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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 「大字誌」の限界と地域史編纂 : 中近世の本庄地域の「主体」をめぐ って (<特集1>地域の歴史性・重層性と市民主体のまちづくり : 新たな 共同性を求めて)(Special issue1 : Historical multilayeredness of a Region : How to make acommunity of local population renewed : Limited perspective of Chronicle of Oaza (Old village) and compilation of local history) 著者 Author(s) 大国, 正美 掲載誌・巻号・ページ Citation Link : 地域・大学・文化 : 神戸大学大学院人文学研究科地域連携センタ ー年報,5:25-35 刊行日 Issue date 2013-11 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81005398 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005398 PDF issue: 2020-07-04
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Page 1: Kobe University Repository : Kernelく、入会を通じて生産を行う単位を形成しているといえる。負担しているのである。これらのムラも単なる地名なのではなていくムラが、篠原村の山に入会を認められる一方、山手銭を

Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

「大字誌」の限界と地域史編纂 : 中近世の本庄地域の「主体」をめぐって (<特集1>地域の歴史性・重層性と市民主体のまちづくり : 新たな共同性を求めて)(Special issue1 : Historical mult ilayeredness of aRegion : How to make acommunity of local populat ion renewed :Limited perspect ive of Chronicle of Oaza (Old village) and compilat ionof local history)

著者Author(s) 大国, 正美

掲載誌・巻号・ページCitat ion

Link : 地域・大学・文化 : 神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター年報,5:25-35

刊行日Issue date 2013-11

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81005398

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005398

PDF issue: 2020-07-04

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特集Ⅰ●地域の歴史性・重層性と市民主体のまちづくり―新たな共同性を求めて― 大国正美 「大字誌」の限界と地域史編纂

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特集Ⅰ 地域の歴史性・重層性と市民主体のまちづくり ―新たな共同性を求めて―

「大字誌」の限界と地域史編纂

―中近世の本庄地域の「主体」をめぐって―

大国 正美

 

高齢化や過疎化が進むなかで、地域歴史遺産をどう守り伝え

ていくか。この課題に応えるために、自治体史だけでは十分で

なく、大字や旧村の枠組みでの地域史編纂が注目されている。

近世以降の行政区画として扱われ、明治一一年(一八七八)郡

区町村編制法により、大字と改められた幕末維新期の村は、生

活共同体の性格を持った。大字はさらに小字に、小字はさらに

筆に分かれるが、筆は土地区画の意味で、小字も一筆から数筆

規模で、人家のない田畑山野だけの部分も多く、ともに土地区

画以外の性格は希薄だった。大字誌が「一番小さな地域史」と

称され注目されるゆえんであり、沖縄で運動が進められ、兵庫

県でも自治体史編纂に続く仕事として取り組みがある(

1)。

 

しかし、大字は明治一一年段階の村を捉えた地域の概念であ

り、その時点での地域的なまとまりにすぎない。それ以前の時

代を、またそれ以降の時代を通じて普遍的に存在した地域のま

とまりではない。筆者は現在の神戸市東灘区に明治二二年の市

制町村制によって誕生した本庄村の歴史編纂に、昭和五八年

(一九八三)以降かかわっている(

2)。

その過程で、明らかにでき

た地域の枠組みの変遷をあらためてたどり、地域史編纂の枠組

みと課題を考えてみたい。

一 武装して戦う中世の本庄

 

本庄という地名が歴史上最初に登場するのは、鎌倉時代の末

期、正和四年(一三一五)である。兵庫津に設けられた東大寺

の関所をめぐる紛争で、やってきた幕府の摂津守護代を在地の

一〇〇人もの悪党が襲撃する事件が起きた。そしてこの年の

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一一月に捕えられたものの中に「本庄 

入江五郎」がいて、小

さく「悪党関所」と書き添えられている。兵庫の関所に対する

幕府の指令に反対し守護代を襲撃しているから、入江五郎は本

庄を拠点にしながら、兵庫津と深い流通関係を結んだ武装集団

のリーダーだったと思われる。また襲撃に加わったのは、山城

国の淀・下津・いもあらい・水垂、摂津国の今市・垂水・加嶋・

尼崎・西宮・打出・都賀・輪田荘・兵庫の者たちで、すでに鎌

倉末期には広範囲な在地勢力が幅広い流通ネットワークで結ば

れていたことが判明する。

 

