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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title イスパニアにおけるジェノヴァ商人の活動への前提(Some Grounds for Activities of the Genouese in Spain) 著者 Author(s) 山瀬, 善一 掲載誌・巻号・ページ Citation 国民経済雑誌,128(6):1-21 刊行日 Issue date 1973-12 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/00171680 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/00171680 PDF issue: 2021-08-15
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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

イスパニアにおけるジェノヴァ商人の活動への前提(Some Grounds forAct ivit ies of the Genouese in Spain)

著者Author(s) 山瀬, 善一

掲載誌・巻号・ページCitat ion 国民経済雑誌,128(6):1-21

刊行日Issue date 1973-12

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/00171680

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/00171680

PDF issue: 2021-08-15

イスパニアにおけ るジェ ノヴァ

商人の活動-の前提

山 瀬 善

は し が き

イスパニア経済史にかんする多くの業績を遺し,他方で 《イ スパ ニア経済

史≫の体系化を試み,今後一層の活躍を期待されながら,フランスの リヨンで1

50才の生涯を閉じた J・VICENSVIVES(1910-60)は次のように述べている。

「イスパニアの近世経済史についてなんらかのことを理解しようとするならば,

最も緊急に企てられなければならない研究の一つは,十五世紀においてアラゴ

ソ王国のみならず,特にカスティ-リャ王国でジェノヴァ人によって演ぜられ

た役割と関係するであろう。確かに重要であったとい う確信はあ り,十三世紀

以後にジェノヴァによるイスパニアの植民は,7メリカ発見にとっての基本的

段階を印し,バレンシアとセビ-1)ヤはアラゴソとカスティ-リャ二王国にお

けるかれらの重要な根拠地であったことは知られている。しかし,かれらが活

動した正嘩な方法についてほとんどなにも知らない。アンダルシ-アの大西洋

貿易と地中海ならびに中部 ヨ-ロ;′くの貿易との一大仲介者としてのジェノヴ2

ァ人の役割はふさわしい状態で解明されてきておらない。」 このような不十分

1 J・VICENS VIVES の著書,論文は著しく多数にのぼるが,主要なもの若干を挙げておこう。イ

ス′くニア経済史の体系化を企てたものとして, Man乞LeldchiitWiaecon6micadeEspa伽,Barcelona1959

(Eng.trans.Aneconomichi∫toryojSpam,byM.LOpEZ-MARILLAS,Princeton1969);HIStOriasocial

yecondmicadeEspa苑ayAmklCa,5ts.(T.V.,Hi∫loria deEspajiay Amdrica),dlrigidaparJ.VICENS

VIVES,Barcelona1957-61がある。なお,主要論文については,かれの死後公刊された論文集Obra

di'spcrsa,Espa苑α,AmZrica,Euroba,2ts・,Barcelona1967に集められている。

2 VICENSVIVES,I.:AneconomichistoryofSpam,p・282・同書の一部が他の著者の著作とともに収

録されている HIGHFIFJLD,R・(ed・):Spainin thejflcenlhcentury,1369-1516,cSSay∫andextractsby

hi∫lorian∫ofSpain,London1972,p・46・

2 第 128 巻 第 6 号

な研究情況は,その後の研究の進展により着々と補われつつある。関心の高ま

りは,特に1967年にケルン大学の HermannKELLENBENZ を中心にヨーロッ

パの多数の研究者の参加をえた研究グループの発足をみ,その成果が1970年に

H.KELLENBENZ (hrsg.Ⅴ.);FremdeKauPeuteauf derZberischenHalbin∫el,(K61ner

Kolloquien zurinternationalen Sozial-u・W irtschaftsgeschichte,Bd・I), K61n3

1970として発表されるに至ってい る。われわれは最近の研究諸業績を踏まえ

て,前述の VICENS VIVES の言に従ってイスパニア近世経済史を理解する

ための序として,次の二つの主要な問題を以下考察する。1)イスパニアでの

商業活動において自国商人より外国商人の活動がなぜ活発であったのか9 2)

外国商人の中,特にジェノヴァ商人がなぜ最も重要な地位を占めたのか?

