вв. // Академический архив в прошлом и настоящем: Сборник научных статей к 280-летию Архива Российской академии наук / отв. ред. И. В. Тункина. СПб., 2008. С. 236–249.

4 Отчет о деятельности Российской Академии наук по отделениям физико-математических наук и исторических наук и филологии за 1918 год, составленный непременным секретарем академиком С. Ф. Ольденбургом и читанный в публичном заседании 29 декабря 1918 года. Пг., 1919. С. 372.

5 Протоколы Общего собрания Российской Академии наук. [Пг.], 1919. § 246. С. 164.

6 Тютюник В. М., Федотова Т. А. Золотые медали и именные премии АН СССР. Тамбов, 1988.

5

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Ⅱ. 科学アカデミー会員ヴラジーミル・イヴァーノヴ

ィチ・ヴェルナツキー

―学問分野別か,課題別か?―

ゲンナジー・ペトローヴィチ・アクショーノフ

(梶 雅範訳)

研究所はそもそもいかにしてつくるべきか.

個人的な豊富な経験とヨーロッパでの科学研究

の新たな形態についての深い知識を持ち合わせ

ていたV.I.ヴェルナツキー[Владимир Иванович Вернадский, 1863-1945]は,科学の研究集団が,

非常に具体的な研究課題や学際的な科学に集中

すべきだと結論した.彼が,モスクワ大学の自

分の化学研究室を研究所と呼んだのも理由があ

ってのことだった.地球化学が生まれたのも才

能ある院生集団が形作られたのも,ここでであ

った.その中から科学アカデミーの未来の会員

であるA.E.フェルスマン[Александр Евгеньвич Ферсман, 1883-1945. 1919 年にアカデミー会員]

や K.A. ネナドケーヴィチ[ Константин Автономович Ненадкевич, 1880-1963 1946 年にソ

連科学アカデミー準会員],Ya.V.サモイロフ教授

[Яков Владимирович Самойлов, 1870-1925 モス

クワ農業アカデミー教授]といった大学者が生ま

れた. だからこそすでに 1911年に論文「ラジウム研

究所」で,ヴェルナツキーは,知識の問題(す

なわちラジウムに関係する物理や化学の分野の

問題)以外に事の実践的な側面が重要な意義を

持っていることを示したのである.第一にラジ

ウムは,未来の新しいエネルギー源であり,第

二にラジウムはあるやり方で生体に作用するの

で,ヴェルナツキーは,ラジウムに病気と闘う

手段を求めようとした.第三にラジウムは[そ

もそも]入手せねばならず,研究者以外にはラ

ジウムに関係する多数の地質学的な問題や鉱物

学的・技術的な問題などを解決できない.たと

えば,ラジウムの濃縮のごくありきたりの方法

をとってみてもよい.ヴェルナツキーは次のよ

うに書いている.「それゆえに,ラジウム研究所

は,化学実験室や物理研究所とは大いに異なる

特色をもつことになるのだ.」1したがって,ラ

ジウム研究所は,まもなく科学的な課題や技術

的な課題を完結するための総合的な施設として

立ち現れてくることになった. そもそもヴェルナツキーは,1911年にロシア

で 初にラジウム鉱探索を展開した.そのため

に科学アカデミーの物理・数学部門に対して,

ラジウム鉱探索のための資金支出に関する覚え

書きを提出した.ヴェルナツキーは,[中央アジ

アの]フェルガナ地方やカフカース,ウラル,

オレンブルク県[ウラル山脈南麓でカザフとの

境界地域]に探検隊を派遣することを計画し,

ラジウム研究の必要性を訴える特別なメモを執

筆し,関心を持ちそうな部局に送付した.さら

にメモは,二版にわたって出版された 2.上で

引用した論文は,ヴェルナツキーが教養層にも

っともよく読まれている雑誌『ロシア思想

(Русская мысль)』のために書いたものだが,

1911年の終りには科学アカデミーの総会でヴェ

ルナツキーは,深く洞察力に溢れた演説「ラジ

ウム分野での今日の課題」3を行った. ヴェルナツキーの努力の結果,科学アカデミ

ーは政府に対して4回にわたる大規模な探検と

さらなる研究の実施に対する助成金を申請した.

1912年には国会は,そうした目的のための資金

支出を許可した.このように構想に対する強力

で多面的な広報活動のおかげで,ロシアで 初

の具体的な科学的問題に,国家予算が出された.

2 年間にわたる探検は,成功裏に実施された.

放射性鉱物の採掘に有望だと認められたのは,

希少元素の鉱石の採掘が行われていたフェルガ

ナ地方の鉱山であった.得られた資料に基づい

て,1911年末にはヴェルナツキーは,科学アカ

デミーの地質・鉱物博物館に附属してロシアで

初の総合放射化学研究室を開設した. 1919 年にヴェルナツキーの弟子の V. G.フロ

ーピン[Виталий Григорьевич Хлопин, 1890-1950]は,ラジウムの濃縮の問題を創造的に解決して,

6

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いわゆるフェルガナ鉱石の残渣からラジウムを

取りだした.ヴェルナツキーは,1921年にペト

ログラードに戻るや,すぐに科学アカデミーに

ラジウム研究所創設の請願を提出した.研究所

の設立は,当初から組織的な性格を持っており,

その組織に鉱物研究と放射能研究,化学研究を

結合していた4.こうした創意に富んだ事業は,

ヴェルナツキー自身にとっても貴重な経験だっ

た.彼は,科学研究の発展の論理を見出して,

その論理に相応した科学組織の形態を明らかに

した. 並行して 1916 年からは生命物質と生物圏の

学説を発展させ,これに三つの科学の境界[生

物地球化学のこと]に,通常のものからは非常

に離れた科学研究所を創設することになった.

この新分野の理論的な知識を得てから,フラン

スへの在外研究にいた 1923 年にヴェルナツキ

ーは,イギリスの海洋生物学協会(Marine Biological Association of UK)に生物地球化学研

究室設立の提案をした.ヴェルナツキーはつぎ

のように書いた.「未来の科学(と人類)は,集

団的な科学研究に依存している.確かに各々の

思考は,個人の創造の産物として現れる.いか

なる集団も単純には個人に置き換わることはで

きない.それでも個々の研究者は,技術的な装

備があっても科学的な直観の才能に恵まれてい

ても,帰納科学の諸問題を一人で解決すること

出来ない.研究者は,それも制限された時間内

に特定の具体的な分野で確立された要因を十分

な量,求めなければならない」5. 互いに遠く離れた科学研究方向を結合するよ

うな施設の設立に,ヴェルナツキーは高度な新

規性を示した.地質学的な探検や生物学的な探

検,農業的な探検に蓄積されるデータやさまざ

まな方法を用い,さまざまな一致しない目的を

持って得られたデータを用いなければならなか

った.そうしたデータは,指導者によって練ら

れた新概念の領域の中でともに結合される必要

があり,その組織の実現をとくに目指すのでな

ければ,それは実行不可能である. 生物地球化学という三位一体的な新規性とと

もに,科学的な組織の新しさもあって(そこに

ヴェルナツキーは未来を見ていたが),そのこと

によっておそらく当時のイギリス海洋生物学協

会の指導部を思いとどまらせたのだろう.[外国

で研究資金獲得に成功せず]1926年に帰国する

とヴェルナツキーは,直に科学アカデミーにそ

うした研究室の設立を提案した.一年後に,提

案は採用された.始めから組織者たるヴェルナ

ツキーによって,新組織の明確に設計された特

徴が据えられた.ヴェルナツキーが同僚に報告

したように,研究が始まると,形式的な組織の

立ち上げよりも前に,生物地球化学研究室の総

合的な性格が明らかになった.ラジウム研究所

や天然生産力研究委員会,大学の個々の研究室,

さらに七つの科学研究所や教育研究所,三つの

生物試験場といった諸機関のデータと援助を求

めなければならなかった.そのように広範な広

がりが示しているのは,科学アカデミーの研究

所がかかわるべきは,ある伝統的な科学分野で

はなく,多数の科学分野や多くの境界領域を横

断する絞られたテーマであることだ.新研究室

の組織に関する 1927 年の覚え書きをヴェルナ

ツキーは,つぎのような言葉で結んでいる. 「そうした研究室を創設することは,全く新

規なことであり,そのような科学研究センター

はなかった.それゆえ,独自の道を取らざるを

得ず,出来合いの図式をとることはできない.

現実は徐々に新型の[施設の]形成に導かれて

いる.それは,初めて系統的な組織研究の対象

となる新しい問題の性格によって引き起こされ

たものだ」6. 同年にヴェルナツキーは,「ソ連科学アカデミ

ーの応用科学研究の課題と組織化について」と

いう論文で,そうしたタイプの施設とその建設

の原理について詳細に分析した.ヴェルナツキ

ーは,科学アカデミーのすべての業績が全面的

に変化するだろうと予言して,そうした新しい

組織を受け入れるように提案した.科学アカデ

ミーは,イタリアの国立アカデミー・デイ・リ

ンチェイが創立されたとき(1603年)から出現

した 7.しかし,新たな条件下に科学研究を遂

7

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行するためには,アカデミーは真理の自由な探

求だけでなく,その開発,つまり今日,応用科

学研究と呼ばれているものもかかわる必要があ

る.ヴェルナツキーは続ける.たとえば,天然

生産力研究委員会の経験は,さまざまな天然生

産力(それぞれは個別の科学分野で研究される

が)のための単一のエネルギー単位の問題設定

を導いた.その表現の単一の基準を見出すこと

は,たいへん大きな応用的な課題である.「課題

は,宇宙の科学的構築(純粋知識の究極的な科

学的課題)に比肩しうる.応用科学においては,

自然のある部分の科学のある部分の科学的な描

像が与えられなければならず,そうした描像は

人間によって国富となる得るもので,人間は実

際,多年にわたる現実生活によってその描像を

国富に変えてきた[原文イタリック]」8. しかし,どのような形態で,どのようにして

科学的な諸問題は定式化されるのか.そして誰

が定式化するのだろうか.たいへんに難しい問

題だ.一見,課題は生活の要求が決めるように

見える.つまり,政府の仕事の課題だ.国家が

一国社会主義経済という条件下では,政府プラ

ンによって決まる.しかし,すでに存在してい

る機関に頼ると,そこにそうした要求が送られ,

研究所は膨れあがって嵩張り,収拾がつかなく

なる.結局,応用研究だけでなく基礎研究(ヴ

ェルナツキーの時代の用語を使えば純粋科学)

も停滞することになる. ヴェルナツキーは言う.「科学組織の不可避の

大拡張の害については,いくらか説明が必要だ

ろう.20世紀においては,科学研究機関を研究

分野別に建てることはできない.概して化学研

究室や物理研究所を設立することは,実りある

研究のためには,不可能だ(より正確に言えば,

ことの利益のためには引き合わない).狭い一定

の問題群のために,物理学や化学の厳密に特定

化された領域のために化学研究所や物理研究所

を設立すべきだ.そうしたときに初めて,化学

研究の持てる資源の中で 大限の力が獲得され,

研究所の長に立つ創造的な個人が[その力を]

完全に実現できる.」9 後の文は,誰がいっ

たい科学研究所の研究の内容として科学的な課

題を定式化して言語化するのかという問題に答

えるものだ.この研究者こそが,研究の主要な

創造単位であり,(「生活の要求」の必要から見

えるような)政府ではない.研究者自身だけが,

研究課題を正しく定式化できる.計画機関がや

るべきことは,そうした個人を探してその研究

に資金援助をすることだ.研究の新分野は,個

人の創造性によってのみ科学になる.それが公

理だ.「そうした境界の中で新たな問題を提起し,

その問題を宇宙の科学的に構築された枠に入れ

る才能は,匠の偉大なる技芸であり,それが人

間の思索を前に進める」10.そうした匠が,

初に生活の要求を認識し,純粋知識の論理から

出発して応用的な公共的課題として定式化する

ことができる.社会的な必要は意識化しなけれ

ばならず,科学分野の言語の助けを借りて再定

式化されなければならず,卑近な課題では決し

てない. そのときには,科学的創造の自由が保証され,

科学の国家による財政支援という条件下で 大

限の柔軟性が可能になる.科学的な課題が絞ら

れていればいるほど,科学研究は強力なものに

なる.課題に沿って個別の研究所を設立しなけ

ればならない. ヴェルナツキーは,1934-35 年の科学アカデ

ミーのレニングラードからモスクワへの移転を,

アカデミーを科学研究の世界的なセンターにす

るために利用することを提案した.彼は,何回

かアカデミーの幹部会や政府に対して特別な覚

え書きを提出して訴えた.そのための三つの重

要な条件は[すでに]ある.すなわち,1)出来

上がった研究者集団の存在,2)研究基盤,3)200年にわたって集められた学術研究材料.新しい

場所での建設に当たって,何よりも研究所の各

建物は,単なる収容場所ではなく,科学的な道

具として研究の手段として建設されなければな

らない.建てるべきは,巨大な建物ではない.

パヴィリオンのようなもので,必要な設備を中

で組み立てることが出来,新たな課題の遂行に

応じて容易に組み替えができなければならない.

8

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そうした建物群から研究都市をまるまるつくる

ことができよう.こうしたことが,課題毎にア

カデミーの機構を発展させる戦略となるべきだ

ろう 11. ヴェルナツキーの覚え書きは,アカデミー幹

部会会議で検討された.幹部会には,アカデミ

ーの機構をどのように移転させ配置するかのあ

らゆる問題に関して政府と交渉するための特別

委員会が創設された.続く数十年のうちに科学

アカデミーは,まさにヴェルナツキーが望んだ

ような強力な組織に生まれ変わったことは,言

っておく必要があろう.科学アカデミー組織の

大部分が配された地区でさえ,ヴェルナツキー

が提案した場所(モスクワの南西部)にまさに

ある. しかし,科学研究所の性格を狭い・総合的な

ものにするというヴェルナツキーの要求は,科

学に関する政府の政策と衝突した.つまり,ヴ

ェルナツキーの計画によれば,科学アカデミー

の機構の構成がアカデミー会員や研究所長の地

位を独立のものにすることを促すことになるこ

とが問題だった.そのうえ,科学研究の課題の

正しい方向づけや新しい課題の定式化の目的に,

同僚たちが定期的に研究上の交流がなされる.

そうした問題の発生は故のないことではなかっ

た.なぜなら国内の主要な研究機関を共産主義

化で再編しようとしていた政権の前に,それに

相反する課題が立ち上がったからだ.科学アカ

デミーに党官僚が注入された 1929 年 1 月の有

名な事件以後,科学アカデミーは共産党の支配

におかれ,アカデミー内に党員が出現し,政府

は「社会主義建設」の課題に合致した新しい会

則を採択するように強要するようになった.ヴ

ェルナツキーを含む 22 名のアカデミー会員か

らなる組織委員会が設立された.委員会は,二

つの伝統的な部門(自然科学と社会科学)を保

存する会則案を提案した.しかし,会則案は,

イデオロギー的な新政権によって否決された.

新政権は,科学アカデミーの機構を変えて,政

権による科学アカデミー支配を保証しようとし

た.そうした課題は,科学アカデミーが分野別

に組織されているほうがもっともよく遂行され

ることはすぐにわかった.これは,ヴェルナツ

キーが実現したいと望んだ組織とは正反対のも

のにほかならない. まもなく A. E.フェルスマン[Александр Евгеньевич Ферсман, 1883-1945 ヴェルナツキー

の弟子の一人,1926-29年には科学アカデミー副総

裁]の新会則案が現れた.そこでは新機軸とし

て分門を群(物理・数学,化学,地質学,生物

学,社会・経済学と歴史学,東洋学,言語学と

文学)に分けることが提案されていた.群の中

で「学術的・組織的な問題の準備,当該分野で

の科学アカデミーの活動計画の策定,計画実行

の規制,他の機関との調整,ソ連科学アカデミ

ーの群に含まれる分野ごとの機関の業績の監督,

機関の所長候補の事前決定など」12 が行われる

ことになっていた.群がアカデミー会員や研究

所長を従属的な地位につけたことは明らかだ.

官僚機構(この場合,目付け役である群の書記)

の権力を増大させた.以前の細分化していない

状態の時の方が,行動の自由と思想の自由があ

った. 1930年2月28日の会則の検討では,次のよ

うな警告をしているヴェルナツキーの覚え書き

が焦点になった.すなわち,ヴェルナツキー曰

く「「根本的変革」の問題は,科学アカデミー会

員を不意打ちしたもので,現実生活に裏打ちさ

れたものでも会員の間で熟考されたものでもな

いために,その機構として提案された形態では,

長い準備なしには多数の会員を合併させること

はまずできないだろう.」13 研究者が新条件下

での 大限の科学研究の自由に賛成していると,

ヴェルナツキーは主張した.科学アカデミーは,

自律していなければならない.科学アカデミー

には,研究に使うことの出来る独自の予算が振

り分けられなければならない.一方,管理は,

科学アカデミーの総会に委ねられねばならない.

ヴェルナツキーは次のように書いている.した

がって,「科学研究の組織の基礎には,科学アカ

デミーによって提起された科学ではなく科学の

諸問題が持ち出されなければならない.つまり,

9

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アカデミー会員やアカデミーの諸機関によって,

自らの管理の問題として提起されなければなら

ない.それゆえ,できる限り広範で全面的な問

題の検討が保証されなければならない.すなわ

ち,部門や総会,特別委員会の役割を強化しな

ければならない.検討の基盤は,広げなければ

ならず,狭めるべきではない.アカデミー会員

の群への細分化を科学アカデミーの基本の単位

形態とすることは,こうした観点から私には誤

りだと思われる」14. ヴェルナツキーが,科学アカデミーの経験あ

る古参の会員として意見を,これほどよくかつ

全体的に表現したものはない.S. A. チャプルィ

ー ギ ン [ Сергей Александрович Чаплыгин, 1869-1942 流体力学・水力学の専門家,1924 年に

アカデミー準会員,29年に正会員]が,ヴェルナ

ツキーを擁護した.しかし,科学アカデミーの

新会員は,自由な科学研究に反旗を翻した.そ

こには,N. I.ブハーリン[Николай Иванович Бухарин, 1888-1938共産党の革命家・理論家],A. V. ルナチャルスキー[Анатолий Васильевич Луначарский, 1875-1933 共産党員・文芸評論家・

作家・初代教育人民委員(文相)],I. M. グープ

キン[Иван Михайлович Губкин, 1871-1939 地質学

者,農民出身で苦学して革命前に高等教育まで進

む.1918年にレーニンに抜擢されてから地質学関

係の要職を歴任],A. D. アルハンゲリスキー

[Андрей Дмитриевич Архангельский, 1879-1940 地質学者,1925年にアカデミー準会員,29年に正

会員]などがいた.彼らは,ヴェルナツキーを

「素朴すぎる」,「プロレタリアートとブルジョ

アジーとの闘争が行われている世間から乖離し

ている」などと批判した.彼らの立場は,党の

学術過程のイデオロギー指導にすり寄るものだ

った 15. 従って,「共産党動員」の科学アカデミーの新

会員[党員会員]の圧力のもと,[科学アカデミ

ーの]群についての決定は強行突破された.そ

の決定は,1935年の会則でも維持された. しかし,間もなくヴェルナツキーの正しさは,

実地の上で現れるようになった.活動の中央管

理は,群の官僚機構のおかげで極端に困難であ

ることが明らかになってきた.ヴェルナツキー

が,再び交替の発案者として表舞台に現れた.

彼は,自分の意見をフェルスマンに送った.そ

こで数学・物理科学部門の研究を「極めて不満

足なもの」と呼んだ.ヴェルナツキーは次のよ

うに書いている.「私が思うに,アカデミーは,

そこに集中している巨大な知的な力をまったく

うまく使えていない.その理由は,何よりもア

カデミーの構造にある.構造は,アカデミーの

媒体の中にある科学的な交流を増大させていず,

調整もできていないし,[いくつかの点では単に

妨げになっている].知的な力の利用の第一の条

件は,出来る限り広範で出来る限り自由な科学

アカデミーの会員同士の交流である.もちろん,

ある程度の専門分化は避けられない.しかし,

それが交流を狭めるまで進むのを許してはなら

ない.われわれは,科学研究における専門分化

の性格が急速に変化している時代に生きている.

専門分化はますます研究課題に沿ったものにな

っており,分野の枠組みを考慮しないものにな

っている」16. その間にも科学アカデミーは,[特定の]科学

問題を取り上げた総会が開かれなくなった.一

方ヴェルナツキーは,1911年以来ほとんど毎年,

科学アカデミーの総会で報告や展望を含む演説

をしていた.ヴェルナツキーが書いているとこ

ろによれば,諸部門の会議は同一日の同一時間

にしばしば設定されているために(官僚には便

利なことだが),アカデミー会員は自分が関心あ

る[他の部門の]集会に出席することが出来な

い.会員には,隣の部門の会議日程さえも送ら

れていない. 実践が示したのは,分野に沿った群において,

(ヴェルナツキーの呼び方に従うなら)つまり

そうした死せる機構において,大きな意義を持

ったのは書記局でアカデミー会員ではないこと

だ.ヴェルナツキーは書く.「財務のために機関

にとって群を維持するとしても,重要なのは,

部門の別にかまわない,部門集会や総会が提起

した課題に関する科学アカデミーの会員の交流

10

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を作り出すことだろう.私が考えるに,月2回

の部門会議(問題や報告の提起において,科学

アカデミー会員のイニシャティヴの発現をでき

る限り図りつつの)という古いやり方の方が,

科学アカデミーの会員を群に分割してしまうよ

りも,より科学の現代のテンポに合っている」17. 正しい交流の目的には,そして 終的には課

題の(すなわち科学研究の)正しい提起や定式

化の目的には,科学アカデミーにおいて定期的

に行われることになっているシンポジウムも適

い得る.雑誌に世界の科学の状態の展望を発表

することも,よいだろう.分野横断的な問題の

検討は,常に思索を刺激する. ヴェルナツキーのこうした努力は, 終的に

は成功したことを述べておかなければなるまい.

1938 年にアカデミーの群は廃止されたのであ

る.しかし,このことは,彼の課題原理の勝利

には結びつかなかった.なぜなら,部門が八つ

になり,それは分野に従っていたからだ.ヴェ

ルナツキーは,科学アカデミー総裁V. L. コマ

ローフ[Владимир Леонтьевич Комаров, 1869-1945 植物学者・地理学者,1920年にアカデミー正会員,

1930-36アカデミー副総裁,1936-45総裁]への短

い,しかし重要な手紙で,研究所が部門に従属

することの決定的な不都合について指摘してい

る.部門もまた群と同じく死せるものになると,

ヴェルナツキーは予言した.研究所の狭い専門

分化は,研究所をどれかの部門に帰属させるの

に多大の困難を引き起こす.研究所は分野でま

とめるのではなく,方法論や研究の機器によっ

てまとめ,所長会議のもとに帰属させるのがよ

い 18.彼の提案は採用されなかった. ヴェルナツキーの重要な原理である,科学ア

カデミーの自律と自由な研究所設立は聞き届け

られることはなかった.それゆえ,科学アカデ

ミーが量的には拡大しながら,その研究の効率

はソヴィエト時代の末期には絶えず低下した 19.

