Kobe University Repository : Kernel
タイトルTit le
講演 : 英国から学ぶ日本の中皮腫ケア (学術講演会:アスベスト問題の現在-社会と医療-)(Care for People with Mesothelioma-Palliat ive care inthe U.K)
著者Author(s) 長松, 康子
掲載誌・巻号・ページCitat ion 21世紀倫理創成研究,7:50-58
刊行日Issue date 2014-03
資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文
版区分Resource Version publisher
権利Rights
DOI
JaLCDOI 10.24546/81006667
URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81006667
PDF issue: 2021-02-15
- 50 -
「英国から学ぶ日本の中皮腫ケア」
長松 康子
はじめに
私は中皮腫の患者さんへの看護ケアの研究をしています。中皮腫の患者さんに
良いケアを提供できるように、看護師のための教育プログラムや教科書を作ってい
ます。ところで、病院の看護師から、中皮腫は、ほかの病気よりも痛みや息苦しさ
をとることが難しいという話をよく聞きます。中皮腫と肺がんを比べると、息苦し
さが起こる割合は、肺がんで 65%、中皮腫では 96%に上ぼります。痛みについて
は、肺がんでは半数ほどなのに、中皮腫患者さんでは 91%に起こるのです。つま
り、中皮腫は、肺がんよりも痛みや息苦しさが起きやすい病気なのです。どうして
中皮腫は他の病気よりも痛くて息苦しいのか、どうしたらそれを取り除くことがで
きるのかが知りたくて、勉強を始めました。しかし、中皮腫の診断や治療について
はたくさん研究されているのに、中皮腫の息苦しさや痛みをどうやって軽減するか
について研究しているドクターはいませんでした。そんな時に、中皮腫の緩和ケア
について丁寧に詳しく書いてある本を見つけました。その本によると、中皮腫の痛
みは、がん細胞(中皮腫)が炎症を起こすことによる痛み、胸膜のそばにある肋間
神経や脊髄などにがん細胞が広がることによる神経性の痛み、大きくなったがん細
胞が骨を圧迫して起こす骨の痛み、胸膜肺全摘術で胸膜を胸郭からはがすことによ
る胸全体に鉄板を入れたような痛みなど、それぞれ異なる種類の痛みが様々に組合
わさっておこるというのです。痛みの種類によって対策が違うので、その人の痛み
が、どの痛みとどの痛みが組み合わさって起こっているかをよく調べて、薬や対処
法を吟味しないといけないのだそうです。この本を書いたヘレン・クレイソン先生
は、世界でただひとり、中皮腫の緩和ケアを専門に研究しているドクターで、イギ
リスにいらっしゃることがわかりました。そこで、もっと詳しく教えてもらいに先
生を訪ねました。先生は、ロンドンのずっと北にあるウルバーストンという小さな
町でホスピスの所長さんをしておられました(スライド1)。
英国から学ぶ日本の中皮腫ケア
51
スライド1 St.Mary’s Hospice 外観
どうしてそんな小さな町に中皮腫の緩和ケアを研究する先生がいるかというと、
この地域には、潜水艦を作る工場があって、たくさんの中皮腫患者さんがいらっし
ゃるのです。先生は、ホスピスを訪れる中皮腫患者さんの痛みや息苦しさをとりた
くて、ご自身で研究を重ねたのでした。
セント・メアリーズ・ホスピスの活動
ヘレン先生がいらしたセント・メリーズ・ホスピスについて少しご紹介します。
このホスピスは9床しかベッドがない、小さなホスピスです。100%寄付で建て
られ、100%寄付で運営されているので大きなものはできなかったのです。開所
式には支援者の一人である故ダイアナ妃がいらっしゃいました。入院される方から
お金はもらいません。ホスピスだから、亡くなる患者さんばかりと思いきや、具合
の悪い時にだけ 2,3 日滞在して自宅へ帰る患者さんや、ご家族が用事でお世話が
できないときに数日だけ入院する方もいらっしゃいます。患者さんはみなさんずっ
と居たいのですが、たくさんの人が入院を待っているので、最低限の日数しか入院
できません。ホスピスはみんなのものだと考えられています。地域の方たちは、ボ
ランティアとして奉仕したり、資金調達のためのリサイクルショップを運営したり、
寄付をしたりしながらホスピスを支え、具合が悪いときにも必要以上に滞在しない
21 世紀倫理創成研究 第 7 号
52
のです。
また、ホスピスでは、緩和ケアの一環として、週に1回、がん患者さんを招いて、
ボランティアが様々な催し物を行っています。私が訪問した日は、地元の美容師さ
んたちが来ていました。患者さんは散髪をしてもらったり、マニキュアやお化粧を
してもらっていました。この方たちは、体はお元気なのですが、いつ再発するかわ
からない恐怖や、がんによって障害を負った悲しみなどを抱えています。家族に心