十五世紀にイスパニアにおいて,外国商人が活発に活躍をしたとしても,そ4

れは自国商人の不在によるものではない。既に十世紀にユダヤ人ならびにモー

ロ人 (moros) を通じてビザンチン,ペルシャの織物がもたらされ,キリス ト教

ヨーロッパにおける最も古い市場として, Cl.SANCHEZ-ALBORNOZ と L.

G.DE VALDEAVELLANO の古典的著作を通じて有名になってい る レオ ン5

(Le an)の市場が成立していたのである。この時代のキ リス ト教イスパニアの経

3 この論文集の中には, H・KELLENBENZ,R・KONETZKE,Ⅴ・RAU,Ch・VERLINDEN,B・

BENNASSAR,F.MELIS,J.HEERS,F.RUIZMART重N,H.LAPEYRE,F.MAURO,H.AM-

MANN,W.YONSTROMER,C.SCIIAPER,E.STOLS,J.-P.BERTHE,H.I.TAYLOR がそれ

ぞれの個別問題について執筆している0

4 中世におけるイス/ミニア商人とその活動情況の全般にわたって簡潔に知るためには, VERLIN-

DEN,Ch.:甘TheriseOfSpanishtradeinthemiddleagesD,7756cconomichi∫loryrcuiezL・,Vol・10(1939-

40),pp・44sqq・をみよ,

5 SANCHEZ-ALBORNOZ,Cl.:EslamPa∫delavidaenLeo'ndzJrantCelsigloX,Madrid1926(再版とし

て UnaciudadhispanO-cri∫lianahaceunmilcnio,cStamPas dclauidaenLco'n,BuenosAires1941がある。);

