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Kobe University Repository : Kernel ·...

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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title リアクティヴ・ラーニング : パッシヴな学習についての 試論 著者 Author(s) 小嶋, 恭道 掲載誌・巻号・ページ Citation 21世紀倫理創成研究,9:45-60 刊行日 Issue date 2016-03 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009422 Create Date: 2017-12-18
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Page 1: Kobe University Repository : Kernel · 4学生が、活動(例えば、読む、デイスカッションする、書く)にかかわっ ている。 5 学生が自身の態度や価値観の探求することにより重点が置かれる。

Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

リアクティヴ・ラーニング : パッシヴな学習についての試論

著者Author(s) 小嶋, 恭道

掲載誌・巻号・ページCitat ion 21世紀倫理創成研究,9:45-60

刊行日Issue date 2016-03

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009422

Create Date: 2017-12-18

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リアクティヴ・ラーニング

ーパッシヴな学習についての試論

1.アクテイヴ・ラーニング

小嶋恭道

昨今、日本の教育界では 「アクティヴ・ラーニングJの重要性が喧伝されてい

る。日本で、こうした言葉から何となく想像される教育の姿が必要だと言われる

のは、今に始まった事ではない。しかし、では教員の一人一人がその言葉の意味

を正確に把握しているのか、というと、実のところ、大概の教員がこれを把握し

ておらず、何となく内容を直感的に理解して、勝手に自分なりの殴昧な意味を込

めて話しているような状況なのである(1)。 逆に言えば、それだけ現場の人間の

多くには関心がないのかもしれないわけだ、が、とりあえず、日本では、アクテイ

ヴ -ラーニングの定義は、平成 24年に中央教育審議会により発表された、 「新た

な未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考え

る力を育成する大学へ (答申)J (2)で確認することができる。以下、その定義を

引用する。

教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、 学修者の能動的な学修

への参加を取り入れた教授 ・学習法の総称。学修者が能動的に学修すること

によって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的

能力の育成を図る O 発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含ま

れるが、教室内でのグループ・デイスカッション、デイベート、グループ・ワー

ク等も有効なアクテイブ・ラ一二ングの方法である。(3)

同答申の本文中では、アクティヴ・ラーニングは 「能動的学修」とも呼ばれ、「受

動的」であることを認めない教育であると判断できる。アクテイヴ ・ラーニング

に関する書籍を数多く著している西川純氏も、 ii教員による一方向的な講義形式

の教育とは異なり、学{傷者の能動的な学修への参加を取り入れ」なければアウトJ(4)

としている。つまり、教員が生徒に対し、考えさせるようにお膳立てをしたり、

司45-

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リアクティヴ ・ラーニング パッシヴな学習についての試論

