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Kobe University Repository :...

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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 20世紀前半におけるフランスの移民 : アルメニア人移民を中心 (Immigration in France, in the first half of the 20th century : focusing on Armenian immigrants) 著者 Author(s) 松井, 真之介 掲載誌・巻号・ページ Citation 鶴山論叢,07:58*-76* 刊行日 Issue date 2007-03 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81003095 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81003095 PDF issue: 2021-07-05
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  • Kobe University Repository : Kernel

    タイトルTit le

    20世紀前半におけるフランスの移民 : アルメニア人移民を中心に(Immigrat ion in France, in the first half of the 20th century : focusingon Armenian immigrants)

    著者Author(s) 松井, 真之介

    掲載誌・巻号・ページCitat ion 鶴山論叢,07:58*-76*

    刊行日Issue date 2007-03

    資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

    版区分Resource Version publisher

    権利Rights

    DOI

    JaLCDOI 10.24546/81003095

    URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81003095

    PDF issue: 2021-07-05

  • 76『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

    20世紀前半におけるフランスの移民―アルメニア人移民を中心に―

    松井真之介 

    【要旨】

     フランスは、国籍法の改正問題や「同化・統合・編入」問題、スカーフ事件などの異文化摩擦、そしてサッカー・ワールドカップにおける移民の活躍などによって、近年ようやく移民国家であることを自覚しはじめている。しかし、フランスは19世紀以来たくさんの移民を受け入れており、これまでも「移民の国」であった。それはフランスの人口増加の低迷と産業構造の変化――都市部の急激な産業化と農村の土地所有の整理統合、農民の賃金労働へのシフトなど――の産物であった。しかし、産業構造の変化はイギリス、ドイツなど他の国でもおこっていたことである一方、人口増加の低迷は西欧諸国ではフランスのみの状況であった。他の西欧諸国はフランスとは逆に急激に人口が増加しており、フランスはその余剰人口を積極的に受け入れつづけた。こうして西欧諸国の中でもフランスは早くから移民国家になったのである。その上第一次世界大戦による人的・物的損失が、戦後の移民の受け入れにさらに拍車をかける。それまで市場原理に基づいていた移民の受け入れは、1920年代には国家的な移民政策となってあらわれる。そしてイタリア人、ポーランド人をはじめとする近隣諸国からの移民で、フランスは1930年代の経済不況で移民受け入れに限界が見え、失業、故国帰還の問題が噴出し、ゼノフォビアの風潮が蔓延する。これまで日本であまり言及されることのなかった第二次世界大戦前の移民はこのような過程を経ているのである。 そして、この時代の移民に属するアルメニア人は、オスマン帝国のジェノサイドから逃れた無国籍の「難民」としてフランスへ到着するが、彼らが「難民」として言及されるのは渡仏時の政治的状態を中心に語られるときにほぼ限られるといえる。当時は「難民」として来仏したのであれ「移民」として来仏したのであれ、その社会的な立場は一様に「外国人労働者」であった。そしてフランスへの帰化と同時に、「難民」の呼称が消え、元難民の「移民」として他の移民と同じように考えられるようになるのである。

    【キーワード】 アルメニア人、移民、フランス Armenian, immigration, France

  • 20世紀前半におけるフランスの移民75

    序論

     本論文は主に二つの問題に端を発している。一つは日本のフランス学における移民研究がまだ総合的なものであるとはいえず、その対象や時代が非常に偏っているという問題である。日本におけるフランスの移民研究は近年になってようやく市民権を獲得しはじめたばかりである。1984年の林瑞枝による著作『フランスの異邦人』(中央公論社、1984年)を嚆矢として、この二十年間で数々の論文や著作、翻訳が出されてきた。そして1989年のスカーフ事件(1)を機に、フランスの「移民問題」は研究世界のみの関心事から一般的な関心事へと広がりを見せた。メディアによる数々の報道や特集記事が現れるのもこの頃からである。しかし日本においてフランスの移民研究というとほぼ第二次世界大戦後のマグレブ移民の問題に特化しており、少し対象を広げても、極右政党による移民排斥運動、移民の若者が中心に行ったとされる大都市郊外での暴動など、その関心もいわゆる民族問題、異文化衝突といったきわめて「ジャーナリスティックな」話題を中心に研究が行なわれている程度である。より「アカデミックな」関心においては、第二次世界大戦後の移民政策、特にフランスに独自の「同化・統合・編入」の諸概念の検討や国籍法改正問題からのアプローチが見られるが、いずれにせよ総合的、多層的な移民研究がなされているとは言い難い状況である。特に同時代的移民「問題」に関心が集中しがちで、スパンを長く取った移民史や移民の長期的な変容過程の解明に取り組む姿勢に欠けている。たとえば現在「同化の模範生」とされ、政治家などフランス国家の中枢を担う人間を多数輩出しているイタリア系やポーランド系も、第二次世界大戦前には経済不況の影響とはいえ「同化不可能」のレッテルを貼られていたことは、フランスの移民について断片的な知識しか得られない日本ではほとんど知られていない事実である。 もう一つは、今回事例として取り上げるフランスのアルメニア人移民(ここでは便宜的にアルメニア人「移民」としておく)研究とフランスの移民研究の相互言及が少ないという問題である。これは日本はもちろん、フランス本国においてさえも当てはまる問題である。フランスのアルメニア人移民の研究は、当事者―つまりフランスのアルメニア人移民とその子孫―による、当事者のための研究が大半である。フランスの移民研究全体からみても、わずかに渡仏当時の状況が言及される程度で、その変容過程や特に他移民との関係が分析されることはほとんどない。結局フランス移民史におけるアルメニア人移民の位置づけは未だ不確定のままである。