I)EVALDEAVELLANO,L G・:8FJlmercado,,apuntesparasuestudioenI・e6nyCastilladurante

laedadm占dial),Anuariodchisloriadclderechoespめ J,T.VIII(1931),pAgs・201sqq. なお,イスパ

ニアの中世都市成立の問題を政治,社会,経済的場環と関連して検討したものとして,拙稿 「キリ

スト教イスパニアにおける中世都市の成立への序論」,国民経済雑誌,第110巻第5号 (1964), 1ペ

ージ以下がある。

イスパニアにおけるジェノヴァ商人の活動への前提 3

済は主としてユダヤ人によって担われた。キ リス ト教イスパニア人の社会価値

体系の中で,技術的 ・職業的 ・経営的機能はさげすまれた分野であり,ユダヤ

人 はこの機能を果たすことによって商品 ・金融取引の大部分を牛耳 り,富と政6

治力を強めるに至った。ところが,十字軍思想の高揚を実検にして異教徒への

反感が強化されると,経済的実力者であるユダヤ人-の憎しみもまた増大した。

十一 ・二世紀では 《再征服 (Reconquista)》 の進展をみ,かつ Santiago de

Compostela-の巡礼が活発化するに伴って,市場の数も増し, 国際商業も一

段と活況を墓するに至った。この国際商業にカタルーニヤはかなり重要な役割

を果たし始め,《UsatgesdeBarcelona》の最古の部分は1058年鄭 こ公布された

ものとされている。イタリア商人とその船乗 りがイベリア海岸に現われるのは,

この十一世紀からで,ついで十二世紀には驚 くほどの進出をみる。なかでもジ

ェノヴァ商人が多く,より劣った程度ではあるが,ピサ商人も混じっていた。

十二世紀の末において,イスパニアは自ら進んで海外に進出する用意がすで

にでき上った。これまでイスパニアは海上商業において受身の地位に立ってい

たが,いまや特定の二地帯のキリス ト教イスパニア人はイタリア人からイニシ

アチブをとる方法を学び終え,海外の港に自国ならびに近隣諸地域の生産物を

自らう室んだのである。その特定の地帯の一つはカタルーニヤで,地中海と大西

洋の両方向にその活動分野をもっていたが,地理的事情から前者の方が後者よ

りも当然活況があった。他はイスパニア北部すなわちガリシアからピレネ山系

に至る大西洋沿岸地帯であり,特にバスク人の船乗 りとしての活躍が目覚まし

い。

カタルーニヤは1137年にアラゴソ王国に統合され,その後王国の強大化とと

もにその海上商業も拡大をみたのであるO十四世紀まではいまだカタルーニヤ

以外のアラゴソ諸港バレンシア,パルマ ・デ ・マリョルカ,デニア (Denia)な

どの役割も評価されなければならないが,この世紀の初頭以来カタルーニヤと

ジェノヴァを筆頭とする若干の他の勢力によってほとんど圧倒されるに至った。

6 CASTRO,A・:LarealidadhisEo'ricadeEspan-a,Mexico,D.F.1954,pag.367.

4 第 128巻 第 6 号

カタルーニヤの海上商業は,十二世紀には両地中海に限 られているが,十三世

紀には ビザ ンチ ン帝国な らびに シ リア,エ ジプ トのキ リス ト教徒の居住地に,

次いで十四一五世紀には地中海の全地域へ と拡大 した。Ch・VERLINDEN は,

中世の最後の二世紀におけるカタル-ニヤの商業をイタ リアの大商業中心地 と7

ほとん ど同じランクにおいている。

積極的な海上商業に従事 したいま一つのイスパニア北部についてみるに, こ8

こでは特にバスク人の船乗 りとしての技量 と結びついていた。J.HEERS は

「イタ リア船がル ・マ ンシユ (LeM anche)な らびに北海に初めて到達 した時に,9

大西洋岸商業は,なかんず くバスク人のもち前であった。」 と述べている。 ナ

バラ国王 Sancho el Sabio に よってサ ソ ・セバステ ィアンに与えられた特権

(fuero)は,その成立年代が詳 らかでないが,1149年 と1180年の間 とされてお り,

今 日まで知 られている海上への配慮を含んでいる最古のものである。船舶-の

自由を言明している条項は,伝統的な海上航行の存在を推測す るに足 るであろ10う。 この地域はますます海で,海によって生活す る人 々の地域 となっていった。

そのため北部における- ソザとほぼ同 じ機能を果た した 《Hermandad de la

ll

M arisma》 が,十三世紀末に生 まれたのである。地理的状態か らみても判 るよ

7 VERLINDEN,Ch.:op.cil.,p.53.

8 この地帯について港湾の次の三集団を考えなければならない。 1)ガリシャの港湾集団- La

Coru五a,Nova,Ribadeo・ 2) ビスカヤ湾のカスティーリャ同盟 (hermandad)港湾集団- Santandcr,Laredo,Castro-Urdiales,San VicentedelaBarquera, 3) ビスカヤ港湾集団- Bilbao,Portugalete,Sar・Sebastian,Bermeo,Passages,Fuenterrabia,Zumayaなど。(Zbid・,p・56)

9 HEERS,J.:(AecommercedesBasquesenMaditerraneeau XVesiとcle》,Bullclinhwpanique,T.

57(1955),PA富.292.

10 GARCIA DE CORTAZAR,J.A.:ViくCayaenelsl'gloXV,allPeCtSeCOn6mlcosy∫ocialeJ,Bllbao 1966,pags.184sq.

ll 1296年5月初めにCastro-UrdialesにSantander,Laredo,Bermeo,Guetaria,SamSebastian,Fucnte-