ヴェルナツキー自身は,その活動的な研究人生

の 後までアカデミーの内部の活動のよりよい

組織を目指す闘いに倦み疲れることはなかった.

1. Вернадский В.И. Очерки и речи. I. М. 1922. С. 46. 2. Вернадский В.И. О необходимости исследования радиоактивных минералов Российской империи. СПб. 1910. 54 с.; 2-е изд., исправленное и дополненное: СПб. 1911 58 с.

3. Вернадский В.И. Задача дня в области радия / Известия АН. 6 сер. 1911. Т. 5 № 1. С. 61-72.

4. Вернадский В.И. Об организации при Российской Академии наук государственного Радиевого института / В.И. Вернадский. О науке. Т. II. СПб. 2002. С. 347-356.

5. Там же. С. 358. 6. Там же. С. 379. 7.(訳注)これは,歴史的には不正確な記述だ.

1603 年にチェージ公(Federico Angelo Cesi, 1585-1630 )が私的な自然科学サークル

Accademia dei Lincei(山猫アカデミー,山猫は

チェージ家の紋章)を設立したが,組織はチェ

ージ公が没すると消滅した.1847年に法王ピウ

ス9世が由緒ある名前を取って,新リンチェイ

法王アカデミーを設立した.ただ,これは,1609年創設のアカデミーの精神的な後継者というだ

けで,実際のつながりはない.これが現在の国

立アカデミー・デイ・リンチェイ(Accademia Nazionale dei Lincei)の起源である.

8. Вернадский В.И. Об организации... Указ.соч. в примечании (4). С. 403.

9. Там же. С. 417. 10. Там же. С. 400. 11. Вернадский В.И. О переходе Всесоюзной Академии наук из Ленинграда в Москву / О науке. Т. II. СПб.: РХГИ. 2002. С. 478-498; Он же. [Записка об условиях, обеспечивающих развертывание работы Академии наук в Москве] Там же. С. 499-502.

12. Уставы Академии наук СССР. 1724-1999. М.: Наука. 1999. С. 152.

13. Вернадский В.И. Замечания на проект реорганизации Академии наук, представленный А.Е. Ферсманом / О науке. Т. II. С. 444.

11

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14. Там же. С. 446. 15. Орел В.М. Битва со здравым смыслом. Как принимался Устав Академии 1930 г. / Вестник РАН. 1994. Т. 64. № 4. С. 366-375.

16. Письма В.И. Вернадского А.Е. Ферсману. М.: Наука. 1985. С. 186-187.

17. Там же. С. 187. 18. О науке. Т. II. С. 516-517. 19. GDP(国内総生産)に対する科学研究費の割

合は,1966年に2.2%から1978年の0.8%に低

下した.Грэхем Л., Очерки истории Российской и Советской науки. М.: 1998г. [Loren Graham, Science in Russia and the Soviet Union: A Short History, Cambridge University Press, 1993のロシア

語訳],С. 192.

12

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Ⅲ. ロシア科学アカデミートとモンゴル科学アカデ

ミーとの協力の形成史とその発展の特徴

タチヤーナ・イヴァーノヴナ・ユスーポヴァ

(市川 浩訳)

ロシア科学アカデミーとモンゴル科学アカデ

ミーとの協力の歴史は,①ロシア科学アカデミ

ーによる国際協力確立のプロセス,その形式,

内容,および,密度にたいする政治的・イデオ

ロギー的要因の影響,②科学と国家のそれぞれ

がみずからの課題を解決しようとするときのそ

れらの相互関係 ―国家は科学共同体にたいす

るみずからの影響力を強化し,科学共同体はみ

ずからの研究課題の解決のために資金をえるの

であるが,― を明らかにする可能性のゆえに,

たいへん興味深いものである.

ロシアとモンゴルとの関係に関して,1921年

のモンゴル人民革命直後に形成され,ずっと継

続してきた神話,すなわち,欲得づくでない,

コンフリクトのない兄弟的な友情という神話が,

科学面での相互関係の歴史の理解にたいしても

語られていて,それはソヴィエトの文献のなか

では,もっぱらソ連邦の側からの恒常的で,無

報酬の援助として解釈されてきた.そこでは,

モンゴルの科学者の協力への動機や貢献,そし

て,学術連携の性格,内容,密度の政治的・イ

デオロギー的要因への従属性が検討されること

はなかったのである.なかでも,科学交流は,

国際関係の枠組みのなかで発展しつつも,モン

ゴルの国際的地位,中央アジア地域の地政学的

状況,両国における政権内部の状況の従属変数

であった.

本稿でわれわれはロシア科学アカデミーとモ

ンゴルの科学共同体との間の学術協力確立のい

くつかの特徴を簡単に検討し,両国の科学アカ

デミーの相互関係発展の一般的な傾向を指摘す

ることとしたい.

ロシア=モンゴル間の科学交流は1920年代に

はじまる.この時期は,ソヴィエト指導部のイ

デオロギー的圧力とモンゴルへの社会主義的発

展路線の押しつけによってロシア=モンゴル国

家間関係に生まれた一定の緊張によって特徴づ

けられる時期であり,モンゴルの国家・政治指

導者の多くが自国の発展の民族的特徴を守り通

そうとしていた時期であることを指摘するべき

であろう.国家間関係における第2の深刻な対

立はモンゴルの独立承認に関する問題であった.

言うまでもなく,1911年,モンゴル諸侯は清朝

中国からの独立を宣言した.ロシアは諸侯をそ

の闘いにおいて支持したものの,ツアーリ政府

は中国とのあからさまな対立を避け,外モンゴ

ルを中国の自治区にすぎないと規定することに

合意し,1915年,ロシア=モンゴル=中国3カ国

協定が締結された.

1921年,モンゴル革命の勝利ののち,改めて

みずからの独立を宣言し,ソヴィエト・ロシア

はそれを承認,1921年11月5日,「ロシア・ソ

ヴィエト連邦社会主義共和国政府とモンゴル人

民政府との間の協定」が署名された.しかし,

この承認は単純ではない性格を有していた.

1924 年 5月31日,ソ連邦は中国との間で,自

身にとって重要な協定を締結したことは重大で

あった.この文書の基本的な条項のひとつとな

ったのは,内モンゴルを中華民国の構成部分と

規定し,ソ連邦がそこにおける中国の主権を尊

重する義務を負う,という条項であった.ソヴ

ィエト政府は,モンゴルにおける社会的緊張を

取り除き,モンゴル指導部にこのような外交的

方策の不可避性とソ連邦のモンゴル独立にたい

する変わらぬ支持を確信させるのに多大の努力

を要した 1.このような状況のために,1920 年

代のソ連邦とモンゴルとの諸関係は決して単純

とはいえないかたちで形成されていった.ソ連

邦は極東地域における重要な戦略的パートナー

としてのモンゴルにおける自身の影響力を強化

するために特定の方策に取りかかる必要があっ

た.こうした方策のひとつがロシア科学アカデ

ミーとモンゴル学術委員会(モンゴル科学アカ

デミーの前身)との間の協力を支持することで

あった.

民族民主主義運動の鎮圧と独立宣言の未承認

の結果,ようやく1930年代になってモンゴルの

国内政治におけるソヴィエト的方向性は「基本

的でプライオリティーをもつ」ものとなった.

モンゴルは法律上 1946 年まで中国の一部とさ

れたままであった 2.こうした状況のために,

モンゴルは世界のなかで完全な主権をもったメ

ンバーとなることができず,西側の歴史家の規

定によれば,ソヴィエト・ロシアの政治的衛星

国としての地位を将来にわたり続けてゆかざる

をえなくなったのである.上述した客観的な諸

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原因によって,モンゴル学術委員会は広範な国

際的連携を確立することを妨げられ,その科学

交流はソ連邦科学アカデミーとの相互関係に限

定されたのである.

ロシア=モンゴル間学術協力の歴史をわれわ

れは仮に4つの時期に分けてみる.

1).1920-1940年代.モンゴル学術委員会の

活動の枠内におけるモンゴル研究にたいす

る同委員会への科学・方法論的,組織的援

助の実施.

2).1950-1980年代.同格の協力の時期.こ

の時期の基本的な特徴となったのは,5 件

の長期共同探検の活動である.

3).1990年代.科学面での連携の密度が低下

した時期.

4).2000年代.その他の国も参加した,様々

な条約や協定を基礎とする活発な協力の時

期.

それぞれの時期を簡単に特徴づけてみよう.

1).1920-1940年代.この時期の 初の頃の

科学的なコンタクトは,とくに,ロシア科学ア

カデミーからモンゴル学術委員会への,モンゴ

ルを対象とする研究,モンゴルにおける科学的

知識の体系化と科学共同体の形成に向けられた

援助という性格を有していた.

この時期にロシア=モンゴル間協力の組織に

特別の役割を果たしたのが,学術委員会学術書

記だったツェー・ジェー・ジァムツァラーノ

(Ц.Ж. Жамцарано)であった.明晰で,独創的

な人柄をもった彼は,モンゴルの歴史のなかで

社会・政治活動家として傑出した役割を果たし

たが,モンゴルにおけるヨーロッパ科学の制度

化,モンゴル文学,歴史,フォークロアの研究

においても際だった貢献をなしている 3.科学

行政の面での活動では,ジァムツァラーノはロ

シア科学アカデミーの経験,その試され済みの

国家機関の類型学と組織構造を利用した.その

際,彼は自分の教師であり,友人であったロシ

ア科学アカデミー常任書記をつとめていたアカ

デミー会員エス・エフ・オリデンブルグ(С.Ф. Ольденбург)に助言と支持をもとめている4.オ

リデンブルグはモンゴル側の関心にたいして深

い尊敬の念をもってロシア科学アカデミーとモ

ンゴル学術委員会の仕事を築いていった.

ロシア=モンゴル間科学交流確立の 初は,伝

統的に,1922年9月,学術委員会の指導部がオ

リデンブルグに学術協力の提案と,モンゴル初

の学術機関にたいしてモンゴルの自然的特性と

資源に関する調査をはじめとする科学・方法論

的援助,要員面での援助を要請した時点にはじ

まると見なされてきた.この問題について若干

の行き違いがあったことは銘記されるべきであ

る.ロシア側は自分たちで探検隊を組織し,学

術委員会の研究者を加えて研究を実施すること

を前提していた.モンゴルの側では,一定の期

間継続して,ロシアの権威ある科学者を招き,

自分たちの研究員に援助を与え,教育をしても

らい,そうして自分たちの仕事をロシア科学ア

カデミーとコーディネートしてもらうことをよ

り望ましいと考えていたのである.しかしなが

ら,のちに明らかになったように,長期にわた

ってウラン=バートルに行くことを希望するロ

シア人科学者は見いだせなかった.仕事の条件

は複雑で,モンゴル政府がロシアにいるより恵

まれた物質的条件を提示できなかったからであ

る.

1923年には,たった3人の若いモンゴル学者

がモンゴルに派遣されただけであった.彼らは

学術委員会の委任により多様な科学的,組織的

活動をこなした.この時期,モンゴルの領土内

では有名なロシアの旅行家ペー・カー・コズロ

フ(П.К. Козлов)のモンゴル=チベット探検隊が

活動を展開していた 5が,学術委員会と密接に

協力し,そのメンバーのうちふたり,エス・ア

ー・コンドラチェフ(С.А. Кондратьев)とアー・

デー・シムコフ(А.Д. Симуков)は探検終了後

もモンゴルに残り,仕事を続けた6.

科学アカデミーと学術委員会との体系的な科

学面での相互関係は,1925年にソ連邦政府内に

設けられたモンゴル委員会の活動によってはじ

まった.1927年この委員会は科学アカデミーの

管轄に移され,25年間にわたってロシア人科学

者によるモンゴル研究のコーディネーションに

携わることになる7.

モンゴル委員会組織の動機は,①ツェー・ジ

ェー・ジァムツァラーノのエス・エフ・オリデ

ンブルグにたいする,モンゴル調査へのロシア

科学アカデミーからの援助実施の要請,②ロシ

アのアカデミズム共同体自体がもつ,1917年の

革命騒ぎ以前にはじまっていた研究を続ける目

的でのこの地域における研究活動にたいする利

害関心であった.

この問題の解決のために,科学アカデミーの

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指導部はソヴィエト政府に要請して,モンゴル

研究の問題が広範に検討される口火を切った.

その際,モンゴル研究の必要性は単に科学的な

観点からのみならず,時代の精神,ソヴィエト・

ロシアにとっての経済的,政治的合目的性から

も根拠づけられた.アカデミズム共同体におけ

る議論は重みをしめし,政府は広い範囲におけ

るモンゴル研究を組織するよう布告した.この

ような決定が採択されるうえで重要な役割を果

たしたのが,政治的な要因であった.直接にこ

のことを物語るのは,政府でこの問題を担当し

た人民委員会議総務部長エヌ・ぺー・ゴルブー

ノフ(Н.П. Горбунов)がみずからの演説のなか

で,モンゴル研究を「モンゴルとの友好関係を

強化し,…モンゴルへのわれわれの政治的影響

の浸透を強化するために」8 不可欠であると指

摘していたことであろう.モンゴル委員会創設

の歴史は,科学者と国家が目の前の状況をそれ

ぞれ自分たちに好都合なかたちで利用すること

ができた場合の ―すなわち,国家にとってはモ

ンゴルにおけるみずからのイデオロギー的・政

治的影響を強化すること,科学共同体,とりわ

け科学アカデミーにとってはみずからの研究活

動のあれこれの方向性のうちのあるものにたい

する資金繰りを国家からえることができた場合

の― 両者のポジティヴな相互作用の特徴的な

例であることは指摘されるべきであろう.

科学アカデミー・モンゴル委員会はそのいろ

いろな時期に次のような優れたロシアの科学者

によって指導されていた:エス・エフ・オリデ

ンブルグ[1927-1929 年],ヴェー・エリ・コ

マローフ(В.Л. Комаров)[1930-1945 年],ヴ

ェー・アー・オーブルチェフ(В.А. Обручев)[1946

-1953年].

ソヴィエト・ロシアのモンゴルにたいする政

治目標に連動して,政府がモンゴル委員会に提

示する課題も変わっていった.

1925年:モンゴルの科学的調査は「われわれ

の[ソヴィエトの]政治的影響強化」のために

不可欠である.

1926 年:「モンゴルの調査はモンゴルの も

近い隣人でこうした調査のために必要な力と手

段を有するソ連邦固有の義務である」.

1930 年:「われわれの義務は…モンゴルにお

ける『経営=経済的,文化=政治的建設の発展と

強化』を支援することである」.

1947 年:「経営=経済的,文化=啓蒙的建設の

分野におけるモンゴル政府の実践的な方策のた

めの科学的基礎を与えることが」不可欠である.

このように,ソ連邦科学アカデミー・モンゴ

ル委員会の研究活動はロシア/ソヴィエト=モ

ンゴル関係に,とりわけ戦前期において,重要

な役割を果たし,ソヴィエト政府によってモン

ゴルにおけるソ連邦の政治的影響強化のひとつ

の要因と見なされたのである.同時に,ロシア

の科学者の仕事はモンゴル国民経済の経済的基

礎づくり,科学研究機関の組織と国の科学要員

養成の不可欠の要素となった.

学術報告からわかるように,科学アカデミー

の研究者集団によって実施された研究の方法や

科学的な良心にまでソ連邦における政治的・イ

デオロギー的状況が反映されていたわけではな

かったことは強調されるべきであろう.報告書

のスタイルは科学共同体で採用されている規範

に照応したものであった9.

モンゴルにおけるロシアの科学者の活動は,

国際法の厳格な規範に則ったものであったし,

モンゴル委員会と学術委員会との間で毎年締結

される特別の協定によって規制されていたので

ある.

ソ連邦科学アカデミーとモンゴル学術委員会

との間で 初に公式に結ばれた条約は 1929 年

10月に締結されている.条約を準備する過程で,

科学アカデミーと学術委員会との間には一連の

対立があったことが明らかになっている.科学

アカデミーにとっては,モンゴルにおける研究

活動は,原則として,引き続く理論的解釈の基

礎となるものであった.モンゴル側は,国の社

会的・政治的改造を財政的に裏付ける計画の実

現に助けとなるような応用的性格の研究,とく

に経済的・農業的方面でのそれに関心をもって

いた.

モンゴル委員会の研究計画における方針変更

は,ソ連邦における科学活動にたいする国家

的・イデオロギー的統制が強化された結果とし

て1930年にはじまった.1930-1933年,学術委

員会との協力の基本的な方向となったのは,応

用的な,土壌学=農学,畜産学,地理学,地球化

学的研究であった.1932年,モンゴル政権内部

の状況悪化との関連で,科学交流は急減した.

1935年6月,全連邦共産党(ボ)中央委員会は

モンゴルにおける科学アカデミーの探検活動が

時宜を得ておらず,合目的的でもないと確認し

た.このような決定の基礎となったのは,極東

地域における全体としての国際的状況の悪化で

あった.持続的性格をもった相互関係の基本的

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な形態となったのは,希にしか行われなくなっ

たロシア人科学者,とりわけモンゴル学者の出

張であり,学術委員会の側では文献の交換,モ

ンゴル人大学院生のソ連邦科学アカデミーの諸

機関における教育であった.

第2次世界大戦終結後,ソヴィエトの科学者

とモンゴルの科学者との間の学術協力の伝統を

さらに積み重ねてゆくうえで,独立が国際社会

に承認されることになったモンゴルの法的地位,

極東とヨーロッパにおける政治的状況の,枢要

ともいえる変化が重要な役割を果たした.この

時期のソヴィエト政府がおこなった国際活動の

アクセントは,社会主義建設の道に入った中国

や東欧諸国との協力の発展に向けられていた.

これに関連して,ロシアにとってより活発にな

ったのは,新しい国際的なパートナー,とりわ

け中国との科学交流の強化であった.ソヴィエ

ト=モンゴル間科学交流の弱まりは,1953 年ソ

連邦科学アカデミーの構成変化に伴ってモンゴ

ル委員会が廃止されたことでも明らかである.

モンゴルとの学術協力の組織は,ソ連邦科学ア

カデミーの国際活動全般を集権的にコーディネ

ートするために設けられた外国課に移管された.

戦後の科学アカデミーとモンゴルとの協力の

基本的な形態となったのは,モンゴル委員会

後の事業となった農業探検(1947-1951年),古

生物学探検(1946-1949 年),歴史学=考古学探

検(1946-1949年),3巻からなる『モンゴル人

民共和国史』の編纂(1940年代,1950年代)で

あった.

1961年,学術委員会を基礎としてモンゴル科

学アカデミーが創設されたあと,ロシア=モンゴ

ル間学術連携の新しい形態と質的に異なったレ

ベルが登場した.モンゴルの科学要員の強化,

そのプロフェッショナリズムの成長は,ロシア

の科学者とモンゴルの同僚との間の協力の性格

を変え,基本的にはソ連邦側からの援助という

かたちから,同格の協力へと移行する前提とな

った.学術連携のもっとも豊かな成果を生んだ

形態のひとつが,30年以上にわたって成功裏に

進展している生物学探検,地理学探検,古生物

学探検,歴史=文化(考古学)探検,地球物理学

探検といった共同の科学研究目的の探検であっ

た10.

1980 年代末から 1990 年代はじめにかけて,

ロシアとモンゴルでは,ラジカルな社会・政治

的,経済的変動が起こり,その結果,両国では

お互いにたいする関係に関する政策が変更され,

これが両国間の学術連携にも反映するようにな

った.本質的にはそれらは減少していったので

ある.幸いなことに,こうした時期は長くは続

かなかった.ロシアとモンゴルの科学者間の科

学交流におけるコミュニケーション戦略の交替

は,2000年,ヴェー・ヴェー・プーチン大統領

のモンゴル訪問のあとにはじまった.

ロシア=モンゴル間学術相互関係の今日的段

階は,共同事業,共同探検,共同学術会議,共

同刊行の量的指標の成長のみならず,伝統的な

学術の中心(モスクワ,サンクト=ペテルブルク,

カザン)のほか,モンゴルに隣接した地域もよ

り一層活発に加わるようになったという,協力

の地理的領域の拡大によっても特徴づけられる.

現在におけるロシア=モンゴル学術協力の基本

的なかたちは次のように区分できよう.

・ロシア科学アカデミーとモンゴル科学アカデ

ミーとの間の科学要員の無償相互派遣にかん

する条約.

・社会科学の分野におけるロシア科学アカデミ

ーとモンゴル科学アカデミーの協力委員会.

・文書館の分野に関するロシア=モンゴル協力

委員会.

・モンゴル教育・文化・科学省とロシア人文科

学基金,ロシア基礎研究基金などとの間の共

同助成金事業.

2011年6月,ロシア大統領デー・アー・メド

ヴェジェフとモンゴル大統領ツェー・エルベグ

ドルジ(Ц.Эрбегдорж)との会見によって,モン

ゴルは改めて中央アジア地域におけるロシアの

重要な国際的パートナーであることが確認され

た.新しい地政学的条件において,ロシアとモ

ンゴルとの間の科学技術協力は活発となり,そ

の組織的形態も多様化し,両国から協力に参加

する者の範囲も拡大している.協力のなかから

イデオロギー的な要素は去り,かわって国益が

その地位をしめるようになった.ロシア=モンゴ

ル学術協力は新たに,ロシア科学アカデミーの

国際活動のなかで活発に発展しつつある方向性

のひとつとなりつつあり,われわれの見るとこ

ろ,今までとおなじく,両国の国家間関係を構

成する重要なものとなりつつあるのである.

1 1929年,ソ連邦とモンゴル人民共和国との間で

新しい協定が締結され,モンゴル政権の「非資

本主義的発展の道を通じた社会主義社会建設へ

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の道における」ソ連邦との協力をめざす路線が

公式に強化された.この協定は,ソ連邦とモン

ゴルとの特別の関係を中国の前に示すことのな

いよう秘密協定とされた.この協定が公開文書

のなかで公表されたのは 1967 年のことであっ

た. 2 しかし,このような条件のもとで,1925-1928年(現代モンゴル史における“右翼路線”の時

代:Рощин С. К. Политическая история Монголии. 1921-1941. М.: ИВ РАН, 1999参照)におけるモ

ンゴル政府内の民族民主主義勢力の代表者たち

は,ドイツ,フランス,アメリカとの科学的,

技術的,商業的連携を発展させようと試みてい

た.たとえば,Baabar, B. History of Mongolia. Cambridge, 1999. P. 276 – 277; Rupen, R. Mongols of the Twentieth Century. Bloomington, 1964; Wolff, S. Mongols in Western Europe in 1925 – 1929 // Man. 1945. Vol. 45. P. 41 – 42.参照のこと.

3 詳しくは, Юсупова Т. И. Цыбен Жамцаранович Жамцарано – ученый секретарь Ученого комитета Монголии // Вопросы истории естествознания и техники (ВИЕТ). 2011. № 4. С. 189-202.参照のこと.