  • 74『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

     本論ではフランスの移民を多層的に解明する一助として第二次世界大戦以前の移民に焦点を絞り、まず移民の到来をもたらした社会背景について、特に19世紀のフランスの産業構造の変化と人口問題を中心に論ずる。その上で具体的にどのような移民がやってきたのか、フランスにおいてどのような状況に置かれていたのかを述べる。なおここでは、後の章でアルメニア人「移民」との比較をおこなうため、彼らの渡仏と同時期―両大戦間期―に存在した移民を中心にとりあげる。そしてアルメニア人「移民」が当時のフランス社会や他移民との関係においてどのような位置を占めていたかを、「移民」「難民」に関する諸定義を検討しつつ論じるつもりである。

    第 1章 移民受け入れの社会背景―人口問題

    1998年のサッカー・ワールドカップのフランス大会におけるフランス代表チームの優勝は、フランスの移民の存在を決定的に印象付けた出来事であった。メンバーの半数以上が移民か移民二世であり、その中心メンバーもアルジェリア系のジネディーヌ・ジダン(Zinedine Zidane)、アルメニア系のユーリ・ジョルカエフ(Youri Djorkaeff)、ガーナ系のマルセル・デザイー(Marcel Desailly)など、圧倒的に移民選手が占めており、2006年現在もその状況は変わっていない。しかし移民の存在は何も今に始まったことではない。20年前にはイタリア系のミシェル・プラティニ(Michel Platini)、50年前にはポーランド系のレイモン・コパ(Raymond Kopa)など、古くから移民もしくは移民二世の選手はフランスに存在していたが、ことさら「移民」として強調されることはなかった。歌手でもロシア系のセルジュ・ゲンスブール(Serge Gainsbourg)、アルメニア系のシャルル・アズナヴール(Charles Aznavour)、ギリシャ系のジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki)も皆移民二世である。このようにフランスは昔から多くの移民が存在していた国である。しかしそれが一般的に認知されてこなかったのは、「移民の国」であることを国民的アイデンティティとして肯定的に認識しているアメリカ合衆国などとは違って、フランス自らが「移民の国」や「多民族国家」を積極的にアピールすることがなかったからだといえる。また習慣や価値観の違いに起因する文化的衝突や民族差別などの、いわゆる移民問題ないし民族問題が、たとえあったにしても国内外で大きく取りあげられることがなかったからである。では、フランスはなぜ古くから移民を受け入れつづけ、なぜ「移民の国」と言われるまでにたくさんの移民を抱える国になったのだろうか。

  • 20世紀前半におけるフランスの移民73

     もともとヨーロッパにおいて、人間の移動はそれほど珍しいものではなかった。諸王家どうしの婚姻は現在の概念で言うとまさに「国際」結婚であったし、知識人や技術者、商人、芸術家などの個人的移住は頻繁に行なわれていた。また集団移住に関しては、ドイツ騎士団の東方植民などがあげられる。新大陸への移住もヨーロッパ人が最初である。そして、18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパの急激な人口増加(2)によって、主に近隣地方内での農村人口の移動が促進された。「18世紀後半の農村家族にとって、ある種の移動はライフサイクルの一部として慣習化していたといえる」(3)。同時に、国境を越えることもある遠距離の季節的移動も見られた。ベルギー・ドイツ・北フランスからオランダへの季節労働者移住システム、中部フランス・北西スペインから中部スペインへの移住などは、当時の人々の移住が近隣地方内のみにとどまらないことを示している。 人口の増加は、産業構造の変化をもたらした。山田による説明は以下の通りである。農村部における繊維・織物などの小製造業が人口増加による余剰労働力を吸収し、繊維・織物産業の中心村落への人口移動が起こる。小製造業の発展による賃金収入の普及によって、農地と農業への依存度が減じ、農地の細分化が起こる。そして、所有していてもあまり利益にならない小農地を手放す農民が多数現れ、農民のプロレタリア化が進行し、土地所有の整理統合が行なわれる。一方地方の中心的な都市は、小製造業の発展した周辺村落の大規模な市場となり、農村との経済的な結びつきが強まると同時に、農村からの余剰労働力の受け皿となり、さらに移住が加速する。整理統合が行われた農村の一部では、都市市場向け換金作物栽培が拡大し、年間を通じて雇用される労働者の削減が行なわれると同時に、その労働力としてますます季節集中型の短期的移動労働者への依存が強まった地域もある。こうして人口の増加と産業構造の変化が特に農村の人々の生活スタイルを変化させた。19世紀後半になると資本主義世界システムの拡大によって西欧の都市化と工業化が急速に進行し、ヨーロッパ全域でもともと頻繁に行われていた移動はさらに大規模化かつ加速した(4)。18世紀末から19世紀初頭にかけての近隣の都市と農村の関係が、19世紀後半にはそのまま西欧と東欧・南欧の関係に置きかえられていったのである。 フランスにおける移民の流入も、ヨーロッパの急激な人口増加と産業構造の変化の中でとらえることができる。しかし、これだけではなぜフランスだけが古くから移民を受け入れつづけ、またヨーロッパ最大の移民国になったのかを説明することはできない。大都市を持つ国であったら、産業構造の変化によって労働力不足となり、その応急処置として移民が必要となるからである。実際、ロンドン

