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Kobe University Repository : Kernelウィルヘルム・イェーガー( Werner Wilhelm Jäger)...

Date post: 16-Mar-2020
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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 討議 (特集:St ill/Mot ion)(特集:St ill/Mot ion) 著者 Author(s) 渡邉, 大輔 / 増田, 展大 / 松谷, 容作 / ザルテン, アレクサンダー / 前川, 掲載誌・巻号・ページ Citation 美学芸術学論集,11:70-75 刊行日 Issue date 2015-03 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81008816 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81008816 PDF issue: 2020-03-21
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Page 1: Kobe University Repository : Kernelウィルヘルム・イェーガー( Werner Wilhelm Jäger) や構造言語学のエミール・バンヴェニスト( Émile 討議|71 また、松谷さんの

Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le 討議 (特集:St ill/Mot ion)(特集:St ill/Mot ion)

著者Author(s) 渡邉,大輔 /増田, 展大 / 松谷, 容作 / ザルテン, アレクサンダー / 前川, 修

掲載誌・巻号・ページCitat ion 美学芸術学論集,11:70-75

刊行日Issue date 2015-03

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81008816

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81008816

PDF issue: 2020-03-21

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Benveniste)が、ラテン語を経由した古代ギリシャ語の「リュトモス (rhythmos)」というリズムの語源に遡り、デモクリトス、レウキッポスらプレ・ソクラティックの原子論者たちのリュトモス論を参照して再定式化したリズム論に行き着きます。 彼らがいうリズム概念はある二重性を抱えたものです。つまり、それは一方に流動化する、散逸する力をもち、他方に拘束する、まとめる力をもつものなのです。この、柔軟性と硬直性が絶えず動的にせめぎあっていくプロセスのなかで創発するのがリズムだというわけです。私は、こうしたふたつのダイナミズムをもつリュトモス、すなわちリズム概念が、たとえばデジタル以降のさまざまな文化表現を考えるうえで重要になると考えています。ネットワークの融通無碍な流動性のなかで、かつてあった客観的で安定した物質的支持体を欠きながらも、他方で何らかの固有のまとまりも創発していくという近年の新たな「作品」のかたちを捉えるのに、以上のリズム論は非常に示唆に富んでいると思うからです。たとえば、それがきょうのコロキウムに関して言えば、一方では still(静止)というフレーズがあって、他方ではそれを散逸させていく、運動をもたらす motion

というフレーズがある。その二重性のなかで、何かものやかたちが生みだされていくというようなあり方があるわけです。これがまさに、イェーガーやバンヴェニスト、あるいはスティグレールが定式化したような、リュトモスの概念と非常に近いと思います。 ここで触れたいのが、最近私が論考などで言及している「可塑性 (plasticity)」という概念です。この概念は、とりわけカトリーヌ・マラブー(Catherine

Malabou)やミシェル・セール(Michel Serres)が代表的論者だと思いますが、松谷さんが引いておられたマヌエル・デ・ランダ(Manuel De Landa)などを含め、最近、「新しい唯物論」や「思弁的実在論」といった呼ばれ方で日本でも注目を集めつつある、思想動向の圏内で盛んに用いられています。スティグレールもおそらくシモンドン経由で注目していました。これがいったい何かと言いますと、可塑性は、作品を含めたあるものが、形をなすときに生じてい

討議

前川:いろいろなテーマが混ざりあっているコロキウムでしたが、まずは口火を切るかたちで、渡邉さんに全体についてのコメントをお願いしたいと思います。

渡邊:各発表が非常に多岐にわたる論点とテーマをもちつつ、いくつかの問題意識や論点が重なっているように感じられ、それが非常におもしろかったです。そのなかでも、私がとくに興味深く考えた論点を、コメントとして述べさせていただきます。 第二部の発表者の方々の発表には、共通したふたつのテーマがあらわれていました。それは、ひとつが「速度」であり、もうひとつが — とくにザルテンさんの発表のなかで繰り返し出てきましたが —

「リズム」という主題でした。このふたつは互いに深く重なっているキーワードだと思いますが、私がとくにここで注目したいのがリズムをめぐる問題系です。今日の文化的表現やメディア環境、また作品が成り立つ秩序のようなものを考えるときに、リズムは非常に重要な概念としてしばしば参照されつつあるように思います。たとえば、ザルテンさんのご発表でアンリ・ルフェーヴル(Henri Lefebvre)とともに触れられていた、ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler)も、現代的なリズム論の系譜に連なる重要な論者として挙げることができます。というのも、スティグレールの技術哲学に一定の影響を与えているジルベール・シモンドン (Gilbert

