+ All Categories
Home > Documents > URL - HERMES-IR |...

URL - HERMES-IR |...

Date post: 29-Sep-2020
Category:
Upload: others
View: 0 times
Download: 0 times
Share this document with a friend
20
(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤 一九七〇年代 移行期における はじめに 一九七〇年代にタイは大きな変動をいくつも経験 七三年にはそれまで一五年間続いていた軍事政権が崩壊 し、議会制民主主義の導入が試みられることになった。 七六年にはクーデターによって再ぴ議会は閉鎖され、言 論.集会の。自由も厳しく制限されるようになったが、七 七年に再度クーデターが起き、それ以降は政治的な自由 も徐々に回復され、七九年には国会も再会された。経済 面では七〇年代は輸入代替型工業化から輸出指向型工業 化への移行が摸索され始めた時期にあたる。タイ政府は 七二年に投資奨励法を改正し、輸出産業への投資を奨励 する姿勢を打ち出した。実際にタイの工業製品輸出が本 輸出指向型工 椿的に増加しだしたのは八○年代後半にな るが、七〇年代においても繊維産業など一部の いては輸出が大きな比重を持つようになった。 本論文は、政治的にも経済的にも大きな変化のあった 一九七〇年代のタイの労働運動について、軍事政権に抑 えつけられていた労働運動が政府に対して一定の発言力 を持つまでに成長した七二年から七六年までの四年間に 焦点をあてて考察する。この時期のタイの労働運動を振 り返ることには少なくとも二つの意義がある。まず第一 に、現在のタイにおける政府、労働、資本の三者間の関 係の枠組みの原型は七〇年代に形成されたものであるた め、七〇年代の労働運動を理解することは現在のタイの 労働運動を理解する上で極めて重要である。また第二に、 341
Transcript
Page 1: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一九七〇年代のタイの労働運動

移行期における試行錯誤

ー  はじめに

 一九七〇年代にタイは大きな変動をいくつも経験した。

七三年にはそれまで一五年間続いていた軍事政権が崩壊

し、議会制民主主義の導入が試みられることになった。

七六年にはクーデターによって再ぴ議会は閉鎖され、言

論.集会の。自由も厳しく制限されるようになったが、七

七年に再度クーデターが起き、それ以降は政治的な自由

も徐々に回復され、七九年には国会も再会された。経済

面では七〇年代は輸入代替型工業化から輸出指向型工業

化への移行が摸索され始めた時期にあたる。タイ政府は

七二年に投資奨励法を改正し、輸出産業への投資を奨励

する姿勢を打ち出した。実際にタイの工業製品輸出が本

■  ●

輸出指向型工業化への

浅  見

靖  仁

椿的に増加しだしたのは八○年代後半になってからであ

るが、七〇年代においても繊維産業など一部の産業にお

いては輸出が大きな比重を持つようになった。

 本論文は、政治的にも経済的にも大きな変化のあった

一九七〇年代のタイの労働運動について、軍事政権に抑

えつけられていた労働運動が政府に対して一定の発言力

を持つまでに成長した七二年から七六年までの四年間に

焦点をあてて考察する。この時期のタイの労働運動を振

り返ることには少なくとも二つの意義がある。まず第一

に、現在のタイにおける政府、労働、資本の三者間の関

係の枠組みの原型は七〇年代に形成されたものであるた

め、七〇年代の労働運動を理解することは現在のタイの

労働運動を理解する上で極めて重要である。また第二に、

341

Page 2: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (2)

輸出指向型工業化への移行の初期段階にあたる七〇年代

の労働運動を分析することは、近年労使関係の研究者の

間で盛んになされている輸出指向型工業化政策への転換

が労使関係に与える影響についての議論にも貢献するこ

とができると思われる。

 輸入代替型工業化から輸出指向型工業化への転換が発

展途上国の労使関係に与える影響については二つの相対

立する説が唱えられている。第一の説は、輸出指向型工

業化への転換は労使関係を抑圧的、敵対的なものにする

と主張する。海外市場での激しい価格競争に勝つために

資本家は以前にも増して労働者の賃金を低く抑えようと

するため、労使関係は抑圧的、敵対的なものになるとい

うのである。これに対してもう一つの説は、輸出指向型

工業化への転換は労使関係を以前ユりも宥和的、協調的

なものにすると主張する。海外市場、特に先進国の市場

を主な販路とする場合には、品質も一定の水準に達して

いないと売り上げを伸ばすことはできない。しかし労使

関係があまりに敵対的では品質向上は難しい。このため

経済全体の輸出指向が強まるにつれ、品質向上のために

労使関係を宥和的、強調的なものにする努力が企業や政

              (1)

府によってなされるというのである。

 どちらの説が正しいかは、どちらの説が現実をよりよ

く説明できるかによって判断するしかないが、一九七〇

年代のタイの労使関係の変化はどちらの説にようてもあ

まりうまく説明することができない。タイの事例は、労

使関係は工業化のレベルや工業化戦略などの経済的要因

によって一義的に決定されるものではないことを示して

いると言えよう。

革命団布告一〇三号制定から一〇・

政変までの労働運動

一四

 一九五八年十月、クーデターによって全権を掌握した

サリットは、主だった労働指導者を次々と逮捕し、すべ

ての労働組合に解散を命じた。それ以来タイでは労働団

結権が認められない状態が続いたが、サリットの後継者

タノームは七二年三月に革命団布告一〇三号によって限

定的な形ながら団結権を認めるようになうた。

 革命団布告一〇三号による労働団結権の回復は、陸軍

の支持を得た労働局の官僚が経営者や投資委員会(BO

I)などの反対を押し切る形で行われた。表1に示され

342

Page 3: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(3)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

表1 スト件数の変化

 年  スト件数

1956   121957   211958   41959   111960   21961   21962   31963   41964   61965   171966   171967   21968   141969   181970   251971   271972   341973

9月以前  148

’欄降::l

1975   2411976   1331977   71978   211979   641980   181981   541982   221983   281984   17

(出所) γω沁oo正o∫〃㎞〃

 ∫伽庇∫‘㏄5Department

 of Labour,各年版

特でせ合主労陸加政つ労増務きたを義働軍を府て働加機る方作の者内防に労局傾関とがら温が部ぐ伝働の向をい労せ床地でこえ者官を中う働’に下もとらの僚示心考者反な活’がれ不たすにえの共り動労でる満ちよ広方間的やに働きよがはうまがになす専組るう労’につ’共労く念合とに働労なて共産働’すを考し組働つい産主者逆る禁えた合者てた主義にによ止る方をにおの義が労政うしよが通団りで対広働府に続うかじ結’あ(策ま運のなけにえて権こる3をる動指りるなつ定をう。専のの導’とつて期与し 門を指のか不てス的えた に防導下え満いトにる傾 しぐ権でつをた件経こ向 てこを労ても。数営とに いと握働共つまの者に対 たがら組産たた増やよし