生徒を誘導したりするような授業はすべて「パッシブ ・ラーニングJ(5)であり、

能動的活動とはならないのである。

教育に関する様々な書籍 ・論文で指摘されているように、今日、教育界では、

知識の詰め込み教育よりも、デイスカッションやデイベートができるカを養うこ

とが重要であるとされる。また、海外でも事情は同様で、ヌスパウム (2010)が

言うように、「公立学校のクラスでますます支配的になっている「テストのため

の教育」は、受け身的な学生と機械的に教える教師という雰囲気を生み出してい

る」。そこに、「創造性と個性を伸ばす余地はほとんどないJ(6)。

だが、今一つ疑問なのは、「受動性」を排除するような教育が果たして可能な

のか、という点である。というのも、筆者は「受動性」こそが人間の思考の始ま

りなのではないか、と考えているからである。そこで、本稿では、学習一般及び

アクティヴ・ラーニングが、「受動性抜きの教育」ではなく、「受動性ありきの教

育jである、ということを主張したい。筆者の考えでは、思考は常に自発的

actlOnではなく、何かに対する re-actlOnとともに始まるのだから、リアクテイヴ・

ラーニングという言葉の方が好ましい。本稿で、筆者は様々存在するアクテイヴ・

ラーニングの言説の一つ一つのあり方を否定しようというわけではない。むしろ、

哲学的な観点からこれを把握し、その将来的な可能性に貢献できれば、と考えて

いる。なお、筆者は以下に続く考えの多くを、主にドゥルーズの前期思想に負っ

ている。併せて理解されたい。

2. I習慣」という問題

「受動性」ありきの学習・思考を考えること、これが本稿の目標である。だが、

前節で見たアクテイヴ ・ラーニングの性質では、「受動性」は認められないよう

に見える。にもかかわらず、本稿は、この「受動性」の問題を論じることなしに

アクテイヴ・ラーニングについて考えることは難しいのではないか、と主張する。

実際、溝上 (2014)のように、概念としてのアクテイヴ ・ラーニングと、実際の

アクティヴ・ラーニング型授業とを区別し、後者が「講義形式」を含むものであ

ると定義する主張もあり、講義型が完全に否定されているわけではない。(7) こ

うした種の主張は、講義型の重要性を認めつつも、それだけでは不十分であり、

学習成果の外化や、講義では不可能なジェネリックスキルの学習が必要であると

いう立場をとる O 筆者はこれを否定しない。しかし、今回は学習者の学習プロセ

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21世紀倫理創成研究第9号

スにおける「受動性」のメカニズムに焦点を置き、議論を進めたい。というのも、

アクティヴ・ラーニングによって得られるスキルや、学習成果の外化よりも、ま

ずはこの学習を開始させるプロセスの方が重要であることは明白だからである O

本稿で主張する「受動性」は二つの意味で用いられる O 一つは、そもそも人間

が日常的に「受動的」な態度でいるという意味であり、他方は人間の思考が「受

動性」から開始される、という意味である。まず、前者に焦点をあてる。例えば、

ドゥルーズは「差異と反復j(1968) において、次のように述べている O

「すべての人」がよく知っている。つまり 、人間というものは、事実にお

いて、滅多に思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというより、む

しろ何かショックを受けて思考するのである。 (8)

ドゥルーズは、人間が通常、滅多にものを考えない生き物、非アクティブな生

き物なのだ、と主張している。この言葉が述べられている 『差異と反復』第三章

には、人間がなぜ「考えない」生き物なのかという根拠は、はっきりとは書かれ

ていないわけだが、園分 (2013)が同様の指摘をした後に(9)、その根拠を、ドゥ

ルーズが早い時期から関心を持ち続けていた「習慣 (habitude)Jの問題に求め

ている。人聞が「習慣」を作って生きるのは、新しいものに出会い続けることは

大変な労力を必要とするからである。 ドゥルーズは言う 。「習慣は、反復から、

何か新しいもの、つまり、差異... を抜き取る O 習慣は、その本質において、収

縮 Ccontraction)である。習慣をつける (contracter) という 言葉遣いがなされ

たり、ハピトゥスを構成し得る目的語とだけ rcontracter Jという動詞が用いら

れたりする場合に、そうしたことがよく示されている」。川

そうした「習慣Jを破壊するだけの力で強制されたとき、人は、はじめて考え

始める。ここから、「受動性」の第二の意味、思考が受動性から開始されるもの

である、という性格が理解されるように思う 。実際、最初にアクテイヴ ・ラーニ

ングを考案した Bonwell&Eison(1991)の研究では、この受動性が見てと

れる。彼らは、アクテイヴ ・ラーニングを定義するに際して以下のような性格を

挙げている。(JI)

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リアクティヴ ・ラーニング パッシヴな学習についての試論

l 学生が、授業を聴く以上のかかわりをしている。

2 情報の伝達よりも、学生のスキル育成に重要性を置く 。

3 学生が、より高次の思考(分析、総合、評価)にかかわっている。

4 学生が、活動(例えば、読む、デイスカッションする、 書 く)にかかわっ

ている。

5 学生が自身の態度や価値観の探求することにより重点が置かれる。

原文では、項目 lは、 Studentsare involved in more listeningとなっており 、

受動態で表現されている。同様に、項目 3は、 Studentsare involv巴din higher-

order thinking、項目 4は、 Studentsare engaged in activitiesであり、学生は基

本的に involvedlengaged、つまり「かかわって、巻き込まれて」という形で、

まずは受動の姿勢で表現されているのだ。従って、 学習者は、開始時点で受動で

あるが、その後、活動自体に触発されて (beaffected)、自発的に学び始めるよ

うに強制的に変化させられるものだと考えることができる。

3.至福と無関心

ここで、アクティヴ・ラーニングにとって最も困難な点、つまり、中教審の定

義が批判している一方向の講義形式に慣れている状態から、 学生が「能動的」に

活動に参加する状態への移行の難しさについて語ることができる。前者から、後

者の状態への移行は大変な労力を弄するものである。なぜなら、一部の学生は、「一

方向の講義形式」のうちに慣れ親しんでおり、ドゥルーズの言葉遣いで言えば、「締

約J= I受動的総合という至福 (beatituded巴 lasynthese passiv巴)J (12)のうち

に慣れ親しんでいるからである。

あるいは、「話を聞けjと命令されても、これを聞き入れないという態度を崩

さずにいることは不可能ではない。例えばフーコーは、権力と、これに服従する

主体について膨大な考察を行っているが、彼自身の最も明確な「権力」の定義に

従えば、「権力は「自由な主体」に対してのみ行使され、そして人が「自由」で

ある限りにおいて行使されるJ(13) ものであり、主体に暴力=絶対的な強制を及

ぼすものではない。また、権力理論では、フロイト的な意味での「法の内面下」

は退けられる。というのも、あくまで権力は「自由な主体」に行使されるもので

あり、そこには必ず 「抵抗が存在するJ(14)からである。従って、教室を出て行

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くことも、教師を無視して眠り続けることも可能なのだ。叱られる可能性はある