  • 72『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

    やベルリンなどの大都市は多数の移民を引き寄せていた。そこで近代から第二次世界大戦までのフランスの人口の変遷をみてみることにする。

    フランスの人口の変遷

     フランスは1800年頃までは「人口の貯蔵庫」であった。当時の周辺諸国の人口がイギリス:1400万人、スペイン:1000万人、イタリア:1700万人、ベルギー・オランダ:500万人であるのに対し、フランスの人口は既に2700万人から2800万人であり(5)、ヨーロッパでは最多の人口を誇っていた。フランスが西ヨーロッパ最大の面積であることを考慮に入れても周辺諸国よりかなり多いことが分かる。しかし、それは19世紀になると変化を見せる。19世紀には農業生産の改善によってヨーロッパ全土で急激な人口増加が起こったことは前に触れた。それは確かにフランスにも波及したものの、周辺諸国の増加率にははるかに及んでいない。フランスは農業生産の改善に加え、医学的状況も早くから改善された。子供が育つことを前提にした産児制限が農夫、商店経営者、職人などあらゆる階層に普及し、多産多死型から少産少死型の社会となり、出生率の減少と社会の高齢化が他のヨーロッパ諸国に先駆けて始まっていたのである。フランス国内だけで人口1000人あたりの出生率を見てみると、1821年から1830年にかけては5.8人であるのに対し、1860年以降それが急激に低下し、1891年から1900年にかけては0.7人までに低下している(6)。周辺諸国との比較においても人口増加の低迷がわかる。18世紀初頭、フランスの人口はヨーロッパの人口の 5分の 1を占めていたが、第一次世界大戦が始まるころにはそれが10分の 1になっていた(7)。1801年から1851年の50年間の人口増加率を見ると、イギリスは100%、ヨーロッパ全体で50%であるのに対し、フランスは2820万人から3640万人と、わずか30%である(8)。人口増加率の低迷は1875年から1904年の約30年間をみるとより顕著である。ドイツの40%、ベルギーの41%、イギリスの30%に比べ、フランスの増加率はたったの7%である(9)。エミール・ゾラがその著書の中で「フランスにとって人口増加こそ愛国的行為だ」(ゾラ『多産』)と警告するほどそれは深刻な社会問題となっていた。特に隣国ドイツの人口増大はフランスにとって脅威であった。出生率を比較しても明らかである。1821年から1830年にかけては、フランスが人口1000人あたり5.8人であるのに対しドイツは9.3人であり、1.6倍の差であった。それが1891年から1900年にかけてはフランス0.7人に対しドイツ13.9人(10)と、20倍近くも差が開く。1850年代にフランスはドイツに人口を追い越され、その後第一次世界大戦まで500万人近くしか増加していないのに対し、ドイツは第一次世

  • 20世紀前半におけるフランスの移民71

    界大戦までに3000万人以上の増加を見せている。この差は普仏戦争の敗北やドイツ帝国の成立と拡大とともに、ドイツに対する脅威をますますフランス人の間に植え付けることとなった。 一方で、工業の発展による工場労働者の需要は人口増加率の低迷とは関係なく拡大していた。その供給源は当初フランス国内の農村の余剰人口であったものの、これら国内の人口移動だけではその需要に応じられなくなったため、19世紀半ばからは国外からの労働力の供給に頼るようになる。こうして最初期の移民の流入が始まる。1851年の国勢調査ではじめてデータが集計された外国人人口は約38万人であり、フランス全人口の1.06%を占める。外国人の割合はそこから1886年の2.97%にいたるまで着実に伸びており、これ以後第一次世界大戦まで 2%から3 %の間で安定することになる(11)。なお国籍別の内訳は、1851年の段階ではベルギー人が圧倒的に多く12万8000人である。次いでその半数のイタリア人(12)が6 万3000人、「ドイツ人・オーストリア人」(正確には両帝国内の臣民。以下の表記はこの説明に同じ。民族籍ではおそらくポーランド人が多数を占めると思われる(13))5 万7000人である。この後1866年にはベルギー人27万6000人、「ドイツ人・オーストリア人」10万7000人、イタリア人10万人で「ドイツ人・オーストリア人」とイタリア人の数がわずかに逆転するが、1876年にはイタリア人16万5000人、「ドイツ人」 5万9000人、オーストリア人7000人で、独墺合わせても 6万6000人(14)

    と、イタリア人の方が再び多数を占めるようになる。そして1901年の統計ではイタリア人33万人、ベルギー人32万3000人でイタリア人がベルギー人の数を追い越し最大グループとなり、1911年にはイタリア人41万9000人、ベルギー人28万7000人とその差はかなり開く(15)。このように19世紀後半から第一次世界大戦にかけてはベルギー人とイタリア人が圧倒的な割合を占めつづけ、以下に「ドイツ人」(おそらく実体はポーランド人)、スペイン人とスイス人が続く。

    第一次世界大戦と両大戦間期の人口

     フランスの人口の変遷において、第一次世界大戦は決定的な役割を果たすことになる。フランスは戦勝国でありながら莫大な損失を抱えることになる。人口に関して言えば、まず140万人(16)という死者の多さが挙げられる。これはドイツ180万人、ロシア170万人に次ぐ数であるが、人口に対する死者の数では一番多い。これは英仏独三国の中でフランスのみが戦場となり、占領されたことに大いに関係する。その140万の死者のうち41%を占める67万3000人が農民であり、農村人口が大打撃を受けた。また負傷者は150万人から430万人と、その算出方法と基準