配をかけたくないので、弱音を吐かないし、誰に辛い気持ちを話していいかわから
ないし、心おきなく泣ける場所も無いのです。このホスピスでは、がん患者同士が
辛い気持ちを分かち合い、ともに泣き、楽しいイベントを一緒に過ごすことで、患
者さんが気持ちを新たに家に帰れるように支えているのです。これもホスピスの大
事な役割です。ホスピスや緩和ケアは亡くなる方のものだけではなく、良く生きる
ためのものなのです。
痛くも息苦しくもない英国の中皮腫患者さん
このホスピスを訪問して驚いたのは、患者さんが誰も痛がったり、苦しがった
りしていないことでした。最期の時が迫った患者さんでも、うとうととされながら
も、声をかけると返事ができて、ご家族とお話しもできるのです。点滴、お小水の
管、酸素マスク、心電図などは一切着けていません。わずらわしいものがないので、
患者さんはゆったりとしています。ご家族は、最期の時に患者さんとのこれまでの
人生を振り返り、ゆっくりと静かに別れの時を持つことができます。もちろんそこ
には別れの悲しみが満ちていますが、人間の尊厳を許された者のみが得られる崇高
な魂の交わりがあり、悲しみさえからも解き放たれる時が迫る患者さんとそれを見
送ろうとするご家族との神聖な時間が生まれるのです。このホスピスで唯一行って
いる医療行為は、注射器に入れた痛みどめを少しずつポンプで注入することだけで
した(スライド2)。
英国から学ぶ日本の中皮腫ケア
53
スライド2 鎮痛薬をゆっくりと注入するためのポンプ
このポンプは日本でも使われています。実は中に入っているお薬も日本と同じ
なのです。では、どうしてヘレン先生は痛みや息苦しさをとることができて、日本
ではできないのでしょうか?違うのは薬の調合と心のケアです。注射器の中身は患
者さん一人ひとり違っています。というのも、先ほど申し上げた通り、中皮腫の痛
みや息苦しさは他の病気よりも複雑で、がんによっておこる臓器の炎症、手術の後
遺症、神経性の痛み、骨の痛みなどがありますが、患者さんによってどれか一つだ
けが起こったり、全部の痛みが同時に起こったり、痛みのおこり方が様々だからで
す。同様に、息苦しさも、様々な原因によっておこり、心理的な不安によって増強
されます。ヘレン先生は患者さんの話をよく聞いて、その方の痛みや息苦しさの原
因に応じて、薬や治療法を塩梅することを何度も何度も繰り返していたのです。こ
れは緩和ケアのプロだからできる匠の技です。中皮腫の症状コントロールは匙加減
がむずかしいので、専門のお医者さんにお願いするほうがよいと思います。
心のケアこそが緩和ケアの要
ヘレン先生は、患者さんの不安を軽減することが、痛みや息苦しさを取る上で
とても重要だとおっしゃいます。そのために先生は、患者さんと話すときは、時間
を十分にとり、礼儀正しく、敬語を使って、優しくゆっくり話されます。絶望的な
状況に追い込まれて、ヤケを起こしたり、攻撃的になった患者さんに対しても、発
言を否定したり、行動を叱ったりすることは極力避け、医師としての助言を拒絶さ
21 世紀倫理創成研究 第 7 号
54
れても、穏やかに受け入れていました。叱ったり、責めたりすれば、患者さんを追
い詰め、痛みや息苦しさを増強させるばかりだからです。むしろ、患者さんの絶望
的な気持ちを理解し、尊重することで、患者さんが、ホスピスは安全で、弱さや苦
しみを曝け出しても大丈夫だと感じるようになれば、自然と痛みや息苦しさが和ら
ぎ、薬でコントロールできるようになるのだそうです。中皮腫は他のがんにも増し
て患者さんとご家族を苦しめる病気ですが、医師がその苦しみに理解を示し、最期
まで支援を止めないと保障することで、患者さんの痛みや息苦しさは随分と和らぐ
のです。中皮腫患者さんの苦しみを全て取り除くことはできないかもしれませんが、
一緒に背負ってくれる医師がいたらどんなに安心でしょうか。本日、神戸のみなさ
んにお話をするのでヘレン先生からメッセージをいただきました。「中皮腫の痛み
や息苦しさはコントロール可能です。ただし、中皮腫痛みや苦しみがひどくなって
から緩和ケアを始めてもうまくいきません。数ヶ月前から始めれば、痛みを感じる
ことすらありません。痛みや息苦しさを取ることで、日々の生活を充実させること
ができますし、結果として緩和ケアを行わなかった患者さんより長生きすることが
多いように思います。」イギリスの中皮腫ケアガイドラインは、中皮腫には緩和ケ
アを診断時から導入することを勧めています。これは、中皮腫を治すための治療を
行わないということではありません。中皮腫は痛みや息苦しさが起こり易いので、
治すための治療と同時並行で緩和ケアをしなさいということなのです。元気な時か
ら緩和ケアを始めて、痛みや息苦しさが出ないように先手を打つ。それによって、
中皮腫を抱えながらも、元気に生活できるようにするのが緩和ケアの真の目的なの
です。
中皮腫患者さんとご家族を支える会
これは、ヘレン先生が設立したこの町の中皮腫患者さんとご家族の会です(ス