が、現在の教育従事者なら、例外を除いて 「体罰=暴力」を振るうことはないで

あろう 。(15)そこには、 「受動的総合の至福Jと同様の、 差異を抜き取った 「無

差異 Gn-difference)J状態、すなわち 「無関心 Gndifference)J状態がある。

この状態こそが、アクティヴ ・ラーニングの導入にとって最も厄介な問題なの

である。学生はなかなか 「至福」状態を自発的にやめることはできないだろう 。

積極性を持つ学生は確かにいるわけだが (そうした学生がジ、エネリックスキルを

十分に習得できるのかどうかはここでは措く )、そうではない学生は、そこに巻

き込まれる involvedところのアクテイヴ ・ラーニングを、大概 「ダルい」活動

として決めてかかる。しかしこの 「ダルさ」を壊す力を持たせてこそ、アクテイ

ヴ ・ラーニングの真価が問われるのではないか。

従って、真の思考を開始させるためには、まずは 「習慣」、「至福状態」や 「無

関心」を崩すショックをいかにして生み出すかを考えなければならない。ここで

気を抜けば、その時間は一方通行の講義に疲れ切った学生の休憩時間に成りかね

ない。適当に教師が満足するような成果物を作り出せば、その時間をやり過ごす

ことカfで、きる。(16)

以上の習慣破壊の教育がどういったものかを考える前に、 「受動的総合の至福」

とli無関心」がヲ|き起こす共通の問題ついて次節で述べておきたい。すなわち、「縮

約の激化」である O

4.縮約の激化

本稿が問題にしている一部の学習者は、講義型の授業で次々に送り込まれる新

しい知識に呑まれ、疲れ切っている。そうした学修者が求めるものは、疲れを癒

す快楽、あるいは快感である。 ドゥルーズは、 「縮約Jに関して、以下のように

述べている。

快感とは、〔おのれをイマージュで〕満たすひとつの観照によってもたら

される感動であり 、この観照それ自身のうちに、弛緩と縮約の事例が縮約さ

れているのである。受動的総合という 至福が存在するのだ。我々は、自分自

身とまったく別のものを観照するにせよ、とにかく観照を遂行することで快

感を覚え (自己満足)、そしてこの快楽ゆえにこそわたしたちはみな、ナル

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リアクティヴ ・ラーニング パッシヴな学習についての試論

シスなのである。(強調原文)(17)

差異を抜き取る「縮約」は、自己満足的な「快感」を生み出す。あるいは、「習

慣」の意味合いを強く押し出すならば、我与は「習慣」によって「安心感」を得

る、と言っても良いかもしれない。新たに差異が出現し続ける生活はある意味恐

ろしくもある。おそらく「安心」して外出することすらできなくなってしまうだ

ろう 。この意味で、確かに、この「縮約」は、人間の通常の生活を送る上で必要

な作用である。しかし、この「縮約Jが、科学技術の発展とともに「習慣」以上

の意味をもち、「激化」しつつあると本稿は主張する。

かつて、ハイデガーは、「プレーメン講演」のなかで、「時間と空間における距

離は、すべて収縮しつつある。以前なら何週間、いや何ヶ月も費やさないとたど

りつけなかった場所に、いまでは人聞は、飛行機を使えば一晩で到着してしまう 0

.人間はできるだけ短い時間で、できるだけ長い道のりをあとにしようとするJ(8)

と述べていた。この言葉は、技術による時間と空間の圧縮の二つを意味するもの

ととれる。差し当たって、時間の圧縮に注目する。人間は、できるだけ短時間で、

対象/目的を、獲得/達成したい、という欲求をも っている。それに従って、科

学技術は大抵の場合、「効率」や「速度」を求める。労力を費やすという事態と、

時間を費やすという事態はしばしばセッ トで忌み嫌われる。

アクテイヴ・ラーニングで行われる教育も、必然的に労力と|時間がかかる。

Bonwell & Eison (1991)のあげたアクティヴ ・ラーニングの特性に述べられて

いたこと、つまり、本を読んだり、デイスカッションをしたり、文章を書いたり

といった「活動」が、それなりの労力と、なにより 「時間」を必要とするのは明

白である。場合によっては、授業時間外も考え続けなければならないこともある

かもしれない。一部の学修者の感じる「ダルさ」はここに由来する。

アクティヴ ・ラーニングに比べ、一方向的な講義は、自ら参加しないと決め込

んでしまえば、時間は問題にならない。内戦や居眠りによって、時間をやり過ご

せば良いのである。ある一定の成績を達成せねばならないというタスクがあるに

せよ、それは、いわば試験さえ乗り越えれば良いのであって、その試験は何であ

れ、間作者が期待するような、あらかじめ存在する解答のハリエーションを「理

解できなくとも」、「覚えてしまえば」非常に小さい時間的コストで済ますことが

できる。内田 (2007)は、この種の理解せずに済ます事態を「スキップ」と表現

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している。例えば、読書をしていても、わからないところはスキップして学習時