rrabiaとCastro-Urdialesの代表が集まり,なかんずく,船乗りの問題で共通に苦しんでいる害悪

への救済を議論する。このような代表は《特権》と古くからの慣習を維持することを決定し,その

ことに反対する命令になんらかの手段によって抗議し,買約の納入に反対する。いま,抗議への形

式を示そう。

富裕者または騎士からなんらかの害悪を蒙っているという《特権》に対する抗義がひとたびうや

うやしく本来の億主に提示され,国王の命によってすべての市会が異議なく新決議の実行に同意す

るならば,この結論の実現のために,結社を作り,主要な人物60名に伴われた市長によって各都市

で一層荘厳な誓いを意図して決議文の遵守を誓う.また,誓いの下で,Castro-Urdialesに居住する

3名の代表はその条令の実行を委ねる.3名の代表の1伽 ミ送達してきた書状と関係書演を有効な

イスパニアにおけるジュノヴァ商人の活動への前提 5

12 13うに,海上商業がイベ リア半島の大西洋岸,フランドル,イギリス,フラソス

などに活発であったことは理解できよう。しかし,その地域にとどまっただけ

ではなく,アソダルーシア,地中海においても十五世紀未まで著しい進出をな

したのである。十三世紀末頃には既にビスカヤ人の商人および船乗 りがセビー

リャ,カディスに定住してお り,セビーリャのこの種の居住地区を 《barrio de14

mar》と呼んでいた。 この両都市には海峡地帯および地中海での航海を進める

ためのかれらの結社 (cofradia)が設けられ,1403年にはレヴァソt,-の航海を15

導 くための船乗 り組合がカディスに存在していた。この世紀の中頃にはガスコ

-ニュ産ブドウ酒がコル ドバ,セビーリャ,バレソシアで販売されているが,

おそらくビスカヤ人の船舶によってもたらされたものと考えられる。

第二次大戦頃までの研究情況では,バスク人の船舶が地中海に入って活動す

ることについては否定的であったが,その後の研究からこの見解は修正を余儀16

なくされている。かれらほ地中海にも活躍の舞台を拡げており,その西部海域

カタルーニヤ,マル七一ユ,イタ リア西海岸の請港に確固たる足場を築いてい

た。主としてジェノヴァとカタルーニヤとがバスク人の商業活動の基地となっ

た場所であり, ジェノヴァについては,バスク人は特にイピサ (Ibiza) の塩の17

供給者となり,1445-65年の20年間は特に リグリアへの真の調達者となる。同

らしめる印判を受けとる。 その印判には同盟が波上の城の図案と 〃SellodelaHermandad del㍍

villasdelaMarinadeもastillaconVit。riaOの銘刻とによって象徴されているのである.

(Ibid.,pAg.185nota.4)

12 Zbid.,pag≦.218sqq・13 イギリスとフランスとについては,ibid.,pAgs・231sqq・なお,Trastamara王家の1368年11463年

にわたるビスカヤ湾における主として北部地域-の海上政策については,SUAREZFERNANDEZ,

L.:Navegacion.γcomercioenelgolfodeVi':caya,une∫Eudio∫obrclapolilicamarineradeLacasadcTras・

lamara,Madrid1959に詳しい。

14 CARANDE,R・:(xSevilla,fortalezay mercadoy),Anuw2'odehLfloriadeldcrechoespan-ol,ⅠⅠ(1925),

pag.297.

15 GARCIADECORTAZAR,J.A.:op.Gil,,pAg.210.

16 IiEERS,J.:op.cil.,pp.292sqq.;GARCIADEGORTAZAR,J・A・:op.Gil"pigs.261sqq.

17 1450年にジェノヴァに入港した26隻の船舶中16隻がバスク船であり,これはことごとくIbizaの

塩にかかわっている。しかしおなじことが Tortosaの塩についても起っている.(HEERS,J,:Gel,ws

auX77esi~cle,aclivilCCco7WmiqueelProbl~meJSOCiaux,Paris1961,pp.355sq.)