  • 70『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

    が統計によってまちまちであるため大きなぶれがあるが、少なくとも100万人単位の負傷者が出たことはわかる。そのうち90万人は再帰不能の負傷者であった。死者、労働不能者、これらを労働力に換算すると200万人の損失になる。特に18歳から60歳の男子人口の 6分の 1が失われたことは産業の発展に大きな打撃を与えた(17)。結局、1921年の人口は1914年よりも5.6%も下回ることになる。 また死亡による人口喪失のほかに、戦争によってさらに出生率が減少したことも深刻な問題であった。この損失もまた死者と同じく140万人と見積もられている。隣国ドイツと比べて、戦争開始前の1911年の時点で人口は2500万人も少なく、その上戦中から戦後にかけての出生率もドイツより1000人あたりで 4人少なかったことは、労働力や兵力の面で人口学的な危機意識を高めることになる。特に国防に関しての兵力不足がフランス政府の最大の懸案であり、フランスはこのことを理由の一つとしてドイツとの国境沿いに400kmの要塞(マジノMaginot線)を建造したのである。 国民に対しては出産奨励策をとった。1920年 7 月に中絶禁止を法制化し、21年からは 3人以上の子供をもつ家族の13歳以下の児童に年額90フランの児童手当を支給しはじめる。そして32年 3 月に家族手当の支給が全雇用者に義務付けられ、39年 7 月には家族手当の引き上げと初産手当などが打ち出されて出産が奨励された(18)。 このように、第一次世界大戦によるフランスの人口損失―死者、出生率減少―は他のどの国よりも大きな痛手となった。同時に産業の物的損失も甚大であったことはいうまでもない。特にドイツ占領下に置かれていたフランス北部や東北部の打撃は大きかった。そしてこの人的・物的損失を埋め合わせるために再び移民の受け入れが活発になるのである。

    第 2章 両大戦間期の移民

     フランスの移民の存在は両大戦とは切り離せない。簡単に言えば、移民たちは戦争による人口減少の穴埋めと、戦後復興のための労働力確保を目的としてフランス側から「募集された」のである。本稿ではその中でも第一次世界大戦後から第二次世界大戦までの移民について述べる。なお今回は触れないが、第二次世界大戦後の移民も同じような状況―戦争による人口減少の穴埋めと戦後復興のための労働力確保―でフランスに流入したといえる。 第一次世界大戦期からの移民の特徴として挙げなければならないのが、移民の

  • 20世紀前半におけるフランスの移民69

    集団的性質、公的性質である。いくつかの例外を除いてほぼ官主導か、公的性格の強い私的機関による集団移民募集である。第一次世界大戦前はフランスの入国統制は厳しくなく、「ほとんどのフランスへの人口移動は市場の勢いによる自由裁量に任されて」(19)おり、移民政策は存在せず、すべての移民が政府の介入なしで流入した。しかし、第一次世界大戦中に政府と雇用主が中心となって外国人労働者雇用制度を確立させる。これは、雇用者確保の緊急の政策であり、広い意味での移民政策の登場といえる。フランス政府は戦場へ行った自国民労働力の空席を外国人労働者で補おうとする。そうして外国人労働者を以下の三種類に分類して雇用する体制を整える。①準軍事機構SOTC(Service d'organization des travailleurs coloniaux:植民地労働者機構)によって雇用された北アフリカ・インドシナ植民地出身者、中国人労働者。このグループには22万5000人存在した。内訳はアルジェリア人 7万9000人、チュニジア人 1万8000人、モロッコ人 3万6000人、インドシナ人 4万9000人、中国人 3万7000人、マダガスカル人5000人である。彼らは主に、兵器製造など戦闘を主としない軍事労働や 大農場での労働に従事した。②フランスの農場経営者が管理する組織OMNA(Office national de la main-d'oeuvre agricole:国立農業労働者事務所)によって雇用されたスペイン人・ポルトガル人・イタリア人農場労働者。内訳は14万6000人のスペイン人およびポルトガル人と2000人のイタリア人である。③労働省主導のヨーロッパ系労働者。彼らは工場労働者として雇用された。内訳はポルトガル人 2万3000人、スペイン人 1万5000人、ギリシャ人 2万4000人、イタリア人5000人、その他 1万3000人である(20)。それに加えて戦争捕虜には強制労働をさせ、労働力の不足分を補った。そして第一次世界大戦後も同じように政府と雇用主によって確立された外国人労働者雇用制度をそのまま再利用した。やはり戦後復興のための労働者の緊急確保が目的である。戦後当初はフランス政府の主導という性格が強く、例えば1919年10月から1920年10月までに80000人のイタリア人が政府主導で導入された。しかし、それは国家主導主義を批判する保守陣営の圧力によってだんだん雇用主の主導に変化してくる。1919年にはすでに東部鉄鋼業委員会Comit áe des forges de l'EstやCARD(Conf áed áeration des associations agricoles des r áegions d áevast áees:荒廃地域農協連盟)が組織的にイタリア人、ポーランド人を導入しはじめている。その後も製油業、製糖業などの組織が各々外国人労働者を導入しているが、募集や導入の際の手続きなどを統合しようという動きがそれら組織の中で強まってくる。そうして製油業中央委員会le Comit áe central des houill àeres、製糖業委員会le Comit áe des fabricants de sucre、農業労働者中央事務局 l'Office