4 このことについては,今日まで保存されている,

ツェー・ジェー・ジァムツァラーノのエス・エ

フ・オリデンブルグ宛書簡で明らかである

( Жамсраны Цэвээн (1880 – 1942). Бүтээл туурвил / Отв. ред. Ш. Бира. Улаанбаатар, 2010. С. 164 – 191; Решетов А. М. О переписке Ц. Ж. Жамцарано с С. Ф. Ольденбургом и Б. Я. Владимирцовым // Orient. Альманах. Вып. 2 – 3 / Гл. ред. Е. А. Хамаганова. СПб., 1998. С. 60 – 84; Санкт-Петербургский филиал Архива РАН (СПФ АРАН). Ф. 2. Оп. 1–1924. Д. 23. Л. 69 - 72).

5 モンゴルにおける探検活動の詳細については, Андреев А. И., Юсупова Т. И. История одного не совсем обычного путешествия: Монголо-Тибетская экспедиция П.К. Козлова (1923 -1926 гг.) // ВИЕТ. 2001. № 2. С.51-74; Юсупова Т. И. Случайности и закономерности археологических открытий: Монголо-Тибетская экспедиция П. К. Козлова и раскопки Ноин-Улы // ВИЕТ. 2010. № 4. С. 26- 67. 参照のこと.

6 Жизнь и научная деятельность С. А. Кондратьева (1896 – 1890) в Монголии и в России / ред.-сост. И. В. Кульганек, В. Ю. Жуков. СПб. 2006; Симуков А. Д. Труды о Монголии и для Монголии /сост. Ю. Конагая, С. Баяраа, И. Лхагвасурэн. тт. 1–3. Осака, 2007 – 2008.参照

のこと. 7 詳しくは,Юсупова Т. И. Монгольская комиссия Академии наук. История создания и

деятельности. 1925 – 1953 гг. СПб., 2006. 8 Цит. по: Юсупова Т. И. Монгольская комиссия Академии наук. История создания и деятельности. 1925 – 1953 гг. СПб., 2006. С. 61.参照のこと.

9 Северная Монголия. Вып. 1–3. Л., 1926–1928; Материалы Комиссии по исследованию Монгольской и Танну-Тувинской Народных Республик и Бурят-Монгольской АССР. Вып. 1–15. Л., 1929–1931; Труды Монгольской комиссии. Вып. 1–69. М.; Л., 1932–1957.参照のこ

と. 10 Юсупова Т. И. Российско-монгольское научное сотрудничество: особенности становления и развития // Вопросы истории естествознания и техники. 2010. № 1. С. 63 – 74.参照のこと.

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Ⅳ. セルゲイ・ヴァヴィーロフと1930 年代ソ連科学

アカデミーの組織上の改変

コンスタンチン・アレクサンドロヴィッチ・ トミー

リン (金山浩司 訳)

ソ連科学アカデミーの歴史はソ連時代には基

本的に,党と国家が自国の科学に対して恩恵を

施してきたという色調のもとで,バラ色に描か

れてきた.1980年代末以降に公開された資料と

研究とによって,ソ連における科学と権力との

相互関係は複雑で矛盾した特徴を持つこと,科

学と科学アカデミーにかかわる政策は気まぐれ

に変化してきたこと,敵対的な政策から完全に

協力的な政策に至るまで,振れ動いていたこと

が,明らかにされてきている.わが国の科学の

生き残りと発展のために重要だったのは,1930年代には科学の発展が不可欠であるということ

に関しては国民,科学者,国家の間に利害の一

致がみられたこと,また科学と技術の成果に基

づいた国の経済の近代化という戦略があったこ

とだったということもわかってきた.近代化の

問題は,第二次世界大戦が迫っているという事

情のもとでは,とりわけ軍事技術にとって焦眉

であった. 1.1930 年代における科学アカデミーと権力

全ソ科学アカデミーは 1925 年に国の 高の

科学研究機関であると認められたが,にもかか

わらず,その存在は政権の気まぐれに左右され

続けてきた.1920年代末,国内を反アカデミー

「PRキャンペーン」が吹き荒れ,これを廃止す

るべきであると訴えられたり(ヴェー・ヴェー・

クイビシェフ),また同等のアカデミーあるいは

科学研究組織が創設される(共産主義アカデミ

ー,化学科学アカデミーなど)などした.1927年からはアカデミーの完全な統制を目的とした,

「科学の砦」に対する包囲が始まった.1929年,

政権側からの圧力は頂点に達し,行政的圧力の

結果,アカデミー構成員として共産党員である

学者たちが「選出され」た.共産党員であるア

カデミー会員たちの地位は1929年2月,ソ連共

産党中央委員会政治局あて秘密書簡により確実

なものとなった ―― ソ連科学アカデミーは

高の科学機関として存続し,数学・自然科学部

門(ОМЕН)は社会主義建設に必要とされる事

業に従事することとなり,人文学部門に関して

は,それを共産主義アカデミーに明け渡しつつ,

しだいに廃絶してゆく方向での検討が行われて

いる 1.共産主義アカデミーの長であるエム・

ペー・ポクロフスキーは科学アカデミーを共産

主義アカデミーに完全に吸収させることを望ん

でいた.1929年,科学アカデミーの「粛清」が

ユー・ペー・フィガトネルを長とする政府委員

会により開始され,科学アカデミー成員の大量

の解雇が断行されたが,この粛清は成員の学問

的能力とは関係なく,かれらの社会的出自いか

んにより行われている.常任書記のエス・エフ・

オリデンブルクと,二人のアカデミー副総裁す

らもそのポストを追われることを余儀なくされ

た.新たに副総裁となったのはゲー・エム・ク

ルジジャノフスキーであり,アカデミーにおけ

る実際の権力は彼が一手に引き受けるようにな

る(詳細は注 2 を見よ).(党機関は常任書記の

後任人事にまずは圧力をたけ,やがてこの職自

体を廃止している.)1929 年末,合同国家保安

部は「科学アカデミー事件」を展開し,その過

程では歴史家であるアカデミー会員 4 人(エ

ス・エフ・ プラトーノフ,イェ・ヴェー・タル

レ,エヌ・エリ・リハチョフ,エム・カー・リ

ュバフスキー)と通信会員8人が逮捕され,彼

らは1年半獄中に繋がれた上,ソ連国内のさま

ざまな都市に流刑に処せられた.さらに 1933年から34年にかけては「スラブ主義者事件」に

より教授たちと2人の通信会員が逮捕され,ア

カデミー会員ヴェー・イー・ヴェルナツキー,

エヌ・エス・クルナコフ,エヌ・エス・デルジ

ャーヴィン, エム・エス・グルシェフスキーら

に対する「証言」が行われた.1936 年から 38年にかけては大規模弾圧の波が国を洗い,科学

アカデミーにもそれは及んだ.構成員の多くと

正会員たち,なかんずくソ連共産党党員たちが

被害をこうむった.1939年から40年にかけて,

弾圧が根こそぎの様相を呈していた時期には,

何人かのアカデミー会員たち(ゲー・アー・ナ

ドソン,エヌ・カー・ルーキン,エヌ・イー・

ヴァヴィーロフら)も逮捕され,命を落とした.

亡命したか弾圧された構成員たちは審議される

こともなく除名され,1938 年 4 月 29 日には総

会において一切の審議をぬきにしてソ連科学ア

カデミーから21人が即刻除名されており,その

中には6人のアカデミー会員も含まれていた.

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共産主義たちの大量逮捕が始まったのと軌を一

にして,1936年,共産主義アカデミーが廃絶さ

れ,その研究所と構成員はソ連科学アカデミー

の中に組み込まれている.ソ連科学アカデミー

の研究所のうちいくつかも―スラブ学研究所,

人口学研究所,科学史技術史研究所―この時期

に廃絶された.1939年には部局の数およびアカ

デミー構成員の数は激増し,ソ連科学アカデミ

ー幹部会構成員の中にもテー・デー・ルイセン

コやアー・ヤー・ヴィシンスキーといった愉快

ならぬ人物が加わり,同年12月にはスターリン

が「学問の大家」と認められソ連科学アカデミ

ーの名誉会員に選ばれている.しかしながら同

時に,1939年には過去に弾圧された学者たちも

何人かアカデミー構成員に選出された. 1930年代末には,アカデミーは自律的構成体

から行政=指令システムを組み込んだ完全に統

制された組織へと変貌を遂げており,これは一

方では,その生き残りを保証するものであり,

その強化と,ソ連における基礎学問研究を組織

するにあたって鍵となる地位を占めさせること

につながった.他方ではこのことは,システム

上のあらゆる不全―官僚化,野放図な拡大とい

う傾向,重大な諸決定を成すさいの討議の欠如,

諸決定それ自体の不透明化,社会科学のイデオ

ロギー化といった―を招いてしまった.ただし,

こういったあらゆる欠点にもかかわらず,ソ連

における応用学問だけでない基礎学問研究発展

のための有効な組織的基盤も形成されたのであ

る. 2. セルゲイ・ ヴァヴィーロフと科学アカデミー物理研

究所の組織化

モスクワのペー・エヌ・レベジェフ名称物理

研究所の創設とソ連の物理学研究,のちには学

問研究の整備にあたってセルゲイ(以下,エス・

イー・)ヴァヴィーロフが果たした役割は大き

い.科学アカデミー物理研究所を,理論物理学

の研究所として,レニングラードにあった物理

数学研究所の物理学部門を母体として創設しよ

うとする試みは,欧州諸国で理論研究に特化し

たセンターが成功裏に発展しているのをみてき

たゲー・アー・ガモフによってなされている 3.

ガモフはエリ・デー・ランダウ,エム・ペー・

ブロンシュテイン,ヴェー・アー・フォークら

を招いて研究させること,「現代理論物理学の基

本的な諸問題」,とりわけ物質構造 ―原子,原

子核― の問題に集中させることを計画して

いた.しかしゲー・アー・ガモフの発案は,ソ

連科学アカデミー総会の1932年2月28日付決

定まで経ていながら,実験物理学者であるアカ

デミー会員アー・エフ・ヨッフェ,デー・エス・

ロジェストヴェンスキーらによって差し止めら

れてしまった.彼らは物理研究所において実験

ではなく理論が優位に立つことをそもそも容認

できなかったのである.その結果,3月28日に

は数学・自然科学部門は,物理研究所の課題が

「もっとも総括的な諸問題を実験の基盤にのっ

とって研究すること」にあるとする決定を受け

入れた.物理研究所の所長候補としエス・イー・

ヴァヴィーロフの名前が 初に挙がったのは 4月29日,物理学者たちの集会においてであり,

研究所の研究プログラムが送付された.ヴァヴ

ィーロフはその結論において,課題の重要性と

今日性を認めつつ,困難な課題をいくつか省略

し,一年間で現実的に達成できるであろう仕事

を計画に加えている.表に出ぬ闘争の結果,中

央執行委員会幹部会は(アカデミーはこの時期

には中央執行委員会の傘下に入っていた)物理

数学研究所をふたつの独立した研究所群へ分割

することを認めず,両研究所は1934年までは物

理数学研究所のふたつの部局として存続するこ

ととなった. 1932年秋,エス・イー・ヴァヴィーロフはモ

スクワからレニングラードへ引っ越している.

1932 年 9 月 1 日,彼は国立光学研究所(ГОИ)の科学部門次長に任命され,宿舎の一区画を与

えられた(隣には所長ロジェストヴェンスキー

が住んでいた).ほぼ時を同じくして1932年10月1日(異説によれば9月21日),エス・イー・

ヴァヴィーロフはまだ設立されていない物理研

究所の長となった.この研究所は物理数学研究

所の部局が昇格したものとして,中央執行委員

会の決定を援用しながら1933年2月1日,ソ連

科学アカデミー総会の決定により設立されたも

のである 4.すなわち,物理学分野における理

論に特化した研究所を設立するというアイデア

は,残念ながらその当時には実現せず,物理研

究所(部門)の長には実験物理学者が就いた.

結果として1932年夏,エリ・デー・ランダウは

ハリコフに移ってウクライナ物理工学研究所の

理論部門を主導することとなり,ゲー・アー・

ガモフはといえば亡命の途を探り始めている.

ソ連において理論に特化した研究所 ――チェ

ルノゴロフクのエリ・デー・ランダウ名称理論

物理学研究所―― は,エリ・デー・ランダウの

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弟子たちによりようやく 1965 年になってから

設立され,ロシアでの理論物理学の中心的なセ

ンターの一つとなっている. 1933年秋,科学アカデミーはふたたび人民委

員会議の管轄下に入り,1934年4月には,イー・

ヴェー・スターリンが科学アカデミーのレニン

グラードからモスクワへの移転を承認した.こ

の決定になにかしらの経済的な意味があったと

は考えにくい.おそらく,科学アカデミーは「皇

帝」のもとにおける専制権力のステータスとし

ての特性を帯びることとなったのであり,それ

をレニングラードのエス・エム・キーロフのも

とにおいておくことをスターリンはもはや望ま

なかったのであろう.これらの過程がもってい

たあらゆる不都合な側面にもかかわらず,新た

な研究所群の建設,スタッフの増員,用地拡大,

モスクワに移ってきたレニングラードの学者た

ち(およそ300人)とモスクワの学者たちの力

の結集,といったことを実現させる可能性も同

時に生じてきた.科学アカデミー移転に関する

1934 年 4 月 25 日づけ人民委員会議決定がなさ

れた直後に,アカデミーの数学および物理学の

制度化を完遂させる可能性が開かれたのであり,

4月28日にソ連科学アカデミー総会のこれに該

当する決議が承認された.ヴァヴィーロフにと

ってはこれはモスクワへの帰還ということにな

るが,今回の帰還は,これまでモスクワ国立大

学の物理学研究所しか擁していなかったモスク

ワにおける,中心的なアカデミー物理学研究所

を伴ったものだったのだ.研究所の立地につい

て,当初は,ペー・エヌ・レベジェフのために

建てられ 1910 年-20 年代にはペー・ペー・ラ

ザレフの物理・生物物理研究所が利用していた

建物があてがわれた.ヴァヴィーロフは同研究

所にレニングラードおよびモスクワの 良の物

理学者たち―理論物理学者たちも実験物理学

者たちも―の力を結集させた.科学アカデミー

物理研究所はわが国の物理学の旗手となり,わ

が国から出たノーベル物理学賞受賞者のうち大

多数を同研究所より輩出させている. 1934年に記した業務用ノートの中で,エス・

イー・ヴァヴィーロフは物理研究所の課題を定

立し,その構成の計画を立て,建設されるはず

の新しい建物のデザインを描いている.「モスク

ワの科学アカデミー物理研究所の課題は ―ヴ

ァヴィーロフは書いている ――モスクワにお

ける物理・工学,物理・化学の諸施設群(レー

ニン名称電気工学研究所,熱工学研究所,カル

ポフ研究所など)にとっての理論的支点の中核

となることである」[注5, л. 60-61].ヴァヴィーロ

フが計画した研究所の構成とそのスタッフ構成

を見てみよう.[注5, л. 57] 「実験室 1)理論部門(フォーク,タム,レオントーヴィ

チ,ニコルスキー,ルメル,ガモフ(?),ブロ

ンシュテイン(?),クルトコフ(?),シュービ

ン(?),ブロヒンツェフ)課題:а)量子電磁気

学,б)量子化学,в)統計学 2) 原子核と素粒子の諸特質(ムィコフスキー,

フランク,グロシェフ(?),デイゼンロット,

大学院生チェレンコフとドブローチン)課題:а)宇宙線,б)放射線の光学的諸特質,в)方法論 3) 結晶と誘電体(ヴル,ゴリドマン,アルツブ

ィシェフ,リョーフシン,ダニーロフ,コチェ

トコフ) 4) 液体物性([ヴェー・アー・.]ヨッフェ) 5) 光学実験室(ランズベル[ク],С. マンデリシ

ュタム,ライスキー,ツェデン,レヴィ,ディ

ヴィリコフスキー) 6) 振動実験室(マンデリシュタム,パパレクシ,

ハイキン,ゴレーリックその他,ルジェフスキ

ー,シュパコフスキー) 7) 成層圏(エム・アー・シュレジンゲル) みての通り,研究所の人事計画は印象的なも

のであり,とりわけ理論部門と振動研究室はそ

うである.研究所の構造はまた,理論的・実験

的物理学の 先端の方向性を反映してもいる

(ウクライナ物理工学研究所で発展を遂げてい

た低温物理学は例外であるが).同様に特筆すべ

きは,科学アカデミー物理研究所でヴァヴィー

ロフは,原子核と素粒子の理論的な研究と実験

的な研究の双方を展開しようともくろんでいた

ことである.「モスクワにおける物理研究所の組

織に関する覚書」の中でエス・イー・ヴァヴィ

ーロフは,理論部門と実験室の課題を明らかに

している.「モスクワの研究所において理論部門

は保持されねばならず,モスクワ出身の新たな

理論物理学者たちを引き容れつつ,拡大されね

ばならない.同部門が扱うテーマもまた,拡張

されねばならない.量子理論,原子核構造及び

統計学の諸問題に,量子化学の諸問題と結晶の

量子理論が加えられるべきである」[注5, л. 60]. 当初,科学アカデミー物理研究所(その当時

は略称としてエフ・イー -ФИ-が,やがてフ

ィジン -ФИЗИН- が用いられた)は,4つの

部門からなる構成をとっていた .理論部門,物

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質構造部門,振動部門及び光学部門である.理

論部門に 初に(1934年10月15日時点)メン

バーとして加わったのは9人であり,そのうち

8 人は上述した覚書に記されていた面々である

(シュービン ― おそらく,イー・イェ・タム

の弟子でありウラル地方への追放から帰還した

という謎がある理論物理学者エス・ペー・シュ

ービンのことを指すと思われる ― と,1934年に「未帰還者」となったゲー・アー・ガモフは

メンバーに加わらなかった.エム・アー・マル

コフが新たに加わった).やがて理論部門の面々

の半数はモスクワに在住することとなった(理

論部副部長のタム,レオントーヴィチ,ルメル,

マルコフ,ブロヒンツェフ)が,半数はレニン

グラードにとどまった(フォーク,クルトコフ,

ニコリスキー,ブロンシュテイン)6.1938年,

大粛清が進行するなか,理論部門のうち何人か

は逮捕され,組織的な「人民の敵」の巣窟とし

て非難された同部門にとっての,また研究所全

体にとっての,深刻な危機が差し迫っており,

エス・イー・ヴァヴィーロフは一時的に理論部

門の研究員たちを他の部門に移す決定を下して

いる[同文献].危機が去ったのち,理論部門は

復活し(1943年から)以来科学アカデミー物理

研究所のイー・イェ・ タム名称理論部門は,ひ

とつのシステムをなす構造をもった隊列であり

続けている. 科学アカデミー物理研究所は当初の構成では,

エス・イー・ヴァヴィーロフが計画した素粒子

物理部門,原子核部門,そして宇宙線部門を含

んでいなかった(エス・イー・ヴァヴィーロフ

自身が記していたような,しかるべき専門家が

モスクワには不在であったことを考慮してのこ

とであったろう.原子核実験室は一年後にヴァ

ヴィーロフの指導のもとでできあがった).原子

核のテーマに関する研究はソ連の様々な省庁

(科学アカデミーのほかにも重工業人民委員部

や,機械建設人民委員部,軍需人民委員部,さ

らには教育人民委員部まで)に属する各種科学

研究所において遂行され続け,それらはアー・

エフ・ヨッフェを議長とする原子核問題につい

てのアカデミー委員会(КАЯ)と部分的には協

働していた(1938年以降には同委員会はエス・

イー・ヴァヴィーロフの指導のもとで再建され

た).1936年から1939年にかけてはエス・イー・

ヴァヴィーロフはソ連科学アカデミー幹部会構

成員に加わり,基礎研究と優秀な物理学者たち

を物理研究所に集中させるべく行政的なテコ入

れを積極的に行った.そうした活動の中には,

核物理学をテーマとする仕事を物理研究所に集

中させること,レニングラード物理工学研究所

の核実験室群をレニングラードからモスクワに

移転させ,そのメンバーを物理研究所に加える

こと,そしてモスクワに新しいサイクロトロン

を建設すること,が含まれている(詳細は注 7を参照).こうするにあたってエス・イー・ヴァ

ヴィーロフは,自身所長職から降りてこの職に

核物理学のテーマの専門家を任命することも辞

さない姿勢を見せた.核物理学テーマに関する

研究をソ連科学アカデミーおよび物理研究所に

集中させるということは,部分的にしか成功し

なかった.研究所群はソ連科学アカデミーに移

管されたが,物理研究所に移籍した専門家は宇

宙線の専門家であったデー・ヴェー・スコベリ

ツィンだけであった. 理論研究と実験研究とを物理研究所内に統合

したことが効果的であったことは,ヴァヴィー

ロフ・チェレンコフ効果の発見と説明に明瞭に

みてとることができる.まず「青い光」が1934年,レニングラードで,大学院生であったペー・

アー・チェレンコフによって実験的に発見され,

続いてすでに物理研究所の理論物理学者となっ

ていたイー・イェ・タムとイー・エム・フラン

クが 1937 年,これに理論的な説明を与えた

(1958年,ノーベル賞が授与されている). 3.エス・イー・ヴァヴィーロフと科学史の制度化

科学史・技術史研究所は,知識史委員会に属

していたエヌ・イー・ブハーリンの主導で,1932年2月28日のソ連科学アカデミー総会 ――物

理数学研究所の分割が決議されたのと同じ会合

―― における決議に基づき,設立された.所長

と,副所長アー・エム・デボーリンはモスクワ

に在住しており,実際の研究所の事業を取りし

きっていたのは学術書記のエム・アー・グコフ

スキーであった.当初研究所には分野ごとにセ

クターを設けることが計画されていたが(これ

はのちのロシア科学アカデミー自然科学史・技

術史研究所においては実現されている),1933年初頭までに設立されたのは4つのセクターだ

けであった ――民事技術史,物理・数学史,農

業文化史,科学アカデミー史である.科学史・

技術史研究所の構造的区分はなべてアカデミー

会員が主導し,学術会議の23人の構成員のうち

13人はソ連科学アカデミーの正会員であり,一

人は同通信会員であった.エス・イー・ヴァヴ

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ィーロフは物理・数学史のセクターを取りしき

り,Н.И. ヴァヴィーロフは農業文化史セクター

を取りしきった.自然科学史・技術史研究所の

活動について詳しくは注 8-10 を参照されたい. 1936年5月,自然科学史・技術史研究所は組

織改編をこうむった ――正式に同研究所はモ

スクワに移転した(フルンゼ通り10番地).し

かしながら構成員の多くは免職となり,研究所

の出版はすべて凍結され,事業計画は見直され

切り詰められた.これに先立って共産主義アカ

デミーが解体されるさいに,科学史技術史研究

所の構成員には,トロイの木馬としての役割を

果たしたモスクワの技術史委員会の面々が編入

された.同委員会の代表者たちは結果として,

研究所において鍵となるポストを占めることと

なった.研究所の構造も,何よりも技術史に傾

注する方向で大きな変革をこうむることとなり,

以下4つのセクターから成るようになった――

一般技術史,各種技術史,科学史,そして農業

技術史である.農業文化史セクターの設立を主

導し初代のセクター長となっていたエヌ・イ

ー・ヴァヴィーロフに代わって,同セクターは

これまでモスクワ支部を指導していたエム・イ

ー・ブルスキーが取りしきることとなった.エ

ス・イー・ヴァヴィーロフは1937年まで科学史

セクターの副部長にとどまった.レニングラー

ド出身の素養のある学術メンバーたちが大量に

失われたこと,テーマが変更されたこと,そし

て定期刊行物が発行停止になったことにより,

研究所は事実上存在を停止し,科学史・技術史

研究所の事業の中でその仕事が一度ならず批判

されてきたマルクス主義技術史家が,レニング

ラードの研究所の名前をのっとることで事実上

制度化されるに至ったのである. 1938年3月,モスクワの科学史・技術史研究

所は廃絶された.この決定には,同研究所の権

力を握ったマルクス主義歴史家たちの低い水準,

技術史家のふたつのグループ間で密告文が飛び

交うほどの内部抗争があったこと,また,研究

所の創設者であるエヌ・イー・ブハーリン ――

「右翼トロツキスト・ブロック」の咎で 1938年 3 月 1 日-13 日の「裁判」過程に巻き込まれ

ていた―― の名前と研究所が結びつけられた

ことが影響している.研究所の廃絶に先立って,

新聞紙上でのPRキャンペーンが行われ,その

一環としてデー・ザスランスキーの筆による,

1938 年 1 月 11 日発行の『プラウダ』紙のコラ

ム「科学への寄食者たち」を挙げることができ

る.一週間後,1938 年 1 月18 日,エス・イー・

ヴァヴィーロフはソ連科学アカデミー副総裁の

ゲー・エム・クルジジャノフスキーに書簡を送

り,そこで研究所に科学史の専門家がいないこ

とに言及し,同研究所を廃絶して歴史研究所に

科学史委員会およびソ連科学アカデミー史委員

会を設立することを提案している[注10, с. 65].ヴァヴィーロフ自身この時までには研究所から去

っており,科学史セクターは彼に代わってベ

ー・ゲー・クズネツォフが取りしきっていた.