室町時代になると、本庄は単なる地名ではなく、武装した惣

村として登場する。「瓦林正頼記」によれば、「ナダノ内ノ本城

ト西宮トハ多年不和」だったが「俄ニ中直リケル、是ハ同心シ

テ彼城(瓦林正頼の鷹尾城)ヲサミセムカタメ也」と、不仲の

本庄と西宮が和解して鷹尾城を共通の敵として攻撃したとす

る。「瓦林正頼記」によれば永正八年(一五一一)五月、本庄

衆は灘五郷の衆約二〇〇〇人を集め鷹尾城を攻撃。しかし本庄

衆三〇〇人のうち二〇人余りが討ち取られたという。誇張した

部分があるかもしれないが、本庄衆は武装して戦闘する集団

だった。

 

天正一一年(一五八三)八月、大坂城築城のため六甲山から

石垣用の石を採石する際に、秀吉は本庄・芦屋郷・山路庄に対

し、禁制を発行している。禁制は軍事的に優越する政治権力に

対し、その侵攻が予想される寺社や町村が、礼銭を払って獲得

することがしばしばあり、この時期の本庄もそうした団体とみ

なしてよいだろう。禁制の内容は、百姓に対し謂われなき儀を

申し懸ける族を一銭切にすること・田畑作毛を荒らしてはなら

ないこと・石持ちに宿を貸してはならないことを定めたもので、

地域住民をまとめ武士政権と交渉する集団として、本庄はいま

だ健在で、豊臣政権もその秩序維持の役割を認めている。

 

このように鎌倉時代から初期豊臣政権までは、本庄という惣

が、住民の生殺与奪権を持ち、命と暮らしを守り、時には戦闘

に駆り立て生死の境界に追い込んだ地域集団の核であった。中

世の地域は荘園や惣村―大字よりも大きなまとまりが、社会の

動向に大きな影響を及ぼしていた(

3)。

二 惣を構成する生活・生産の単位としての大字

 

中世には荘園や惣村が一義的には地域の主体であったが、そ

れは惣村の内部がフラットな住民結合だったことを意味するわ

けではない。惣村は近世村に分割され大字となっていく村の集

合体でもあった。

 

また現在の神戸市東灘区にあった山路庄の永禄一二年

(一五六九)の「春日社御神供料摂州山路庄公事銭取納帳」には、

「住吉村分」「野寄村分」「岡本村分」「横屋村分」「魚崎村分」「青

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木村分」「西青木村分」という近世村の村名が見える。「公事銭

取納帳」であるから、これらは単なる地名ではなく春日神社御

神供料の公事銭を住民から集める単位として機能している。

 

また現在の灘区にあった都賀庄では、文安四年(一四四七)

の「夏麦山手注文(

4)」

に、「奥山手春納」を負担する中世のムラ

として、高羽・やはた・河原・森・みとろ(味泥)・ヒヱタ(稗田)・

西大石・新在家・平野・徳位(徳井)が登場する。近世村になっ

ていくムラが、篠原村の山に入会を認められる一方、山手銭を

負担しているのである。これらのムラも単なる地名なのではな

く、入会を通じて生産を行う単位を形成しているといえる。

 

これらの荘園や惣村を構成するムラが、近世村に村切りされ

る時期は、地域や村により差がある。宝塚市にあった山本村と

平井村のように、山本村が寛永一九年(一六四二)に板倉市正

領になったのがきっかけになった村もあれば、山間部にあった

上佐曽利村と下佐曽利村のように、正保年間(一六四四〜四八)