間を短縮するのだ。

この「読み飛ばし能力」が、今の若い人たちは、僕たちの想像を超えるく

らいに発達している。ページを開いて、ぱっと見たとき、その読み方がわか

らない、 意味がわからない単語があったときに、それを軽々とスキップする。

スキップしでもぜんぜん気にならない。(19)

内田 (2007)は、こうした事態を現代人の幼年時代からの消費者化、そして、

我慢して話を聞くことに見合わない、 等価で、ない成果/知識の拒否という観点か

ら説明している。しかし、さらに興味深いのは、内田 (2007)はこの事態を、 rT自

分の知らないことJは 「存在しない」ことにしている」とも分析している点であ

る。(20)これこそ、 「縮約の激化現象」である。「差異」は 「存在しない」という

程までに否定し尽くされる。「無関心=差異の否定(in一di能 rence)Jの極みである。

わからない問題の消去は学習でもなんでもなく、そうした状況においては、結果

=答えを知ることだけが重要なのだ。

アクテイヴ ・ラーニングは、 学生が必然、的に 「巻き込まれる involvedJという

特徴を持つものであったが、アクティヴ・ラーニングも 「差異の否定」の標的か

ら免れることはない。再三述べているように、 一部の学生にとっては、 「考える」

ことは労力を要し、時聞がかかるダルい活動なのである。しかし、こうした学生

に対してこそ効果を発揮してこそのアクティヴ・ラーニングとならねばならない。

この 「否定」を回避しながらアクテイヴ・ラーニングは遂行されねばならないのだ。

5.回避できる問題

以上に述べた、「時間と差異の否定jは、 「問題の否定」に直結する O 先に取り

上げた 11自分の知らないこと」は 「存在 しない」ことにする」を、11自分のわ

からない問題」は「存在しない」ことにする」と言い換えても間違いではないだ

ろう 。

アクティヴ ・ラーニングを有効に機能させる場合、 「問題=わからないことj

をどのように概念定義すべきなのかを考えねばならない。第一の条件は 11存在

しない」ことにできない」というものであろう 。いかにしても無視することがで

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リアクティヴ ・ラーニング パッシヴな学習についての試論

きない問題とはいかなる問題なのかを考えねばならない。(21)

差し当たって、ドゥルーズの思想を参照しながら「回避できる問題」、「存在し

ないことにできる問題」について考える。 ドゥルーズは 『差異と反復』において、

「我々は、問題とは、前もって与えられる一定のすっかりできあがったものだと、

そして、答えもしくは解のなかで消失するものだと信じ込まされているJ(22) と

述べている。だがこうした理解は「幼稚、小児的」であるとドゥルーズは言う。

そうした信念は、ひとつの小児的な先入見で、ある。問題を出すのは先生で

あって、我々の仕事はそれを解くことであり 、この仕事の結果は、ひとつの

強大の権威によって真あるいは偽という質が付与される、と考える先入見で

ある。また、そうした信念は、露骨に、我々をいつまでも子どもにしておこ

うとする、ひとつの社会的先入見である一一。(23)

以上の言葉からわかることは、こうした理解が 「問題」概念としては不適切で

あり、そしてこの不適切な「問題」概念は、あらかじめ用意されたものである、

ということである。既に述べたように、この種の「問題」は「解答」が与えられ

た途端、そのなかに「消失」してしまい、もはや問題となることはなく、解答に

沿って、それが「正しい問題」であったか、あるいは「間違った問題」であった

かが決定される。

当然のことながら、学校が提供する「問題jにはもれなく「鮪'答」が付 いてく

るのだ。 ドゥルーズによれば、こうした問題概念の理解は、「悔い改めJ(剖)とし

てしか機能しない。あらゆる行動を「道徳観点」から断罪し、学力 (こんなもの

が存在するのか甚だ疑わしいが)を「点数」で断罪し、学生に「主体化=服従

(assujettissement) Jを求める「学校」に、 いかにも似つかわしい「問題」理解

ではないか。Brousse(2009)が述べるところの、「統計学的超自我J(お)は学校

や予備校においてこそ出現する。学生は、既成の解答の 「再認=答え合わせ」に

よって、数字によって、自らを裁き続けねばならない。そんな生活に疲れ果て、「無

関心」になりたくもなるというものだ。稲田 (2013)が指摘しているように、ドゥ

ルーズは、新たな実在的経験=新たなものとの出会いが、知っていることを全て

やりつくした「全疲労」から、「ちっぽけな差異」の再発見、つまり思考の兆し

を見せると考えているが、以上に述べた学生の持つ無関心は、「全てをやりつく

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21世紀倫理創成研究第9号

した疲労」ではないだろう 。(26)