1938年に研究所を保持しようと試み,1944年に

はエヌ・デー・ゼリンスキーとともに科学史研

究所(自然科学史研究所)再設置の立役者とな

った 12 ヴェー・イー・ヴェルナツキーは,研究

所廃絶をめぐるさまざまな急転ぶりを自身の日

記に書き残している 11.1945年に研究所が復活

するにあたってはモスクワの研究所にかつて属

していた研究員たちが積極的にかかわった一方,

エス・イー・ヴァヴィーロフは当初研究所の復

活には懐疑的な態度をとっており,日記の書き

付けで次のような反応を示している.「自然科学

史研究所でのゲーム.寄食のための余地を用意」

(1945年3月5日) 13.明らかに,「寄食」という

用語はプラウダ紙の言い回しから借用されたも

のであり,ヴァヴィーロフはまさにこの語でも

って,モスクワの研究所にかつて属していた研

究員たちのことを指している ―― その活動ぶ

りがめざましく有益であったレニングラードの

科学史技術史研究所の研究員たちのことではな

い.まもなくエス・イー・ヴァヴィーロフ自身,

ソ連科学アカデミー自然科学史研究所の活動に

従事するようになっていき,その学術会議の構

成メンバーに加わっている.エス・イー・ヴァ

ヴィーロフとかつてのレニングラードの科学史

家たちはレニングラードの科学史技術史研究所

の 良の伝統を取り出し,科学史の水準を十分

なまでに引き上げることに成功した.1948年1月,すでにソ連科学アカデミー総裁となってい

たエス・イー・ヴァヴィーロフは,アカデミー

の諸機関のうち一部をモスクワからレニングラ

ードに移そうとし ――それらの第一候補のひ

とつとしては自然科学史研究所があげられてい

た――,また,研究所のかつての名称も保持し

ようとしたが,学術研究員たちの側からの激し

い抵抗に直面してしまった.ベー・ゲー・クズ

ネツォフを唯一の例外として,自然科学史研究

所の研究員たちの誰もレニングラードに移住す

ることを望まなかったのである[注14, л. 34].のち

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に 1953 年になってレニングラードにはソ連科

学アカデミー自然科学史技術史研究所の支局が

形成された.1991年,エス・イー・ヴァヴィー

ロフの名前はソ連科学アカデミー自然科学史技

術史研究所(現ロシア科学アカデミー自然科学

史技術史研究所)に冠されている. 文献 1. Академия наук в решениях Политбюро ЦК РКП(б)-ВКП(б)-КПСС. 1922-1952. / Сост. В.Д.Есаков. М.: РОССПЭН, 2000, 592 с.

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10. Кривоносов Ю.И. Институт истории науки и техники: тридцатые-громовые, роковые… // ВИЕТ, 2002, №1. С.42-75.

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Ⅴ. ソ連科学アカデミー常任書記 Н. П. ゴルブ

ーノフの解任(1937 年) ―ロシア国立社会

政治史文書館所収史料にみる--

金山浩司

はじめに

1929年の会員選挙以来,ソ連科学アカデミー

には大量の共産党員,あるいはソ連イデオロギ

ーの唱道者たちが加わった.1929年から1931年にかけてアカデミー会員に選出された者のう

ちおよそ 3 分の 1 はマルクス主義者であり1,

こうした人物たちの一例としては,党内きって

の理論家といわれたブハーリン(Н. И. Бухарин, 1888-1938),全ロシア電化計画を主導したクル

ジジャノフスキー(Г. М. Кржижановский, 1872-1959),1920年代の哲学論争の一派の首領

であったデボーリン( А. М. Деборин, 1881-1963),マルクス主義文献学の分野での功

績で知られるリャザノフ(Д. Б. Рязанов, 1870-1938),歴史家のヴォルギン(В. П. Волгин, 1879-1961)らが挙げられる.このほか,共産党

員ではないものの全ロシア電化計画への貢献ぶ

りが評価された電気工学者ミトケーヴィチ(В. Ф. Миткевич, 1872-1951)も選出されたが,彼も

また,従来のアカデミー会員たちの顔ぶれ ― 基礎科学に従事する者を中心とした ― からす

れば異彩を放つ者であっただろう.共産党員の

科学アカデミーへの参入はいわゆる文化革命の

時期(1928―1932 年)以降も継続され,物理

学史・科学哲学に従事していたゲッセン(Б. М. Гессен, 1893-1936),文学研究者・哲学者のルポ

ール(И. К. Луппол, 1896-1943)そして本稿の主

人公であるゴルブーノフ(Н. П. Горбунов, 1892-1938)らが,1930 年代に正会員・通信会

員に選出されている.従来国家権力からの独立

を享受していたこの学術研究機関の隊列に彼ら

「異分子」が加わるようになったことは,文化

革命の時代における科学アカデミーの「ソヴィ

エト化」―国家イデオロギーの宣伝,国家の施

策の実行機関としての性格を従来の科学研究機

関としてのそれに加えようとする ― の一環と

して行われたものであった. しかし,彼らの多くは,栄誉もつかの間に,

悲劇的な命運をたどった.アカデミズムでの栄

誉ある地位を彼らが与えられたことは,多くの

場合皮肉にも,従来のような行政的影響力を科

学・技術界に行使できなくなったこと,新たな

党の指導者たち(オルジョニキッゼ,モロトフ,

カガノーヴィチ,メジュラウクと言ったスター

リンに近しい人物たち)に科学のパトロンとし

ての地位がとってかわられたことの裏返しであ

った 2.挙句には,上に列挙した人物たちのう

ち,1936年から1938年の大粛清の際に,ブハ

ーリン,ゲッセン,リャザノフ,ゴルブーノフ

が命を落としている.生き延びた者も,その一

人であるデボーリンが回想しているように,ス

ターリンの死まで数十年間にわたって逮捕と隣

り合わせの苛烈な生活を送った例が多かったで

あろうと思われる 3.文化革命の時期の粛清が

非・マルクス主義者たちに向けられたものであ

るとするならば,この,エジョフシチナの時期

の粛清で主として打撃をこうむったのは,共産

党員あるいはかつての共産党員であった 4. 同時期に逮捕・銃殺されたゴルブーノフに関

しては,長らく言及されることがなかった.

1954年にこの悲運の党員は名誉回復されたが,

没年・命日も長らく定かではなく,出典によっ

てまちまちの日付が記されるありさまであった

5.ようやく1986年,彼の功績を追想する論集

『Н. П. ゴルブーノフ―回想,論文,資料』が

出版されたが,同書では彼の 期については全

く触れられていない 6.彼の逮捕と死について

明らかにされたのは,1988年,遺族の度重なる

要請にようやく 高裁判所軍事委員会が答えこ

とによってであった 7.近年では,家族へのイ

ンタビューも公刊され 8,ロシア科学アカデミ

ー内でも記念集会が開かれ,20世紀の科学技術

を特徴づけるところの研究所(大学等とは別個

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の,教育義務から解放された科学者・技術者が

研究開発にあたる機関)群を整備したソ連政権

内の組織者としてのゴルブーノフの役割にも着

目がなされている 9.本稿は,ロシア国立社会

政治文書館(РГАСПИ)モロトフ個人フォン

ドに収められていた資料を紹介し,彼の 期を

めぐる物語にひとつのエピソードを付け加えて

みることを目的とする.これにより,従来文化

革命期に比べて言及されることが少なかった大

テロル期の科学アカデミーの組織的改変に関し

て,少しばかり光を当てることができるであろ

う. 1.経歴 本論に入る前に,本稿の主人公の経歴につい

て簡単に述べておく 10.ゴルブーノフは 1892年5月,ペテルブルク近郊にて技術者の家庭に

生まれた.実業学校を卒業後,ペテルブルク工

科大学で学んだ.1917 年 2 月の帝政崩壊以来

の混沌とした政治状況にあって,ゴルブーノフ

の共感はボリシェヴィキに向けられ,6 月に入

党した.十月革命5日目の10月29日(新暦で

は 11 月 11 日),ボンチ・ブルエーヴィチの推

挙もあり,レーニンはゴルブーノフを執務室に

呼び,人民委員会議の書記に任命する.1918年8月から 高国民経済会議の科学技術部門の

副部長に就任,軍事・衛生・農業・エネルギー

等の諸問題の解決のために尽力し,諸々の研究

所・学校・図書館の開設,雑誌の編集等にかか

わった.1920年代前半に彼が開設にかかわった

研究所の中には,のちにニコライ・ヴァヴィー

ロフ(そしてルイセンコ)の牙城となるレーニ

ン農業科学アカデミーも含まれており,この研

究所の学術会議議長も彼は務めた.内戦時には

しばしば前線に行き,兵士・将校たちに向けて

の宣伝活動に従事してもいる. 1921年,全ロシア電化計画(ゴエルロ計画)

が立ち上がった際にも,ゴルブーノフはテクノ

クラートとして発電所建設等の事業の推進役を

引き受けた.技術者の育成にも注意を払い,

1923年から29年まで,モスクワ技術中等学校

の校長を務めている. レーニンに忠実で,彼からの指令を大量に受

け取り,彼の片腕ともいうべきであったわれわ

れの主人公は,このソヴィエト連邦建国の父が

1924 年 1 月に死去した後,彼が書き残した文

書を一手に集める事業にも携わっている.もし

かすると,このレーニンへのあまりの近しさが,

スターリンの大粛清の中で彼が命を落とす理由

になったのかもしれない. 科学アカデミーとの関連で言うならば,1925

年以来,1920年代末から1930年代初めの大変

革に際して,ゴルブーノフが果たした役割は少

なからぬものがあった.1925年にロシア科学ア

カデミーはソヴィエト社会主義共和国連邦科学

アカデミーと正式に名称を変更し,憲章も改訂

され,科学アカデミーの管轄は教育人民委員部

から人民委員会議に移ったが,これを決定した

人民委員会議の決議にはゴルブーノフも名を連

ねている. 1935 年 11 月 20 日,科学アカデミーはゴル

ブーノフをアカデミー会員として受け入れ,

1930年以来常任書記(パリ科学アカデミーの同

等の職にならって設立されたといわれる)を務

めていたヴォルギンが自身の研究のための時間

を確保するために辞職を申し出てきたのに伴い,

彼を同職に任命した 11.新設の科学アカデミー

工学部の事業に彼は熱心にかかわったという.

しかしこの職を,彼は一年半しか務めることが

できなかった. 2.解任の背後にあるドラマ ロシア国立経済・政治文書館のモロトフ個人

フォンドには,1937 年 6 月の常任書記解任に

関連した人民委員会議モロトフあての書簡が二

通,保管されている.一通は副総裁であるクル

ジジャノフスキーからのものであり,もう一通

はほかならぬ,ゴルブーノフ自身からの書簡で

ある. 1937年6月19日付のモロトフあての「極秘」

と銘打った書簡にて,ゴルブーノフは,この日

のソ連科学アカデミー幹部会の運営会議

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Page 32: “科学の参謀本部” - Hiroshima Universityエム・ヴェー・ロモノーソフ (М.В. Ломоносов) の祖国の啓蒙に果たした功績を記念して,「ロモ

(распорядительное заседание)において自

身の解任をもたらす声明が承認されたこと,こ

れが 6 月 25 日の幹部会本会議にて了承されて

しまうであろうことを訴え,「貴公の側にプロジ

ェクトについてのなんらかのコメントがあるな

らば,しかるべき声明を同志クルジジャノフス

キーあてに送っていただきたい」と訴えている

12. 翌日,クルジジャノフスキーも同様の書簡を

送っている.彼は,常任書記の職を廃止し,ゴ

ルブーノフを幹部会の仕事から解任するとした

同日付の声明文を添付したうえで,もしモロト

フからコメントが送られない場合,幹部会本会

議で正式決定されてしまうであろうことを訴え

ていた 13. これは,ゴルブーノフの切実なる「命乞い」

であったと考えられる.前年8月のジノーヴィ

エフ,カーメネフの裁判以降,党の大物の逮捕・

告発・裁判は相次いでおり,階級闘争の激化を

呼びかけるスターリンの声明も相まって,党内

の緊張は一段と高まっていた.6 月初旬にはト

ハチェフスキーら赤軍将校たちに対する死刑判

決が下されている.この状況下で,要職から外

されることの持つ不吉な意味合いを,古参党員

であるゴルブーノフは十分に感じ取っていただ

ろう.前任者のヴォルギンの場合とは異なり,

常任書記退職に際してゴルブーノフ自身の側か

らのイニシアチブの痕跡は一切見られない. しかし,結局人民委員会議議長は要請を受け

入れることはなかった.モロトフに望みをつな

いだのもむなしく,ゴルブーノフは6月29日,

常任書記を解任され,翌1938年の2月19日に

逮捕されている.遺族が受け取った取調べ記録

によれば,ゴルブーノフに対する告発は非常に

多く寄せられており,公にはドイツのスパイと

して非難がなされていた(一方,人民委員会議

での活動については特に取り調べ中も言及され

ていないという).同様にクルジジャノフスキー

も非難されていたらしい 14.クルジジャノフス

キーもまた,非常に危うい立場に立たされてい

たところ,辛くも―理由は定かではないが―逮

捕を逃れたことになる. 1938年8月20日,本稿の主人公は第一カテ

ゴリー(銃殺)に加えられ,9 月 7 日, 高裁

判所軍事委員会により銃殺刑を宣告され,即日,

銃殺された. モロトフはなじみのない人物の解任に興味を

示さず,ために行動を起こさなかったのであろ

うか.否,上述した当事者たちからの書簡をモ

ロトフが読んだ形跡はある(何か所か強調のた

めの縦線が引かれている)し,モロトフはゴル

ブーノフから 1937 年,幾度も事務上の書類を

受け取っていた(国際遺伝学会議を翌年にモス

クワで開催する計画について)15.6 月のゴル

ブーノフの解任について,モロトフはこれを意

図的に推進したか,少なくとも容認したものと

思われる.常任書記の職は消滅し,半年後の12月 13 日,中央委員会政治局はアカデミー書記

としてヴェセロフスキー(В. И. Веселовский)を任命した 16. 結語 ゴルブーノフの解任に伴う若干の資料を紹介

してきた.彼の解任は,人民委員会議議長であ

るモロトフの黙認のもとで行われたことから,

何らかの党上層部の意図が働いていた可能性は

ある.しかし,彼がいかなる理由に基づいて逮

捕・銃殺されたのか,常任書記解任と逮捕との

間に明確な連関性があるのか,といったことは

いまだに謎に包まれている.エジョフシチナと

科学アカデミーの組織的再編との連関性という,

それ自体いまだあまり扱われていない歴史的テ

ーマの一環として,今後も探求されるべき事項

であろう.

1 Alexander Vucinich, Empire of Knowledge (Univ. of California Press, 1984), 129. 2 1930年代ソ連に起こった科学のパトロネージの

変化については以下を参照.Nikolai Krementsov, Stalinist Science (Princeton UP, 1997), 34-35.

3 1961年に準備されていたが公刊されず,著者の

死後 40 数年を経て 2009 年にようやく日の目を

見た回想録の中で,デボーリンは,「私は招かれ

ざる客を迎えるのに常に備えながら,22 年間を

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過ごした」と書いている.Воспоминания академика А.М. Деборина // Вопросы философии. 2009. № 2. 113-133; 126. ここで招かれざる客と

いうのは政治警察を,「22年間」というのは,彼

が非難され権威を失墜させた1931年からスター

リンが死ぬ1953年までという意味であろう. 4 Vucinich, Empire of Knowledge, 171. 5 家族に知らされた彼の命日は1944年10月30日であり,1974年に刊行された科学アカデミー

の会員名簿でもこれが踏襲されていた.レーニン

全集第5版の人物索引には正確な没年(1938年)

が記されている.1972年刊行の『大ソヴィエト

百科事典』では命日はなぜか1937年9月7日と

なっている. 6 Б. В. Левшин (отв. ред.). Н. П. Горбунов – воспоминания. статьи. документы. (М.: Наука, 1986)

7 А. А. Пархоменко. Академик Н. П. Горбунов: Взлет и трагедия // Репрессированная наука (СПб, 1991). 408-423.

8 К. О. Россиянов. Н. П. Горбунов и организация советской науки. ВИЕТ. 2004. № 2. 89-102.

9 Alexei Kojevnikov, “Socialist, or Big, Science,” in Stalin`s Great Science (Imperial College Press, 2004), 24-25.

10 以下の記述は主として,ポドヴィーギナ(Е. П. Подвигина)の手による評伝に依拠している.Н. П. Горбунов – воспоминания. статьи. документы. 5-41.

11 ヴォルギンの常任書記辞職願の受け入れとゴ

ルブーノフを後任につけることに関しては,スタ

ーリンの承認のもと,1935年8月8日付の中央

委員会政治局決定「科学アカデミー常任書記につ

いて」において,決定された.Под ред. В.Д. Есакова. Академия наук в решениях политбюро ЦК РКП(б) – ВКП (б) 1922-1952 (М.: РОССПЭН, 2000). 186-187.

12 РГАСПИ. Ф. 82. Оп. 2. Д. 929. Л. 80. 13 РГАСПИ. Ф. 82. Оп. 2. Д. 929. Л. 82. 14 Россиянов. Н. П. Горбунов и организация советской науки. 100.

15 Nikolai Krementsov, International Science between the World Wars (Routledge, 2005), 58-65. 16 Под ред. В.Д. Есакова. Академия наук в решениях политбюро. 265. なお同書の539頁に

はゴルブーノフの「逮捕後に〔…〕常任書記の職

は廃止された」とあるが,これは「解任と同時に」

の誤りであろう.

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Ⅵ. 戦時期におけるルィセンコと農業科学の実情

をめぐる考察 ―ルィセンコがソ連権力に送っ

た書簡内容から―

齋藤宏文

本論集の第1巻にて筆者は,戦時期にソ連邦

の育種家テー・デー・ルィセンコの発案により

実際に行なわれた農法の幾つかを紹介した 1.