から寛文二年(一六六二)までの間に村切りされた村のような

事例もある(

5)。

 

とはいえ山路庄や本庄など西摂南部の多くの村では、天正末

期から文禄四年(一五九五)までに行われた太閤検地によって

確定した。慶長元年(一五九六)に朝鮮出兵を控えて灘目の浦々

に浦役を賦課した史料では、深江浦・青木浦・魚崎浦など、本

庄や山路庄など惣村単位ではなく、近世村を単位に賦課されて

図1 「慶長国絵図」(『兵庫県史』史料編 近世一)右端の「芦谷川」が芦屋川。その西岸下流の村が深江村。その西に本庄、山路庄、さらに西の大石川付近には都賀庄の村々があった。

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いる。慶長一〇年の「摂津国絵図」(図1)では多くの近世村

が登場し、元和三年(一六一七)ごろの状況を記したと推測さ

れる「摂津一国高御改帳并領主附」には近世の村がほとんど登

場している。

 

しかし山路庄や都賀庄の例で明らかなように、庄園や惣村の

中にあった近世の村につながる中世のムラが、村切り以前に生

産や生活の単位としてすでに機能していたことが重要で、村切

りは生産や生活を単位に行政村を設定するという側面があった

のではないか。

三 大字よりも小さい中世のムラの存在

 

近世村となった大字が惣や庄園の中での生活と生産の単位

だったとしても、中世の地域の最小単位だったかといえばそう

でもない。大字の中のさらに小さなムラが近世以前から存在し

た。それが単なる土地の区画や地名でなかった例として、永禄

一二年(一五六九)の「春日社御神供料摂州山路庄公事銭取納

帳」に見える「庄戸村」を例に上げよう。「庄戸村」は山路荘

の一部であるが公事銭納入の単位である。そして慶長一〇年の

「摂津国絵図」(図1)では田中村と北畠村の間に「少戸村」が

独立した集落として描かれている。天明八年(一七八八)と推

定される「田中村絵図」(写真1、神戸大学文学部蔵)では、田

中村は街道

に面した集

落と、北側

に離れた二

つの集落で

構成されて

いる。街道

沿いの集落

が中心集落

で氏神や高

札場がある

が、北の離

れた集落に

も高札場が

あった。高

札が別に存

在するということは、近世にも独立性の高い集落として扱われ

ていたことである。しかし、近世村としては田中村としてひと

つの近世の行政村として扱われたのである。

 

同様の例が都賀庄にもある。文安四年(一四四七)の「夏麦

山手注文」に、「奥山手春納」のムラとして、高羽・やはた・河原・

森・みとろ(味泥)・ヒヱタ(稗田)・西大石・新在家・平野・

写真1 「田中村絵図」(神戸大学文学部所蔵)南部の街道沿いの集落の北側にも集落がある。

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徳位(徳井)という、近世村になっていくムラに並んで、大道・

きよめ・大田・山田の各村がある。他のムラと同様に篠原村の

山に入会を認められる一方、山手銭を負担した。近世には大道

村は八幡村に、きよめ村と山田村は篠原村に、大田村は鍛冶屋

村にそれぞれ含められて行政村となるが、室町期においては独

立性の高い生産と生活の単位、ムラなのだった。天正一九年の

「若林久大夫山手指出(

6)」

でも大田村・きよめは、「かちや村」な

どと並んで山手銭を負担しているから、行政村としての独立性

を否定されるのは、この直後行われた太閤検地であることは明

白である。

 

太閤検地で行政村として独立性を認められなかった大田村・

山田村だが、近世後期の「水車新田村絵図(

7)」

では、水車新田の

大土ヶ平の山の入会村として、篠原・八幡・河原・高羽の各村

と並んで太田村と山田村が登場する(写真2、神戸市文書館寄託・

若林泰氏収集文書)。近世の村切りを経て行政村として独立性を

失ったあとも、中世の生産の単位が生き残った事例といえる。

四 近世大庄屋組と生活圏とのずれ

 