「問題」の立て方を変更せねばならない。習慣が消し去ってしまう 「差異」を

思考するような回避不可能な問題とはいかなるものか。教師はそうした問題を学

生に供給することができるだろうか。本稿はこの 「習慣」を破壊する教育の司能

性を、 「魅惑」というものに求めてみたい。

6.回避できない問題=魅惑

今一度、差異の特性をドゥルーズの言葉に従って確認しよう 。習慣によ ってか

き消されてしまう 「差異」とはいかなるものか。

新しいものの本質、 言い換えれば、 差異は、今日も明日も再認の威力であ

ることはない或るいくつかの威力を、思考のなかで駆り 立てること、すなわ

ち、決して再認されたことがなく再認可能でもない未知の領域における、再

認とは全く異なるモデルの或るいくつかの力を、思考のなかで駆り立てるこ

とである (27)

そうした、思考せよと迫ってくるなにものかがこの世界には存在する。本稿で

はこれを 「学ぶ」ということと接続して考えねばならない。人が受動的総合=至

福から、 「学ぶ」という状態に移行するためには、その人を掴んで離さない力が

必要である。

例えば、ホワイトヘッドが 『教育の目的j(1929)のなかで述べている 「ロマ

ンス」はどうだろうか。彼の述べる 「ロマンス」は、アクティヴ ・ラーニングと

いうよりは、 子供の発達段階の一段階として設定されている。 しかし、 「学習J

の始動因としては最良のモデルの一つであるとも言える。彼によれば、人間は、「ロ

マンスの段階」、「精確化の段階」、情動と知識の 「総合化の段階」を経て物事を

学んで、いく 。ロマンスの段階は「人生の最初の 12年間J(28)に設定されている。

中でも、 8-13歳頃にかけての学習は、ホワイトヘッドによって以下のように描

かれる。

観念、 事実、関係性、物語、歴史、可能性、そして言語や音や、形式や色

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リアクティヴ ・ラーニング パッシヴな学習についての試論

彩の使い方が子供の生のなかに溢れ、その感情を揺さぶり、価値判断を昂揚

させ、仲間との活動する衝動を駆り立てる。(却)