  • 68『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

    central de la main-d'oeuvre agricoleなどさまざまな組織が集まって、1924年株式会社SGI(La Soci áet áe G áen áerale d'Immigration:移民総合会社)が設立される。SGIは株式会社といっても、その管理は政財界の上層に属する者たちであり、移民の選択、雇用、衛生管理、輸送を一手に引き受け、場合によっては政府に圧力をかけられるほど公的性格の強いものであった。その募集地域はイタリア、ベルギー、ギリシャ、オーストリア、ノルウェー、スウェーデン、スイス、リトアニア、ポーランド、ルーマニアなどヨーロッパ広範にわたった(21)。1920年から1930年の十年間にフランスに導入された移民は200万人弱であるが、このうちの 3割近く、56万7000人の移民がSGIを通じて導入されており(22)、移民導入に関するSGIの影響力がいかに大きかったかが分かる。一方、経済危機のときも恒常的に導入を行なうその性格には批判も多く、黒人奴隷売買と同じではないかという人権面からの批判も受けることになる。それほど当時のフランスにとってSGIは影響力の強い、公的性格をもつ組織だったのである。 こうして1931年までにフランスには270万人の外国人が存在するようになり、外国人が国の総人口に占める割合はアメリカ合衆国より多くなっているのである(23)。その中でも最も多いのがイタリア人であり、その数は1931年に80万8000人であり、外国人人口の29.7%を占める。その次に多いのがポーランド人の50万8000人、以下スペイン人35万2000人、ベルギー人25万4000人、スイス人 9万8000人と続く。 この移民の波は1931年を境に停滞、逆行する。1929年の世界恐慌の余波で、フランスは1931年に深刻な経済危機を迎えることになった。翌年、政府はフランス人労働者の雇用確保のため、一工場における外国人労働者の割合を制限する1932年 8 月10日法を発布する。そして大量の外国人労働者が失業することになる。一部の者は商売(行商や個人商店など)を始めたり、家庭内で小製造業などを始めたりして失業状態を脱出したが、失業した多数の者が母国への帰還を余儀なくされる。特に鉱業が不況の影響を強く受け、当時工業に従事する全労働者の半数を占めるまでになっていたポーランド人が多数帰国する。また、政府としても列車によるポーランド人の強制送還を計画するまでに至った(24)。そして、ゼノフォビアの風潮が蔓延する。当初はフランス人にとって「望ましい移民」として流入を奨励され、移民の中でも最多数を誇っていたイタリア人とポーランド人は、この時期には「同化不可能」と酷評されたのである(25)。このように、経済不況によって外国人労働者の受け入れに限界が見えはじめ、排外主義の波が訪れるのが30年代の特徴である。

  • 20世紀前半におけるフランスの移民67

    第 3 章 アルメニア人「移民」の地位

     アルメニア人は、時期的には第 2章で述べられた両大戦間期の移民集団の中に入れられる。彼らは1915年のオスマン帝国によるジェノサイドからの避難民であり、1924年からはナンセン・パスポート(26)を使ってギリシアやシリア、ブルガリア、レバノンなどの難民キャンプから渡仏してきた。ナンセン・パスポートがまだアルメニア人に発行されていなかった1924年以前の渡仏者を含めても、彼らの大量渡仏は1923年から1932年のほぼ十年間に限られるといってよい。その数であるが、もともとの国籍が「オスマン帝国」すなわちトルコであるため、国籍別の外国人人口には「アルメニア人」(Armáeniens)の名は出てこない。そして無国籍者という身分で渡仏しているため、「ユダヤ人」(Juifs)などのカテゴリーと同じく、統計にあらわれる数には大きなばらつきが見られる。マウコによると、1935年のアルメニア人人口は 2万9000人であり、フランスで11番目の外国人集団となっている(27)。しかし、1926年にフランスのアルメニア人人口の約半数の 2万5000人から 3万人がパリに居住していたという記述もあることから(28)、フランス全体には 5万人から 6万人存在したとも考えられる。なお、ここで1926年から1935年の間のアルメニア人人口の変遷について触れておかなければならない。この間、アルメニア人の故国帰還はなく、帰化した数もごくわずかである。その上1932年までアルメニア人の受け入れが続くことを考えると、アルメニア人人口は増加したのであり、減少はしていないと考えるのが自然である。それを考慮するとやはり統計によるばらつきが大きいといわざるを得ない(29)。いずれにしても先述の移民集団には到底及ばない数字である。しかし、ここで一つ押さえておかなければならない問題がある。彼らは「難民」であるのか、「移民」であるのか。そのために「難民」と「移民」という言葉をもう一度振り返ってみたい。

     「難民」という言葉は、『広辞苑』では次のように定義されている。

    戦争・天災などのため困難に陥った人民。特に、戦禍、政治的混乱や迫害を避けて故国や居住地外に出た人。亡命者と同じ意味にも用いるが、比較的まとまった集団の場合にいうことが多い(『広辞苑』第四版)。

     補足であるが、「亡命」に関しては以下のとおりである。

  • 66『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

    (「命」は名籍の意)①戸籍を脱して逃げうせること。②政治上の原因で本国を脱出して他国に身を寄せること(『広辞苑』第四版)。

     フランス語で「難民」にあたる言葉はr áefugi áe (女性形:r áefugi áee、以下カッコの中は女性形)である。

     “r áefugi áe (r áefugi áee)”adj. Et n.

    1 . Se dit d'une personnne qui a d âu fuir le lieu qu'elle habitait afin d'echapper àa un danger (guerre, pers áecutions politiques ou religieuses,

    etc.)

    2 . N.(用法のみの記述であるため省略)Le Petit Robert, Edition 1977.

    <拙訳>[形容詞、名詞]1 . ある危険(戦争、政治的もしくは宗教的迫害など)を避けるために住んでいた場所から逃げなければならなかった人について用いられる。

    2 .(用法のみの記述であるため省略)

     さらに『ロベール仏和大辞典』では以下のとおりである。

    [形容詞](se r áefugierの過去分詞)避難した、亡命した。[名 詞] ①亡命者、難民。     ②《複数で》(ナントの王令廃止後の)亡命新教徒。

    (小学館『ロベール仏和大辞典』初版)

     そして国際的には、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)による「難民の地位に関する1951年条約」(通称ジュネーヴ条約)による定義が通用している。

    人種、宗教、国籍、特定の社会集団の成員や政治的意見ゆえに、迫害を受ける十分に根拠のあるおそれを有し、国籍国の外にあって、国籍国の保護を受けられないか、受けるに消極的な者。