はだ党りた 基でIム見た遠。(に国タ盤あLがに軍孟享麦塞書イ裏;寒葱恩膚ぱ人斥議六ムめがI団しもず民窒員九はて’F結な政;’連ぎ選年一いもC権い府.タ合勺挙に九たうTを軍主;ノ党冨が再五こ一U回人導.1は争行開八とつな復もで十ム第竃なし年ににどさか労政一→わち以よはかせな働’権党すれ 来るタらるり運一がに邑’国閉。ノのこい動国は タ会鎖  1国とたを民なをノ再さ ム際にに組かっ組1開れ が的しも織らた織ムにた 新なたかす」強もしは先ま た圧のかべ1いのてタ立ま な力はわきi支め選イちに 政に’らガ=

ているようにタイ国内のスト件数は一九六〇年後半・から

増加傾向を示すようになっており、こうした傾向に対し

労働局の官僚たちは、労働者に団結権を与えることによ

って労働者の不満が労働組合を通じて定期的に経営者や

政府に伝えられるようにした方がかえってスト件数の増

加を防ぐことができると考えるようになっていた。また

陸軍内部でも、労働組合を禁止し続けると不満をもった

労働者が地下活動に専念するようになり、かえって共産

主義の温床になりやすく、逆に政府の指導の下で労働組

合を作らせ、反共的な労働者に労働運動の指導権を握ら

せた方が労働者の間に共産主義が広まるのを防ぐことが

できるという考え方が、共産主義対策を専門にしていた

                (2)

特務機関を中心に広まっていたのである。

 大蔵省や投資委員会の官僚の間では反対論が強く、ま

た軍内にも政府主導で労働運動を組織すべきだという意

見に同意しない軍人もかなりいたにもかかわらずタノー

ムが労働団結権を回復させることにしたのは、一つには

ILOやIFCTUなどからの国際的な圧力によるもの

であったが、もう一つにはタノームが新たな政治的支持

基盤を求めていたことによる。

 タノームは一九五八年以来閉鎖されたままになってい

た国会を六九年に再開した。国会再開に先立ち一一年振

りに国会議員選挙が行なわれ、タノームはタイ人民連合

党(勺臣斥窒ぎ~g訂『↓す邑を組織して選挙に臨ん

だ。タイ人民連合党は第一党にはなったもの、の過半数に

は遠く及ぱず、タノーム政権が国民から強い支持を受け

343

Page 4: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (4)一

ていないことを露呈することになってしまった。タノー

ムは選挙後無所属議員を大挙してタイ人民連合党に入党

させることによってなんと・か国会での過半数を確保した

が、いざ国会が開かれると野党からの攻撃に加えて与党

内の内紛も表面化し、国会運営に苦慮することになった。

国会再開に先だってタノームが制定した一九六八年憲法

では国会の権限は大きく制限されており、首相の指名や

内閣不信任決議を行う権限は国会には与えられていなか

うたが、それでも予算案の審議などでタノームは国会運

営に非常に手こずったため、国会再開後わずか二年九か

月後の七一年十一月、クーデターを起こして再び国会を

閉鎖してしまった。

 六九年の選挙とその後の国会運営の中で自らの政権に

対する支持が揺らいでいることを痛感したタノームは、

七一年十一月のクーデター後、国会に諮ることなく「革

命団布告」という形で法律を次々と制定することができ

る状況を利用して、新たな政権支持基盤を獲得するため

にいくつかの新政策を打ち出した。労働者に団結権を認

め、法定最低賃金制度を導入するという革命団布告一〇

三号は、クーデターから四か月後の七二年三月、こうし

た状況の中で出されたものであった。

 ただし革命団布告一〇三号によって認められた労働団

結権にはいくつかの制限が加えられていた。革命団布告

一〇三号は、労働者が結成する団体を「労働組合」(竃-

罫昌胃O冨彗Oq-晶與ヨ)ではなく「従業員協会」(竃ヨ苧

葦o昌;ぎぎ畠)と呼ぶこととし、従業員協会は政治

には一切関与してはならないと規定していた。また従業

員協会は、同一企業の従業員または同一の県内にある同

一業種に従事する労働者によって構成されなければなら

ないとされ、全国的な産業別組織やナショナルセンター

を結成することは認められなかった。従業員協会設立に

あたっては規約等を労働局に提出して労働局から認可を

もらう必要があるとされ、さらに設立に参加する労働者

全員の詳細な履歴書を警察をはじめとする政府の関係部

局に提出することが要求された。また、革命団布告一〇

三号は労働者がストライキを行なうことを認めていたが、

ストライキを合法的に行なうためにはいくつもの手順を

踏む必要があった。労使の聞に当事者同士では合意に達

することのできない意見の対立が生じた場合には労働局

に直ちにその旨通知し、まず労働局の調停作業を受けな

344

Page 5: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(5)1970年代のタイの労働運動1輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

ければならず、労働局の調停作業が不調に終わった場合

にのみストをすることができるとされた。

 労働局の官僚は数多くの従業員協会が一斉に結成され

て混乱した状態に陥ることは避けたいと考えており、ま

ず労働局が信頼できると考えていた労働指導者がいる職

場に従業員協会を結成させ、それらの穏健的な従業員協

会にタイの労働運動のリーダーシップを握らせたいと考

えていた。このため革命団布告一〇三号の制定後も労働

局は従業員協会結成を積極的に奨励しようとはしなかっ

た。一方労働者の側は、従業員協会設立のために設立参

加者の名簿を提出するとあとでその名簿に名前が載った

者は共産主義者として逮捕されるという噂が流れたこと

もあってタノーム政権の真意をはかりかね、しぱらく静

観するという態度をとうた者が多かった。このため、一

九七二年のうちに結成された従業員協会はわずか九つし

   (3)

かなかった。

 一九七三年に入るとストの件数は急増し、一月から九

月までの九か月間だけで一四八件のストが起きた。中で

も七三年五月に発生したムアンタイ製鋼のストはその後

の労働運動に大きな影響を与えることになった。七三年

五月十九日ムアンタイ製鋼で夜間作業中の労働者が重傷

を負うという事故が起きたが、工場側は重傷を負った労

働者をすぐには病院に連れて行かず、朝まで工場内の床

の上に寝かせておいた。こうした工場側の対応に不満を

持った労働者たちは、今後労働者が怪我をした場合には

深夜でも病院に連れていくことを経営者が約束すること

を要求して一斉にストライキを始めた。当時ムアンタイ

製鋼には従業員協会は結成されていなかったが自然発生

           (4)