ここでは、幼児期の子供の好奇心が学習のファクターとして考えられている O

しかし重要なことは、ホワイトヘッドが、「総合化の段階」について述べる際に、

次のように述べていることである。すなわち、「整理された諸観念、そして効果

的な技術という進歩を身につけて、ロマンテイシズムに回帰するJ(制。要するに、

この三つの段階の「サイクル」こそが、学習のプロセスであるというのが彼の考

えなのだ。従って、教師は、ロマンスから、知識の精確化を経て、総合の段階に

至るその時、その最終段階が、新たなロマンスの段階になるように配慮せねばな

らない。(31)この円環が達成される時、次の学習は常に再開される可能性を持つ。

だが、ここで問題になるのは、講義型の授業で疲労仕切っている学生が、新た

にこのロマンスの段階をいかに取り戻すか、であろう 。この 「ロマンス」はサイ

クル的に再来するものではあれ、 一度学習そのものを厭うようになった者たちの

学習再開の可能性については触れられていないように見える。そこで本稿では、

学生が日常生活のなかで、学習よりも価値のあるものとみなしている事柄、今夢

中になっているもの、ある意味で、「ロマンス」というよりは、より「感性的な

もの」、それによって既に魅惑されているもの、これを教育で用いる方法を主張

したい。回避できない問題を語るためには、学生が「ダルさ」であらゆる現象か

ら「差異」を引き抜いてしまう存在である以上、それが学生一般に遭遇可能な問

題として設定されるよりも、ある個別的主体がそれに遭遇し、主体がその問題に

掴まれ引っ張られるような、「魅惑」として出現するものである必要がある。(32)1回

避できない問題」とは、個別的な「魅惑」にほかならない。

もはや学習へのロマンスはないかもしれない。しかし、その人を捉えて離さな

い、その人だけの「問題」を考えることから教育を再開させることはできないだ

ろうか。ここで、「講義」の力が生きてくるのだ。当然、その講義の形式は、「試

験目的」ではあり得ない。

7.シーニュと問題形成

学生の生活は当然のことながら、事実として「学校」ゃ 「大学」以外の環境で

も存在する。学校では興味をそそるものがなくても 、日常生活のなかで関心を引

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21世紀倫理創成研究第9号

くもの、それぞれが魅惑されているものはあるだろう 。それは例えば、流行りの

音楽かもしれないし、ファッションや、TV番組、アニメ・漫画かもしれない。

しかし、そのどれもが、学究的対象となりうる。つまり、学校が 「知識」という

枠組みを狭めない限りは、 学究的対象のレンジはほとんど無限に拡大できる O こ

れらの事柄についてのデイスカッションなら、教師の手腕次第で積極的なものに

構成できるだろう 。例えば、高校 ・中学教育ならば、ゆとり教育によって導入さ

れた 「総合的な学習の時間」 卜分利用可能である。教師に指導できるだけの知識

がないのならば、 学生とともに学べば良い。実際 「ともに学ぶこと」は、 「知の

ドグマティックなイマージ、ュ」、つまり本稿流に言い換えれば学生を服従させる

ような「答え合わせの解答」を形成することに抵抗する最良の手段である。 ドゥ

ルーズは以下のように語っている。

我々 は、「私と同じようにやれJと言う者からは何も学ぶことはない。我々

にとっての唯一の教師は、我々に対して 「私と共にやりなさい」と言う者で

あり 、この教師は我々に、再生すべき所作を提示するかわりに、異質なもの

のなかで展開すべきいくつかのシーニュを発することができる者なのである。(お)

ここから、教師は、「学ぶ者」とともに 「学ぶ者」であるという考えを引き 出

すことができる O ドゥルーズはこ こで、共に活動する教師が 「シーニュ」を発す

る存在であると述べているが、 『差異と反復Jにおいて、「学習jは、シーニュと

応答との関係、「他のもの」との出会いとして考えられている。 ドゥルーズは 「水

泳」の例を好んで良く用いてこれを説明している。水の波の動き、それが発する

シーニュは、身体が持つ動き、つまり、身体が持つシーニュにもともと似ていな

い。この二つの動きの関係を 「共役的に関係付けるとき」に、人は 「泳ぐJこと

を学習する。(34)これを、程度の低い例ではあるかもしれないが、何らかの音楽

を好む学生と 、これを論じるデイスカッションの動きで敷桁することは可能であ

ろう 。例えば、ある音楽を好む学生が、その音楽を聴くとき、 「魅惑」によって

その音楽を様々な点において体得しているが、しかし、これについて他者のわか

るような言葉で語ることには未だ精通していないとしよう 。そこで、 音楽や国語

の教師が、自らこの音楽を聴き、言葉で語るためにはどうすれば良いかを自ら 「思

考」し、これを生徒の傍で実践する。生徒はこれを傍で直に 「感じ取る」。 再度、

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リアクティヴ・ラーニング パッシヴな学習についての試論

ドゥルーズの言葉を見てみよう 。

或るいくつかのシーニュとの出会いの空間においても、もろもろの特別な

点が互いに相手のなかで繰り返され、そして反復が偽装されながら同時に形

成されるのであって、 学習するということは、まさにそうした空間を構成す

ることなのである。(35)