ライド3)。
英国から学ぶ日本の中皮腫ケア
55
スライド3 患者会の皆さん 後列左から2番目がヘレン先生
中皮腫の苦しみは、この病気になったことのない人にはなかなか分かってもら
えません。ですから、安心して自分の悩みや苦しみを相談し、支えあう場が必要な
のです。みなさん、大きな苦しみを抱えながらも、今この時を一緒に集える喜びを
分かち合っていらっしゃいました。そして、イギリスの中皮腫患者さんはお元気で
した。姿勢もお顔の色つやも良くて、外見からは病気の人とは思えませんでした。
この日は外の気温が氷点下なのに、来てくださるくらいお元気なのです。お天気が
悪いと、自宅で寝込んでおられる日本の患者さんのことを思いました。この方たち
も、中皮腫が進んでいて、胸水が大量にたまるのですが、訪問看護師と奥さんが胸
水を抜いているので、自宅で庭仕事などをしながら元気に過ごしています。ヘレン
先生に支えられ、オーダーメイドの痛みどめを飲んでいるので痛くないのです。
「アメリカや日本で行われている手術や化学療法をしたいと思ったことはないです
か?」とお訊ねすると、「病院で辛い治療をしながら少し長生きするくらいなら、
多少短くても家で家族とこれまで通りの生活をするほうがよい。」とおっしゃいま
した。患者さんもご家族も、病気についてよく説明を受けて納得をして治療を選択
し、後で「これでよかったのか?」と揺れることがあっても、ヘレン先生が話を聞
いて一緒に考えてくれるので、後悔に至ることなく気持ち穏やかに過ごしておられ
21 世紀倫理創成研究 第 7 号
56
ました。
中皮腫ナースの活躍
心と体が穏やかであることは、重要なことです。それを支えているのが看護師
たちでした。中皮腫のケアには経験と知識が必要なので、中皮腫患者が多い英国で
も看護師はケアに苦労しています。そこで、中皮腫のケアに卓越したある看護師が、
中皮腫ナースというシステムを作ったのです(スライド4)。
スライド4 英国の中皮腫看護システム
中皮腫について通信講座で勉強した中皮腫ナースたちは、ネットワークで繋が
り、常に最新の医療情報を得ています。ケアが難しい患者さんがいると、看護師は
本部に支援を求め、本部はケアのアドバイスをしたり、必要な人材を派遣したり、
もっと適した医療機関を紹介したりして、応援します。英国では、中皮腫ナースか
肺がんナースが全ての中皮腫患者を受け持ち、外来、病院、自宅など、どこにいて
も同じナースが患者さんのケアを受け持ちます。日本のように、手術をして退院し
た後に自宅で痛くなったけど、受診できずに痛いのを我慢するということはありま
せん。それだけでなく、弁護士や患者会と連携して、社会保障制度申請や患者さん
とご家族同士の支え合いまでお世話します。
英国から学ぶ日本の中皮腫ケア
57
中皮腫患者さんとご家族が求めるケアの必要性
さて、ここまで、英国の緩和ケアの良いところだけをお話ししました。実は英
国では、基本的に中皮腫に対する胸膜肺全摘術は行いません。化学療法すら行わな
いのが一般的です。体に負担のかかる治療を行わないので、ほとんどの方が最大限
ご自宅で自分らしい生活を送られています。一方で日本の患者さんより数か月早く
亡くなるのも事実です。英国は、医療費が無料ですので、病気によって行う治療は
国が基準(ガイドライン)を設けています。本人が希望しても、ガイドラインに沿
わない治療は、自費で治療を受けない限り受けられません。英国の治療ガイドライ
ンは、おおむね患者さんにとって良いものだと思います。しかし、私は決して英国
の中皮腫ケアが理想だといっているのではないのです。むしろ日本には、日本のや
り方があっていいのだと思います。日本のすぐれた医療制度を用いて、日本の患者
さんにとって良い中皮腫の治療やケアを実現したいと思うのです。残念ながら、現
在の中皮腫のケアは、中皮腫を治すことに邁進するあまり、科学的根拠のない化学
療法や、時期を逸した手術などが行われています。その結果、患者さんの体力や気
力を消耗させ、患者さんとご家族の大切な時間を奪っているのが残念でなりません。
患者さんとご家族ははじめて中皮腫になるのですから、治療選択にあたって無力に
近いのです。医師や看護師や患者会や様々な人たちの助言が必要です。もちろん中
皮腫を治せればそれが一番いいのです。しかし、治すことが難しい患者さんにまで
負担の大きい治療を強いてはいないでしょうか?また、地域の病院、外来、入院、
自宅療養と患者さんがケアを受ける場所が変わる時に、円滑にケアが引き継がれず、
在宅でのケアが途切れがちなことが大きな問題です。今、日本に必要なのは、医師
主導ではなく、中皮腫患者さんとご家族の目線にたった中皮腫ケアの確立だと思い
ます。
21 世紀倫理創成研究 第 7 号
58
最後に、家族のために一生懸命働いてくれたお父様を中皮腫で亡くされたジョ
アンさんが作った中皮腫の詩を一部ですがご紹介して終わります(スライド 5)。
スライド5 中皮腫患者の遺族の作った詩
(聖路加看護大学 国際看護学・准教授)