中世の荘園や惣村の内部では、村切り以前から近世村やそれ

より小さい地域が賦課や生産の単位となっていたことを見てき

たが、同時に近世の村はさまざまな形で広域結合もしていた。

その最も基本的なものは、領主支配の枠組みであり、大庄屋組

や幕府領の惣代庄屋がある。これらは領主制に基づく結合の枠

組みであるから、領主の交替によって、その枠組みも大きく変

動した。たとえば尼崎藩が青山氏の時代は、菟原郡がほぼ二分

され、芦屋・打出の旧芦屋庄、津知・三条・森・中野・北畑・

田辺・小路・深江・東青木の旧本庄、住吉村を除く岡本・西青木・

野寄・田中・横屋・魚崎の旧山路庄を一つの大庄屋組(名称は

郡右衛門組)とした。住吉川以東がその範囲で、中世的な枠組

写真2 「水車新田村絵図」(神戸市文書館寄託若林泰氏収集文書)大土ケ平の入会村に近世には独立村ではなくなった「太田村」

「山田村」が見える。

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みを一部踏襲しながらも、山路庄を住吉村とその他の村々に分

割、住吉川と郡境を境界とすることでよりまとまりのある地域

になった(

8)。

しかし、山路庄は本住吉神社を総氏神にしていたの

で、大庄屋組がこのような構成になることで、生活の単位の結

合と広域行政の結合にずれが生じることになった。

 

そのずれは領地の変更によってさらに矛盾を拡大していくこ

とになる。宝永八年(一七一一)尼崎藩主が松平氏に変わると、

菟原郡東部は変更がなかったが、尼崎藩の石高が減少して一部

幕府領になる村が出たことから、大庄屋組も再編され、菟原郡

西部と八部郡が合体されて一つの大庄屋組となった。さらに明

和六年(一七六九)の上知によって、深江など海岸線の村がほ

ぼ幕府領になり、海に面していない村々だけが尼崎藩領として

残ったため、大庄屋組はもう一段の再編を余義なくされた。す

なわち、海岸に面していない菟原郡三条村から八部郡坂本村ま

で、広範囲に飛び飛びに離れた村々が一つの大庄屋組に再編さ

れた。これだけ広域的な大庄屋組は祭礼・通婚圏・日常の商業

流通・農業や農村加工業の生産活動などの点でも、生活の単位

の村結合とは大きなずれを生じている。逆にいえばそうした大

きな乖離を生じてでも大庄屋組といった政治的な広域的枠組み

を作ることが出来る社会が近世社会の一つの特色である。この

時代、この地域固有の地域結合の姿がある。

 

一方、幕府領になった村々は惣代庄屋による組編成が取られ、

私領の大庄屋組同様の機能を果たした。この枠組みは支配の仕

組みだけでなく、民衆運動の枠組みとしても活用され、合法的

な訴願運動の国訴を拡大させる力となったことは広く知られて

いる。

五 近世にも残った惣の枠組み

 

大庄屋や惣代庄屋を核とした村連合が、近世領主支配の枠組

みに基づくものであるのに対し、本庄の場合、中世にあった惣

の枠組み

―本庄山への入会権を持つ本庄九カ村の枠組み

は根強く生き続け、戦国時代以降、本庄は芦屋庄・西宮と再三

山の境界争いをしている。天文二四年(一五五五)芦屋庄の百

姓たちは持ち山のうち西六町を本庄に、東一二町を西宮社家郷

に押領されたと訴えた。芥川城の三好長慶は本庄と西宮の領有

を認める判決を出し、これを不服とした芦屋庄の百姓たちは耕

作を放棄して逃散、五年も「亡所」になったという。その後も

本庄山を本庄全体で利用する仕組みは生き続けた。寛保二年

(一七四二)芦屋庄と西宮社家郷との間で境界争論が再燃、本

庄も延享三年(一七四六)に芦屋村と打出村を相手取り訴訟を

起こした。この時の本庄が九カ村であり、おそらく戦国期もそ

うだろう。近世になっても村切以前の枠組みが維持されている。

 