Simondon) は、アリストテレス以来の「質量 − 形相」図式を批判する文脈で、すでに 60 年代から動的で可塑的なリズム概念に注目していたからです(シモンドンは「リトルネロ」という術語を出したドゥルーズ & ガタリにも影響を与えています)。そもそもこうしたリズム概念は、20 世紀の半ばにヴェルナー・ウィルヘルム・イェーガー(Werner Wilhelm Jäger)や構造言語学のエミール・バンヴェニスト (Émile

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 また、松谷さんのご発表では、まず動く映像の起源を「重力」、つまり「落下運動」の表象に認め、そこからの抵抗の試みとして現代にいたる映像実践を跡づけるものでした。私が思い出したのは、蓮實重彦の「映画と落ちること」(『映画の神話学』所収)という論考です。ここで蓮實は、「落下」という運動の表象(不)可能性を映画の抱える要素として論じていましたが、いわゆる「ポストメディウム的状況」との関係からも松谷さんの主題とこの蓮實の論考は響きあっていたように思います。 ザルテンさんのご発表は、その後半でリズムというものに注目し議論を組み立てていました。そこでのお話にもありましたように、現在では動画サイトや SNS といった新しいメディアが、ある種安定した作品や表現というまとまりをネットワーク上にどんどん散逸、拡散させていく傾向があります。先にも述べましたように、私も今の映像環境におけるリズムや、そのリズムを伝える情動性というものに強い関心をもっていますが、そうした作品や表現のまとまりを作っているのは、ひとつにはリズムなのではないかと考えています。たとえば、本当に最近の例ですが、「8.6 秒バズーカー」という若手のお笑いコンビが「ラッスンゴレライ」というネタでブレイクしています。これは「ラッスンゴレライ、ラッスンゴレライ」という一定のリズムで行われるもので、YouTube 上にはたくさんの動画があがっています。つまり、一方で「ラッスンゴレライ」というリズムをもとに、それをネタにした動画がネットワーク上に多数拡散しつつ、他方でそのリズムが、なにか作品的なもの、あるいは表現的なものをまとめる、拘束するツールにもなっているわけです。こうした事態は、非常に卑近な例ですが、私の考えているこ

るダイナミズムを意味します。すなわち、形を維持する力=硬直性と、変形していく力=柔軟性が拮抗し、形を絶えず変形しながらうまくまとめていくという動的なプロセスを可塑性と呼ぶわけです。このことからもわかるとおり、この可塑性という概念は、リズムの概念と密接に関連し、重なりあうものなのです。 さて、こうしたことをふまえて、第二部のご発表に簡単にコメントさせていただきたいと思いますが、まず、増田さんのご発表では、戦後日本のマンガ表象における「スピード」の知覚が、速度の加速と減速とのあいだの多層的な時間のなかで分節される局面に注目されていました。私はこの「速度の複数性」や「速度の可変性」という話をうかがいながら、昨年刊行された石岡良治さんの『視覚文化「超」講義』

(2014 年)のことを考えていました。そのなかで石岡さんは、現代の視覚文化を捉える手つきとして、映像も、それを分析していく手つきもどんどん加速しているというハイレゾリューション化を指摘し、むしろ、速度を複数化していくこと、映像を分析する尺度を複数化していくということが重要なんじゃないのかという問題を提起されていました。この速度の複数化、速度の可変性ということも、リズムに近いのではないかと思います。また、蛇足ですが、手塚治虫作品の冒頭で疾走するオープンカーが登場する場面の例として、『新宝島』と『ブラック・ジャック』を挙げられていましたが、そういえば、『鉄腕アトム』でも飛雄の交通事故の場面ではじまったものがありましたね。 次の松谷さんのご発表では、「創発」というキーワードがでてきましたが、これもリズムや可塑性に関連する問題です。創発モデルというのはよく神経システムにもなぞらえられるものですが、可塑性の哲学を定式化したカトリーヌ・マラブーは、脳科学や神経科学の論者でもあり、可塑性という概念をそうしたニューラル・ネットワークとの関連で、哲学的にまとめている経緯があります。そのため、こういうところでもリズムや可塑性は創発モデルとつながるというふうに思いました。