的にストが発生したのである。

 ムアンタイ製鋼でストが起きた七二年五月の時点では

労働局に正式に設立を認められた従業員協会の数はタイ

全国で一六になうていたが、その一六の従業員協会は六

月三日に合同会議を開き、ムアンタイ製鋼での労働争議

に対する対応を協議した。そ似結果、ムアンタイ製鋼の

労働者は労働局の調停作業が始まる前にいきなりストに

突入したので彼らのストは違法であり、従ってこのスト

を支援することはできないという結論に達した。これは

当時労働局から正式に設立を認められていた従業員協会

が労働局が定めた枠組みを踏み出すことに対して非常に

               (5)

慎重だったことを示すものといえよう。

345

Page 6: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢 第115巻 第2号平成8年(1996年)2月号(6)

 こうした状況の中、当時盛んになりつつあった学生運

動の指導者ティーラユヅト・ブン、ミー(↓巨冨言一

害目邑)が六月十日に他の学生数人とともにムアンタ

イ製鋼を訪れ、調停を試みたことをきっかけにムアンタ

イ製鋼の争議は新たな展開を見せるようになうた。テイ

ーラユットの調停の試みは失敗に終わったが、その直後

から、既存の一六の従業員協会のムアンタイ製鋼の争議

に対する態度は大きく変化し、争議を積極的に支援する

ようになったのである。これは一つには新聞等にムアン

タイ製鋼労働者に同情的な記事が載るようになったこと

もあって一般協会員の間からムアンタイ製鋼労働者に対

する同情の声が強くあがるようになうたことによるもの

であるが、もう一つにはこれらの従業員協会に大きな影

響力を持っていた労働局が、学生活動家が争議支援の中

心になると未組織の労働者が過激な方向に走る可能性が

あると考え、それを防ぐためには既存の従業員協会が中

心となって争議支援が行なわれるようにした方がいいと

判断したことによる。既存の一六の従業員協会はストを

続けるムアンタイ製鋼の労働者のために炊き出しを行な

い、また鉄鋼金属従業員協会の委員長であったパン.ウ

オンディーはムアンタイ製鋼の労働者の代表が経営側と

交渉を行なう際には必ずアドバイザーとして同席するよ

   (6)

うになった。

 六月十五日にはムアンタイ製鋼の労働者約二一二〇名が

鉄鋼金属従業員協会の支援を受けて総理府に行き、窮状

を訴える首相宛の手紙を総理府副長官に直接手渡すとと

もに争議が解決されるまで総理府前で座り込みを行うと

宣言した。総理府副長官がその日のうちに経営者に直接

電話をして労働局の調停に応じるように要請したことも

あり、翌十六日に労働副局長立ち合いのもとで経営者側

と労働者側の代表の間で話し合いがもたれ、経営者側が

今後労働者が負傷した場合には夜間でも直ちに病院に連

れていくことを約束するとともに、争議期間中収入が途

絶えた労働者に対して一人当たり二〇〇バーツの「見舞

                     (7)

金」を支払うことで合意が成立し、争議は終結した。

 タノーム政権が、「違法スト」中の労働者による総理

府前での座り込みを取り締まらなかっただけでなく、労

働者側の要求を受け入れるように経営者に間接的に圧力

をかけたことは、ムアンタイ製鋼の争議を関心をもって

見つめていた他の経営者たちに少なからぬシヨックを与

346

Page 7: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(7) 1970年代のタイの労働運動1輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

   (8)

えたという。揺らぎ始めた政権の正当性を回復すること

に躍起になっていたタノームは、世論に敏感にならざる

を得ない状況にあり、世論の支持が寄せられていたムア

ンタイ製鋼の争議に対してはあまり強圧的な態度をとる

ことはできなかったのである。

3 サンヤー政権下の労働運動

 一九七三年十月タノーム軍事政権は、大学生を中心と

する大規模な民主化要求デモによって崩壊した。新憲法

下で国会議員選挙が行われるまでの期間は、国王の命を

受けてサンヤー・タマサック前タマサート大学学長を首

班とする臨時内閣が国政を担当することになった。七三

年十月から七五年一月までのサンヤー内閣時代には言

論・集会の自由が大幅に認められる一方で第一次石油シ

目ツクの影響で物価が急上昇したため、表ーに示されて

いるように数多くの企業で次々と労働争議が起きるよう

になづた。

 一九七二年末頃から労働局は各従業員協会の指導者た

ちを定期的に労働局に招き、従業員協会問に横のつなが

りができるように努力していた。ムアンタイ製鋼での労

働争議に際して一六の従業員協会が合同で会議を開いて

対応を協議することができたのもそれらの従業員協会の

指導者が労働局で定期的に開かれる会合を通じてすでに

互いに顔見知りになっていたからであった。こうしてし

だいに従業員協会の間に「タイ従業員協会グループ」

(ら目昌蟹昌算ぎ冒■■ぎ=彗的訂彗oq勺轟;g↓訂一)

と呼ばれるインフォーマル組織が形成されるようにな

つ一J一。

 デ

 労働局に設立を正式に認められた従業員協会の数は一

九七四年末までに四五に増えたが、四五の従業員協会す

べてがタイ従業員協会グループの活動に熱心に参加した

わけではない。タイ従業員協会グループで中心的な役割

を果たしたのは主に公営企業に設立された従業員協会で

あった。当時のタイでは一般に公企業の労働者は学歴が

民間企業の労働者よりも高く、賃金の面でも雇用の安定

性の面でも民間企業の労働者よりも恵まれていた。こう

した公企業労働者と民問企業労働者のおかれていた状況

の違いもあって、民間企業労働者の中にはタイ従業員協

会グループが公企業労働者の指導の下で穏健路線を取り

続けることに不満を持つ者がしだいに増えるようになっ

347

Page 8: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号(8)

た。両者の間の対立は、七四年六月に起きた繊維労働者

による大規模なストライキヘの対応をめぐって表面化す

ることになうた。

 一九七四年六月の繊維労働者による大規模なストライ

キは、繊維業協会が六月一日に行った宣言に端を発する。

当時タイの繊維業界は石油ショヅクのあとの世界的な不

況の影響を受けて輸出量が伸び悩んでいた上に、化学繊

維の原材料の輸入価格が高騰したため、厳しい経営状態

に陥っていた。繊維製品を生産する二六の企業にようて

組織されていた繊維業協会はサンヤー政府に対し、化学

繊維の原材料に対する関税の引き下げを要求し、その要

求が受け入れられない場合には生産の大幅縮小と労働者

の大量解雇をせざるを得ないと通告した。しかしサンヤ

ー政府は要求に応じなかったため、繊維業協会は協会に

参加している企業が所有する工場で生産カットと労働者

              (m)