第 128巻 第 6 号

じことは,シチリアからのジェノヴァへの小麦供給についてもあてはまる。バ

スク人だけでジェノヴァへの食糧供給の大部分が確保されたと云っても過言で

はない。このような状態が起ったのは,ジェノヴァの経済生活が特定の方向に

専門化し∴ヵクルーニヤならびにフランドル船隊も減少をみたためで,一般的

に云って地中海地方の人々が工業 ・金融活動に向い,輸送業を軽視したからで18

ある。ジェノヴァに二 ・三年逗留し,その間そこを基地としてさらに進んだ航

海をさえ営んだ。

以上の二地帯を除いた主としてカスティーリャでは事情がいささか異なる。

この地域はユダヤ人以外に強力な自国の商人の成立をみなかったのである。資

本の乏しい農業社会であった上に,モーロ人-の戦争のために君主は強力な政

治力と経済力を必要としていた。したがって,君主はユダヤ人に頼ることが多

く,かれらは住民の激しい憤 りにも拘らず,物理的安全はもとより,金貸しな19

らびに徴税人としての特権を保持し続けてきた。ところが,黒死病 な らびに

1369-71年の内乱によって惹き起こされた社会的混乱は,君主権の決定的弱体

化をもたらし,カスティーリヤ王エソリ-ケ二世 (在位1369179)による巨大な

土地贈与と大貴族-の依存は,国王の軍事的 ・金融的地位を大 いに弱めた。

1378年にセビ-リャで Ferran M artinezの説教に始まる反ユダヤ教暴動は,都

市役人ならびに国王役人の鎮圧への努力にも拘らず,1391年に数万人の強制改

宗をもたらしめたのである。しかしこの暴動が終決した後には国王はユダヤ人

の再居住に好意を示し,かれらを攻撃した者に処罰を加えさえした。教会を含

めたすべての確立した権威は,この暴動に積極的か消極的かの違いはあるが,

ユダヤ人側に立った。ユダヤ人は十四世紀末の封建的 ・戦士的エ リー トにとっ

て重要な技術的機能を果たしてお り,かれらの弾圧はただちに権威-の危険を20

伴なうものであったからである。改宗者 (conversos)の大きな集団が生まれると,

18 Ibid.,p.282.

19 HALICZER,S.H.:8TheCasti17:an urbanpatriciateandtheJewishexpulsionsof1480192秒,Ame-

rwan・如sloricalreview,Vol.78No.1(Feb.1973),p.39.

20 Zbid.,p.40.

イスパニアにおける-)ェノヴァ商人の活動への前線 7

かれらはユダヤ人に代って国王,貴族,教会,市議会-の貨幣貸付け機能を果21

たし,急速に経済的には勿論社会的にも優越した地位を占め,都市行政に強く

浸透した。しかし,もともとユダヤ人であることから容易に攻撃の的になり易

く,十五世紀中頃のキリス ト教徒のある著者は,キリス ト教に反対する 《隠れ

ユダヤ教徒》であるという理由で,改宗者の公的生活からの追放を要求したほ

どであった。この間題を解決するためにフェルナソドとイサベールは審問裁判

所を設け,改宗者のうちキ1)ス ト教の健全な信者と偽信者とを区別せざるをえ

なくなった。他方また,改宗者の側においても,審問の脅威から免がれるため

には,自らも反ユダヤ教運動を推進することが良策であることを弁えていた0

国王は改宗者の強力な経済力,社会的地位に頼らなければならない立場にあっ

たので,経済的,社会的エリー トの意向を無視することができず,1492年 3月22

30日にユダヤ教徒追放令を公布したのである。

ユダヤ文化の伝統であった技術,管理,金融の諸技量を十分に身につけた改

宗者にとって,十五世紀の人口上ならびに経済上の発達は富-の機会を多くし,

速やかにカスティーリャの中流ならびに上流階級に入ることを許した。十五世

紀の中頃までに改宗者家族とイスパニアの富裕者ならびに古くからの貴族とが23

結婚を通じて姻戚関係になることはなんら珍らしいことではなかった。このよ

うにして,有力な改宗者が生じたにも拘らず,南部アンダルシーアの諸港セピ

ー1)ヤ,カディス,ついでサソ=ルカール ・デ ・/ミラメーダ,コソダ丁 ドなど

は海上商業において依然として受動的であった。Ch・VERLINDEN は次の如

く述べている。 「アンダルシーアの商人および 《出生者》は,たしかに北西ヨ

21 VICENSVIVES,J.:Aneconomichi∫loり・OfSpain,p.283;HIGHFIELD,R.(ed.),op.cat.,p.51.

22 FernandoとIsabelの1492年の3・ダヤ教徒追放令にかんする解釈については,大体 StephenH・

HALICZAR の最近の見解に従った。かれは公布の根拠についての伝統的解釈 1)一般化した反ユ

ダヤ主義の高まりに基づくとすることにかんしては,その根拠が史料的に薄弱であるとなし, 2)

強固な民族主義的集中化傾向に基づくとすることにかんしては,その日的な達成するために,従来

考えられているような宗教的統一を通じてでなく,むしろカスティーリヤ都市ならびにその都市の

寡頭支配者との同盟を通じて実行せんとしたのであると主張しているO (HALIGZAR,S.H.:op.

cil.,pp.35sqq.)