渡邉大輔氏

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に発生するものとして考えることができるかと思います。ザルテンさんが触れておられたように、1秒間に 24 コマという映画のリズムは、人間の身体や知覚にとって「心地よい」ものであったと同時に、そのリズムに身体が馴致されることで見えなくなるものもあるように思います。わかりやすい事例であれば、映画館の暗闇のなかで腰掛けて明滅する光をみていると、どこか気持ちよくなって眠たくもなる、これも身体に直接、作用してくる映像技術のリズムと言えるでしょうか。また、最後に渡邉さんが指摘された「ヴィークルとしてのリズム」という観点からは、そうしたリズムに「乗る」というかたちで考察を展開することもできるかもしれません。その場合、必ずしも映像技術のみならず、わたしたちはマンガのような表現手法における速度の可変性を乗りこなしているのであり、そうしたリズムをひとつのパターンとして硬直させるのではなく、メディア間のうちで複数化したかたちで捉え直す必要があるようにも思います。

松谷:ご指摘いただいた可塑性からマラブー、脳の神経ネットワークという関連は、確かに創発という、今回私がシミュレーションを考える上で使った概念と非常に近いと思います。結局のところ、創発というものが単純ではなく、でも混沌ではなく、複雑さといったものをどのようなかたちで解釈していくか、認識していくかというものが問題になってくるわけですから、その際に、対象として神経ネットワークというのは、当然ながらこの概念のなかで考えていくものだと思います。 また、私自身は明確にリズムという言葉を使ったわけではないですが、シミュレーションの話と絡めるならば、音のシミュレーションの話を挙げたいと思います。たとえば、増田聡さんは、椹木野衣さんの議論をうけつつ、現代のポップ・ミュージックや電子楽器だとか、コンピュータを通じた音楽の演奏をシミュレーションと指摘しています。彼によれば、そのシミュレーションのなかで、従来的な演奏における視覚と音の一致に切れ目が生じ、その時に何か

との具体例のひとつです。すなわち、今日の映像文化において、リズムというもの が 拡 散と拘 束 のツールとして機能しているという感じがしています。 最後に、第二部のテーマとなっていた「ヴィークル」とも重ねて、付け加え

るならば、ヴィークルとしてのリズム、つまり作品や表現を安定化させる乗り物としてリズムを考えることができるのではないかとも思いました。 少し短いかもしれませんが、ディスカッションでさらに展開させていけたらと思いますので、ひとまず、私からのコメントは以上とさせていただきます。

前川:ありがとうございます。渡邉さんのコメントを簡単にまとめますと、バンヴェニストらとはつながりつつも、従来語られていたのとは違うような枠組みとして、つまり身体への直接的な接触性であったり、静止と運動の境界を捉えるものであったり、あるいは従来の一方向的な速度でもないものであったり、そうしたものとしてリズムという言葉が浮上しているというご指摘でした。ただし、まずは私から渡邉さんにボールを返しますと、リズムというキーワードだけでは弱いのではないかとも思います。たとえば、濱野智史さんは「アーキテクチャ」という概念を掲げることによって、ネットワークという概念では足りない部分を言い換えたと思うのですが、リズムと言うだけは、あまりにも情動に近すぎてまだ物足りないのではないかという気もします。この点や、今の渡邉さんのコメントのまとめに対して、お三方はどう思われるでしょうか。

増田:「リズム」という観点についてですが、まずは映像技術をある種の機械として捉えたうえで、そこ

増田展大氏

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はどのような考えに基づいているかというと、外から、環境から人間の内面に影響が与えられるという見方です。これは言ってみれば、環境と人間が完全に別々にされている考え方なんです。 この考え方を今のメディア状況に置き換えてみると、それは非常に考えにくいモデルですよね。iPhone やニンテンドー DS やテレビといった、いろいろなメディアが私たちと別の存在ではなく、私たちの一部になっていて、逆に言えば、私たちが技術の一部にもなっています。つまり、メディア環境ではなく、メディア・エコロジー(生態学)と言った方がいいのではないかということです。そのなかで、リズムは外からきているものではなく、関係なのだと考えるべきかもしれません。人間と、エコロジーのなかの他のものとの関係を作っている何かとしてリズムを捉えてみると、もっとフレキシブルにもなるし、いろいろなレヴェルでリズムがどういうふうに働くか、どういうふうに関係を作るかを考えることができると思います。そうすると、いろいろな種類のリズムがあると思うのですが、私はまだ具体的にそこまで考えが及んでいません。