本稿ではこれらの農法に実際の現場で携わった

農業科学の関係者が示した反応,および,それ

に対してルィセンコがとった対応を確認するこ

とを通して,戦時中のルィセンコと農業科学を

めぐる実情を明らかにしたい.わけても,ソ連

邦人民委員会議農業人民委員部 (Народный Комиссариат Земледелия СССР: ルィセンコが総

裁職にあった農業科学アカデミーの上位機関にあ

たる)の一部要人が示した農業科学アカデミー

への反発について詳しく言及する.本稿は,筆

者が平成 23 年 3 月と同年 9 月に,モスクワ市

所在のロシア連邦科学アカデミー文書館が所蔵

するルィセンコの個人フォンド(Ф.1521)を調

査した際に,そこに収められたルィセンコの発

案による農法の実施報告書や,戦争末期にかけ

てルィセンコが当時のソ連権力の要人宛てに送

った書簡内容から得られた知見に基づいて書か

れたものである. 本題に入る前にここで,戦争前後のソ連遺伝

学界をめぐる動向について,遺伝学者とルィセ

ンコが率いる農業科学の陣営との間の対立を軸

に確認しておこう.ルィセンコがソ連の生物学

界の中心に登場したのは,自身の植物生理学分

野の業績である発育段階説を提唱した 1935 年

のことであるが,そこからルィセンコは遺伝学

分野にまで手を広げ “遺伝的変異の定向性”や

“遺伝子の役割の否定”といった独自の遺伝学

説を提唱し,エヌ・イー・ヴァヴィーロフらの

ソ連のメンデル遺伝学派に対して論争を挑むよ

うになる.1937年以降になると,自らが編集す

る『春化処理(Яровизация)』誌を中心にメンデル

遺伝学派に対する教条主義的な批判が目立つよ

うになり,論争は激化した.この論争に一応の

区切りをつけたのが,1939年10月に雑誌『マ

ルクス主義の旗の下に』が主催した「遺伝学と

育種選択をめぐる討論会」であったとされてい

る.討論会ではヴァヴィーロフらの遺伝学者と

ルィセンコの農業科学の陣営それぞれに対し公

平な発言機会が与えられ,己の業績こそが進歩

的なソ連科学の創造へと結びつくものであると

の互いに譲らぬ主張を繰り広げたが,討論会主

査のエム・ベー・ミーチンは,実践面の重視姿

勢からルィセンコの農業科学を優勢とする判断

を下した 2.この討論会の帰趨をめぐっては英

米や日本でもよく知られる事実となり,戦後各

国でソ連遺伝学界の動向が論じられる際の一つ

の題材となった 3.戦後をむかえるとすぐに,

ルィセンコには一転して難局がふりかかること

となる.その背景として主なものを挙げるなら

ば,ルィセンコの実弟がナチスドイツ占領下の

ハリコフ市でナチス側に加担したこと 4や,戦

時中にソ連の遺伝学者アー・エル・ジェブラッ

クとアメリカの遺伝学者L. C. ダン,Th. ドブ

ジャンスキーとの間で進められたソ連の遺伝学

者の支援計画と,それと並行して進められたル

ィセンコに対する批判キャンペーンがあったこ

と 5,また,ソ連国内でも,それぞれ党のイデ

オロギー部門と科学部門の 高職にあった父ア

ンドレイと息子ユーリーのジダーノフ親子がル

ィセンコに対する精力的な批判活動を展開した

こと 6等があったろう.すなわち,戦時期がソ

連の遺伝学界にもたらした影響と結果をめぐっ

ては,戦争は遺伝学論争を否応無しに中断し,

1939 年に一旦は確立されたルィセンコの遺伝

学者に対する権勢を和らげ,かつ,遺伝学者側

には反撃のための準備期間を供したと理解され

るのが一般的であった. 一方,1930年代の遺伝学論争の帰趨とは無関

係に,理論面より実践面の提案が業績評価に直

結した戦時期は,ルィセンコにとって有利に作

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用した可能性もあったはずである 7.上述した

戦前と戦争直後のソ連遺伝学界の接続を理解す

る上で,戦時期は研究対象として一定の意義を

有しており,そのためには戦時中にルィセンコ

と農業科学が置かれていた実情を検討すること

が当面の課題となると思われる.以下,文書館

史料の内容を眺めながらこの問題について考察

していきたい. ルィセンコが戦時中に提案した農法のうち,

広範な範囲で実施され特によく知られたものは,

ジャガイモの種芋の上部切片から出た若い芽を

用いての作付面積の拡大(以下,「種芋の上部切

片の切り分け」等のように略記する),および,

春播き種の刈入れ直後における未耕地への秋播

き性作物の播種(以下,「刈入れ直後の畑への播

種」と略記する)の二つであると思われる.各

種雑誌上では,これらの手法の具体的な実施手

順やそれにより得られた収量などが詳しく紹介

された 8.これらの記事内容には喧伝の要素が

過大に認められるゆえ,実際に農法に確実な有

効性があったとみることはできないものの,概

してルィセンコの提案自体は戦時中にシベリア

各地で広く実施されていたような印象を得られ

る.本稿ではまず「種芋の上部切片の切り分け」

に対してなされた評価についていくらか述べた

後で,「刈入れ直後の畑への播種」の提案をめぐ

る実情の方を多少詳しくみていくこととする. 「種芋の上部切片の切り分け」の利点は,ル

ィセンコの主張によれば,第一に種芋の節約に

繋がること,および,切除後に残された可食部

を食用に役立てられることにあった.さらに北

カフカスやクィブィシェフ州等の南部地方に切

り分けた種芋を輸送することで,作付面積を拡

大し,シベリアの気象条件下での農業リスクの

軽減へと繋がったとされる.この手法の実施に

際してソ連各所の気候条件に適した種芋の保存

と生育に対して発育段階説に基づく春化処理法

の知見を活用できることが喧伝されていた.種

芋の切り分けによる実際の増収効果に言及して

いる文書館史料を次に紹介しよう. 1943年1月にスターリンやモロトフらのクレ

ムリンの権力に宛てた手紙 9 でルィセンコは,

種芋の上部切片4〜5ツェントネル(1ツェント

ネルは 100kg)分が,通常の植付け用の種芋の

15〜20ツェントネル分に代用でき,それにより

通常の種芋よりも多く収量が得られることを主

張した.そうであるにもかかわらず,農業人民

委員部が農業科学の成果を十分活用していない

ことを指摘し,自身の主管する農業生物学が戦

時下の厳しい食糧事情に極めて効果的に用いら

れるために成熟しきった学問であることを請け

負っている.ルィセンコがソ連権力に種芋の切

り分けの手法の有効性と健全さを訴えていたこ

とは,この手法の増収効果に対して現場での嫌

疑や反発が強かったことの裏返しであったと考

えられなくもない.例えば,ウズベキスタン農

業人民委員部からモスクワ農業科学アカデミー

にタシュケントから届けられた 1941 年 11 月付

けの報告書 10をみると,種芋の上部切片による

作付けから得られる収量は,切り分けしていな

い通常の種芋による作付けと比較して,一般的

に低いことが述べられている. 従来,ソ連権力からの絶大な支持を背景に拡

大普及したといわれてきた本手法であったが,

戦中における農業分野の権力者の評価には慎重

な面があったことが確認できる.1942 年 12 月

に農業人民委員イー・アー・ベネディクトフ 11

は,戦時農業の実情をめぐって農業科学アカデ

ミーにおける会議で次のように発言していた.

「ジャガイモの播種面積の拡大と収量増大,お

よび余剰種子の生産に際し,目下農業機関とソ

ホーズ,コルホーズにとって肝要な点は,丸々

一個の完全な種芋による作付けを行うことであ

り,いかなる場合でも性急に調達された種芋の

上部切片のみで代用してはいけない」12.この

会議の席上でベネディクトフは,ルィセンコの

種芋の切り分けの提案には国家的意義が認めら

れるとしながらも,十分な量の種芋が得られる

可能性が少ない地域では種芋による作付けに替

わり,他の検査済みの手法を考慮することの必

要性を強く主張した.ベネディクトフのこの発

言をめぐっては,食糧問題が先鋭化した戦時期

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に,ソ連権力がルィセンコの提案する方法が無

批判的に採用されることに対して注意を喚起し

た一幕であったとみることもできるだろう. 次に,「刈入れ直後の畑への播種」をめぐる実

情をみていこう.この手法の利点は,ルィセン

コの説明によると,秋播き種の切株の根が地中

に残されることが畑の氷結防止に効果をもたら

すとされ,同時に耕作の行程を省くことで人手

とトラクターを他の作業に分配できることから,

戦時期における労力の節減と効率化に貢献した

とされる.この手法の実際の有効性をめぐって

は,ルィセンコが農業科学アカデミー総裁を失

脚した 1956 年に早くも,党が発行する『党生

活(Партийная жизнь)』誌が相当否定的な見解を

打ち出している.これによると,この手法が無

益なことは明白であったにもかかわらず,シベ

リアの研究所の職員たちはルィセンコの機嫌取

りのため,この手法に増収効果があるという証

明し得ない事実の証明に腐心したという 13. 当時の実施現場でもこの手法に対する強い反

発があったことを,1944年にルィセンコが書い

た手紙 14を通して確認できる.この中でルィセ

ンコは,「刈入れ直後の畑への播種」をめぐる政

府決定に記載された条項や約束が,1943年,

1944 年と農業分野の要職に携わる人物による

度重なる不履行に遭ったことから,提案により

本来得られるべき収量が期待できないため

1945年の秋にはライ麦の「刈入れ直後の耕地へ

の播種」を実施するようにソ連邦農業人民委員

部に対して助言しないと述べている.ルィセン

コは,自分の手法が正しく評価されず歪曲され

ていることを説明するために,オムスクで開か

れた大規模な研究員会議の速記録などの資料か

ら,議長を務めた農業人民委員部次官ピェンジ

ン (Пензин:名・父称とも不明)と,サヴィエリィ

エフ (Савельев:役職,および 名・父称とも不明)の提出した資料を引き合いに出して,その内容

を強く批判している.この 2 名は,“客観的 (Объективный)”で“事実に際した (Фактический)”データにより,本手法をこれ以上採用し続けて

も不得策だという結論を示すのであるが,これ

に対してルィセンコは逆の見解を示し,様々な

妨害による込み入った事情にもかかわらず,こ

れまでこの手法が概して利益をもたらしてきた

と主張している.当該の資料には,1944年(の

恐らく初頭から春先にかけて)にオムスク地方

の実験農場で,休耕地,新耕地,刈入れ直後の

耕地の各々から得られた秋播き性ライ麦の収量

を比較したデータが示されており,結果は順に

6.8, 6.3, 4,9(単位はいずれもツェントネル毎ヘ

クタール)となっている.ここから分かるよう

に, 刈入れ直後の耕地から得られた収量が三者

の中で一番低いことが示されており,そのそれ

とは別に,1944年(の同じく初頭から春先のこ

とだと思われる)にオムスク地方の国営穀物農

場で行われた対照実験の結果もやはり,休耕地

への播種が11.1ツェントネルに対し,刈入れ後

の耕地への播種が 5.1 ツェントネルと,後者の

収量が2倍以上も低いことを示していた.戦中,

ルィセンコの周囲には,ルィセンコの提案に追

従する研究員のみだけでなく,ピェンジンのよ

うな農業人民委員部の要人を核として,ルィセ

ンコの提案を採用しても増収の目処が立たない

ことを認識してシベリアでの適用を廃止するよ

う強く訴えた一定の勢力があったことが確認で

きる. 「刈入れ直後の畑への播種」に反対する動き

があることを訴えるべく,ルィセンコは 1944年 5 月 24 日付けで,当時ソ連人民委員会議第

一副議長であったヴェー・エム・モロトフと農

業人民委員のアー・アー・アンドリェーエフの

両名宛に手紙15を書き送っている.手紙冒頭で,

研究員間に存在する決して容認できない理論面

の不一致が全ての元凶であると,予め問題の所

在を断っておいて,農業人民委員部は農業生物

学における複数の学派の存在を是認しているよ

うだ,と批判を加える.ソ連に存在する農業科

学は単一であり分派の存在は許されないとしな

がらも,過去に自身が己の主義主張と異なる農

業科学の学派集団に対する不寛容さや非妥協的

な姿勢をめぐって批判されたことは,自分が特

別な学派を有していたことを意味するのではな

30

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いと弁解する.さらに続けて,農業人民委員部

の指導的立場にある顔ぶれはこの学派間の分裂

を解決するよりもむしろそれを助長しているの

だ,と提案実行への周囲からの協力を得られな

い孤立した状況を農業人民委員部の責任に転嫁

して訴える.ここでルィセンコは,農業科学ア

カデミー総裁である自分への相談なしに,農業

人民委員部の数名の人物からなる調査委員会に

よって農業科学の学派ごとの業績調査が勝手に

行われ,「農業科学における諸学派の業績調査の

概要」と題する報告書が作られたことへの不快

感をあらわにしている.報告書には「農業科学

アカデミーと諸学派との関係,また農業科学ア

カデミーの指導者,すなわちルィセンコと諸学

派との相互関係」の件ついて言及した節が設け

られていたが,これは,ルィセンコの牙城とな

っていた農業科学アカデミーへの不信感から,

農業科学アカデミーに対抗して農業科学の様々

な学派の活動を宣伝しようとする動きが農業人

民委員部の内部に起こっていたことの一端を表

したものといえる.この件に触れてルィセンコ

は苛立ちを隠そうとせずに手紙の中で次のよう

に訴えている.「自分はただ一度としてある学派

を支持したことがないし,今後もそうしない.

自分は,チミリャーゼフ,ミチューリン,ヴィ

リヤムスの学説の発展のために闘争する.これ

らの学説はソ連の方向性に適った唯一無二の学

説であり学派ではない.同時にそれは,党と政

府,およびソ連社会から承認された学説である」.

学説に対する党の公認を強調するこの論法は,

後の 1948 年 8 月総会 終日の結語演説を彷彿

とさせる.戦時中に農業人民委員部内部のいわ

ば身内から沸いてきた批判に窮したルィセンコ

は,研究者集団における農法の実際の増収効果

をめぐる見解の不一致の問題を,異なる学派間

の対立の問題へと置き換えて政治権力に反対者

への対応を迫るという,戦後の8月総会に至る

までの過程で遺伝学者の攻勢に対して採ったの

と同様の手段に訴えたのであった.蓋し,農業

科学の内部では戦時中から既にルィセンコに反

対姿勢を示す様々な学派や勢力が活動しており,

ルィセンコが政治権力に支援を頼らざるを得な

い環境にまで仕立てられていたというのが実情

であった. 1944 年 12 月 11 日にルィセンコがモロトフ

宛てに送った手紙 16には,戦時期にルィセンコ

が置かれていた苦境の様子が も如実に表され

ている.手紙の冒頭でルィセンコは,農業科学

アカデミーの総裁職を解任してくれるようモロ

トフに懇願する.その理由は,農業科学におけ

る学派の分裂とそれが招く非科学的な傾向の増

大に歯止めをかけて,農業科学を一枚岩にまと

めあげるための力量が自分に欠けているからで

あると訴える.ルィセンコは,総裁に負わされ

た主要な職責を遂行できていないことを自己批

判的に認めると共に,総裁着任以前には自己の

能力と手腕を十全に発揮してソ連の農業科学と

実践的問題の解決に多大な貢献をしてきたこと

を主張しており,それゆえに自分を総裁職から

解任することがソ連科学の利益にも適うことで

あると強く訴える.手紙のこの箇所には,戦時

期にルィセンコが,総裁としての重責と一研究

員としての自主的な研究活動との間の葛藤に悩

まされていた様子が現れている.農業科学アカ

デミー総裁職の解任を要求する同様の書面内容

を,ルィセンコは同日付けで農業人民委員のア

ンドリェーエフにも送付していた 17. この農業科学アカデミー総裁職の解任要求が

権力側でどのように処理されたのかは現時点で

筆者には分かっておらず,それは今後の研究課

題としたい.その後にルィセンコがソ連権力に

送った書簡のうちで確認できた も早い日付の

ものは,1946年12月3日付けのアンドリェー

エフ宛のものである 18.この中でルィセンコは,

科学アカデミー生物学部会での選挙で遺伝学分

野の通信会員にドゥビーニンが選出されたこと

に対する強い異議申し立てをしている.ドゥビ

ーニンはソ連を代表する遺伝学者として海外で

の名声も高く,1939年10月の雑誌『マルクス

主義の旗の下で』主催討論会ではルィセンコに

反対する立場で発言したことから 19,ルィセン

コにとっては戦前から敵意を抱く対象であった.

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手紙の中でルィセンコは,遺伝学における反ミ

チューリン傾向の指導者であるドゥビーニンが

科学アカデミーの通信会員に選出されたことは,

ソ連生物学界のみならず外国でも,進歩的なミ

チューリン生物学に対する悪辣なキャンペーン

を鼓舞するソ連全体の意向であると受け取れか

ねないことに懸念を示している.加えてドゥビ

ーニンの選出が緊急に見直されない限りは,自

分が科学アカデミー遺伝学研究所長の役職に就

いている意味を失うと訴えている.戦後,ルィ

センコは遺伝学者側から加えられた強力な批判

に窮して,8 月総会に至る直前までスターリン

をはじめとする権力側に自分への支援を起こす

よう書面で訴えたのであり,その意味でこの手

紙はその嚆矢となったともいえるが,これまで

みてきたように,ルィセンコは戦時中に既に,

反対者への対応を科学者集団の外部の権力者に

迫る手段に訴えていたのであった. ルィセンコについて戦時期と関連して言及が

なされる際には,ルィセンコがこの時期になし

た様々な実践提案が広く受入れられたことによ

り,遺伝学者に対する優位性を主張するのに役

立てられたことがよくいわれる.しかし,農法

の実施現場にはルィセンコの提案に対する根強

い反発があったこと,また農業人民委員部の要

人との間には軋轢が生じていたことが実情であ

って,あまつさえルィセンコはソ連権力に対し

て,農業科学内部の不協和音を収拾できず己の

職責を果たせないことから農業科学アカデミー

総裁職の解任を要求していたのであった.これ

ら文書館史料から得られた知見から現段階でい

えることは,戦時期には遺伝学者との対立が解

消されていたのにもかかわらず,農業人民委員

部や農業科学の内部でルィセンコは身内からの

強力な批判にさらされていたのであり,戦後を

待たずに既に相当悪い立場に置かれていたとい

うことである.また,ドゥビーニンの科学アカ

デミー通信会員の選出取り消しを求める手紙を

含め,戦後ルィセンコが遺伝学者側からの批判

に対処するのにソ連権力に書面で支援を訴えた

のは,戦時期の経験を踏襲してのことであった

とも考えられるが,これについてはさらに検討

を重ねる必要がある.本稿のはじめの方で述べ

たとおり,戦時期をめぐる研究が,ソ連遺伝学

界の戦前と戦後における状況の接続を理解する

ための新たな視点を供することを展望にさらな

る史料調査を続けたい. 後に戦時期のルィセンコの業績と戦後の日

本学界におけるルィセンコの紹介との相関につ

いて,蛇足ではあるが少しだけ述べておきたい.

戦後日本でルィセンコをめぐって言及なされた

のは,生物学史家の八杉龍一がルィセンコの戦

時中の功績を以下に引用するように好意的に評

価したのが 初のものであった.「戦時中の食糧

問題に対してもルィセンコの貢献は大きかった.

然し彼の理論に関する文献が断片的にしか入手

せられて居ないのでここに立ち入った論評をす

ることが出来ない…」20.八杉の発言は,ソ連

科学にみられる理論と実践の密接な結合を高く

評価した一環でなされたものであるが,その一

方でこの発言にもよく表されているように,戦

後の学術復興期の日本では,学術情報の摂取が

十全ではなくルィセンコの理論内容が具体的に

知られる前に,ルィセンコの提案には特効薬的

な増収効果が期待できるように伝えられたこと

を指摘しておく必要があるだろう.

1 拙稿「ソ連遺伝学をめぐる二つの学派に戦時期が

及ぼした影響について(1) -戦時期におけるルィ

センコ側の活動と業績-」を参照されたい(『“科学の参謀本部”—ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカ

デミーの総合的研究—』論集Vol.1.(平成22年度

〜24 年度日本学術振興会科学研究費補助金[基盤研究(B)]【課題番号:22500858】)研究成果中

間報告,41〜44頁所収). 2 Митин. М, За передовую советскую генетическую науку, «Под знаменем марксизма», №10, 1939, сc.147-176

3 ルィセンコ,ヴァヴィーロフ,ポリャコフの三者

の発言内容がアメリカの『科学と社会』誌上で

詳しく伝えられた.”Genetics in the Soviet Union: Three Speeches From the 1939 Conference on Genetics and Selection” Science & Society, Vol. 4, No. 3, 1940, 183-233.一方日本では『月刊ロシヤ』

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(日蘇通信社)1940 年 10 月号,140~151 頁に

注2に示したミーチンのコメントが要約され翻

訳掲載された. 4 Сойфер, В., «Власть и Наука -Разгром коммунистами генетики в СССР-», М., 2002, с. 574

5 Krementsov, N.(1996)“A “Second Front” in Soviet Genetics: The International Dimension of the Lysenko Controversy, 1944-1947,”Journal of the History of Biology, Vol. 29: 229-250

6 Z・メドヴェジェフ,R・メドヴェジェフ(2003)「スターリンとルィセンコ」『知られざるスター

リン』現代思潮新社,228〜250頁所収 7 戦時期におけるルィセンコの実践面の業績を高

く見積もっている評価も少数ながら存在する.Кононков, П. Ф. и Овчинников, Н. В., «Вклад Т. Д. Лысенко в победу в Векикой Отечественной войне», М., 2010

8 戦時中,農業人民委員部の機関誌の『ソホーズ

生産誌 (Совхозное Производство)』にはルィセ

ンコと彼の支持者たちによって書かれたシベリ

アにおける増収提案をめぐる論文記事が多数掲

載された.「種芋の上部切片の切り分けによる作

付面積の拡大」については,Лысенко, Т. Д. “О заготовке верхушек картофеля,” «Совхозное Производство», №3/4, 1943, сс. 25-27,が,「刈入

れ直後の畑への播種」については,Лысенко, Т. Д. “В чем сущность нашего предложения о посеве в степи Сибири озимых по стерне,” «Совхозное Производство», №4, 1944, сс.16-25,がそれぞれ

取り上げている.その他,『マルクス主義の旗の

下に』誌にも戦時農法をめぐってルィセンコが

書いた論文を数点確認できる.一例として,Лысенко Т. Д. “Агробиологическую науку на службу колхозам и совхозам,” «Под знаменем марксизма», №5/6, 1942, сc.81-89

9 Архив РАН Ф.1521, Оп. 1, Д. 114/. л. 1 10 Архив РАН Ф.1521, Оп. 1, Д. 287/. л. 7 11 Архив РАН Ф.1521, Оп. 1, Д. 288/. лл. 48-49. ベネ

ディクトフは1948年農業科学アカデミー8月総

会時には農相の任にあり,総会後にはルィセン

コを絶対的に支持した. 12 Архив РАН Ф.1521, Оп. 1, Д. 288/. л. 46 13 “О принципиальности в научной работе,”

«Партийная жизнь», №9, 1956, с.30 14 Архив РАН Ф.1521, Оп. 1, Д. 114/. лл. 5-11. 宛先,

正確な日付とも文面に未記載であるが,自分に

対する反対者の存在を告発する内容であり,後

述する 1944 年 5 月 24 日付けのモロトフとアン

ドリェーエフ両名宛の書簡内容とも類似してい

ることから,権力側へ送るよう意図した手紙で

あったことが推定できる. 15 Архив РАН Ф.1521, Оп. 1, Д. 114/. лл. 12-16

16 Архив РАН Ф.1521, Оп. 1, Д. 114/. л. 18 17 Архив РАН Ф.1521, Оп. 1, Д. 114/. л. 17 18 Архив РАН Ф.1521, Оп. 1, Д. 114/. л. 39

19 この会議でのドゥビーニンの発言は«Под знаменем марксизма», №11, 1939, сc.181-199を参

照.なお,有名な科学哲学者のM.ポランニー

は,戦後にソ連遺伝学の動向をめぐって言及し

た際に,ここでのドゥビーニンの発言中から言

葉を幾つか引き合いに出して,科学者が学術討

論において教条的な語法を用いなければならな

いことが,ソ連における科学の自治の侵害を証

明するものである,との評価を下していた.Polyani, M., “The autonomy of science,”Scientific monthly, Vol. 60, 1945, 141-50

20 八杉龍一(1946)「生物学を通じてみたソ連邦の

学界」『自然科学』3号,50頁

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Ⅶ. ソヴィエト科学の“脱スターリン化”と科学アカ

デミー ―1953-1956 年のソ連邦科学アカデ

ミー幹部会議事録・速記録から―

市川 浩

はじめに

独裁者ヨシフ・スターリンはソ連邦 初期の

核開発計画の掉尾を飾る水素(熱核)爆弾実験

成功も 1947 年にはじまる大規模なイデオロギ

ー・キャンペーンであった“学問分野別討論”

の 終的帰趨も眼にすることなく,1953 年 3月 5 日,“学問分野別討論”の一環をなす言語

学論争への介入の際にしめした「批判の自由,

真理の独占反対」支持と他方における農業科学,

生物学分野における“真理の独占者”ルィセン

コへの支持という,相反する行動の“謎”を科

学史の世界に残して突然死去した(1). 言うまでもなく,ソ連邦社会全体の“脱スタ

ーリン化”がすすむのは,1956 年 2 月に開催

されたソ連邦共産党第 20 回大会におけるニキ

ータ・フルシチョフのいわゆる「スターリン批

判」以降のことである. しかしながら,スターリンの死,続くラブレ

ンチー・ベリヤの逮捕はその直後から当時のソ

連邦市民,とくに知識人に独特の解放感をもた

らした.旧ソ連邦における代表的な文芸誌『新

世界』1953年12月号に作家ヴラジーミル・ポ

メ ラ ン ツ ェ フ ( Владимир Михайлович Померанцев : 1907-1971)の論文「文学における

誠実さについて」(2)が掲載され,文学的描写に

おける過剰な類型化を批判し,よりリアルな創

造が呼びかけられた.1954 年には党の理論誌

『コムニスト』にも,公式主義を排し,人文・

社会科学者に「創造的議論」を呼びかけた無署

名論文「科学と実践」が掲載され(3),旧ソ連の

知識層の間に“雪解け”の機運が広がっていく. ジョレス・メドヴェージェフ(Жорес Александ

-рович Медведев: 1925- )の衝撃的な著作『ルィ

センコ学説の興亡』(1969年) (4)以来,すっかり

定着してしまったかのように思えたソヴィエト

科学観,すなわち,ソヴィエト科学を全体主義

国家のもとにおける党・国家統制の犠牲者とし

て描く見方は,ソ連邦解体後の資料公開のなか

で再検討され,それに替わる解釈がさまざまに

提起されてきた.しかし,その多くが,権力の

側からの科学への介入が激しくなった一方で,

科学の側も多数のノーベル賞受賞に結果するよ

うな成果を旺盛に挙げていたがゆえに,科学と

権力との関係というテーマにとってもっとも関

心を惹く,まさにクライマックスとも言うべき

時期にあたるスターリン後期(1945~1953 年)を対象としており,意外に“脱スターリン化”

過程を扱ったものは少ない(5). そのなかで,スラヴァ・ゲローヴィッチ(Slava

Gerovitch)は例外となっている.彼はイデオロ

ギー活動に特有のジャーゴンに彩られた党イデ

オローグが使用する言語(パロール)を

Newspeak と定義し,ノーバート・ウィーナー

(Norbert Wiener: 1894-1964)によって“ひとと機

械の共通言語”として提唱されたサイバネティ

クスの論理言語をCyberspeakと呼び,スター

リン死後の“雪解け”の時期,Cyberspeak は

公然とNewspeakに挑戦し,科学における非ス

ターリン化の牽引車となったとしている.サイ

バネティクスは,1949年中には旧ソ連邦に伝わ

り,哲学者からの猛烈な攻撃を受けながらも,

数学者セルゲイ・ソボレフ(Сергей Львович Соболев : 1908-1989),アレクセイ・リャプーノ

フ(Алексей Андреевич Ляпунов : 1911-1973)らの

勇気ある擁護によって科学者の間で支持を広げ

てゆく.ソボレフらは,マルクス,レーニンか

らの引用がふんだんにちりばめられたかたちで

の,Newspeakによるサイバネティクスの包摂

を拒否することで,哲学者の科学にたいする“番

犬”としての役割を否定し,サイバネティクス

による科学全般の再編を企図するなかで,生物

学にまで影響を広め,悪名高いルイセンコによ

る生物学における“真理の独占”にも挑戦した.