の解雇を行なうと宣言したのである。

 タイ従業員協会グループは六月二日に合同会議を開い

て対応を協議し、繊維業協会に労働者の大量解雇を行な

わないtう要請することにした。八日の午後には労働局

で労働副局長、工業副大臣立ち合いのもとで繊維業協会

の代表とタイ従業員協会グループの代表との間で話し合

いがもたれ、その席で繊維業協会が労働者の大量解雇は

行わないことを約束し、また八日までにすでに解雇した

労働者については再び職場に復帰させると発言したため、

タイ従業員協会グループの代表は即座にストを中止する

ことにA呈思した。

 交渉の結果は直ちにサムットプラカーン県のプラパデ

ーン地区で集会を開いていた繊維労働者たちに伝えらえ

たが、繊維労働者たちは労働局での話し合いに自分たち

の代表が招かれていなかったことを不服として、繊維業

協会とタイ従業員協会グループとの問になされた合意に

従うことを拒否し、ストを継続する圭旦言した。翌九日

には約三千人の繊維労働者が労働局前で座り込みを始め、

十日にはプラシット・チャイヨー(写塞岸O訂qO)と

タードプーム・チャイディー(↓プω邑り=ご目OすO己8)

らが繊維労働者の代表として政府に対して七項目の要望

書を提出した。そのうちの二項目は繊維業協会とタイ従

業員協会グループとの間で合意に達した内容と同じもの

であったが、そのほかに最低賃金を一日:ハバーツから

二五バーツに引き上げること、革命団布告一〇三号を改

348

Page 9: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(9)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

正して全国的な産別組織やナシヨナルセンターを作るこ

とができるようにすることなどさらに五項目が加えられ

た。

 日を追うにつれてストに参加する労働者の数は増え、

一番多い時には二万人近い労働者が労働局周辺に集まっ

たという。また学生運動や市民団体からもさまざまな支

援が寄せられるようになうた。結局六月士二日にサンヤ

ー政府は最低賃金をニハバーツから二〇バーツに引き上

げ、また早急に新労働関係法を制定して労働者がナシヨ

ナルセンターを作ることができるようにすると約東する

ことで何とかストを終結させた。

 結果的に繊維労働者だけでなくすべての産業の労働者

に適用される最低賃金を引き上げることまで政府に認め

させることに成功したことによって繊維労働者のストを

指導したプラシソトとタードプムの人気は一気に高まる

ことになった。逆に早い段階でストを中止するよう繊維

労働者に呼びかけ、しかもその呼びかけを繊維労働者た

ちに拒否されたタイ従業員協会グループのイメージは大

              (11)

きなダメージを受けることになうた。

 また七四年六月の繊維労働者のストライキは、繊維労

働者の運動と学生運動を強く結び付けることになった。

数千人の労働者が数日間にわたウて労働局周辺で座り込

みを続けることができたのは、大学生らが食事の手配を

したり、カンパを募って資金援助をしたことによるとこ

ろが大きい。学生運動の中でも繊維労働者のストを最も

積極的に支援したのは農民、労働者、学生の「三連帯」

(サームプラサiン)によって既成の政治的、経済的構

造を根本的に変革することを唱えていたFISTと呼ば

れるグループであウた。繊維労働者のストの後、タード

プムを委員長、プラシットを副委員長として「全国労働

者連帯センター」(ω自目勺冨竃∋白oq彗目穴印昌目}ぎ;

ぎ昌①qo訂邑が結成されたが、書記長にはFISTの

リーダーであったセクサン・プラサートクン(ω①斥窒目

          (㎜)

零鶴胃募昌)が就任した。

 全国労働者連帯センターは、七四年八月から九月にか

けて起きたドゥシタニ・ホテルの争議にも勝利を収めた

ことによってその人気をさらに高いものした。ただし人

気は高まったものの全国労働者連帯センターは、組織と

しては脆弱なものにとどまっていた。七五年三月に新労

働関係法が効力を発揮するまではナシ目ナルセンダーを

349

Page 10: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (1O)

結成することが認められていなかったこともあうて、全

国労働者連帯センターには規約もなく、執行部の選出も

正式な選挙ではなく数人の中心的な指導者の間の話し合

いで決められた。会員資格も定めず、会費も徴収しな・か

ったため、その活動資金は主にFISTからの資金援助

に頼っていた。また全国労働者連帯センターは個々の職

場における漸次的な労働条件の改善よりも政治体制全体

の変革を重視する傾向が強く、各職場レベルでの労働条

                    (旧)

件を個別に向上させることには熱心ではなかった。

 一方この時期タイ従業員協会グループの中核をなして

いた公企業の労働者たちは、政府に対して公企業従業員

に対する生活手当の引き上げを求めることに専念してい

た。七四年八月には五つの公企業の従業員協会が連名で

生活手当を三〇〇バiツに引き上げることを政府に要求

し、要求が認められなけれぱ電気や水道を止めると宣言

して政府に圧力をかけ、政府に要求を受け入れさせるこ

とに成功した。公企業従業員の生活手当の引き上げとい

う民間企業労働者には直接関係のない問題にタイ従業員

協会グループが熱心に取り組んだことは、タイ従業員協

会グループは民間企業の労働者よりも公企業の労働者の

利害を代弁する団体というイメージを強化することにな

ったが、公企業従業員の間では着実に労働条件を改善し

てくれる団体というイメージが定着し、公企業の従業員

                 (M)

からは強い支持が寄せられるようになった。

 七四年末まではタイ従業員協会グループの組織形態も

脆弱なものであった。代表以外のポストは定められてお

らず、会議の通知や会議場の手配などの事務的な仕事は

すべて労働局が行っていた。しかし七四年末からは、代

表のほかに副代表や会計などの役職も設けて執行部を設

置することにし、執行都役員を選挙で選ぶことにした。

選挙の結果新代表には首都電力公社従業員協会のバイサ

ン・タワソチャイナン(勺す邑ω印目↓す與峯算o=與巨與自)が

選ぱれた。バイサンが新代表に就任してからは会議開催

の通知や会議場の手配などは労働局に頼らずに執行部が

行うようになるなどタイ従業員協会グループは労働局か

らの自立性を強めるようになった。これはパイサンの個

人的な力量によるところも大きいが、タイ従業員協会グ

ループが全国労働者連帯センターから労働運動の主導権

を取り戻すことを望んでいた労働局が、そのためにはタ

イ従業員協会グループにある程度の自立性をもたせなけ

350

Page 11: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(11)1970年代のタイの労働運動:輸拙指向型工業化への移行期における試行錯誤

れぱならないと判断したことにもよる。なお、タイ従業

員協会グループは、会員資格については労働局に設立を

認められた従業員協会の会員に限ると明確に規定してお

り、学生活動家や政治家など労働者以外の者が会員にな

         (15)