23 PIKE,R・:ArlStOCralsandlraders,Seviliiansocietyinlhesixleenlhcentury,Ithaca-London1972,p.22.

8 第 128巻 第 6 号

f-Pッパの国々においてみいだされるが,大部分外国船舶,すなわちイタl)ア

やビスカヤの船舶,後には同様に ドイツ=-ソザやブルターニュの船舶でつれ

てこられたのである。かくて,これらの地域においては,海上商業は主として

受動的であったけれども,「般の外国商業は相当数にのぼるこの地出身の代理24

人を引きつけ,かれらほ必要あらば,海外に居住することも梼惜しなかった。」

これまでみてきたことから,イスパ.ニアに自国の商人や船乗 りが存在せず,

その空自を外国商人によって埋め合せたと単純に理解できるものでないことが

判るであろう。それだのに,なぜ外国商人がイスパニアに強力に進出し,商業

と航海に特権的地位を獲得し,ついにはイスパニア人から遠地商業のみならず,

輸入商品の小売販売までももぎとり,金 ・銀を奪い取ったのか。この理由を明

らかにするためには二つの側面から検討されなければならない。一つはイスパ

ニア人はこれら外国商人にとってなぜ競争できなかったのか,他はイスパニア

商業が外国商人になぜ大きな魅力を抱かせたのか,である。

ⅠⅠ

.まず,第一の問題イスパニア人は外国商人となぜ競争出来なかったかについ

て考察しよう。イスパニア北部でバスク人によって営まれた積極的な海上商業

の実体は,海上輸送業に過ぎなかったことに注目しなければならない。J.A・

?ARCIA DE CORTAZAR は,バスク人は船舶の建造と船乗 りとにおいて25

十五世紀には国際的名声を博していたが,ジェノヴァ-の小麦供給のた吟にな

されたシチリアへの航海にみられるように,その業務は 「なんらのイニシアチ26

ブをももたない単なる輸送業務に過ぎない」と述べている。また,ビルバオの

航海について M.BASASFERNANDEZは,この性格をさらに明確に表現し

ているO 「大洋を巧妙に操舵することと同様に船を建造することにおいて,船

舶への豊かな経験が現われている。ビルバオによって演ぜられた最初の商業的

24 VERLINDEN,Ch.:op.eel,,p.56.

25 GARCIADECORTAZAR,J.A.:op.cit.,PA富.204.

26 Zbid・,pa苦,263.

イスパニアにおけるジェノヴ7商人の活動への前揖 9

役割は,イングランド人およびオランダ人における如く,海上輸送業者のそれ

である。これは古代のフェニキア人がそうであったと同様である。・--他人の

ものを輸送し,傭船された。・- -船主,船長,海上輸送業者がビルバオの商人27

に通路を開いた老なのである。」 また,ジェノヴァでのバスク人の雇用ならび

にその船舶の利用を J.HEERSは次のようにも述べている。 「商人または膳

装着に.雇われて輸送業者の単純な仕事をさせるためにジェノヴァはバスク人の

みを受入れる。バスク船長は自分の計算で大航海を企てることを快よく思わな

かったOジェノヴァ人であれ,フィレソツェ人であれ,蟻装着のために働こう

と,商人または商人群に船全体を貸与しようと--,船長はつつましい人々で

あり,常に貨幣欠乏におかれていた手工業者である.船舶の犠装ほ航海毎に船28

長が所有しない資本を必要とするのである。」 これらの表現は,優れた船乗 り

としての力量を十分に利用しうるほどの商人がバスク人の中には存在しなかっ

たことを如実に示している。

当時の商業航行は海賊行為と結ばれていたことを羊周知であるO地中海におい29

ても私掠が横行しており,イベリア半島の諸港からの私掠は古くからの伝統で30

さえあった。イベ リア半島人のモーロ人に対する遠征は戦利品の獲得を目的と

した組織的企業体にまで発達しえたのである。このような遠征への各参加者は,

その軍事的貢献に比例して戦利品ならびに捕虜奴隷への分け前を受けた。十五

世紀には,アンダルシーアの貴族によってモーロ人領域への多くの遠征が組織31

され,この場合,軍事企業者は戦利品の5分の1を要求するのが常であった。

この種の遠征は,公海でも行なわれ モーロ人の船舶ならびにグラナダおよび

27 BASASFERNANDEZ,M.:BrevehistoyiadelaRia〃 wblcvilladeBilbao,Bilbao]949,p始.10.

28 HERRS,J.A.(tLecommercedesBasquesenM占diterranとeauXVesiとde卦,p.310.

29 DEMASi.ATRIE,M.L.:Trailesdepainctdccommerceeldocumcnl∫diverssollccmanl lcs relationsdeJ

creliensavccle∫arabesdePAfr8queSePlenlrionaleaumo.yenage,recueillisparordredgl'Empercur,I,Paris