1955年前後には彼らの挑戦は報いられ,ソ連邦

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共産党はその 1961 年党綱領,いわゆる「第 3綱領」でサイバネティクスを高く位置づけ,や

がてブレジネフ時代になるとそれを“社会の科

学的管理”手法と規定するまでになった (6). しかし,科学史研究の多くが踏襲している方

法として,ゲローヴィッチの著作においても,

特定の分野,この場合は数学・数理科学の分野,

特定の科学者,この場合は数学者リャプーノフ

や無線工学分野で活躍した軍人技術者アクセ

リ・ベルグ(Аксель Иванович Берг : 1893-1979)など一連の科学者の行動に沿った記述が貫かれ

ている.ソ連邦におけるサイバネティクス受容

は数学・数理科学の分野が震源地であることに

は間違いはないし,ゲローヴィッチの著作では

他分野の科学者を巻き込んでいった点も正当に

目配りされているとはいえ,さまざまな分野で

活動する科学者を,利害の多様性・分岐を前提

としつつも,ひとつの社会層・社会集団として

全体的にとらえる点でいささか不充分さを感じ

ないわけにはゆかない. ニコライ・クレメンツォフ(Nikolai Krementsov)

は,第2次世界大戦の結果として,一方では科

学者をはじめとする専門家の権威が上昇し,他

方では戦時入党キャンペーンの結果,ソ連共産

党員が大幅に“大衆化”したというソ連社会の

ドラスティックな変質のなかで,権力者が科学

者をより尊重するようになった,としている(7).

核開発は言うまでもなく権力の物理学にたいす

る態度を変え,そのリーダーであったイーゴ

リ・クルチャートフ(Игорь Васильевич Курчатов : 1903-1960)に“原子力のツアーリ”とも呼ばれ

る高い権威と政治的発言力を与えた.ロケット

開発におけるセルゲイ・コロリョフ(Сергей Павлович Королёв : 1907-1966)もまた然りである.

権力に果実を与える具体的,物的成果というこ

とでは,さらにコンピュータ開発が想定される

が,数学者ミハイル・ラヴレンチェフ(Михаил Алексеевич Лаврентьев : 1900-1980)はフルシチョ

フとの“ウクライナ・コネクション”を活かし

ながら,アナログ計算機に固執した勢力を向こ

うに回して局面打開を主導した(8).

こうした科学者たちは,ひとつの集権的な自

治組織に自己を組織し,それを通じて行動して

いた.この組織こそ,ソ連邦科学アカデミーで

あり,他の国には見られない,独自の権威・権

力をもってソ連邦社会で科学研究に携わる科学

者のうえに君臨していた(9).ソ連邦の科学者の

全体としての動向を探るためには,まず科学ア

カデミーにおける議論とその方向性を吟味する

必要があろう.本稿では,この科学アカデミー

の 高議決機関である総会の常設機関として活

動の基本的な方向性を決めていた幹部会

(Президиум)の議事録・速記録から,当時第一

級の科学者として相当の権威をもち,科学研究

全般に大きな影響をもつ決定に携わった,科学

者のなかの権威・権力者とも言える幹部会員が,

“脱スターリン化”期の 初期,すなわち,ス

ターリンの死の直後から,概ね 1956 年の末ま

での時期(スターリン批判で知られるソ連邦共産

党第 20 回党大会は 1956 年 2 月に開催されたが,

ソ連邦市民にニキータ・フルシチョフの報告全文

が示されるのは 1959 年のことである.ただし,

大会出席者などの口を通じてしだいに情報は広ま

っていったようであるので,ここでは,とりあえ

ず,1956年末までを検討の対象としている)に集

団としてどのように行動したかを明らかにする

ことによって,数学・数理科学分野を中心に“脱

スターリン化”過程を追究したゲローヴィッチ

の研究を多面化・豊富化してゆきたい. ソ連邦科学アカデミー幹部会はほぼ毎週1回

開催されていたが,その業務の中心は,傘下各

研究所・研究機関から承認をもとめられた人事,

上級研究員の資格審査,学位の授与などの追認

といったルーチン・ワークにあり,科学史,あ

るいは政治史上重要なできごとに関する討議・

方針策定に携わることは,実はそれほど多くな

い.また,幹部会には幹部会員だけでなく,各

議題に関連した科学アカデミー会員,同通信会

員,および傘下研究機関の研究員などが陪席し

ており,場合によっては会議参加者数が100名

を超えることもあった. 筆者は2010年9月,11月,2011年3月,9

35

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月と4回にわたり,モスクワに立地するロシア

科学アカデミー文書館で幹部会の議事録・速記

録の調査に従事し,この時期,“脱スターリン化”

に関連した事項で幹部会において繰返し討議さ

れているテーマが,①哲学者を“封じ込め”る

動き,②生物学・遺伝学の“正常化”にむけた

動き,③科学アカデミーの機構改革についての

議論,の3つに整理できることに気が付いた(10). 以下,この順番に幹部会における議論の展開

を見てみよう. 文書館文書は,一般に,「フォンド(Фонд : Ф.:

ストック)」,「オーピシ(Опись: Оп.:目録)」,「デ

ェーロ(Дело: Д.:ファイル)」という3層の区

分に従って整理されている.本稿ではロシア科

学アカデミー文書館(Архив Российской Академии наук : 以下,Архив РАНと略す)所蔵

の資料を活用しているが,引用した文書館資料

がこの文書館のどのフォンド,どのオーピシ,

どのデェーロに整理されているかをそれぞれの

引用注に示しておく.その際,л. ないし,лл.はシート番号を示す.なお,文書館資料につい

ては,報告作成者名,執筆者名をイタリックで

示すことはしていない. 旧ソ連邦の科学者については,その初出箇所

で名前の原綴り,生没年をしめしておいた.必

要のある場合は若干の伝記的事項を加えている

が,その情報源となったのは,おもに,「ロシア

の科学者・百科事典(Энциклопедия: Учёные России :http://www.famous-scientists.ru/)」,「アカ

デミー会員辞典・百科事典(Словари и энциклопедии на Академике : http://dic. academic.ru/)」などのサイトである.

Ⅰ.哲学者の“封じ込め”

(1)“学問分野別討論”と哲学者たち 1947年にはじまる“哲学討論”を皮切りとし

て 1950 年代はじめまで,かなり大がかりな規

模でおこなわれた“学問分野別討論”は,発動

者の側にあっては冷戦激化に際して必要なイデ

オロギー的引き締め以上の政策意図はなかった

にもかかわらず,それまでの,とくに戦時期に

おける科学研究体制の歪みを背景とした科学者

たちの不満を“イデオロギー的言説”をまとっ

た,ねじれたかたちで爆発させることとなり,

いくつかの分野で深刻な影響を与えることとな

った.とりわけ,独裁者スターリンが直接介入

した言語学と生物学・遺伝学の両分野において

事態は発動者の思惑を遙かに超えた地点まで進

展してゆくことになった(11). この“学問分野別討論”のもうひとつの帰結

が,ゲローヴィッチの言う Newspeak の担い

手としての哲学者・党イデオローグの権威と役

割の著しい増大であった.この過程で彼らはさ

まざまな学問分野におけるイデオロギー的“番

犬”として畏怖されるようになった.冷戦期プ

ロパガンダ言説の“永久機関”的自己拡張(12)

のひとつの帰結として,彼らの注意は西側諸国

における現代諸思潮の“反動的・ブルジョワ的

本質”に向けられ,諸思潮の解説とその批判が

仕事の大きな部分を占めるようになっていった.

1951年,哲学者・党イデオローグの拠点であっ

た科学アカデミー・哲学研究所ではこの課題に

関する包括的な著作を出版した.『哲学者ぶった

米英帝国主義追従者に抗して―現代米英ブルジ

ョワ哲学・社会学批判要綱―』と題されたこの

共同労作では,現象主義,プラグマティズムな

ど,一連の西側思潮が取り上げられていた(13).

さらに,哲学研究所(の現代ブルジョワ哲学・

社会学批判セクション)は 1953 年,新カント

派哲学を先頭としてサイバネティクスにいたる

まで,批判と超克の対象となる 17 の現代ブル

ジョワ思潮を列挙した(14).スターリンの死は,

冷戦の激化を背景として,哲学者が科学研究と

科学者に対して西側の諸思潮の影響が現われな

いよう,思想監視活動を著しく強化していたそ

の 中のできごとであった. (2)科学アカデミーの“哲学離れ”とユーリー・ジダーノ

フ失脚

しかし,スターリンの死去からわずか8日後

の時点から,早くも科学アカデミーの“哲学離

36

Page 43: “科学の参謀本部” - Hiroshima Universityエム・ヴェー・ロモノーソフ (М.В. Ломоносов) の祖国の啓蒙に果たした功績を記念して,「ロモ

れ”をしめすできごとが起こる.この日開催さ

れた科学アカデミー幹部会は,1952年11月21日付で科学アカデミーの編集のもと出版が決め

られていた共同の著作『弁証法的唯物論と現代

自然科学』の編纂作業をあっさりと棚上げする

ことにしたのである.理由は,①まだ見解の一

致をみていない問題が多く,広範な事前検討が

必要であること,②編集に携わるものの多くが

本来の研究活動など で多忙であること,③とく

に科学アカデミー・化学部,生物科学部所属の

書き手が当該著作の執筆に着手できていないこ

と,とされ,この著作にかわって,新たに『マ

ルクス=レーニン主義自然科学論の古典』と題

する著作の編纂を哲学研究所に委ねることとさ

れた.もちろん,1953-54年にも物理・数学部,

化学部,生物科学部,地学・地理学部,工学部

で引続き自然科学の哲学に関連した論文・著作

の刊行に努めること,1954年には『弁証法的唯

物論と現代自然科学』の編纂に取りかかるよう

付言されてはいた(15)が,管見の限り,この著作

編纂の議題が 1956 年末までに再度提起される

ことはなかった. こうした変化の背景には,一連の“学問分野

別討論”を主導した党幹部のユーリー・ジダー

ノフ(16)(Юрий Андреевич Жданов : 1919-2006:戦

後一時党のイデオロギー活動を指導したアンドレ

イ・ジダーノフ―Андрей Александрович Жданов: 1896-1948―の息子.一時スターリンの娘婿であっ

た)がスターリンの死後まもなくして失脚する

という経過があったものと考えられる.スター

リンの死からほぼ1ヶ月後の1953年4月6日

付で,高名な画家イーゴリ・グラバーリ(Игорь Эммануилович Грабарь : 1875-1960),それに,す

でに高齢ではあったが,地学者・古生物学者,

作家として広範な人気を保っていたヴラジーミ

ル・オーブルチェフ(Владммир Афнасьевич Обручев : 1863-1956)と若いが,すでに高い名声

をえていたソボレフの2名が科学アカデミーと

モスクワ国立大学に勤務する科学者を“代表し

て”,計 3 名連名の書簡を党中央委員会書記ニ

キータ・フルシチョフ宛に送った.そのなかで,

彼らは党中央の自然科学・工学・高等教育機関

課長ユーリー・ジダーノフの自然科学にとって

たいへん有害な所業を精査するよう訴えた.こ

のためもあって,当時党中央で進められていた

機構改革のなかで,ユーリー・ジダーノフの課

は新しく科学・文化課に統合されることになり,

彼は課長のポストを失うことになった(17).

(3)哲学研究所批判

科学研究の自由化をもとめ,その前提として

哲学者たちのイデオロギー的管理を排そうとす

る科学者の思いはイデオロギー的“番犬”とも

呼べる哲学者たちへの憎悪にまで発展していた.

1955年,文化大臣をつとめていた哲学研究所前

所長ゲオルギー・アレクサンドロフ(Георгий Фёдорович Александров : 1908-1961)の文化大臣

解任(18)を契機に科学者の哲学者にたいする憎

悪が噴出することとなる.6 月 3 日開催された

科学アカデミー幹部会の席上,哲学研究所はそ

の仕事の遅れ,長年1編の論文も書かないよう

な怠慢な研究員の放置, 前所長アレクサンドロ

フの指導力欠如などのほか,その自然科学にた

いする有害な役割の故をもって,激しく批判さ

れることになる.決議は「哲学的科学としての

唯物弁証法の全面的研究,哲学者と自然科学実

験家との同盟強化の必要性,哲学者の活動と実

生活の差し迫った要求との不可分性の関係に関

するレーニンとスターリンの教えはこの研究所

の指導原理とはまだなっていない.…(中略)

… 哲学研究所のいく人かの働き手[原文は

работники…引用者]は現代自然科学の哲学的問

題に関して誤った立場をとっている.たとえば,

ソ連邦科学アカデミー通信会員のアレクサンド

ル・マクシーモフ(Александр Александрович Максимов: 1890-1976:かつての哲学研究所自然

科学哲学セクターの指導者.…引用者)は相対性

理論に対してニヒリスティックなアプローチを

とり,まるでそれが弁証法的唯物論に反するか

のようにして,その価値ある物理学的帰結を投

げ捨てた.…(中略)… 多くの研究員はソヴ

ィエト科学の個々の研究者の発言に“弁証法的

37

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唯物論”のレッテルを機械的に貼り付けること

だけをみずからの課題としている」(19)と述べて

いる.討論では,この時期,哲学者・党イデオ

ローグの主流から外されていたボニファチー・

ケドロフ(Бонифатий Михайлович Кедров : 1903-1985 :1949年,『哲学の諸問題』誌編集長を

解任され,あわせて哲学研究所からも解職されて

いた)が哲学研究所の活動を詳細に吟味し,批

判する発言をした(20).また,物理学者ヴラジー

ミル・フォック(Владимир Александрович Фок : 1898-1974)は「自然科学の諸問題を哲学の方面

から説明した論稿を刊行しようとすると妨害に

つきあたり,いつも党中央委員会の介入で[刊

行に…引用者]成功していた」と苦々しく哲学

者の阻害的な役割を告発(21)し, 後に心理学者

のセルゲイ・ルービンシュテイン(Сергей Леонидович Рубинштейн : 1889-1960:1949年,コ

スモポリタニズムの廉で,モスクワ国立大学の教

室主任,哲学研究所のセクター主任の地位を追わ

れていた)が激しく哲学研究所を批判して(22),

討論を締めくくっている. その後,6 月17 日にも,決議の文案を練り,

仕上げるために,もう一度この問題での討議が

おこなわれている.この討議では,若手幹部会

員ムスチスラフ・ケルドゥィッシュ(Мстислав Всеволодович Келдыш : 1911-1978:1960-1961,科

学アカデミー副総裁,1961-1975,総裁)が発言に

立ち,決議の文面が哲学研究所前所長アレクサ

ンドロフひとりに問題を負わせている表現にな

っていることを危ぶみ,修正を要求した(23). もちろん,哲学研究所は西側の“ブルジョワ

観念論”に対するイデオロギー闘争をやめるこ

とはなかった.1955年の12月になっても,彼

らは『帝国主義時代のブルジョワ哲学と社会学』

と題する参考書の編纂を企画している(24).しか

し,それ以前の8月には彼らが編集・刊行して

いた雑誌『哲学の諸問題』誌に歴史的な論文「サ

イバネティクスの基本的特徴」が掲載され,“ア

ンチ啓蒙家の科学”とされていたサイバネティ

クスの思想史的“解禁”が明らかにされたので

ある(25).

科学アカデミー総裁アレクサンドル・ネスメ

ヤーノフ(Александр Николаевич Несмеянов : 1899-1980 : 1951-1961, 科学アカデミー総裁)は,

1956年,「世界の科学のなかで第一位の地位を

めざして」と題する自身の論文のなかで,ある

偉大な物理学者の話しとして,「… まさに今開

花しようとしている花のそばを通るひとの動き

は,何百万分の1秒以下の単位でその開花の速

度を変える[と,その物理学者は真剣に信じて

いる.…引用者].『哲学の諸問題』誌の編集委

員会の誰ひとりとして,自分は,大人の周りで

跳躍したり,踊ったりすると病気の経過に影響

するなどというシャーマンの信念と何ら変わら

ない観念論的なたわごとを宣伝普及しているの

だ,と科学者のまえに明らかにすることに思い

が至っていない」との発言を伝えている(26).過

剰なイデオロギー的言説が跋扈跳梁した時代は

急速に終息に向かおうとしていた.

Ⅱ.生物学・遺伝学“正常化”にむけて

(1) セヴェルツォフ再評価と『ニコライ・ヴァヴィロフ

選集』 クレメンツォフによれば,ルィセンコ学説の

覇権確立のあとも,伝統的な遺伝学は,いくつ

かの研究拠点でほそぼそと研究が継続されてい

た(27).そのひとつ,細胞学・組織学・発生学研

究所(旧称,実験生物学研究所)の所長であった

(1949 年には解任されている)グリゴリー・フ

ルシチョフ(Григорий Константинович Хрущов : 1897-1962)は,有名な農業科学アカデミー8月

総会のあと,ルィセンコ派によるニコライ・ド

ゥビーニン(Николай Петрович Дубинин : 1907-1998:ソ連邦において正統な遺伝学を守ろう

とした)批判の声が高くなると,それに便乗し

て自らの研究所の一員であったドゥビーニンを

ある論評のなかで激しくこき下ろし,みずから

の保身を図った人物である(28)が,スターリンが

亡くなると,その死の直後から,トロフィム・

ルィセンコ(Трофим Денисович Лысенко : 1898-1976)を頭目とするルィセンコ派によって

38

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否定された科学者の復権をめざした行動を起こ

す.1953年3月27日の科学アカデミー幹部会

で,その数年前,その世界観に“観念論的形而

上学”が見られるとして批判されたアレクセ

イ・セヴェルツォフ(Алексей Николаевич Северцов : 1866-1936)を再評価するよう,きわ

めて慎重な言い回しで問題を提起したのである.

いわく,「共産党第19回大会がソヴィエト科学

に提起した偉大な課題は世界の科学のなかに第

一位の地位を占める,ということですが,この

課題はソヴィエト科学が歩んだ道の注意深い評

価,学問の各分野における直近の,そして将来

の課題の明確な定義を要求しています.…(中

略)… 動物形態学の分野におけるものの見方と

理論的一般化のこうした体系には,アカデミー

会員アー・エヌ・セヴェルツォフの諸著作のな

かで発展されられた方向性,“セヴェルツォフ進

化形態学”という呼称をもつにいたった方向性

が属しています.今日,アー・エヌ・セヴェル

ツォフの見方はきわめて広く普及し,宣伝され,

その著作にたいする関心はかなりの程度蘇生し

ました.…(中略)… 彼の理論がすべて公式主

義的なのは理論のなかに形式が存在し,内容と

関わりなく,勝手に変化しているからなのです」

(29). セヴェルツォフは,帝政時代に活躍した生物

学者,ロシアにおけるダーウィン学説紹介者の

ひとりで,進化形態学の創始者のひとりと目さ

れていた.1948年8月の段階では,「ワイスマ

ン・モルガン流の西欧観念論生物学の側からの

反動的非難からダーウィン主義を守り,発展さ

せた」「傑出した科学者」のひとりとされていた

(30)が,その後のルィセンコ派によるイヴァン・

シュマリガウゼン(Иван Иванович Шмальгаузен : 1884-1961:自他ともに認めるセヴェルツォフの後

継者で,1949年まで,その名も科学アカデミー・

アー・エヌ・セヴェルツォフ名称進化形態学研究

所所長であった)批判の都合で,その世界観に

“観念論的形而上学”が見られるとされていた.

3 月 27 日の幹部会の議場にいたルィセンコ派

のひとり(と思われる)ヴェー・ペー・ガガー

リン(В.П. Гагарин : 名・父称,伝記的事実不詳)

という人物のグリゴリー・フルシチョフにたい

する反論によると,すでに高等教育大臣のもと

で特別の学術会議が15名の生物学者と15名の

哲学者の参加で,500 人の聴衆を集めてモスク

ワ国立大学の講義室を会場に開催され,この問

題は決着していたはずであった(31).セヴェルツ

ォフの評価問題は,このため,ロシア科学史上

の大きな問題となり,科学アカデミー幹部会の

呼びかけで「アー・エヌ・セヴェルツォフ著『進

化形態学』の批判的評価と動物形態学の課題に

関する会議」の招集が図られていた.グリゴリ

ー・フルシチョフはその組織委員会の副委員長

としての資格で提案したのであった(32). この「会議」は 4 月 24,25 両日に開催され

た.それを受けて開催された 5 月 22 日の幹部

会で採択された決議では,「自然発生的な弁証法

的唯物論者としてのセヴェルツォフ理解のはじ

まりとなった,アー・エヌ・セヴェルツォフの

ものの見方に関する 初の哲学的評価はアー・

エム・デボーリンによって,マルクス主義の立

場からではなく,メンシェビキ的観念論という

誤った立場からなされたものである」(33)とされ,

哲学者アブラム・デボーリン(Абрам Моисеевич Деборин : 1881-1963)ひとりに責任を負わせるこ

とで決着が付けられ,セヴェルツォフの名誉は

回復された.これは,スターリン死後における

ルィセンコ派への,科学アカデミー幹部会を舞

台とした 初の反撃となった. 1955年1月13日,グリゴリー・フルシチョ

フは幹部会にニコライ・ヴァヴィロフ(Николай Иванович Вавилов : 1887-1943)の著作選集の編纂

を決定した科学アカデミー・生物科学部の審議

を追認するよう提案した(34).ソ連邦 高裁判所

軍事参事会による名誉回復は 1955 年 8 月 20日であるが,この段階ですでにニコライ・ヴァ

ヴィロフ復権の機運が高まっていたのであろう.