ることは認めなかった。

 新憲法下で国会議員選挙が行われるまでの暫定政府と

して発足したサンヤi内閣は七四年十月に新憲法を制定

し、七五年一月には国会議員選挙を実施した。総選挙の

実施にともないサンヤー暫定内閣は総辞職したが、総選

挙の五日前に新労働関係法を制定した。七五年労働関係

法では、労働者は「従業員協会」ではなく「労働組合」

を結成することができるとされ、全国的な産業別組織や

ナシヨナルセンターを結成することも認められた。ただ

し七五年労働関係法においても労働組合の設立に際して

は労働局に届け出てその認可を得ることが義務づけられ

た。新労働法は三月二十九日から効カを発揮し、それ以

前に労働局に登録を認められていた従業員協会はすべて

三月二十九日をもづて労働組合と名称を変更することに

なった。またそれにともないタイ従業員協会グループも

タイ労働組合連盟(ら目∋霊ぎ昌胃o宛鶉畠.コoq彗目

                       (16)

冨彗oq勺s}g↓訂一)と名称を変更することになった。

 七五年一月に行われた総選挙の結果は第一党となった

民主党でさえ全議席の三分の一も獲得できない小党乱立

となった。まず民主党が中心となった連立内閣樹立の試

みがなされたが、その過程で民主党内の左派と右派の対

立が表面化し、民主党党首セー二1・プラモートを首班

とする内閣は短命に終わってしまった。セー二-内閣総

辞職のあとを受けて新内閣を成立させたのは全議席二六

九のうちわずか一八議席を獲得して第五党となった社会

行動党(;笑ら房彗胴葦o冒)党首のククリヅト・プ

ラモートであった。ククリット内閣は一四の政党からな

る連立内閣で、しかも一四の連立与党の議席をすべて合

わせても全議席の過半数をかろうじて上回るだけという

極めて不安定な状況の中で国政を担当することになった。

4 ククリット政権時代の労働運動

 七五年に起きた労働争議の中でもその後の労働運動の

あり方に特に大きな影響を与えることになった争議とし

ては、五月から六月にかけて起きたスタンダード・ガー

メントの争議と第二次ドゥシタニ・ホテル争議があげら

351

Page 12: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (12)

れる。全国労働者連帯センターはこの二つの争議を全力

を上げて支援したが、どちらの争議においても労働者側

が敗北した。全国労働者センターはそれまで労働争議を

支援する際には、争議が起きている職場の労働者だけで

なく、それを支援する他の職場の労働者もデモやストに

参加させ、放置しておいては政治不安につながるという

懸念を政府に抱かせることにようて政府に労働者寄りの

調停案を出させ、政府の圧力によって経営者に譲歩させ

るという戦術をとってきた。サンヤー内閣の時代にはこ

の戦術が非常に有効であったが、全国労働者連帯センタ

ーとの全国的な対決を決意したククリット内閣は、政治

不安につながる危険を冒してでも全国労働者連帯センタ

ーに対して強い態度をとるようになった。

 ククリットが全国労働者連帯センターに対して強硬な

姿勢で臨むようになったのは、一つには副首相兼国防相

として入閣したプラマーン・アディレークサーン(勺轟-

昌彗目>ま8ぎ彗)の影響による。タイ国民党(勺葦斥

○す胃ヰ臣一)の党首プラマーンは、数多くの繊維工場の

経営にかかわっており、一九七四年六月の繊維労働者の

ストを終息させるためにサンヤー内閣が最低賃金を引き

上げた時には繊維業界の代表として、最低賃金引き上げ

に強い不満を表明するなどサンヤー内閣の労働運動に対

する宥和的な姿勢に極めて批判的であった。またもう一

つには、全国労働者連帯センターに対する世論の支持が

低下したとククリツトが判断したことにもよる。七五年

にはカンボジア、南ベトナム、ラオスが次々と共産化し

たこともあって、バンコクの中間層の間でも共産主義の

脅威が深刻に受け止められるようになり、中間層の多く

が政治的に右傾化したため、全国労働者連帯センターは

                 (H)

中間層からの支持を急速に失ったのである。

 こうした状況の中で全国労働者連帯センターがスタン

ダード・ガーメントとドゥシタニ・ホテルの争議に敗北

したことは、労働者の間でも全国労働者連帯センターの

人気を低下させることになった。七四隼六月の繊維労働

者の大規模なストによって全国労働者連帯センターが多

くの労働者の支持を獲得したのは彼らの政治的な主張が

受け入れられたからというよりも、全国労働者連帯セン

ターの行動によって実際に多くの労働者の賃金が引き上

げられたことによるところが大きかった。このため全国

労働者連帯センターがサンヤー内閣時代のようには争議

352

Page 13: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(13)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

に勝利できなくなると、全国労働者連帯センターに対す

               (㎎)

る労働者の支持も弱くなったのである。

 スタンダード.ガーメントとドゥシタニ・ホテルの争

議に敗れたプラシソトとタードプムは非暴力的な手段で

はタイの労働者の置かれた状況を改善することはできな

いと考えるようになり、七五年六月にセクサンらととも

に一旦国外に脱出してから陸路でタイに密入国し、当時

タイの山岳地帯で勢力を拡大していたタイ共産党と行動

をともにするようになった。全国労働者連帯センターは

委員長、副委員長、書記長の三人がそろって姿を消した

ことにより、七五年後半には実質的に解散状態に陥うて

  (19)

しまった。

 これに対し、タイ労働組合連盟はこの時期それぞれの

職場レベルでの労使交渉によって労働条件を改善するこ

とにも力を入れ、地道な方法で労働者の生活改善に努め

たこともあって、多くの労働者の支持を得るようになっ

た。七五年末には労働組合の数は一一一にまで増え、組

織労働者の数は五万人に達したが、全国労働者連帯セン

ターが活動を停止してからは事実上タイ労働組合連盟が

唯一のナシ目ナルセンターとして機能するようになって

おり、タイ労働組合連盟は当時のタイにおいてはかなり

             (刎)

大きな動員力を持つようになった。

 タイ労働組合連盟は七五年前半までは政府を真正面か

ら批判することは避けていたが、動員力が増加するにつ

れて自信を強め、七五年後半以降はククリソト内閣の政

策を鋭く批判するようになった。七五年九月にはククリ

ット内閣が共産主義者などによる反政府活動を取り締ま

るためとして治安維持法を制定しようとしたのに対し、

タイ労働組合連盟は反対デモを行うなどそれに強く反対

した。さらに十二月から翌年一月にかけてはククリット

内閣が行おうとした米価引き上げにも反対し、生産者米

価だけを引き上げて、消費者米価は据え置くよう政府に

要求した。ククリットは当初この要求を拒否したため、

タイ労働組合連盟は傘下の労働組合にゼネストを行うよ

う呼びかけた。当時タイにあった一一一の労働組合のう

ち約六〇の組合が連盟の呼ぴ・かけに応じて七六年一月二

日に一斉にストライキを始めた。一斉ストが何日も続い

ては政治不安を招くだけでなくタイ経済全体にも深刻な

影響を与えることを危倶したククリツトはスト開始から

四日目にタイ労働組合連盟の要求をほぼそのまま受け入

353

Page 14: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (14)

       (肌)

れることにA呈思した。

 全国労働者連帯センターに対しては強い態度で臨んだ

ククリソト政府がタイ労働組合連盟に対しては譲歩の姿

勢を示したのは、一つにはタイ労働組合連盟は全国労働

者連帯センターのように既存の社会構造の全面的な改革

を主張することはせず、既存の政治経済的枠組みの中で

労働者の暮らしを改善することを目指していたため、保

守層もタイ労働組合連盟に対しては全国労働者連帯セン

ターほどには強い敵対心を持っていなかったことによる。

また一つには全国労働者連帯センターがスタンダード.