本庄九カ村は明治初年まで、森村の森稲荷神社と北畑村の保

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久良神社を惣氏神とする村々でもあり、祭祀集団の枠組みでも

あった。なぜ二つの氏神があるのか、いつからそうなのかなど

不明な点は多いが、保久良神社は古代の延喜式内社とされる古

い神社で、境内には神の降臨の場とされた巨石群があり、坂江

渉氏は背後の金鳥山への信仰に基づく古代信仰遺跡と推定して

いる(

9)。

一方、森稲荷神社については、深江の浜にある踊り松に

漂着した神を鎮座したという言い伝えがあり、海浜と本庄山を

結ぶ重要な祭神であった。二つの神社は惣村の結合を象徴する

祭祀施設なのである。近世を通じて九カ村が共同で祭祀し、輪

番で神役を務める時期もあった。しかし九カ村の氏子体制は明

治五年(一八七二)、深江・青木・森の三カ村が森稲荷神社の

氏子に、残る六カ村が保久良神社の氏子になって分離、最初は

三条・津知の二カ村は保久良村の氏子として残ったが、明治

二二年、精道村(のち芦屋市)になったため次第に離れ、残る

北畑・田辺・小路・中野の四カ村の氏神となった。

 

神社だけでなく、三条村には本庄九カ村の氏寺として禅宗の

普門山宗円寺がある。万治三年(一六六〇)住職好純は本庄中

から浄財を集めて本尊として観音像を作っている。

 

こうした入会権の調整や祭祀の運営を行うために「庄老」と

いう存在が近世中期まで機能していた。村ごとに一軒ずつ固定

された家筋の惣領が就任し、「庄の儀」を勤め、本庄内で入会

慣行の紛争が起きた場合は、その仲裁に入った。また前述した

秀吉の禁制は庄老の筆頭格だった深江の磯野家で保管されてい

たという。そして当該の家が途絶えると、その村からは正規の

庄老は出せなかった。世襲に基づく古いしきたりであった。

六 川をめぐる村結合

 

本庄九カ村が山をめぐる農業の再生産の枠組みであるのに対

し、同じ農業の再生産に関わる村連合でも、用水は異なる組合

を形成している。芦屋川西岸の一の井手から取水した東川用水

を利用する本庄五カ村の村々による組合で、この用水は三条村・

津知村を経由して森・深江・中野の田地計七町九反四畝を灌漑

する重要な用水であった。芦屋川東岸に田地を持つ芦屋村とは

鋭く利害が対立した。

 

一の井手の設置は中世に遡り、天正一七年(一五八九)に川

西の一の井手と川東の二の井手・三の井手の取水日を決める取

り決めがされている。なにがしかの紛争があったと思われ、そ

の当事者は判明しないが、取水日数を川西の一の井手は月一三

日、川東は月一七日とすることを取り決めた。さらに貞享四年

(一六八七)に定めた取り決めでは、東川用水の五カ村が一二

日間で一巡する番水制度を整えた。これは最も下流で用水が届

きにくい中野村から始め、ほぼ灌漑耕地の面積に応じて水を入

れる取り決めだった。芦屋川東岸に多くの耕地を持つ芦屋村と

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の最も大きな紛争は、寛政一一年(一七九九)から翌一二年に

掛けて起き、取水の日順に加え取水時間を決定して決着した。

 

芦屋村に対する本庄五カ村の結束は固かったが、一方で取水

口を持つ三条村は一の井手の保守の役割を担う代わりに、三条

村畦垣内と観音田には毎日取水する特権が与えられるなど、東

川用水組合内部の村は平等な権利を持っていたわけではなかっ

た。このため深江村など下流の村々は、享保一一年(一七二六)

三条村の取水量を一定に制限する分石の設置を願い出た。この

時は実らなかったが、明和二年(一七六五)、一年越しの交渉

の末、分石を設置する代わりに、三条村の取水の日に中野村に

も時間を限って取水することを認めさせた。

 