不思議なことに,この提案について誰も意見を

述べるものはいなかった.この提案は,ちょう

ど1年後の1956年1月13日の幹部会で本採択

となっている(35).

39

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(2) 「300 人の手紙」と物理学者の異議申し立

ドゥビーニン,ヨシフ・ラポポルト(Иосиф Абрамович Рапопорт : 1912-1990),アントン・ジ

ェブラック(Антон Романович Жебрак : 1901-1965)をはじめとする70名の生物学者とイーゴリ・

タム(Игорь Евгенньевич Тамм : 1895-1971 : 1958年,ノーベル物理学賞受賞),ピョートル・カピ

ッツァ(Пётр Леонидович Капица : 1894-1984 :1978年ノーベル物理学賞受賞),レフ・アルツィモー

ヴィッチ(Лев Андреевич Арцимович : 1909-1973),レフ・ランダウ(Лев Давидович Ландау : 1908-1968 : 1962年,ノーベル物理学賞受賞),ア

ンドレイ・サハロフ(Андрей Дмитриевич Сахаров : 1921-1989 : 1975年,ノーベル平和賞受

賞),ヤコヴ・ゼリドヴィチ(Яков Борисович Зельдович : 1914-1987),ヴィタリー・ギンズブル

グ(Виталий Лазаревич Гинзбург : 1916-2009 : 2003年ノーベル物理学賞受賞)など高名な物理学者を

中心とした他分野の科学者24名,計94名連名

の1955年10月11日付書簡がソ連邦共産党中

央委員会幹部会宛に発送された.この書簡には

翌年2月に,生物学者を中心に203名の追加署

名が届けられ,計297名連名の書簡ということ

になった.第2次署名者には,今度は,ラヴレ

ンチェフ,ケルドゥィッシュといった高名な数

学者,ソボレフ,リャプーノフといった数学者・

数理科学者にして,サイバネティクス運動の担

い手を多く含んでいた.これが名高い「300人

の手紙」である(36).「300人の手紙」はルィセ

ンコ,およびその同調者による粗暴なふるまい

を明らかにし,状況の改善,生物科学の正常化

を訴えたものであったが,正常化を願う生物科

学の研究者たちが,1949年8月29日のソ連邦

初の原子爆弾РДС(エル・デー・エス)-1の爆破実験

成功から,1953年8月12日,初の水素(熱核)

爆弾РДС-6 の実験成功まで,きわめてわずか

な期間における核兵器開発の成功に貢献したこ

とでソヴィエト社会におけるその権威を著しく

高めた物理学者,数学者を多数巻き込んだとこ

ろに,新しい科学者の社会運動の形態があった.

しかし,結局,この「300人の手紙」は,さし

たる効果も発揮せず,1987年に党機関紙『プラ

ウダ』に記事が掲載される(37)まで,このような

ことがあったことも公開されなかった. いわゆるスターリン批判として知られるニキ

ータ・フルシチョフの「秘密報告」が行われた

ソ連邦共産党第 20 回大会のあとのことではあ

るが,1956年秋,科学アカデミー総裁選挙が実

施された.候補は現職のネスメヤーノフひとり

で,結果的には彼が再選された.その選挙への

候補者推薦のために,科学アカデミーの各部で

部総会があいついで開催されていた時期,10月

12日に開催された幹部会の席上,科学アカデミ

ー主任学術書記アレクサンドル・トプチエフ

(Александр Васильевич Топчиев : 1907-1962)は10月10日に開催された物理・数学部の総会で

起こったできごとについて報告をした(38).この

部総会の途中,5 名の高名な物理学者から,総

裁選挙を翌年2月の科学アカデミー・年次総会

まで延期するよう提案があったのである.提案

したのは,タム,ミハイル・レオントヴィチ

(Михайл Александрович Леонтович : 1903-1981),アルツィモーヴィッチ,グリゴリー・ランズベ

ル グ ( Григорий Самуилович Ландсберг : 1890-1957),それにカピッツァという錚々たる顔

ぶれであった.彼らは,ドゥビーニンを長とす

る新しい遺伝学研究所(39)がいまだに創設され

ていないこと,ネスメヤーノフが生物科学の状

況に根本的な変化をもたらしていないこと,な

どを理由に,翌年2月の年次総会で,ネスメヤ

ーノフから年次報告と綱領的な方向性をしめし

た演説を聴いたのちに総裁選挙を実施すべきだ

とした.討議の結果,ネスメヤーノフを物理・

数学部として総裁候補に推薦する件と総会に対

して総裁選挙の延期を要請する件とは別個に議

決が行われ,前者は 18 対 16 で,後者は 22 対

12でそれぞれ採択された.つまり,ネスメヤー

ノフ再選に異議はないが,再選の前に生物科学

の現状を改善する姿勢を見せろ,という要求で

あった.「300人の手紙」の件で接触・交流した

生物学者たちとの連帯をしめすできごとである

40

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とともに,戦後飛躍的に高まった物理学者の権

威と自負がなせるわざでもあった.12日の幹部

会では,トプチエフの報告の直後,物理化学者

のミハイル・ドゥビーニン(Михайл Михайлович Дубинин : 1901-1993:ニコライ・ドゥビーニンと

はまったく別人)が 5 名の物理学者を支持する

旨,意見表明をした.生物科学部を代表してヴ

ラジーミル・エンゲリガルド(Владимир Александрович Энгельгардт: 1894-1984)がネスメ

ヤーノフを支持する発言をしたあと,若手の幹

部会員ケルドゥィッシュが発言をもとめた.「わ

れわれは(ネスメヤーノフの…引用者)年次報

告を聴かなければなりません.しかし,われわ

れはみな,科学アカデミーの一員です.科学ア

カデミーの状況を知っておく義務があります」

(40).彼は言外にルィセンコ派がまだ実権を持っ

ている科学アカデミーの現状を思い起こさせ,

冷静な対応を幹部会員にもとめたのである.こ

うして5名の物理学者による提案は採択される

ことはなかった. Ⅲ.科学アカデミーの機構改革について

科学アカデミー内に置かれていた学問分野別

の「部」の規則を整備するために,1953 年 11月6日の幹部会ではケルドゥィッシュの提案が

討議され,規則案作成のために,主任学術書記

トプチエフを長とする委員会が置かれることと

なった.残念ながら,ケルドゥィッシュの提案

についてその詳細を知ることはできなかったが,

幹部会に出席していたコンスタンチン・オスト

ロヴィチャーノフ(Константин Васииьевич Островитянов : 1892-1969:経済学)のまとめによ

れば,それは「現在のシステムが官僚主義的な

秩序の欠陥を病んでいるので,学術指導を非集

中化(Decentralization)し,各部のビューロー(常

設の指導機関…引用者)や研究所により大きな

独立性を与えようという点に課題が置かれてい

る」(41)ものであったらしい.アレクサンドル・

オパーリン(Александр Иванович Опарин : 1894-1980)はすぐに賛意をしめしたが,セルゲ

イ・フリスチャノヴィチ(Сергей Алексеевич

Христианович : 1908-2000:力学・航空工学)はケ

ルドゥィッシュの提案が各部の書記役アカデミ

ー会員(Академик- секретарь:各部の事実上の責

任者)がまるで,「コサックのアタマン(頭領…

引用者)」のように描かれていることに反発し,

トプチエフは集権的なコントロールが幹部会に

集中していて,各部はかなり名目的な存在とな

っている現状を説明した(42). このとき設けられた委員会の結論は 1954 年

12月3日の幹部会で審議され,12月14日に招

集される幹部会総会で採択に附されることにな

った(43).トプチエフは報告のなかで,科学アカ

デミーの諸機構の人員が増え続けており,それ

に伴って管理の多段階化(複雑化),新しい管理

の環の形成が続いていること,行政・管理機構

は4,000人近く,つまり研究員7名に1名の割

合で事務職がいるというレベルにまで膨れあが

っており,幹部会だけで763名が約200の部課

に別れて働いている,と述べ,科学アカデミー

の深刻な官僚主義的膨張に警鐘を鳴らした(44).

ついで,この委員会のメンバーでもあったアレ

クサンドル・ヴィノグラードフ(Александр Павлович Виноградов :1895-1975:地球化学)が「わ

れわれには,いわゆるアメリカ的な事務能力な

どないものだから,…」と付け加えた(45). こうして,非集中化=分権化と肥大化した事

務部門の整理という科学アカデミーの機構改革

は,この“脱スターリン化”期に深刻な課題と

して認識されるようになり,その解決のための

努力も開始されたが,本稿が対象とする 1956年中までには進展を見ることがなかった. こうした機構改革と同時に,この時期におけ

る科学アカデミーの機構に関してとくに注意を

惹くのは,研究情報の流通拡大をめざす動きが

あったことであろう.ひとつは,1954 年 5 月

28 日の幹部会で科学研究の秘密性の基準に関

する提案をつくる委員会が,ニコライ・ドブロ

ー チ ン ( Николай Алексеевич Добро -тин :1908-2002:物理学/宇宙線.当時,幹部会学

術書記を兼務)を長に組織されていることであ

る(46).残念ながら,この件についても後続の資

41

Page 48: “科学の参謀本部” - Hiroshima Universityエム・ヴェー・ロモノーソフ (М.В. Ломоносов) の祖国の啓蒙に果たした功績を記念して,「ロモ

料がなく,その後の経過をうかがい知ることは

できないが,ともかく秘密解除に向けた動きが

あったこと自体記憶に値する. もうひとつは,1955 年 12 月 23 日の幹部会

で,科学アカデミー・科学情報研究所を改組・

大幅拡充し,新たにソ連邦閣僚会議附属新技術

国家委員会と共同の機関である全連邦科学技術

情報研究所に再編することが承認されたことで

ある(47).この措置は,西側諸国駐在の大使館へ

の技術アタッシェの任命・配置や 1955 年 9 月

2 日付閣僚会議布告にはじまる専門家の海外訪

問緩和措置(48)と並んで,スターリン死後の国際

情勢の変化,すなわち冷戦の一定の緩和を背景

に,海外の科学情報の積極的受け入れ・流通拡

大をめざす措置の一環となった.

おわりに

“脱スターリン化”がさらに進んだ1958年10月,「自然科学の哲学的問題に関する全連邦会議」

と称する学術集会が開催され(49),そこで報告を

おこなったものは全員,「閉会にあたっての報告

者の言葉」を述べるように求められた.ソボレ

フは,みずからの閉会発言のなかで,「物理学を

唯物論的物理学と観念論的物理学に分けること

などできない.この原子爆弾は唯物論的だが,

あれは観念論的だ,とか,この粒子加速器は観

念論的だが,あれは唯物論的だ,などと言える

わけがない」と 自然科学とその成果にたいする

哲学者からのいかなるレッテル貼りも拒否する

ことを堂々と宣言した(50).哲学者・党イデオロ

ーグの科学研究活動への容喙という,科学者の

頭上に垂れ込めていた暗雲を払い除けようとす

る企ては,本稿で確認できたように,スターリ

ンの死の直後からはじまり,党イデオローグの

代表的人物であったゲオルギー・アレクサンド

ロフの政治的失脚という偶然に加速されるかた

ちで大きく進展した. ソ連邦の科学者が歩んだ道には,西側の観察

者の眼から見て“突飛なできごと(bizarre events — クレメンツォフ)”が多いが,その たるも

のがルィセンコ学説の興亡であることに異論を

もつ人は少ないであろう.本稿が対象とする時

期を通じてルィセンコ派はスターリンの死去に

もかかわらず,その実権を維持し続けていた.

したがって,ルィセンコ派支配の現状打破のた

めにはたいへん慎重な対応が必要であったが,

科学アカデミー幹部会が,この時代多数いたで

あろう“二心者”のひとりであったグリゴリー・

フルシチョフの提案に沿って,ルィセンコ派が

貶めた科学者の再評価・復権を進めたことは“脱

スターリン化” 初期における生物科学分野の

正常化をめざす科学者の努力として記憶されな

ければならない.また,生物科学の正常化のた

めに生物科学研究に従事する多くの科学者が物

理学や数学分野の科学者を巻き込むかたちで

「300 人の手紙」への署名運動を組織したこと

も,科学者の社会層・社会集団としての主体性

と分野を超えた連帯の向上を物語るものと言え

よう. 総じて,“脱スターリン化”が明確となるソ連

邦共産党第 20 回大会以降の時期にかなり先行

して,科学アカデミー幹部会における審議は,

問題ごとにテンポは違っていたものの,慎重に,

おずおずとしながらではあるが,着実に“脱ス

ターリン化”に向かっていた. しかしながら,早くもこの時期に明らかとな

った別種の問題にも注意しなければならない.

ルィセンコ学説の優越に見られるような,しば

しば不合理な介入・容喙をおこなう権力に対し

てみずからとみずからの科学研究の利害を擁護

するためにも,科学者はみずからの自治的組織

であり,権力との交渉の媒介環でもあった科学

アカデミーを強化しなければならなかった.第

2 次世界大戦,そして冷戦初期を通じて科学者

は,したがって科学アカデミーはソヴィエト社

会のなかで揺るがぬ信頼と権威を固め,さらに

“脱スターリン化”のなかでその自治的性格を

強めてゆく.すると,今度は科学者(の代表)

による科学研究への統制が問題となりはじめた.

科学アカデミーの組織的強化にともなって肥大

化しつつあった行政・事務機構が,科学研究の

現場の要求から科学研究の方向性に関する意志

42

Page 49: “科学の参謀本部” - Hiroshima Universityエム・ヴェー・ロモノーソフ (М.В. Ломоносов) の祖国の啓蒙に果たした功績を記念して,「ロモ

決定を遊離させようとしていた.ケルドゥィッ

シュなど,この時代にすでにこの問題に気づき,

是正を提起した指導的な科学者もいたが,事態

は改善されず,現代ロシアの科学史家ボリス・

イヴァノーフ(Борис Ильич Иванов : 1939-)の表

現を借りれば,科学アカデミーは 1960 年代に

は“管理不能なスーパー・システム” (51)に転化

していったのである.とはいえ,この点の吟味

はさらなる研究を待たなければならないのであ

ろう. (1) スターリンの生物科学,言語額両分野にお

ける論争への介入の経過については,拙著

『冷戦と科学技術―旧ソ連邦 1945~1955年―』(ミネルヴァ書房 2007 年)の

142-143 ページの注(71)に紹介しておい

た.ご参照を乞う. (2) В. Померанцев, “Об искренности в

литературе”, «Новый мир». №12, 1953. сс.218-245.

(3) “Наука и жизнь”, «Коммунист» №3, 1954. сс.3-13.

(4) Zhores A. Medvedev, The Rise and Fall of T.D. Lysenko, Colombia University Press, 1969.邦訳

がある(メドヴェジェフ著,金光不二夫訳

『ルイセンコ学説の興亡』河出書房新社,

1971年). (5) ソヴィエト社会とそこにおける科学のあり

方を,資料公開の今日的水準に照応した新

しい視点から論じた論者のなかで,イデオ

ロギーの茂みに隠れていた科学者を取り巻

く「制度的構造,競争するグループ・個人

の相互作用,職業的カルチャー」を明らか

にしようとしたクレメンツォフ(Nikolai Krementsov, Stalinist Science, Princeton University Press, 1997. 引用した文章は

p.287),物理学分野を対象に,科学者の行

動の枠組みとなった,複雑な権力関係やイ

デオロギー装置を剔抉したアレクセイ・コ

ジェフニコフ(Alexei Kojevnikov, Stalin’s

Great Science, Imperial College Press, 2004)も,

“脱スターリン化”過程は扱っていない.

先に挙げたメドヴェージェフなど,時期的

には“脱スターリン化”期を扱っていても,

関心の対象が 1965 年にようやく終結する

ルィセンコの生物学,農業科学支配である

ため,“脱スターリン化”過程を本格的な分

析対象とはしていないものも多い. (6) Slava Gerovitch, From Newspeark to

Cyberspeark: A History of Soviet Cybernetics. The MIT Press, 2002. :サイバネティクス支

持者たちの“挑戦”成功の理由をゲローヴ

ィッチは権力と科学者との“同床異夢”に

原因をもとめている.彼は,科学者はサイ

バネティクスの意味を拡張し,ソヴィエト

科学全般の脱イデオロギー化を図ろうとし

たが,他方,ニキータ・フルシチョフから

レオニード・ブレジネフへと続く政権の側

は広い範囲におけるイノヴェーションと権

力掌握をたすける情報・技術的手段の確保

をもとめ,サイバネティクス化を肯定した,

としている(Ibid., p.292). (7) Krementsov, Op. cit., in the note (5). pp.96-99. (8) See, Hiroshi Ichikawa, “Strela-1, the First

Computer: Political Success and Technological Failure.” IEEE Annals of the History of Computing. Vol.28, No.3, 2006. pp.18-31.(前掲

著著-注(1)-に第 7 章―277~312 ページ

―として収録されている). (9) ロシア/旧ソ連邦/ロシア科学アカデミー

の歴史的特質とその研究の課題については,

市川浩編『“科学の参謀本部” ―ロシア/ソ連

邦/ロシア科学アカデミーの総合的研究― 』論集Vol.1 (平成 22 年度~24 年度日本学

術振興会科学研究費補助金 [基盤研究(B)]【課題番号:22500858】研究成果中間報告), 1~3ページを参照のこと.なお,この報告

書はインターネットで見ることができる

( http://home.hiroshima-u.ac.jp/ichikawa /kagaku 1. pdf).

(10) さらに,「国民経済における『生産の自動化』

43

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への貢献」を第4の論点としてあげること

もできよう.この問題は旧ソ連邦における

コンピュータ開発,ひいてはサイバネティ

クスの導入・普及というきわめて重要な論

点につながってゆく問題でもあるが,本稿

が対象としている時期の 終期に,ソ連邦

共産党第 20 回党大会決議に触発されて論

議されるようになった,という点で,ここ

に掲げた3つの領域における討論がもつ意

味とはかなり性格が異なっているものと考

え,取り上げなかった. (11) 前掲拙著-注(1)-,112~153 ページを参

照のこと. (12) Gerovich, Op. cit., in the note (6), p.7.:たとえ

ば,「サイバネティクス」は哲学研究所編『哲

学者ぶった米英帝国主義追従者に抗して―

現代米英ブルジョワ哲学・社会学批判要綱

―』のなかにミハイル・ヤロシェフスキー

( Михаил Григорьевич Ярошевский : 1915-2001:もともとは心理学者.のち科学

史に取り組む)が執筆した「意味論的観念

論―反動の哲学―」と題する章の末尾近く

で,「思考とは記号の操作にほかならず,し

かもこうした操作の理想的な形態として数

値計算があらわれてくる,という意味論的

アンチ啓蒙家お得意の信念を基礎」に「置

く」サイバネティクスを意味論の延長上に

ある 新の思潮として紹介している[М.Г. Ярошевский, “Семантический идеализм – философия империалистической реакции”, Институт философии АН СССР, «Против философсвующих оруженосцев американо- английского империализма : Очерки критики современной американо- английской бружуазной философии и социологии». Изд-во Академии наук СССР, 1951. сс.88-101. 彼は1952年4月5日付『文

学新聞』に同趣旨の論文「サイバネティク

ス-アンチ啓蒙家の科学-」を発表してい

る―М.Г. Ярошевский, “Кибернетика – 'Наука' мракобесов”, «Литературная газета»,

5 апреля 952. стр.4.―].ゲローヴィッチによ

れば,ヤロシェフスキーは非党員で,1938年には逮捕されており,この段階では新た

に“コスモポリタニズム”の故をもって,

タジクスタンに左遷されていた.彼にとっ

てこの論文は起死回生の一打となるはずで

あった(Ibid., pp.122,123).しかし,スターリ

ンの一時娘婿であったユーリー・ジダーノ

フの回想(Ю.А. Жданов, “Во мгле противоречий”, «Вопросы философии»№4, 1993. стр.89)によれば,スターリン自身は

サイバネティクスに反対などころか,ロケ

ット開発などを支える数理科学に必須のも

のと考えていた.このため,ヤロシェフス

キーら哲学者・党イデオローグのサイバネ

ティクス批判は,とくに権力上層部からの

指示/支持があっておこなわれたものでは

なかったことになる.ゲローヴィッチが“永

久機関的(self-perpetuating)”と評価したのは

こうした事情を指している. (13) Институт философии АН СССР, Указ. соч. в

примечании (12). (14) Архив РАН Ф.1922, Оп.1, Д. 726. лл.110-115. (15) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 148. лл. 78,79. (16) この時代のユーリー・ジダーノフについて

は,さしあたり,前掲拙著,122,126,141-145

ページを参照されたい. (17) И.Р. Гринина, С.С. Илизаров, “Отдел науки

ЦК КПСС в период политического кризиса 50-х годов”, Институт истории естествознания и техники, «Годичная научная конференция. 1996г.». сс.79-87.:なお,ユーリー・ジダーノフはロストフに左

遷され,当地の国立大学の助手,そして准

教授(Доцентを仮にこのように訳しておい

た)として勤務するようになった.そこで,

彼はもともとの専門であった化学の研究に

立ち帰り,1960年に学位をとり,翌年教授

に昇進した.その間,まだ准教授であった

1957年から1988年にいたるまで31年間の

ながきにわかりロストフ国立大学の学長職

44

Page 51: “科学の参謀本部” - Hiroshima Universityエム・ヴェー・ロモノーソフ (М.В. Ломоносов) の祖国の啓蒙に果たした功績を記念して,「ロモ

を勤めている. (18) 解任は3月10日で,その理由は指導力不足

とされたが,ニキータ・フルシチョフの覇

権確立にともなう事象であろう.その後,

彼はミンスクにあった白ロシア科学アカデ

ミー・哲学・法学研究所のセクター主任に

左遷されている(К.А. Залесский, «Империя Сталина: Биографический энциклопеди -ческий словарь». Москва, Вече, 2000г. стр.19).1961 年 6 月 21 日,脳内出血で亡

くなった. (19) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 194. лл. 24-27. (20) Там же, лл.135-146. (21) Там же, л.147.:科学者(のグループ)が相

互に利害を対立させた場合,その対立はし

ばしばイデオロギー闘争のかたちをとった.