  • 20世紀前半におけるフランスの移民65

     無国籍者の場合、「国籍国」を持たないので、「かつて常住していた国」と読みかえる(30)。ここで、条約の発布年と実際のアルメニア人「難民」の渡仏時期が逆になり、はたしてこの定義を彼らに適用できるかという問題が浮上するが、UNHCRとその前身がそもそも両大戦によって生み出された「難民」救済を目的として組織されているので、後者の定義で第一次世界大戦後の「難民」を論じることは妥当といえる。

     以上の定義でも分かるように「難民」は多分に政治性を帯びた言葉であるといえる。特に1951年の難民条約では完全に政治的「難民」に限定した定義である。そして、以下の二つのことが含意されていることを確認しておきたい。まず、移動を誘発するものが、移動者自身の自発的意思ではなく、移動を余儀なくされる外部環境であること。次に、集団的要素が強いということである。

     次に、「移民」に関する定義をみてみよう。『広辞苑』では以下のように定義されている。

    他郷に移り住むこと。特に、労働に従事する目的で海外に移住すること。また、その人(『広辞苑』第四版)。

     「移民」に関しては、「難民」のそれのように国際的な条約に基づく定義というものはないが、『世界民族問題事典』では以下のように定義されている。

    移民は、国内あるいは国際を問わず、社会集団の間における人の移動、と定義される。

     さらに通常その中には、季節的出稼ぎ、産業化にともなう農村から都市への挙家移動、越境通勤者、頭脳流出、難民、亡命者を含む、としている。

     フランスには人口統計研究者ミシェル・トリバラMichel Tribalatによる公式の「移民」定義が存在する。

    移民とは外国で出生し、出生時には現在住んでいる国の国籍を保持していなかった人たちのことである(31)。

  • 64『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

     次に、フランス語で「移民」にあたる言葉としてimmigration、immigrant(immigrante)、immigr áe(immigr áee)、 áemigration、 áemigrant( áemigrante)、áemigr áe( áemigr áee)、migration、migrant(migrante)と、実にさまざまな言葉があるが、一般的にフランスで使われるのはフランスへ流入する「移民」をさすimmigration、immigrant(immigrante)、immigr áe(immigr áee)の三種類である。

     “immigration”n.f. Entr áee dans un pays de personnes non autochtones qui viennent s'y

    áetablir, g áen áeralement pour y trouver un emploi.

    Le Petit Robert, Edition 1977.

    <拙訳>[女性名詞] ある国(地方)へ定住しに来た、土着でない人の流入。一般的に雇用を見つけるためにやって来る。

    [女性名詞] ①(他国からの)移住、移民流入;《特に》外国人労働者の流入。 ②(ある国の内部での)人口移動。 ③《集合的》移民。 ④(おもにアメリカの)入国管理。

    (小学館『ロベール仏和大辞典』初版)

     “immigrant(immigrante)”1 . Adj. Rare. Qui immigre.2 . N. Cour. Personne qui immigre dans un pays un qui y a immigr áe

    r áecemment.

    Le Petit Robert, Edition 1977.

    <拙訳>1 .[形容詞] (稀)移住してくる~。2 .[名 詞] (一般)ある国(地方)へ移住しにくる人、もしくは近いう

    ちに移住してきた人。

    (immigrerの現在分詞)[名 詞] 移民;《特に》外国人出稼ぎ労働者。[形容詞] (稀)移住してくる、移民の。

  • 20世紀前半におけるフランスの移民63

    (小学館『ロベール仏和大辞典』初版)

     “immigr áe(immigr áee)”adj. Et n. Qui est venu de l' áetranger

    Le Petit Robert, Edition 1977.

    <拙訳>[形容詞、名詞] 外国から来た~、外国から来た人。

    (immigrerの過去分詞)[形容詞] (他国から)移住した;(20世紀中頃)(先進国へ)出稼ぎに来た。[名詞] 移民;(20世紀中頃)移民労働者。

    (小学館『ロベール仏和大辞典』初版)

     「移民」(ここではフランス語の言葉も含めるが)という言葉は、字義的には「移住する人」、「移住した人」程度の意味合いで使われる広い意味の言葉である。そして、「難民」という言葉との比較において次のことが言えるだろう。まず、より政治的要素と集団的要素が薄いということ。そして、移動者自身の自発的意思で移動した者を含むということ。このように、「移民」という言葉のほうが「難民」よりも基本的にはニュートラルであり、「難民」を包含する広い概念であることがわかる。

     では、1920年代に渡仏してきたアルメニア人はどうであろうか。「移民」の広い定義からするともちろん「移民」である。そしてジェノサイドという政治的迫害を逃れ、ナンセン・パスポートを持って渡仏したことを考えると明らかに「難民」であり、その中でも特に「政治的難民」である。だから、「難民」のカテゴリーに入る「移民」である、といえる。実際、フランスにおいては「政治的難民かつ輸入労働者  àa la fois r áefugi áes politiques et main-d'oeuvre import áee」として捉えられていた。そしてそれが「難民」呼称であったり、「移民」呼称であったりする「ゆらぎ」は、アルメニア人をどの視点から言及するか、どういう文脈で捉えるか、またどの時点のアルメニア人に言及するかによって変化する。 アルメニア人が「難民」として言及されるのは、政治的観点からである。ナンセン・パスポートを持って無国籍者として中東の難民キャンプから渡仏し、マルセイユの難民キャンプに一時収容されたということを中心に言及する場合であ