ガーメントとドゥシタニ・ホテルの争議をめぐって政府

に対して対決姿勢をとった七五年五月から六月にかけて

の時期はククリット政権がまだ比較的安定していたのに

対し、タイ労働組合連盟が米価引き上げ反対闘争を行っ

た七五年末から七六年初めにかけての時期はククリット

政権は崩壊の危機に瀕していたため、全盛期の全国労働

者連帯センターをも上回る動員力を持つようになったタ

イ労働組合連盟に対してあまり強い態度を取ることがで

きなくなりていたことにもよる。

 消費者米価の引き上げ阻止に成功したことによってタ

イ労働組合連盟の人気は一層高まり、タイ労働組合連盟

が主催した七六年五月のメーデーには一〇万人近くが参

加した。メーデーの式典で行った演説の中でパイサンは、

タイ労働組合連盟をタイ労働評議会(ωε訂『内印彗o目・

晶印;訂彗oq}冨;g↓ぎ一)と改称し、年内に七五年

労働関係法の規定に基づいてナシヨナルセンターとして

                   (羽)

の法的地位を獲得することを目指すと宣言した。

 七六年四月に行われた総選挙の結果ククリットにかわ

って民主党の党首セー二1が再び首相となったが、民主

党内の左派と右派の対立が激化したこともあって不安定

な政治状況が続いた。そうした状況の中で十月に軍がク

ーデターを起こし、七三年十月のタノーム政権崩壊以降

三年間続けられた議会民主主義導入の試みは一旦後戻り

することになった。

5 七六年十月以降の労働運動

 七六年十月のクiデタによって成立したターニン内閣

は言論・出版の自由を厳しく制限し、労働組合に対して

もストライキを行うことを禁止した。ただしサリヅトが

クーデターによって政権を握った時のようにすべての労

354

Page 15: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(15) 1970年代のタイの労働運動1輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

働組合に解散を命じることはしなかった。これは一つに

はパイサンらのタイ労働評議会の指導者たちが政府批判

を控えることを約束したことによるものであるが、また

一つにはタイ労働評議会が政府に全面的対決を薦曙させ

るだけの組織力を持つようになっていたことにもよる。

労働運動を徹底的に弾圧すると、当時急速に勢力を拡大

していたタイ共産党に多くの労働者が参加することにな

ることを政府が恐れたことも労働組合を全面的に禁止す

ることを思いとどまらせることになった。

 ターニン内閣時代も労働運動は完全につぶされること

はなかうたが、その活動は停滞を余儀なくされた。しか

しターニン内閣はあまりに反動的な政治を行い、中間層

や資本家層からも支持されなくなり、そうした状況に危

機感を抱いた軍が再びクーデターを起こしたため、わず

か一年で崩壊した。七七年十月のクーデターの後首相と

なったクリアンサックは言論・集会の自由を大幅に認め、

労働組合に対しても宥和的な態度をとった。このためタ

イ労働評議会は七八年頃から再び活発な活動を再開する

ようになり、八三年にタイ労働評議会から分裂して結成

されたタイ労働組合評議会(蟹昌印昌彗窒goq・畠凹昌

巨彗oq勺冨;g↓す巴)とともに現在に到るまでタイの

労働運動の中心となっており、七〇年代にタイ労働組合

連盟が押し進めた現実路線はその後着実にタイに定着し

      (23)

ていったのである。

6 結び

 一九七二年に労働団結権を認めるとともに最低賃金制

度を導入し、七五年には新労働関係法によって団結権の

内容をさらに充実したものするなど、七二年から七六年

にかけてタイ政府は労働者に対してかなり宥和的な政策

をとった。しかしそれは輸出指向型工業化への移行に備

えて工業製品の晶質を向上させるため良好な労使関係を

築こうとして行われたものではなく、不安定な政治状況

の中で政権を維持するためには労働者の不満を和らげざ

るを得なかったことによるものであった。

 輸出指向型工業化への移行は生産コストを低くする必

要性を高め、労使関係は抑圧的なものになるという議論

も、逆に晶質を高める必要・から労使関係は宥和的なもの

になるという議論も、いくつかの重要な点を見落として

いるといえよう。まず第一に「必要」であるからそう行

355

Page 16: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (16)

動するという議論は、「必要」であるにもかかわらずそ

のように行動することが「できない」ことが現実世界で

はしぱしばあることを考えると、片手落ちな議論といわ

ざるを得ない。政府あるいは企業が工業化の推進のため

には労使関係を抑圧的なもの、あるいは逆に宥和的なも

のにする「必要」があると考えたとしても、政府または

企業に彼らが望むとおりに労使関係を変える「力」がな

ければ「必要」な変化を実際にもたらすことはできない

のである。第二に、どちらの議論においても、政府は必

ずしも常に資本家の利益にそって行動するわけではない

ということが考慮に入れられていない。実際には政府に

とって望ましい労使関係と経営者にとって望ましい労使

関係には違いがあることが少なくない。そして労働者に

とって望ましい労使関係はそのどちらとも異なるもので

あろう。また政府、経営者、労働者のそれぞれの内部に

おいても望ましい労使関係のあり方について意見の相違

がある場合が多い。このような場合、実際の労使関係が

どのようなものになるかは関係するアクター間の力関係

によって大きく左右される。従って輸出指向型工業化へ

の移行が労使関係に与える影響について考える際には経

済的、技術的「必要性」だけではなく、「力」関係につ

いても考察する必要がある。

 先に述ぺたように七〇年代にはまだタイでは輸出指向

型工業化は本格的には始まっていなかったが、繊維産業

などではすでに輸出がかなり大きな比重を占めるように

なっており、石油シヨツクによって先進国の購買力が伸

ぴ悩む中で激しい国際競争に生き残るためには少しでも

価格を安くする必要があると繊維業界の経営者の多くが

考えるようになった。ところが七〇年代のタイにおいて

はそうした繊維業界の経営者の意向は必ずしもそのまま

政府の労働政策に反映されはしなかったのである。七二

年の労働団結権の復活、七四年の最低賃金引き上げ、七

五年の新労働関係法制定はどれも繊維業界の経営者たち

からの強い反対を押し切る形で実行された。もちろん経

営者の意向が政府の政策に常に反映されないわけではな

い。七〇年代のタイの場合、繊維業界に大きな利権を持

っていたプラマーンが七五年三月に副首相として入閣し

たことにより、政府の労働政策に経営者側の意向が以前

よりも強く反映されるようになうた。しかしそれでも経

営者側の意向と政府の意向が完全に一致するようになっ

356

Page 17: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(17)1970年代のタイの労働運動1輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