1866,passim.

30 】)UFOURC:Q,Ch.-E.:(Aesrelationsdelapeninsuleiberiqueetdel'A丘・iqlledeNord au XIVe

siもde舟,Anuarl'odeestudiosmedievales,7(1970-1),PA富S.50sq.

31 KONETZKE,R,:〃EntrepreneurialactivitiesofSpanishandPortuguesenr)b】emerlinmedievaltimesか,

ExplorallonrillCnlrePrCneuriolhistoy_V,Vol.VI(1953-4)No.l,p.115.

10 第 128巻 第 6 号

北アフl)カのモー.1人帝国の海岸都市を襲った。これとの関連で, M edinaceli

公, M edinasidonia 公, Cadiz侯と云ったアンダルシ-アの有力者は,生得の

権利としてこの地方の最も重要な諸港の領主ならびに船舶所有者であったこと32

も考えなければならない。

農村居住の貴族に加えて,セビ-リャ,-レス,その他のアンダルシーアの

諸都市の都市貴族 (Caballores) も商業と私掠の両者を目的とした航海に関心を

もっていた。このようなアンダルシ-アの貴族にとっては,計算にもとづく商

業行為よりも冒険を求める戦争行為の方に価値をおいており,諸港における自

国の水夫達も歴戦の 《つわもの》どもであった。したがって,かれらに商業に

精通した賢明な商人の機能を求めることも無理であろうし,またかれらもそう

することを好まなかった。ここに,商人政能にたけた外国商人の介入する一つ

の余地が見出されると云えよう。

イス/ミニア人は必ずしも私掠のみをこととしたのではなく,これまで遂行し

てきたイベリア半島における《再征服》の延長線において,マグリブ (Maghrib)33

地域との政治的な剛ないし柔の政策を熱心に続行した。この政策はイスパニア

の両王国にとって特定人の利益を増大させることとなり,ここからの最大の成

果は,アフリカ金のイベリア半島-の流入であった。サ-ラを通って北アフリ

カの海岸都市にもたらされたアフリカ金のこの探索と獲得は,既に十三世紀に

実行され,十四世紀から十五世紀に変ることなく及んだが,イスパニア人の中

では,先ずアラゴソコカクルーニヤ人が,ついでカスティ-リャ人がそれを受34

け継いだ。

では,この金はどのように利用されたのか。このことを理解するためには,

まずイスパニアの社会に流布していた生活態度を考えてみなければならない。1

32 Zbld.,p.116.

33 DUFOURCQ,Ch・-臥:oP・cil・,pags・39sqq・ なお,十三一四世紀におけるカタル-ニヤとマグリ

ブとの諸関係については,同著者の L'Es.bagnecatalanecEleMaghribauxXZZZeetHIVE∫2'iclcs,Paris

1966に詳しい。

34 DUFOURCQ,Ch.・E.:QLesrelationsdelap血;nsuleiberlqtleetdel'AfriquedeNordauXIVe

siもcle)),pags.56sq.