  • 62『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

    る。その点でほぼ渡仏時の状態に言及するときに限られることが多い。また渡仏の理由別に渡仏者を分類する場合もアルメニア人は「難民」として語られる。この場合、ほぼ同時期に故国の政治的混乱を逃れて渡仏したという理由から、1917年のロシア革命から逃れてきた10万人あまりのロシア人難民・亡命者と一緒に語られることが多い。そして故国へ帰還できず、1945年以降、大多数のアルメニア人がフランスに帰化しフランス国籍を取得すると、もはや「難民」という呼称はまったく出てこなくなる。 アルメニア人が「移民」として言及されるのは、政治的観点を含まない場合である。マルセイユの難民キャンプを出て、無国籍者の難民という地位でありながらも、他の「移民」と同じように沿岸労働や工場労働、鉱山、家内工業の未熟練労働者としてフランスでの生活を始めることを中心に語る場合などである。その点では渡仏後の状態に言及するときに使われる言葉である。また、中東の難民キャンプから直接フランスの企業に採用されたグループもあり、彼らはSGIの斡旋で渡仏したイタリア人やポーランド人などの外国人移民労働者とまったく変わらない状態であったわけである。そして先述のとおり、フランスへ帰化した後は「難民」の呼称は消え、もっぱら「移民」という呼称に統一されていくのである。 ここでもうひとつ注意しておきたいのが、フランスにおける「移民」と「難民」に関する一般的な固定観念である。その固定観念について、ハーグリーヴスは次のように指摘している。

    移民の流れを基本的に引き起こすには労働市場が最も有力な要因であることから、移民(immigr áes)は移民労働者と同義語と見なされるようになり、次いで専門的な有資格者としてよりも未熟練労働者と同等に扱われた。亡命申請者と難民は、政治的な迫害者としてこの経済的な基盤の外に置かれ、結果的に移民という通俗な概念と連動して考えられることはなかった(32)。

     これは第二次世界大戦後の、特に1974年の移民受け入れ停止以降の言説であり、そのまま両大戦間期のアルメニア人渡仏者に適用するというわけにはいかない。そこで、この固定観念を両大戦間期の状態に照らし合わせてみてみよう。 「移民の流れを基本的に引き起こすには労働市場が最も有力な要因である」のは両大戦間期も同様であるので、「移民(immigr áes)は移民労働者と同義語と見なされ」ていたといえる。「次いで専門的な有資格者としてよりも未熟練労働者と同等に扱われた」ことに関しても同様であり、未熟練労働者からフランスの

  • 20世紀前半におけるフランスの移民61

    生活を始めたアルメニア人は、一般的な固定観念からしても「移民」であったといえる。しかし、「亡命申請者と難民は、政治的な迫害者としてこの経済的な基盤の外に置かれ、結果的に移民という通俗な概念と連動して考えられることはなかった」ことに関しては、一考を要したい。1974年の移民受け入れ停止は、移民すなわち外国人労働者への経済的需要が低下し、このまま受け入れを続けたら自国民の雇用まで脅かされるのではないかという経済的な懸念に対してとられた措置である。それでも亡命申請者と難民に関してのみ、「政治的な迫害者としてこの経済的な基盤の外に置かれ、結果的に移民という通俗な概念と連動して考えられることはなかった」まま受け入れが続けられたのである。つまり、「難民」はいわゆる「移民」とは別に考えられ、受け入れられたのである。実際その後フランスは、ヴェトナム人、カンボジア人、アルバニア人、イラン人、中国人などの、避難理由が明確に政治的なものであると限定された難民を受け入れている。しかし両大戦間期は、移民停止どころかむしろ積極的に移民を導入した時代だった。「難民」であっても実際は「移民労働者」と同じ役割を担っていたのであって、「移民」と「難民」を区別し、入国を認めるか否かを吟味する必要はなかったのである。そして本間は、「60年代までの難民は、深刻化していた労働力を補う側面があった」とし、難民キャンプから企業家にリクルートされるアルメニア人と、それを黙認するフランス政府についての例をあげている(33)。これを見ても両大戦間期の「難民」はほぼ移民労働者、すなわち「移民」と見なされていたことがわかる。 結局、アルメニア人が「難民」と言われるのは、渡仏時の政治的状態を中心に語られるときにほぼ限られるといえる。そして、社会的な立場としては他の「移民」と同様、工場労働などの未熟練労働からフランスにおける生活をはじめた外国人労働者であった。ただ、彼らは無国籍者という政治的地位であったため、不況の時代にも本国への強制送還や国外退去という措置を取られる可能性はほぼなかったということを付け加えておく。

  • 60『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

    結論

     フランスは、国籍法の改正問題や「同化・統合・編入」問題、スカーフ事件などの異文化摩擦、そしてサッカー・ワールドカップにおける移民の活躍などによって、近年ようやく移民国家であることを自覚しはじめている。その自覚がなかったせいか、フランスはこれまで自らが「移民国家」や「多民族国家」であることを積極的にアピールすることがなかった。しかし、フランスは19世紀以来たくさんの移民を受け入れており、これまでも「移民の国」であったことは事実である。それはフランスの人口増加の低迷と産業構造の変化―都市部の急激な産業化と農村の土地所有の整理統合、農民の賃金労働へのシフトなど―の産物であった。しかし、産業構造の変化はイギリス、ドイツなど他の国でもおこっていたことである一方、人口増加の低迷は西欧諸国ではフランスのみの状況であった。他の西欧諸国はフランスとは逆に急激に人口が増加しており、フランスはその余剰人口を積極的に受け入れつづけた。こうして西欧諸国の中でもフランスは早くから移民国家になったのである。その上第一次世界大戦による人的・物的損失が、戦後の移民の受け入れにさらに拍車をかける。それまで市場原理に基づいていた移民の受け入れは、1920年代には国家的な移民政策となってあらわれる。そしてイタリア人、ポーランド人をはじめとする近隣諸国からの移民で、フランスは1930年までにはアメリカ合衆国よりも高い移民人口率を誇るようになる。しかし1930年代の経済不況で移民受け入れに限界が見え、失業、故国帰還の問題が噴出し、ゼノフォビアの風潮が蔓延する。これまで日本であまり言及されることのなかった第二次世界大戦前の移民はこのような過程をへて形成されてきたのである。 そして、この時代の移民に属するアルメニア人は、オスマン帝国のジェノサイドから逃れた無国籍の「難民」としてフランスへ到着するが、彼らが「難民」として言及されるのは渡仏時の政治的状態を中心に語られるときにほぼ限られるといえる。当時は「難民」として来仏したのであれ、「移民」として来仏したのであれ、その社会的な立場は一様に「外国人労働者」であった。そして、フランスへの帰化と同時に「難民」の呼称が消え、元難民の「移民」として他の移民と同じように考えられるようになるのである。