たわけではない。

 敢えて単純化して言えば、七〇年代のタイにおいては

経営者側では労働集約的な輸出指向型産業の経営者を中

心に労使関係を対立的なものにしてでも労賃を安く抑え

ようとする傾向が強くなうたが、逆に政府は労働者の間

に不満が高まり、政治不安に拍車がかかることを恐れ、

宥和的な労働政策を行うようになづたといえよう。政府

の労働政策が経営者が望んでいたものより宥和的なもの

になうたことは、経営者の強い反対にもかかわらず労働

集約的な輸出指向型産業においても労働者が組合を結成

することを可能にし、しかもそれらの労働組合の中には

タイ労働組合連盟や全国労働者連帯センターなどの支援

を受けるなどして経営者側に対してさまざまな要求を行

うようになった組合も少なくなく、職場レベルの労使関

係にも大きな変化をもたらすことになった。こうして七

〇年代のタイでは労働運動や労使関係のあり方に輸出指

向型工業化への移行にともなう経済的な要因だけからで

は説明できない変化が生じることになったのである。

(1) 輸出指向型工業化が発展途上国の労使関係に与える影

 響についてめ最近の議論については例えぱ以下の文献を参

 照。>目=く彗目p↓ぎ昌竃穴oo訂目彗o宛畠窒=■o目ω■

 巨~(&印)一肉§定§§§、完“ミざ妻ぎき雨o;ミ轟

 』g§bs§§膏少■oao目俸z①ミくo『7カ昌ま島p

 58一望{す彗勺『雪ぎガ◎嚢昌汁&卜goミぎき軸㌧包s’

 きoso完§ざミ』oo§bs§き雨ωミ昌ミぎき§ぎ婁

 ぎ」≦§o§sミsL三竃凹一目宛~霧ω」竃ω一ω彗畠=宍宇

 …三=pぎ、§ぎ亀§ミ}os婁§、§ぎ§亀亀き』§sぎ

 きざ着ざ§包§“§ミ§}§吻hぎミ“sぎ姜さ『9§盲§-

 き雨ぎ§吻ミミおとミ}§}一軍o8①ら目oq蜆o↓;o 量o{

 >目目E竺ζ竃↓ヲo目ωoh;o-目2』gユ巴カ色団饒o冨宛oω竃冨=

 >窒g武饒o貝}畠↓o目ニカカ>L岨寒.

(2) 六〇年代の労働争議及ぴそれに対する労働局や軍部の

 対応については、拙稿「サリットHタノム政権下のタイの

 労働政策-革命団布告一九号から一9二号への政策転換に

 おける労働局官僚の役割」『歴史と文化』一八号、一九九

 四年三月を参照。

(3)旨昌害罫一ζ彗呉昌饅一巨一一き§§oぎ§§{ぎぎ}

きぎs(資本主義制度下の労働者)一霊畠ぎ7ら&;鼻

 -㊤一戸P--{u添言ごO胆斥H=凹くオユ...↓『①目qω↓O妻凹『αOOHOO-

 冨巨gピ等o『o昌9〇一ωま↓壷旨ま彗旦ζ巴ξ吻貝、勺F

 貝き窃彗訂巨o貝Uo具.o}勺o=ごo巴ω9彗o9之o『;彗≡㍗

自o涼⊂邑く。竃㊤-ら」o.o。一首都電力公社従業員協会の創設

者の一人ブンティェン・ヵムチュー(匝…↓巨彗宍壷昌一

〇巨)とのインタピュー(一九九四年十一月)。

357

Page 18: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢第115巻 第2号平成8年(1996年)2月号(18)

(4)ξ呂印昌昌≧~彗二〇訂着昌昌o〇一..寄彗oq当電;

畠一g竃ぎぎ昌■①=鶉■o=戸..(鉄鋼金属業の労働者)

 ヲ……暮巨>8ヨ、=昌oqoす凹目o胃嘗(&シ氏§轟当管§

 §}q詠sぎsぎ§卜寒』§卜gs一肉ミ昌肘s§完§的§Φ§宍ミs-

ぎ§肉ぎ毒o轟§§寒s§(鉄鋼金属業、ホテル業及ぴ

 海運業の労働者)も嘗oqぎζ>ε昌勺ぎ冨昌団長彗}昌目-

 旨9昌一-竃o。一〇戸二-5一>oま}巴ωo畠三一..}oま牡

 宋ぎ長宍団昌昌芽o;冨-↓訂畠ら巨彗勺テ昌肩凹着斥冨一

 勺冨;g↓毒一、(タイにおける利益集団としての労働者の

 役割)一≦>.;鶉グ向曽巳ζOH勺O=旨o巴ω9彗8一〇フ目一甲

 -o=oo斥o『コζ邑く=-竃poo.冨㌣一竃.なお、>o巨oサ巴は論

 文執筆当時警察官で、論文には警察の内部資料も用いられ

 ている。

(5) 日刊タイ字紙ぎ§ミ§曹s§一一九七三隼六月四日、.

 六月八日、六月十五日。

(6)ξ昌凹昌昌一§.o芦oo.巨-冨一>呂一争鼻8.9、一〇.