さらに寛政一二年(一八〇〇)に芦屋村との間で起きた東川

用水の取水時間の紛争決着後、今度は東川用水を利用する本庄

五カ村内で紛争になった。畦垣内に毎日取水をする特権を持っ

ている三条村を相手取り、深江・中野・津知の三カ村が訴えを

起こして、毎日取水を隔日取水に減らすよう求めたのである。

結果的に一二日で一巡する取水日について、深江村が取水する

四日のうち一日と中野村が取水する三日のうちの一日に二時ず

つ余分に取水することを三条村が認めて同年和解した。しかし

その紛争は、形を変えてその年のうちに再発した。寛政一一年

から芦屋村を相手取って起こした訴訟費用を、深江・中野・森・

津知の四カ村は、三条村に対して取水量に応じて負担すること

を求めたのである。しかしこれは村高に応じて分担するという

それまでの基準と相入れない新規の仕法である。毎日取水の特

権を持つ畦垣内の地主だけが余分な負担をすることは、二重負

担になるため、大坂町奉行所からこれまで通り村高に応じて負

担するという和解案が示され、翌寛政一三年に決着した。同じ

水利組合を構成しながら権利は平等ではなく、常に対立を内包

していたのである。

 

耕地を他村に居住する者が所有している場合は一層複雑で、

たとえば文政六年(一八二三)東川用水から分岐する串田川流

域に田地を持つ他村からの入り組み百姓が、同じく東川用水か

ら取水している上流の繁昌川へ順番を変えて先に取水すること

に反対して訴訟を起こしている。居住村民を優先して水利慣行

が変更されうること、すなわち近世村の規制力の大きさと同時

に、川筋単位の利害関係が村内部にもあることも物語る。

 

寛政期にそれまで曖昧な部分があった用水慣行が、裁判を通

じて慣行が明文化してくるのに加え、文化九年(一八一二)に

は普請をめぐる新たな村の枠組みが確認される。前年の文化八

年に芦屋川の井堰が破損し、井堰の設置場所をめぐって芦屋村

と、本庄五カ村が紛争になった。この紛争では芦屋川東岸の打

出村も水利権を主張し、普請への立ち会いを求めた。打出村は

芦屋村からの用水の一部を利用し、見返りに芦屋村へ分担銀を

出してきたのであるが、公式に普請に立ち会う権利を主張、周

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特集Ⅰ●地域の歴史性・重層性と市民主体のまちづくり―新たな共同性を求めて― 大国正美 「大字誌」の限界と地域史編纂

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辺の村々の仲裁で、一の井手の普請には打出村も含めて七カ村

が立ち会い、負担割合を本庄五カ村が八割、芦屋・打出村が二

割とすることで決着した。こうして芦屋川の一の井手普請組合

の枠組みが完成したのである。

 

このように、一つの用水を取ってみても水利組合と普請組合

の枠組みは異なり、またその内部や村内部にも利害関係が複雑

に絡み、さまざまな紛争を通じて次第に慣行として確立、近世

後期にほぼその到達点をみている。

七 海をめぐる村結合

 

同じ生産の広域的な枠組みでも海村の村結合は全く異なる編

成原理が働いていた。負担すべき浦役を公平に分配するための

組組織で、深江村や青木村は鳴尾村から神戸村まで一三の漁村

で構成する西宮組に編成された。西摂の海辺の漁民が居住する

町村は、西宮組と兵庫組・尼崎組の三組に編成され、これを三

カ浦とも呼んだ)

(((

。この枠組みは従来尼崎藩の浦方支配の枠組み

とされてきたが、そうではない。鳴尾・東大石・脇浜など尼崎

藩領以外の村が当初から組み込まれ、深江村など海岸線の村々

が明和六年(一七六九)に尼崎藩領から幕府領に変更になって

も西宮組は維持され、大庄屋組のように構成村は変更されるこ

となく続いたからである。

 