そして,権力はその仲介者として立ち現れ

ることで対立する両グループから“忠誠”

をえることができた(たとえば,前掲拙著

99-153 ページを参照のこと).このフォッ

クの発言はそれを裏書きしているようで興

味深い. (22) Там же, лл.148-151. (23) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 195. лл. 219-224. (24) Архив РАН Ф.1922, Оп.1, Д. 726. лл.110-113. (25) С.Л. Соболев, А.И. Китов, А.А. Ляпунов,

“Основные черты кибернетики”, «Вопросы философии».№4 1955. сс.136-159.:この論文

掲載の画期的な意義については,ゲローヴ

ィッチ, Op. cit., pp.173-181. (26) Архив РАН Ф.1647, Оп.1, №№. 104. л. 6. (27) Krementsov, Op. cit., in the note (5),

pp.105,106. (28) В.Н. Сойфер, «Власть и наука : разгром

коммунистами генетики в СССР». Изд-во. “ЧеРо”, 2002. ссю607,607.

(29) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 149. лл. 192-204. (30) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 92. л. 156. (31) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 149. л. 311. (32) Там же, л.189. (33) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 152. л. 12.

(34) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 192. л. 254. (35) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 210. л. 26. (36) “Письмо трёхсот”, Под ред. А.Ф. Киселёва и

Э. М. Щагина, «Хрестоматия по отечест -венной истории (1946-1995)». Изд-во “Владос”, 1996. сс.458-460.

(37) «Правда» 27 января 1989. (38) 1954 年 10 月29 日の幹部会では,一旦

生物科学部から提案された「細胞学研究所

(Лаборатория цитологии:この場合の研究

所は通常のインスティチュートではなく,

ラボラトリーであり,小規模なものが想定

されている)」設置案が取り下げられている.

ドゥビーニンの名前は出ていないが,5 名

の物理学者の不満とはこのことを指してい

るのではないかと考えられる(Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 230. лл. 160,161.).ちなみに,

ドゥビーニンは 1957 年新設された科学ア

カデミー・シベリア支部の細胞学・遺伝学

研究所の所長となっている.

(39) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 178. л. 44. (40) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 230. лл. 163-172.

ケルドゥィッシュの発言は,л.172に見られ

る. (41) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 162. л. 32. (42) Там же, лл.25, 30, 39. (43) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 180. л. 112. (44) Там же, л.140. (45) Там же, л.176. (46) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 170. л. 197. (47) Архив РАН Ф.2, Оп.6, Д. 207. л. 32. (48) Zhores Medvedev, Soviet Science. W. W.

Norton & Company, 1978. pp.60-67. (49) Под ред. П.Н. Федосеева и др. «Философ

-ские проблемы современного естество -знания : Труды Всесоюзного совещания по вопросам естествознания». Изд-во АН СССР. 1959. сс.3,4.

(50) Там же, стр. 573. (51) ボリス・イリィチ・イヴァノーフ(レギー

ナ・ヤキメンコ訳)「ソ連邦科学アカデミ

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ー・工学部(1935~1963年)-設立,発展,

廃止の歴史- 」,市川浩編『“科学の参謀

本部” …』前掲-注(9)-,38ページ.

【附記】本稿は,広島大学大学院総合科学研究科紀

要Ⅲ『文明科学研究』第6 号(2011 年12 月刊)1

~12 ページに掲載された論文を転載したものであ

る.転載にあたっては,広島大学大学院総合科学

研究科広報・出版委員会,『文明科学研究』編

集委員会の許可をえている.

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Ⅷ. 科学アカデミーの再編期(1959 年~1965

年)における工学諸科について

ボリス・イリイチ・イヴァノーフ

(ナターリァ・ロジナ訳)

2011年に日本で刊行された論文集『“科学の参

謀本部” ― ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデ

ミーの総合的研究』第Ⅰ巻の中で,ソ連邦科学

アカデミーの設立,発展,廃止の歴史(1935-1963

年)について簡単に叙述し,分析を与えておい

た1.

本稿は「7カ年計画」期(1959-1965年),活

動の再編期にあった科学アカデミー工学諸科の

発展について論じたい.その時期は,1964年10

月に彼が権力から追われるまで国中で実施され

たフルショフ改革と関連した時期である.本稿

は「7カ年計画」の 終年でもある1965年を終

期としている.

ここでは,1959-1963 年,ソ連邦科学アカデ

ミーにおける科学・技術研究組織の再編過程に

ついて分析しているわけではなく,読者には,

当該再編過程と関連した基本的なできごとの特

徴付けをおこなっている上述の論文 2を参照し

ていただきたいが,主要な点については述べて

おこう.

ソ連邦科学アカデミー の再編問題とその活

動改善の方策については再三審議され,政府の

諸決定に照応した議決をおこなう土壌がつくら

れていった.

「7カ年計画」の第3年,1961年に科学アカ

デミー工学部 (Отделение технических наук)がち

ょうど設立25周年を迎える時期にあり,ソ連邦

共産党中央委員会とソ連邦閣僚会議が1961年3月に「国内の科学研究活動のコーディネーショ

ンと科学アカデミーの活動改善に関する方策に

ついて」 を策定し,それが 終的にソ連邦科学

アカデミーと連邦構成諸共和国の科学アカデミ

ーにおける工学諸科の位置づけに根本的な変化

をもたらした. この布告以降,科学アカデミーには自然科学,

社会科学の発展にたいする一般的指導という責

任をともなった課題が求められるようになった.

それと同時に工業にとって実践的で,その利害

を代表するような具体的なテーマに基本的に取

り組んでいる科学機関は省庁の管轄に移されな

ければならないことになった.1961年の引き続

く数ヶ月の間に,工学部の諸研究所が部門別の

委員会や官庁の管轄に移された. 国家経済会議 (Госэкономсовет)の管轄にア

ー・ヴェー・スコチンスキ名称鉱山学研究所 (Институт горного дела им. А.В. Скочинского)と鉱

物性燃料研究所 (Институт горючих ископаемых)が委ねられ,つづいて,アー・アー・バイコフ

名称冶金学研究所 (Институт металлургии им. А.А.Байкова) が 燃 料 工 業 国 家 委 員 会 (Государственный комитет по топливной промышленности) に管轄されるようになり,他

にはゲー・エム・クルジジャノフスキ名称エネ

ルギー学研究所 (Энергетический институт им. Г.М. Кржижановского) と電子制御機器研究所 (Институт электронных управляемых машин ) も国家経済会議に委ねられることとなり,ソ連邦

閣僚会議附属無線電子工学国家委員会

(Госкомитет СМ СССР по радиоэлектронике) には精密工学・計算機器研究所 (Институт точной механики и вычислительной техники)が移管さ

れ,機械学研究所 (Институт машиноведения)や自動化機器・遠隔制御機器研究所 (Институт автоматики и телемеханики) や電気工学研究所 (Институт электромеханики),そして電気加工研

究所 (ラボラトリー:Лаборатория электической обработки материалов) がソ連邦閣僚会議附属

自動化・機械製作工業国家委員会に委ねられた. 国家経済会議や部門別委員会への上述した科

学諸機関を移管した後,1962年の時点では科学

アカデミー工学部の管轄下にあった研究所は,

力学研究所 ( Институт механики),無線電子工

学・電子工学研究所 (Институт радио-

47

Page 54: “科学の参謀本部” - Hiroshima Universityエム・ヴェー・ロモノーソフ (М.В. Ломоносов) の祖国の啓蒙に果たした功績を記念して,「ロモ

электроники и электроники),電波工学研究所 (Радио- технический институт),情報伝達問題研

究所(以前はラボラトリー) (Институт -ранее Лаборатория- проблем передачи информации), 技 術 用 語 委 員 会 (Комитет технической терминологии) が残っていた. 他に,科学アカデミー工学部に附属していた

水利経済問題会議 (Совет по проблемам водного хозяйства),全連邦無線物理学・無線工学学術会

議(Всесоюзный научный совет по радиофизике и радиотехнике)があり,他にも全国規模の会議,

すなわち,自動制御会議 (Совет по автоматическому управлению:アカデミー会員ヴ

ェー・アー・トラぺズニコフ―В.А. Трапезников―議長),溶接会議 (Совет сварки: 通信会員イ

―・エヌ・ルィカリン―И.Н. Рыкалин―議長),理

論・応用力学会議 (Совет по теоретической и прикладной механике:アカデミー会員エヌ・イ

―・ムスヘシヴィリ―Н.И. Мусхешвили)―議長),

耐久性・柔軟性の科学的基礎に関する会議 (Совет по научным основам прочности и пластичности:通信会員アー・アー・イリューシ

ン―А.А. Ильюшин―議長)が存在していた. 1961年に行われた措置の結果,科学アカデミ

ー工学部の業務内容が根本的に変更され,限定

されて,ソ連科学アカデミーの工学に関連した

課題と活動は大幅に縮小した.それと同時に,

今や部門別の国家委員会に移管された研究所で

働いていたアカデミー会員や通信会員の課題と

役割も科学アカデミーの枠内ではかなりの程度

不明確になった. 新しい組織的形態を求め,工学部は内部に

1962 年に以下の 4 つのセクションを設置した.

①エネルギー学・燃料・交通セクション (энергетики, топлива и транспорта),②自動化・遠

隔制御・無線工学・電子工学セクション (автоматики, телемеханики , радиотехники и электроники),③力学・機械工学・航空=宇宙工

学セクション (механики, машиностроения, авиационной и космической техники),④冶金

学・金属学・鉱山学・有用鉱物精鉱化セクショ

ン(металлургии, металловедения, горного дела и обогащения полезных ископаемых) である3.

工学の専門に従ってセクションをグループ化

する原則も,工学部の諸セクションの権限と業

務内容も,根拠や念入りな計画性に欠けた性格,

組織的な軽率さや不明確さといった性格を有し

ていた.にもかかわらず,これらのセクション

は工学発展の現状と主要な課題について記録の

編纂を行ったことに代表されるような,それな

りの肯定的な結果も残した.

科学アカデミー工学部の書記役アカデミー会

員アー・アー・ブラゴンラヴォフ(А.А. Благонравов)は1962年2月4,5日付の報告書

のなかで,1961年の研究結果について,科学ア

カデミーの他の部門の研究所が主導的な役割を

果たしているような一連の問題(固体物理,人

口衛星または宇宙ロケットによる宇宙空間観測,

または上層大気調査,半導体機器製造など)が

工学部の諸課題の中でも大きな位置をしめてい

たと述べていた.

工学部の研究所が直接関与していた問題の研

究課題は以下の通りだった4.

・ 無線電子工学の新分野の研究,とくに固体

特性の利用,干渉波の発生と改変のための

プラズマの利用,熱核融合研究のための計

装機器を含む新しいタイプの電子機器の開

発に関する研究.

・ 高速・高温の気体力学,熱力学的・化学的

な非平衡過程,固体と固体システムの弾性,

可塑性,硬度の理論といった分野における

重要の技術の理論的諸問題の発展.

・ 情報の伝達・分配・加工に関する諸問題,

とくに視覚認知作業に関する諸問題の研究.

・ 自動化研究分野においては, 適,かつ自

動的に調節する管理システム理論の発展,

信頼性の向上と自動化手段の小型化,生産

過程と運動する客体を管理する新しいシス

48

Page 55: “科学の参謀本部” - Hiroshima Universityエム・ヴェー・ロモノーソフ (М.В. Ломоносов) の祖国の啓蒙に果たした功績を記念して,「ロモ

テムの開発をめざした自動制御理論(技術

的サイバネティクス)に関する研究が発展

した.

書記役アカデミー会員の報告では工学部

の状況とその第一義的課題を新しい条件の

もとで正確なものにしてゆく努力は当然で

共通のものと見なされていた.専門ごとにセ

クションにまとめられたメンバーを通して,

工学部は国の技術発展全体に影響を与え,工

学の理論的諸問題,とりわけ党綱領で 重要

の科学的課題とされた方面に関する研究の

コーディネーションを実現することができ

た.

1962年2月6,7日の科学アカデミー総会

ではエム・ヴェー・ケルドゥィシュ(М.В. Келдыш)総裁は,工学部は,全般的,かつ,

部門の枠を超えた意義をもつ新技術の 重

要問題を研究する使命をもった少数の基礎

となる研究所を設立しなければならない,こ

うした基礎となる研究所を設立する仕事に

ついてはすでに諸方策が採択されていて,無

線 工 学 ・ 電 子 工 学 研 究 所 (Институт радиотехники и электроники),情報伝達問題研

究 所 (Институт проблем передачи информации)の基礎が強化されつつある,と

述べた.科学アカデミーは,力学における研

究水準を向上させ,熱物理学の現代的諸問題

の分野における研究のための基盤を強化し

なければならない.自動化機器とサイバネテ

ィクスの分野における研究基盤の発展に充

分な注意が振り向けられなければならない,

と述べた5.

1962年6月29,30日の総会では総裁ケル

ドゥィシュは,工学部の研究所は技術の発達

にとって広い意義をもつ問題に取り組み,広

範に技術に応用される科学の諸分野での研

究をすすめなければならない,と述べた.そ

うしたもののなかには,自動化研究,無線電

子工学,熱物理学,力学が挙げられていた6.

そのためには高温物理学研究所 (Институт

высокотемпературной теплофизики )を設立し,

力学研究所をかなりの程度強化し,情報伝達

問題研究所の実験基盤を発展させ,サイバネ

ティクス数学問題研究所 (Институт математических проблем кибернетики )を設

立し,無線工学・電子工学研究所建設を促進

する必要があると認められた.こうした研究

所は科学アカデミーが科学技術面での指導

を管轄していた自動化機器・遠隔制御機器研

究所と強い関連性があり,その後のサイバネ

ティクスの分野における研究発展の堅固な

基礎となるようなものにならなければなら

なかい,と述べた7.

総裁は,すでにはじまった工学部の再編が

すぐには進まないにしても,それは国の技術

進歩における工学部の役割を高め,われわれ

の科学的権威の一層の強化にもつながるも

のとなるであろうとの確信を明らかにした 8.

工学部の発展と国の技術進歩へのその影

響の強化を援助するため,1962年6月29日,

30 日に科学アカデミー総会は新しいアカデ

ミー会員と通信会員選挙を行い,その結果と

して工学部にはあらゆる世代からなる新し

い会員が加わった.

1962 年における活動の結果がまとめられ,

工学部が,新しい条件下で活動し,セクショ

ンを構成しながら,ソ連邦科学アカデミーや

ソ連邦構成諸共和国科学アカデミーで働く

ものも,他の官庁や高等教育機関で働くもの

も,同じ科学的関心でむすびついた,様々な

専門をもつ科学者をその活動に引き入れる

可能性をもっている,と指摘された9.

工学部が管轄した諸機関では,とくに,天

然エネルギー資源・鉱物資源のより完全な利

用,技術的工程の改善,新技術の要求に照応

した機械や素材の開発をめざした理論的な

研究などの研究がおこなわれた.この時点で,

無線電子工学,力学,自動化機器とサイバネ

ティクスの分野での研究において顕著な成

果があらわれていた.こうした科学研究の成

果の多くが部門別研究所,設計ビューロー,

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および工業企業で応用されていった.

1962 年の時点ではすでに科学アカデミー

工学部の会員の多くが工学諸部門で働いて

いたことも念頭にいれなければならない.そ

れゆえ,ただ科学アカデミーの諸機関の成果

だけをもって,科学アカデミーのなかでもっ

とも多くの人員を数える工学部所属の科学

者の大きな創造的な活動を代表させること

はできない.

工学部は,国家委員会や他の官庁に移管さ

れた科学技術研究から科学アカデミーが解

放されたことによって生まれた新しい条件

でみずからの位置を見いだしたかのように

思われる.

事実は,すべてがもっと複雑であった.一

方では,ソ連邦科学アカデミーのおかげで科

学的,実践的な著しい成果がうまれた.この

時期のソ連邦は,人材の質的向上,科学・技

術の主要な方向性のすべてにおける進歩と

いった点で,着実にポスト工業化社会の段階

に近づいていた.その意味において戦後ロシ

アの工業化は,かなりの程度,世界に見られ

たようなポスト工業化社会の傾向を体現す

るものであった.しかしながら,それは,効

率,テンポ, 終成果の点において否定的に

語られている政治的・経済的条件のもとで経

過していったのである.中央行政・国家機関

は国の科学・技術研究の 終成果にたいする

影響力をますます失っていた.科学研究の課

題とそれにたいする管理構造の差し迫った

修正をすることなしに,党=国家機関とそれ

に厳格に規制された科学アカデミー幹部会

も惰性のように行動しただけであった.科学

アカデミーの科学者と集団の前には,(1920

年代,30年代に始まった路線の)工業化の一

層の進展をめざした科学・技術研究の課題が

立っていた.その解決のために,追加的な資

源が割り振られ,新しい研究所,部局,研究

室が設置されていった.しかし,1950年代末,

1960年代初めになると,外延的な発展政策は

行き詰まってしまった.一方では,効率的な

科学アカデミーの科学は,みずらかのうちに,

科学研究にたいする集権的な国家管理とい

う組織的な欠陥を,原理的に感得するように

なった.他方では,ソ連邦科学アカデミー自

体が科学機関,行政・経営機関の管理が難し

いスーパーシステムに転化していたのであ

る.スーパーシステムという言葉は,合理的

な規模を超えて拡大し,そのために効果的に

管理することが実際には不可能になった,複

雑で,図体の嵩張るシステムのことを意味す

る.

このようなことが, 終的に組織の危機に

導き,そして1933年から1958年まで存続し

てきた科学・技術研究システムの,工学部の

廃止を含む,根本的再組織化を導いたのであ

った.

工学部の廃止は次のように展開していっ

た.1963年1月11日,ソ連邦科学アカデミ

ー総会は各部門の再編と部門の管理のため

に3つのセクション,すなわち,物理・技術・

数理科学セクション(Секция по физико- техническим и математическим наукам),化学・工学・生物科学セクション(Секция по химико-технологическим и биологическим наукам),社会科学セクション(Секция по общественным наукам)を設ける決定をおこ

なった.この提案はソ連邦共産党中央委員会

とソ連邦閣僚会議の諸会議で議論を重ねた

後,両者は1963年4月11日付で「ソ連邦科

学アカデミー,連邦構成共和国科学アカデミ

ーにおける活動改善に関する方策について」

を布告し,それによりソ連邦科学アカデミー

は,国の自然科学と社会科学の諸分野におけ

る研究にたいする一般的な学術指導を委任

され,ソ連邦科学アカデミーの主要な課題が

リスト・アップされた.その際,工学に関す

る言及はなかった 10.このようにして,工学

はソ連邦科学アカデミーの責任範囲外,管轄

外とされた.幹部会に新しく設立する3つの

セクションに関する提案が可決され,ソ連邦

閣僚会議の確認にもとづく科学アカデミー

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の構成変更に関する提案を実施に移す権限

が幹部会に与えられた.

1963年5月14,15日,ソ連邦科学アカデ

ミー総会はこの布告を実施する前提となる

諸方策を審議したが,その主要なものはソ連

邦科学アカデミーの構成変更であった.1963

年 7 月 1 日,ソ連邦科学アカデミー総会は,

1962年6月29日には制定に向けた作業が始

まっていた新しい規程を制定した.それが想

定していた科学アカデミーの構成では,16の

部門が置かれていたが,そのなかに工学部は

なかった.しかし,力学・管理工程部

( Отделение механики и процессов управления ),エネルギーの物理・技術的諸

問 題 部 ( Отделение физико-технических проблем энергетики ),一般化学・工業化学

部(Отделение общей и технической химии)という,科学・技術の問題群のうちただその

一部を負った部は置かれていた.

以前の工学部の諸機関と問題群は,主要に

は物理・技術・数理科学セクションの専門に

近く,また,少しは,化学・工学・生物科学

セクションの専門にも近かった.

物理・技術・数理科学セクション内のなか

では6つの専門部がその下位区分をなしてい

た.

① 数学部 ② 核物理学部 ③ 一般・応用物理学部 ④ エネルギー物理・技術諸問題部 ⑤ 地球科学 (наук о Земле)部 ⑥ 力学・管理工程部

以前の工学部の中に入っていた科学研究機関

の多くが工業部門に移管され,その他は新しい

部門に配置されることとなった.

同様に工学部に附属していた諸委員会,セク

ション,学術会議なども新しい部門に配置し直

されることとなった.工学部から分野別の国家

委員会に以前に移管された研究所のうちいくつ

かは,組織的に科学アカデミーと密接に結びつ

いており,科学的,方法論的指導の面ではソ連

邦科学アカデミーのもとに置かれるという,二

重の管轄下に置かれることとなった.

一見,科学アカデミーの再編問題は成功裏に

解決されたように見えた.多くの研究所が科学

アカデミーのもとを離れ,分野別国家委員会や

諸官庁などに移管され,以前の工学部の研究所

のうち,科学アカデミーに残ったものも,様々

な自然科学部門配置され,こうして以前は管理

が難しかった科学アカデミーというスーパーシ

ステムの管理が容易になった.

しかしながら,工学部の廃止の必要性などな

かった.一般に,工学部は国内の科学・技術研

究活動の実施,複合的な部門を超えた研究の組

織と実施に関するコーディネーターとしての機

能を保ち続ける必要があった.文明の工業化段

階からポスト工業化段階への移行過程において

はこのような研究の役割は何倍にも大きくなっ

たからである.

現在,1960年代はじめの工学部廃止も,科学

アカデミーの中では自然科学と社会科学だけを

発展させるとした政府の路線を形式上受け入れ

たことも,根拠が充分ではなかったことがます

ます認識されるようになってきている.

1964 年 10 月にフルシチョフ失脚後すぐに国

民経済諸会議 (Советы народного хозяйства)やその他の,1957-1965年の時期にフルシチョ

フ率いるソ連邦共産党中央委員会によりなされ

た一連の組織革新が廃止されたとはいえ,ソ連

邦科学アカデミー1963 年規程で変更された構

造に戻ることはなかった.そのことは,結果と

して,ソ連邦の,そして今はロシアの科学・技

術ポテンシャルにたいして否定的な作用を及ぼ

したと言われてきたし,これからもそう言われ

続けるであろう.

1.Борис Ильич Иванов (перевод Регина Якименко). Отделение технических наук в Академии наук СССР(1935-1963 гг.) .

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История создания, развития и упразднения// Сборник статей. Т.1. «Генштаб науки: всестороннее исследование Российской (Советской) Российской Академии наук (сост. Ичиуава Хироши). Хиросима (Япония).

2.Там же. 3.АРАН, фонд 395, опись 1, единица хранения

467.. 4.Вестник Академии наук СССР. 1962, номер 4. В Отделении технических наук. С.68-71.

5. М.В.Келдыш. Вступительное слово// Вестник АН СССР. 1962, номер 3, с.3-7.

6.Общее собрание Академии наук СССР. Речь Келдыша// Вестник АН СССР. 1962, номер 8,с.7-10.

7.Там же.. 8.Там же.. 9. Вестник Академии наук СССР.1963, номер 3. С.54-58.

10.Решения партии и правительства по хозяйственным вопросам. М., 1968, Т.5, С.304.

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