前川:最近、デジタル写真論でもアクター・ネットワーク・セオリーを参照しつつ、写真の生態学ということを言いはじめていますが、リズムを人、モノそれぞれが相対的に、複数のレヴェルで取り結ぶ関係やそのなかの複数の速度を含みこんだものとして考えるというのはとてもおもしろいと思いました。 それと少しだけ補っておくと、松谷さんのご発表で触れられていた『ゼロ・グラビティ』(Gravity,

2013)についてふと思ったことなのですが、この作品では複数の音楽や音が、相互にシールドで隔てら

しらテクノロジーの肌理というものが出てくることになります。そして、増田さんはそれを経験することを、まさしくパルス・ビートの経験だと言っているわけです。このことは、もしかするときょうのリズムのお話と関連してくるかなという気もしました。皆さんにもお話を聞きたいのですが、ふつうリズムと言うとき、そこには音や音楽が出てくるわけですが、そのあたりについてリズムというのを考えるうえで、なにかコメントがあれば教えていただけたらと思います。

ザルテン:まず、前川先生からのコメントにお返ししたいのですが、実際に濱野さんの 建

アーキテクチャ

築 という概念を考えると、たんに環境や構造としてリズムを考えるのでは足りないという印象になるのはその通りだと思います。濱野さんの論を読むと、私は 60 年代の終りぐらいの風景論を想起するんですね。たとえば松田政男とか足立正生とか。この風景論とはとくに、映画理論、映画批評のなかで考えられた概念です。この論には基本的な問題があると思うんですね。それは環境だけをとおして考えているということなんです。風景論は基本的に、皆さんがご存知と思いますが、当時の高度経済成長期において、日本の風景自体が非常に変化したことをふまえ、それが人間にどういう影響を与えたか、その影響についてどういうふうに考えればいいか、ということに関する理論です。非常に有名な足立正生らが撮影した作品である……

渡邉:『略称・連続射殺魔』(1969 年)ですね。

ザルテン:そうです。これはある若い男性が日本のさまざまな場所で、盗んだ銃を使って人を殺したという実際にあった有名な事件をもとにした映画です。特徴的なのは撮影のしかたが、犯人の話をもう一度語りなおすというより、彼が実際に住んでいた所を撮影する、つまり風景を撮影するだけだということです。これだけを聞くとつまらなさそうに思えますが、非常に面白い映画です。こうした撮影方法

   松谷容作氏

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しろそこがおもしろいと思いました。まだ構想段階かもしれませんが、もしよろしければザルテンさんが考える、ゾンビ・ヴィークルの創発性についてお考えを聞かせてください。

ザルテン:すごくおもしろい質問だと思います。ゾンビという概念は、最近流行っているとは言えなくても、経済論や批判理論のなかでさまざまに論じはじめられたのですが、それはプチ・マルクス主義や資本主義の枠組みのなかで語られています。つまり、ゾンビは消費者の、あるいは資本主義のなかで起こる、消えない(死なない)という問題や矛盾のパロディーとして使われているわけです。しかし、もう少しゾンビについて考えると、それは現在のニュー・メディア・エコノミーに適したメタファーのように思います。皆さんもご存知のように、現在のメディア・エコロジーのなかで私たちは何かを消費しているだけではありません。私たちは誰しもが自分で何かを作りだしてもいます。コミュニケーションを生みだしていますし、ニコニコ動画に動画をアップロードしたり、pixiv に絵をアップロードしたり、同人誌や同人音楽を作ったり、Tumblr に自分の写真をアップロードしたりと、私たちは製作者にもなっていますね。マウリツィオ・ラッツァラート (Maurizio

Lazzarato) という理論家の有名な発言ですが、現在の経済システムのなかで、企業は消費される物を作っているのではなくて、その物が消費される世界こそを作っているのです。つまり、企業は物が存在している世界を作っていて、私たちが何かを消費したり、作ったり、それを交換したりするそのアクティビティによって利益を出している。facebook や YouTube はその好例です。ゾンビに話を戻せば、ゾンビも人を食べる=消費すると、その人もゾンビになる。つまり、消費することが新たなゾンビを作ることになるということです。もちろん、これがエマージェンスとは言えず、ただの反復なのではないのかという問題はあります。この点については、ゾンビというメタファーがどこまで使えるかということも含め、まだ私も考えがまとまっていません。

れるようにしながらもそれぞれが関係を取り結び、なおかつそれらが平行してあるリズムで流れていく、そうした構造を体感して — いい意味 で す が — 私 は気持ち悪くなってしまったんですね。通常、映画を見終って現実世界に戻るとそ