浦役は、慶長元年(一五九六)、翌年の豊臣秀吉の朝鮮出兵

への準備として村々に徴発された水主役負担が由緒になってい

て、寛永四年(一六二七)には将軍徳川家光の上洛に絡んでも

徴発された。大坂町奉行が保管する元帳に従って、尼崎藩が旗

本領なども含めて徴収しており、国家的な役負担であった。近

世に漁業を営む特権と浦役の義務が表裏一体となり、漁民に身

分に対応した役負担が賦課された。そして江戸時代を通じて幕

府の公用通航、朝鮮通信使の来航などの際に徴発された。海岸

があっても漁業が認められていない村は浦役を負担せず、この

組には含まれなかった。寛永二一年、三カ浦が集まって証文を

作って勘定し、寛文二年(一六六二)に以後一五年分の浦役の

清算を行って、寛文四年、詳細に負担方法を明文化した。浦役

は尼崎藩の参勤交代などにも徴発されたが、最後の精算では旗

本領などには賦課せず、尼崎藩の「自分御用」か、それとも国

家的な業務なのかを仕分けした。大庄屋組と違って、領主支配

の枠組みではなく、漁民という身分にもとづいた役負担を平等

に分配しあう身分と役負担に沿った枠組みなのであった。従っ

て領主によって上から設定されたのではなく、平等な役負担の

ため地域社会が必要に迫られて設けた側面が強い。

 

享保四年(一七一九)の朝鮮通信使の来航に対する賦課の分

担をめぐって尼崎藩領の村々とそれ以外の村の対立が深まり、

別々に浦役を務めることを認められるが、延享四年(一七四七)

Page 11: Kobe University Repository : Kernelく、入会を通じて生産を行う単位を形成しているといえる。負担しているのである。これらのムラも単なる地名なのではなていくムラが、篠原村の山に入会を認められる一方、山手銭を

『LINK』Vol.5 2013 年 11 月

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の朝鮮通信使では兵庫津から大坂まで一体で役負担を務めるよ

う命じられ、さらに明和六年には海岸の村々が幕府領になり、

新たな一三カ浦として機能している。

おわりに代えて―大字とこれからの地域史研究

 

荘園や惣は中世の地域の基礎的なまとまりであるが、近世の

村・近代の大字となっていく賦課や生活・生産の単位が、室町

期には惣村内部に小規模なムラとして存在していた。また近世

の村切りはこれまで中世惣村の分割ばかりが語られてきたが、

村切りによって逆に統合され近世村の一部に組み込まれ、近世

行政村とならなかった中世の小規模なムラもあった。

 

一方、惣の結合は近世になっても、入会や祭祀を軸に生き続

けた。その調整機能として固定した家柄から輩出された庄老が、

近世の大庄屋などとは別の枠組みで調整を果たしていた。庄老

は近世前期でほぼ機能を停止するが、祭祀の広域的な枠組みは

近世を通して生き続け、明治五年(一八七二)、氏子の村組み

が分離するのは、近世的な村制度の終焉と無縁ではない。

 

明治になって、近世村は百姓による身分団体から地域団体へ

と大きく変貌を遂げる。政府は近世村が持っていた共同体を維

持発展させる仕組みを否定しようとしたが、旧村の共同性は維

持され、部落有財産も保有が認められた。戦災で多大な被害を

こうむった本庄村は、財政立て直しもままならず、紆余曲折の

末に、昭和二五年(一九五〇)一〇月、本山村とともに特別市

制をめざす神戸市に合併した。部落有財産は神戸市合併でもそ

のまま維持され、財産区管理会が近世村の単位で設けられ、現

在に至っている。祭礼や祭祀、自治会をはじめとする住民組織

も、近世村―大字の単位で、形成・運営されている。その意味

で地域のまとまりを大字単位に考えることは説得力を持つ。し

かしその一方で、それは近世後期に到達した地域のまとまりで

あることもまた疑いがない。歴史的にみれば、それよりも大き

な集団と小さな集団が重層的に重なっていた。

 