生徒は、その教師の発するシーニュ、 音楽を主題にしてデイスカッションする

ためにはどうすればよいかを、そのシーニュを自らのうちで「偽装」しながら、

同時に独自の仕方で 「形成」する。その者を掴んで離さない、回避不可能な問題

ならば、学生はこの運動に乗ってくるはずである。学校 予備校的な知は、その

学生にとって、無理やりその学生を数字(偏差値、成績)によって引きずり回す

ものであったかもしれないが。そこでこそ、 学生を魅了するショックは、新たな

「問題」として学生自らが構成するものとなるだろう 。そこに問題の真偽のジヤツ

ジはない。受動的な i(触発される)感性」を用いる授業こそが (リ)アクティヴ・

ラーニングといえるのではないか、と本稿は主張する。

もちろん、たった一回の授業でこの営みが完遂されるはずはない。日々の繰り

返しが必要である。しかし、例えば高校-中学の 「総学」の時間は限られている。

そこで、日々の講義型の授業を試験目的から逸脱させ、その形式を「知を楽しむ」

という点に焦点を置いて変化させることが重要になる。教師は自らの語る事柄を

楽しみ、 学生の前で、学生にともに楽しむように促す。(36)こうした授業の準備

は相当な時間を要するものだろう 。多忙を極める日本の教師たちは、この大きす

ぎる課題の前に 「やる気」を無くすかもしれない。しかし、 「差異」 が思考の始

まりなのだとすれば、 自らが 「差異Jを感じ取る教師になること 、これが重要で

あろう 。「習慣」は生きる上で否定しえない。だから、間欺的に、そうした「差異」

を感じ取る訓練を実践し、はずむ心を鍛えるのだ。圏分 (2011)も、「退屈で、暇

な日常」に彩りを持たせる方法としてこうした点を重視している。(37)日々 の疲

れを、無差異状態=暇や退屈が増幅させている可能性は大いにある。だからこそ、

楽しんで 「学ぶ」教師の姿を見た「何にも関心のない学生」も 、「差異」を感じ

取る生活のシーニュを受け取ることができる可能性を見出すかもしれない。 ドゥ

ルーズの言葉で締めくくろう 。「恩考させるものへ導く道の上では、まことに、

すべては感性から出発している」。 側

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21世紀倫理創成研究第9号

(1)アクテイヴ・ラーニングに関する文献で最初期のものに、 CharlesC.

Bonwell, James A. Eison, Active Learning: Creating Excitement in the Clωsroom,

1991がある。ここにもやはり、多くの人が直観的にアクテイヴ・ラーニン

グを理解しており、 具体的には把握できていない、という 記述がある (同

書 p.l)。

( 2) http://www.mext.go.jp/b_m巴nu/shingi/ chukyo/ chukyoO/toushin/132504 7

htmで閲覧可能。

(3)中央教育審議会 「新たな未来を築 くための大学教育の質的転換に向けて~

生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ (答申)J (2012)、p.37(上

記の URLにて閲覧)

(4)西川純 『高校教師のためのアクテイブ・ラーニング』、東洋館出版社、2015年、

p.l5

( 5) Ibid., p.l7

(6) Martha C. Nussbaum, Not for profit, Why democracy needs the humanities,

Princeton university pr巴ss,2010, p.l34 (邦訳 『経済成長がすべてか?デモ

クラシーが人文学を必要とする理由』、岩波書宿、 2013年、 p.l72)

(7)溝上慎一『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』、東信堂、

2014年、 p.l2-15

( 8) Gilles Deleuze, DifJerence et Repetion, Presses universitaires de France, 1972,

p.l73 (邦訳 『差異と反復 (上)j財津理訳、河出書房新社、 2007年、 p.354)

(9)圏分功一郎 『ドゥルーズの哲学原理』、岩波書庖、2013年、 p.91

(10) Deleuze (1972) ,p.101 (邦訳p.207)

(11) Bonwell/Eison (1991) ,p.2

(12) Deleuze (1972) ,p.l02 (邦訳 p.209)

(13) Michel Foucault, Dits et ecrits, tome2 : 1976-1988, Gallimard, 2001, p.l056 (邦

訳 『ミシェル・フーコー思考集成 IXj蓮賓重彦ほか訳 ・編、筑摩書房、

2001年、 p.26)

(14) Mich巴1Foucault, Histoire de la sexualite 1 : La volonte de savoir, Gallimard, 1976,

p.l25 (邦訳 『性の歴史 I知への意思j渡辺守章訳、新潮社、 1986年、 p.l23)

フーコーの権力概念は、そもそも 「法的」なものではない。法は、フーコー

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リアクティヴ ・ラーニング パッシヴな学習についての試論

の文脈では一種の「暴力」として把捉される。なぜならば、 It去」は「言う

ことを聞かない自由」を認めないからである。行使される者は徹底的に受

動性の極に置かれる。フーコーはこの種の暴力的な 「力」を「君主権的権力」

とJI乎ぶことがある。これに関しては MichelFoucault, Le pouvoir psychiatrique,

Cours au College de France. 1973・1974,Hautes etude, Gallimard/Seuil. 2003 (邦

訳 『ミシェル・フーコー講義集成 4 コレージュ・ド・フランス講義 1973

1974年度精神医学の権力』慎改康之訳、筑摩書房、 2006年)を参照。

(15)学校教育、部活動等における「体罰=暴力」の問題は、詳細に論じる必要

のある問題だが、本稿のテーマ上、これについてはまたの機会に譲ること

にする。

(16)こうしたアクテイヴ ・ラーニングの問題点は、実際に数値で確認すること

ができる。2012年にベネ ッセ教育総合研究所が大学生を対象に行った調査

では、 「単位をとるのが難しくても、自分の興味のある授業がよい」と考え

る学生よりも、「あまり興味がなくても単位を楽にとれる授業がよい」と考

える学生が、 2008年度に比べ 2.2%増加している (1第2回大学生の学習-

生活実態調査報告書」、p.93を参照。http://berd.benesse.jp/koutou/

research/ detail1.php?id=3159)。同じ指摘は、松下佳代・京都大学高等教

育研究開発推進センター[編著]rデイープ・アクティブラーニング大学

授業を深化させるために』、動草書房、2015年でもなされている。同書では

「アクテイブラーニング型授業が普及するほど、学習や学生生活に対する学

生の受け身の姿勢が強まるという皮肉な結果になっている」との指摘があ

る(同書 p.3)。

(17) Deleuze (1972) ,p102 (邦訳 p.209)