こにも映画的な世界の知覚のしかたが開けてきたりして、それがいい映画の徴だったりもするのですが、この作品を見終ったあとには、それとは違って、先ほど言ったようないくつかのレイヤーを隔てて複数の、あるリズムを帯びた関係性が立ち起きてくる感覚が持続してしまうので、見終った直後に、それこそ自転車や自動車などのヴィークルに乗っていると、本当に交通事故に遭いそうになってしまいます(笑)。きょうのお話を聞いて、そういう現在起きている経験もリズムというキーワードから考えてもいいのだな、と私自身は納得しました。これは補足です。 さて、ここからはフロアに開きたいと思います。質問などありましたらお願いします。

質問者1:松谷さんのご発表との関連で、ザルテンさんに質問があります。松谷さんは創発というお話をされていましたが、この創発というのは、生命の創発と意識の創発というふたつの面で哲学的に語られることがよくあります。ザルテンさんは先ほどのご発表で、ゾンビというお話をされていました。ゾンビというのは、通常意識をもたないもの —「哲学的ゾンビ」という使われ方もされますね —、あるいは生命のないものです。つまり、それは創発を欠くものという表象のしかたで理解されやすいと思います。これに対して、ザルテンさんのご発表は、ゾンビ・ヴィークルというかたちでゾンビに創発があるという立場をとっておられると私は理解し、む

アレクサンダー・ザルテン氏

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ブジェクト指向存在論、物と物との因果関係や代替因果などに関して提示した魅惑という概念と似てい ると 感 じまし た。ザルテンさんは、このことをふまえた上で現在のリズムの原理をお話されたのでしょうか、それともこれ とは 関 係 な い の でしょうか。

ザルテン:オブジェクト指向存在論の魅惑を考えていました。しかし、まだゾンビ・ヴィークルという概念と細かに結びつけられていないので、きょうはそれについては話しませんでした。基本的には、オブジェクト指向存在論も、資本主義的アニミズム現象のひとつだと思います。つまり、それは経済の原理の変化によって現れた理論であり、現代の症候であると思います。ゾンビ・ヴィークルも資本主義的アニミズム論もそうです。 しかし、理論は別の面ももっています。すなわち、理論はそれが生まれた時代の症候であると同時に、その時代の問題について考え、把握するためのものでもあるのです。なので、こうした現代的な理論が症候であっても、それで何かをできるのではないかとも考えています。

前川:ありがとうございました。まだまだ聞くべきこと、議論すべきことはありますが、ここでひとまず締めたいと思います。本日は皆さん、長い時間ありがとうございました。登壇者の皆さんも、ありがとうございました。

前川:今のお話を聞いてよく分かりました。ロメロ(George A. Romero)の作品などで、ショッピングモールでゾンビになるというのは、資本主義の反復的な動作みたいなものだったわけですが、現在はユーザー・ジェネレイティッド・コンテンツ (user

generated contents, UGC) などの、ユーザー自身がアクティビティや環境をどんどん作りだすという反復に移行していて、そのなかでゾンビになるということなんですね。 僕は、『アイアムアヒーロー』におけるミュータントのように、考えていないと思っていたミュータントのなかから、特異例のようなものが出てくるのを見ると、ゾンビというものを別のしかたで考えることもできるのかなと思います。その一方で、たしかにゾンビというメタファーや概念をどこまで使えるのかという問題はあります。どうしてもゾンビ・メタファーは資本主義と一体化していて、現在のゾンビ概念についてもそれは同様で、そうした含意はそれを批判的、批評的に使おうとするとそれが縛りになってかえって機能しないというような面もあるかもしれません。

ザルテン:ゾンビの批判的可能性についても少しだけ触れておきたいと思います。これもさまざまな議論がなされていますが、生命=資本主義という状況のなかで、それを批判するためには死を肯定するしかなく、そのなかでゾンビに可能性を見出す主張があちこちで出てきたんですね。これは非常にネガティブな可能性ですが、何かを作るとすぐに資本主義に取り込まれるので、もはや作ること、生きることを拒否するしかない、ということです。もちろん、それは具体的にどういうことかということが問題になりますが、こういったゾンビに関する議論も最近なされているということだけ付け加えておきます。

質問者2:ザルテンさんに対して質問です。ザルテンさんは現在のリズムの原理として、導くこと、魅惑することを挙げておられましたが、その魅惑は哲学者のグレアム・ハーマン(Graham Harman)がオ

   前川修氏


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