戦後、「郷土史」は視野が狭く我田引水的であり、非科学的

として批判され、「地方史」という用語が生まれた。そして「地

方史」は「中央学会」に従属しているとの批判から、一九七〇

年代になると、「地域史」という用語が出てくる)

(((

 「郷土史」から「地方史」へそして「地域史」へ。そのこと

で得られたものは多くあろう。しかし逆に「地方史」や「地域史」

という用語を用いることによって失ったものは何か。地域の相

対化=どこにでもあるもの、全体を構成する一部=という側面

が出すぎたのではないか。それは「地方の時代」と言われそれ

ぞれが主人公として位置づけられながら、どの地方都市も似た

ような開発が進んで個性を失い、そして東京一極集中によって

衰退していくという、地方の現状に相通じるものがあるように

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特集Ⅰ●地域の歴史性・重層性と市民主体のまちづくり―新たな共同性を求めて― 大国正美 「大字誌」の限界と地域史編纂

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思う。

 

しかし歴史的にみれば、地域とは時代によって大きく膨張と

収縮を繰り返し、また内部構造も複雑だった。大字だけで切り

取って語れるものではない。大字に限定した地域史研究は、特

定の時代の枠組みに偏った視角になりかねない。それぞれの地

域に即して、その地域のまとまりが、時代を通じてどう変遷し

たのかを解明すること、その過程で地域のより豊かな個性が浮

き彫りになる。

 

そしてその場合、単なる「郷土史」に先祖返りをしないため

にも、実証性=実証できない英雄や伝説顕彰の排除、客観性=

第三者への説得力、開放性=新住民を構成員として受け入れて

きた変遷、相対性=どこにでもあるけどそこにしかない、そこ

にしかないけどどこにでもあるもの

―を意識して解明するこ

とが重要だろう。

 

歴史の「結果」ではなく、その時期に地域住民がどのような

課題を追いながら生きたのか。すなわち歴史の「問い」を見つ

ける地域史研究が重要ではないか。それは時代ごとに、地域ご

とに、市民目線で地域の課題を掘り起こすことでもある。

註(1) 

中村誠司「沖縄の『字誌』づくり」(全国歴史資料保存利用機関連

絡協議会『記録と史料』第五号、一九九四年)。兵庫県内では、大

槻守「集落誌を作ろう」(香寺歴史研究会『年報香寺町の歴史』創

刊号、二〇〇七年)には多くの事例が紹介されている。

(2) 

本庄村史編纂委員会『本庄村史 

地理・民俗編』(二〇〇四年)、同『本

庄村史 

歴史編』(二〇〇八年)。以下、特に断らない限り本庄地域

の歴史については本書、特に歴史編を参照。

(3) 

朝尾直弘「惣村から町へ」(朝尾ほか編『日本の社会史 

社会的諸

集団』第六巻、一九八八年)。

(4) 「天城文書」(『兵庫県史』史料編 

中世一、一九八三年)。

(5) 

大国「中世土豪の住んだ村の歴史」(『市史研究紀要たからづか』

第一一号、一九九四年)。

(6) 

注4「天城文書」。

(7) 

神戸市文書館寄託若林泰氏収集文書「水車新田村絵図」。

(8) 

以下大庄屋組の変遷は『尼崎市史』第二巻(一九六八年)。

(9) 

坂江渉「古代の西摂・神戸と本庄地域」(『本庄村史 

歴史編』、

二〇〇八年)。

(10)河野未央「近世初期における摂津国沿岸地域秩序の形成」(『神戸大

学史学年報』第二一号、二〇〇六年)、同「一八世紀における西摂

沿海地域と浦役負担」(『地域史研究』第三六巻一号、二〇〇六年)。

(11)木村礎「郷土史・地方史・地域史研究の歴史と課題」(岩波講座『日

本通史』別巻二、一九九四年)。


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