    【註】( 1)1989年、パリ北東部の都市クレイユ(Creil)の公立中学校で、マグレブ系の女子生

  • 20世紀前半におけるフランスの移民59

    徒がイスラームの象徴であるスカーフを着用して登校し、学校側からの度重なる禁止命令に対しても着用を続け、校長によって最初は入校を拒否され、その後退学処分にされた事件。この事件はフランス全土を巻き込む大論争に発展し、当時の教育相ジョスパン(Lionel Jospin)はこの問題の裁定を国務院に委ねる。同年11月、国務院は《着用そのものはライシテの原則と相容れないわけではない》と答申し、各学校長に裁量を委ねることとなった。その後、2003年にこの問題が国会で取り上げられ、国内外に大きな議論を巻き起こしたが、翌年 1月に公立校でのスカーフ着用禁止法案が可決された。

    ( 2)ヨーロッパの人口は、1750年から1850年の間に6200万から 1億1600万へとほぼ倍増した。

    ( 3)山田史郎・北村暁夫・大津留厚・藤川隆男・柴田英樹・国本伊代、『移民』(ミネルヴァ書房、1998年)、 2頁。

    ( 4)同書、 5頁- 8頁。( 5)Georges Mauco, Les àetrangers en France et le probl àeme du racisme, p.20.( 6)Gary S. Cross, Immigrant Workers in Industrial France: The Making of a New

    Laboring Class, pp.6-7.

    ( 7)Gáerard Noiriel, Population, immigration et identit àe nationale en France XIXe-XXe si àecle, p.51.

    ( 8)湯浅赳男『文明の人口史―人類と環境の衝突 一万年史』(新評論、1999年)、327頁。( 9)Marianne Amar, Pierre Milza, L'immigration en France au XXe si àecle, p.86.(10)Cross, ibid., pp.6-7.(11)アリック・G・ハーグリーヴス『現代フランス―移民から見た世界』(明石書店、1997年)、33頁。

    (12)この頃イタリアはまだ統一されていないが(イタリア統一は1861年)、おそらく地理的名称としてのイタリアとして使用されたと思われる。

    (13)当時ポーランド人はドイツの国内エスニック集団であり、国籍別ではドイツ人に数えられることと、民族別の移民統計でドイツ人やオーストリア人が少数であるのに対し、ポーランド人が多数存在することによる。

    (14)この頃にはドイツ人とオーストリア人は別々に統計を取られている。1871年のドイツ統一を受けて明確な区分がつけられたのであろう。ここでも「ドイツ人」の多数はポーランド人であろう。またショールSchorの提示した1851年から1911年までの外国人分布表には、国籍別の区分のため「ポーランド人」いう項目はない(ポーランド独立は1918年)。

    (15)以上、Ralph Schor, Histoire de l'immigration en France de la fin du XIXe si àecle àa nos jours, p.14.

    (16)うち 7万5000人は植民地兵である。(17)Mauco, op. cit., p.22.

  • 58『鶴山論叢』第 7号 2007年3月31日

    (18)福井憲彦編『フランス史』(山川出版社、2001年)、381頁。(19)ハーグリーヴス、前掲書、32頁。(20) Cross, ibid., pp.34-41.(21)Schor, op.cit., p.54.(22)スティーヴン・カースルズ、マーク・J・ミラー『国際移民の時代』(名古屋大学出版会、1996年)、67頁。

    (23)Gerard Noiriel, Le creuset français: Histoire de l'immigration XIXe-Xxe si àecle, p.21.(24)ハーグリーヴス、前掲書、32頁。(25)同書、67頁。(26)本国の旅券にかわって、難民が自由に国境を越えることを可能にする身分証明書。国際連盟難民高等弁務官フリチョフ・ナンセンFridtjof Nansenが1922年に創始した。これにより難民は収容されることなく、移動の自由が認められた。51ヶ国の政府に認められ、1922年だけで150万部発行されている。

    (27)Mauco, op. cit., p.25.(28)Anaide Ter-Minassian, Histoire Croisáees: Diaspora Armáenie Transcaucasie 1890-1990,

    p.63.

    (29)実際、フランスのアルメニア人移民とその子孫の現在の数も統計によって大きなばらつきがあり、研究上の大きな障害となっている。15万人程度とする研究から45万人と見積もるデータもあり、その統計にはほとんど何をもって「アルメニア人」とするかの明確な基準が示されていない。

    (30)中岡三益編『難民 移民 出稼ぎ』(東洋経済新報社、1991年)、32頁。(31)ハーグリーヴス、前掲書、29頁。(32)ハーグリーグス、前掲書、47頁。(33)本間圭一『パリの移民・外国人』(高文研、2001年)、61頁。

    (マツイ シンノスケ、神戸大学総合人間科学研究科博士課程後期課程)

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