 冨3鉄鋼金属労働組合元委員長ブンソン・ウィチャラナ

 (団昌竃轟奉ざ訂冨冨)とのインタピュー(一九九〇年

 五月)。

(7)看昌印昌oP§oヌP-蜆一>o巨;呉§き1も一伽ゴ

 ぎ§ミ§曹ミ鼻一九七三年六月十七日。

(8) ブンソンとのインタビュー(一九九〇年五月)。

(9) タイ従業員協会グループの成り立ちについては、

 >『oヨ、=昌①qoす彗oq彗一宗s§§8ぎ§一}彗胴ぎ7}ε巨片

 宍舳;o巨員冨量暑.ooo。-oo㊤一ω冒目oqωごプ雲ユ着;晶㎝彗一

..↓ま勺昌昌與饒oコg>ミo}①『血・2轟蒜阻oo『〇一』p>目

>畠ζ身o↓艘①-ぎ昌竃oくヨ雪=目↓ま=彗o(冨g-

 冨ま)一..勺7pg窒睾冨饒op雲9o壁庄d邑亮邑q二湯9

署」農-5岨を参照。なお、タイ従業員協会グループの英

語名称は■きo『>器o9きo富o↓↓訂=印己(ピ>↓)であ

 る。LATに限らず一般にタイの労働団体の英語名称はタ

 イ語の名称とはかなり翼なったもになっていることが多い。

 このためタイの労働団体の名称を日本語にする場合、英語

名称とタイ語の名称のどちらを日本語に訳すかによってか

 なり異なったものになる。本論文では原則としてタイ語名

称の日本語訳を用いることにするが、英語名称もそれぞれ

 の注の中で示すことにする。

(10) 一九七四年六月の繊維労働者によるストについては六

月二十七日付けの、§sミ§曹8§§{ω§8§に詳しい

経過が記されている。以下このストについての本論文にお

 ける記述は主にぎ§ミきssミ§}ω§8§の特集記事

 に基づいている。

(u) ブンティエンとのインタピュー(一九九四年十一月)、

 プラティープ・チムイェン(勺轟;800ま∋く雪)タイ帝

 人ポリエステル労働組合元委員長とのインタピニー(一九

 八九年十一月)。

(u) 、『螂斥印-O=『E斥O,印}匝OブO目頃..〆=凹σ一』O目オ~『目示印目一目5-

 斥o;↓プ巴二↓ぎ竃峯呉暮彗o目丙すミ彗昌↓竃ζ鶉汽.一

 (タイの労働運動一分裂の一〇年)峯彗凹竃∋ωg訂留ユ

 穴胃コ∋目彗胴ogoσ雪-竃o〇一pき一ω目畠閉己戸s.9戸o.

358

Page 19: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

(19)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

 -奉ω彗oq閉己すはこの当時FlSTの一員で労働問題を担

 当していた。全国労働者連帯センターの英語名称は

 -與σ900昌2目與ゴO目O①葦雪9↓サ段訂目o(「OO↓)であ

 る。

(13) ……-姜ξo昌雲昌oq昌昌oq彗一き§ミ“竃ミ宍ぎぎー

 §ぎ§完§轟-曽寒§§ミ(タイ労働運動史)』彗oqぎ7

 >;昌勺ぎ自oqo訂畠昌勺o…旦団饒昌」8oo冒およ〇一ω冒目-

 Oqωご戸819戸OO」匿--Φ↓1

(14) 日刊タイ字紙望s§完ミ一九七四年八月十五日、十七

 日、ω目自o目ω巳7oサ9戸opミ㊤--oo〇一↓庁與窒自巴ωE名}目目o-

 色p..宍彗≠o;こ塞}o;竺;印轟穴彗自昌冨目困斥ぎ温

 ω凹す昌轟筍 宛塞目o目-目oq與∋ 目巴 勺冨;g ↓サ巴一ω一鼻畠

 ○す與O=o 穴o『凹コー ωoすoO=印『O 丙}①コOq・コ胴団『コ 宍凹『自-巴h画

 z算昌一冨長宛凹冬昌oq雲爵-㌣曽曇、、(タイにおける労働

 組合の発生とその政治的役割二九七三年から一九七六年

 における首都電力公社労働組合のケーススタディー)一…■

 >1↓=oω尉.向與oζ;}O{市O=ごo巴ω9o目ogOブ⊆-巴Oコ胴斥OH目

 ζ三く・し彗↓ら・冨蜆・↓ぎ餉彗吐は論文執筆当時首都電力公

 社労働組合の組合員であoた。

(15)>昌貝§lo芦署』。。ムー.

(16) 日刊英字紙b§容寒き鼻>肩二ωLo↓蜆一>『o員8■

○芦o.o蜆■なおタイ労働組合連盟の英語名称は憲忌;巨冒

 o『[竺〕胃ζ三〇コωoH↓巨巴-印目o(FLUT)である。

(17) プラマーンの入閣が労働政策に与えた影響については、

 U軸く一」…O篶二俸O訂一-彗彗霊昌巨彗昌ご凹一きミざミO§-

 もざ“{ミ ↓}昌ミ富曽包㌧完さ§i完雨So註oさ あ雨eo-ミ註oぎOo目〒

 σH己困〇二≦>一09oqoωoゴ鼠o目①H一〇⊆目目俸=巴PH㊤oo-一P-o-.

 一九七四年七旦二日付けの日刊タイ字紙§ミ完ミには、

 最低賃金引き上げを厳しく批判するプラマーンの発言が載

 っている。また、この時期の中間層の急速な右傾化につい

 ては、-血コ>目oo『ωop、峯簑ブμ『}ξ巴ω}昌〇一〇昌閉一ωo9巴

 與目o〇一』-ゴ』『巴>ωo①o誌o{↓ブoOo吋〇一〕①『①O0EP..bsミ“まミ

 ミ oo畠o雨§雨』 ㌧包s曽 吻oぎoざ;一 くoFg zρω一 -三}-

 ω①冥oヨσ睾おミー

(18) プラティープとのインタビュー(一九八九年十一月)。

 ブンソンとのインタピュー(一九九〇年五月)。スパチャ

 イ.マナットパイブーン(ω目O=印oす竺ζ凹目}吾=巴σ一ヒ)

 元チュラロンコーン大学教授とのインタピュー(一九九五

 年八月)。スパチャイは第二次ドゥシタニ・ホテル争議解

 決のために政府が設置した特別調停委員会の委貝を務めた。

(19) 勺『與汗堅oゴコ』斥Oす印く與りすo目oq一S19戸P{N一U凹く-o

 ]≦O『o=卵O=}7嘗]画コ ω}日ヨ」O画く嘗一巳P9.9戸OP-o01

 畠-.

(20)各年、ことの労働組合の数と組合員数については労働省

 の労使関係課(示o長宛烏目oq-長胃目窪昌昌彗)のファィ

 ルに記されている。

(21)治安維持法反対については、由§寒黒ぎ臭ωo早。。一

 -o責ω①昇-ω」竃蜆.米価引き上げ反対運動については、

 厚芽凹旨耳鼻o=黛署ぎ目oq一s.oきp宝1

(22)ζ……一>8ヨ雲o長昌彗o目彗一S1o芦P。。ドタイ

359

Page 20: URL - HERMES-IR | HOMEhermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/12102/1/...(1)1970年代のタイの労働運動:輸出指向型工業化への移行期における試行錯誤

一橋論叢 第115巻 第2号 平成8年(1996年)2月号 (20)

 労働評議会の英語名称はピきo『08o目篶窃O{↓巨詩ま

 (LCT)である。

(23) タイ労働組合評議会の英語名称は↓ぎ}↓冨急C三昌

 Oo長富窒(TTUC)である。クリアンサック内閣時代

 以降の労働運動については、勺冨ぎ旨す;斥O訂着昌o畠一

 §oミを参照。

 (なお、この論文のためのタイでの資料収集は、平成七年

度文部省国際学術研究「地域発展の固有論理」及び大和銀行

アジア・オセアニア財団からの援助によって行われました。

これらの援助に対して感謝の意を表します。)

                (一橋大学専任講師)

360


Recommended