(18) Martin Heidegger, G仰 附tωau伊 b仇eI川II.Ab帥t花ei/un匂!g:U.肋Jn仰t

Band 79 Brl陀emerund Fn陀eiめbwぽ苫erl均匂r付trlωage1. Ei的nbl白icki初ndaωsw日ω5iおst2. Gru附md.ゐsatzede“ 5

De仰nkμen附5,Vi川t仕to釘rioKlos引te町r口mann,1四99悦4.S.3 (邦訳『ハイデガー全集第 79巻

プレーメン講演とフライブルク講演1.有るといえるものへの観入 2思考の

根本問題第三部門未刊論文[講演 思いH森一郎、ハルムー卜・ブフナー

訳、富IJ文社、 2003年、 p.5)

(19)内田樹『下流志向学ばない子どもたち働かない若者たち』、講談社、

2∞712009年、 p.27

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21世紀倫理創成研究第9号

(20) Ibid., p.32

(21)山森裕毅『ジル ・ドゥルーズ 超越論的経験論の生成と構造』、人文書院、

2013年、 p.247において、回避できない問題とは 「自分の死と向き合う」問

題であるとされる。これについては機会を改めて論 じたい。

(22) Deleuze (1972), p.205 (邦訳 p.419)

(23) Ibid., p.205 (邦訳 p.420)

(24) Ibid., p.207 (邦訳 p.423)

(25) Marie-Helene Brousse, La psychose ordinaire a la lumier巴 dela theorie

lacanienne du discours, Quarto 94・95Retour sur la psychose ordinaire, ECF, 2009,

p.l3

(26)稲田祐貴 「前期ドウルーズの学習論JU東京大学大学院教育研究科 基礎教

育学研究室 研究室紀要第 39号』、2013年、 p.l13) ドゥルーズの 「全疲労」

と 「ちっぽけな差異」 については、 Deleuze(1972) ,p.l08 (邦訳 p.220)を

参 日召 A

~ '"山

(27) Deleuze (1972), p.l77 (邦訳 p.363)

(28) Alfred North Whitehead, The aim of education and other essays, Macmillan

Company, 1960, p.37 (邦訳「ホワイトヘッド著作集 第9巻 教育の目的J森

口兼三 ・橋口正夫訳、松籍社、 1999年、p.39)

(29) Ibid., p.33 (邦訳 p33)ドゥルーズもまた 『差異と反復Jで、 受動的総合か

ら能動的総合へ移行する際に、歩き始めた幼児に着目する場合があるが、

そのプロセスはホワイトヘッドとは大きく異な り、精神分析と並行して語

られる。両者の差異は、それ自体大きな問題であるため、本稿では見送る

ことにする。

(30) Ibid., p.30 (邦訳 p.29)

(31)村田康常 「ホワイトヘッド哲学における教育のリズム論。生命、自然、八問、

教育の連続性J(r名古屋柳城短期大学紀要 第33号』、2011年、p.85)にホ

ワイトヘッドの教育のサイクルを明解に述べた箇所がある O

(32)この種の魅惑の力については、興味深い分析を行っている、李珍景 『不穏

なるものたちの存在論 人間です らないもの、 卑 しいもの、取るに足らない

ものたちの価値と意味』、2015年、インパク卜出版、 p.21O-258参照。なお、

筆者は、本文で述べた魅力とはまた別の、動機付けモデルとしての ARSC

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リアクティヴ ・ラーニング パッシヴな学習についての試論

モデルに対し無自覚ではない。 しかし、今回は ARSCモデルの検討は枚数

の都合上、省略した。

(33) Deleuze (1972), p.35 (邦訳 p.74-75)

(34) Ibid., p.35 (邦訳p.74-75)

(35) Ibid., p.35 (邦訳p.75)

(36)溝上 (2015)の指摘では、アクティヴ・ラーニングは講義型授業から能動

的活動への「学習パラダイム」の変換として把握できる o 溝上慎一「アクティ

ブラーニング論から見たディープ ・アクテイブラーニングJ(松下 ・京都大

学高等教育研究センター (2015)、p33)を参照。

(37)図分功一郎 『暇と退屈の倫理学J、朝日出版社、 2011年、 p.343-344参照。

(38) Deleuze (1972) ,p.188 (邦訳p.386)

所属 (神戸大学人文学研究科博士課程/京都市立西京高等学校地歴公民科)

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