イスパニアにおけるジュノヴァ商人の活動への前捷 11

35《地代で生活することが貴族の象徴である》という信念が支配しており,年金

(juros) と不動産とが最善の投資対象物であったO また, ドン・キホ-チ (Don

quijote) にこの時代の理想像を措いていた貴族は,一方で華美に,他方で栄光

と名誉への極度に強い執着心をもっていたのである。商業投資への関心は,外

国商人特にジェノヴァ商人,フランドル商人などの移住によって強く影響され

てかれらの思考と行動の方式が漸次採用された結果からである。尊ばれない経

済活動を行なうことによって社会における 「見え」を失わないために,自発的36

な,隠された貧困さえも示されることもあった。

十六世紀に多数のジ土ノヴァ商人がセビーリャに居住し,セビーリャの旧貴

族との姻戚関係を通 じて,一方で融合化とイスパニア人化をなすとともに,他

方でセビーリャの旧貴族に貨幣欲への強い衝動を与えた。この貨幣欲は事業へ

の執着心を起させることになったのではなくて,むしろ貴族身分と富裕さとを

癒着させたに過ぎない。社会的身分としての貴族は依然として尊敬し続けるが,

その価値内容は中世的道徳 と武勇に代って富が優越し始めたO事実,貨幣が平

民としての商人を貴族たらしめたのである。貴族への憶憶は特に強固であり,

一度商人が富を蓄えると貴族趣味に走 り,息子のために限嗣相続財産 (mayoraz一

gos,entailedestate)を設けることによって社会的地位の向上を計った。新大陸と

の商業からセビーリャ商人によってえられた富の大部分は Aljaraqueや Sierra

37M orena での土地財産の購入に向けられた。子孫のために豊かな限嗣相続財産

38を作 り出したのである。このような変化をみた十六世紀のセビーリャ社会にお

いても,なお,イスパニア人にとって,ジェノヴァ人は次のような強い特徴を

35 VICENSVIVES,J.:Hi∫toriasocialyeco776micG,T.ⅠⅠⅠ,PA富.108.

36 KONETZKE,R.:やDiespanischen Verhaltensweisen 2:um Handelal≦Vorausset乞ungen furdas

VordrlngenderauslandischenKauaeuteinSpanienl),in KELLENBENZ,H.(hrsg.V .):FreTTldcKaujlcule

aufdey2'bcyischenHalbln†el,K61n1970,S.8.

37 A15araqueは十三世紀にはAIJafarと呼ばれ,MedhaSidonia公 (10ペ-ジをみよ)によってアラ

ビア人の昔の農場の荒廃地が植民されている。SierraMorenaはMarianica山系の一部をなす山脈

である。

38 PIKE,R.:EnlcrPri∫eandadz,gnlure,lheGenoe∫cinSet,illeandtheobeni〝goflhcNew Wo2ld,Ithaca1966,

pp.5sqq.

12 第 128巻 第 6 号

もったものとして眼に映ったことは,当時のイスパニア人の生活態度を窺う手

掛 りとなるであろう。 Bandelloは,富裕な,すぐれた AnsaldoGrimaldiを大

変けちくさくて,かれのもっている一枚の紙や一本の紐までも数えたと述べ,

また同時代の Jacobo Bonfadio もかれを親しみのある落着いた表情をもち,冒

葉も控え目で,自尊心があり,金持ちだが,生活態度において著しく質素であ39

ると評している。また, M igueldeCervantesSaavedra は 《Lagitaniila》の中

で,「私は金持ちでも,貧乏人でもないが,ジェノヴァ人が夕食に客を招待する

時にするように嘆いたり,けちけちすることなく,好きな人には1フローリン40

金貨,時には2フローリンさえ与える。」

貴族のこのような生活態度の下では,商業資本の豊富な形成はみられなかっ

た。節約が市民道徳としてではなく,恥ずべき貴欲として評価される。モ-ロ

人は正にその勤勉と節約のために軽視されたのである。節約による資本形成は41

いわば社会的に厳禁されたOこの事情からイスパニアにおける預金銀行はその

発展が遅れ,しかも劣っていた。 良.CARANDE は,次のように述べている。

「取 り扱われうる未刊の史料においてセビーリャの諸銀行の設立年代は現われ42

ておらず,1533年以前の銀行活動の証言もない」と。また,かれは私的な銀行

預金の劣った状態についても云う。「セビーリャ市場の同じような例外的特徴

の中に,商人界以外には銀行に基金を預ける慣習は流布しておらなかったと想

像しなければならない。-・・・・即ちセビ-リャ社会の多くの上層階級は銀行にそ43

の貨幣を委ねることが慣習となっていなかった。」

39 Zbid.,p.ll.

40 Lbid.,p・12.

41 KONETZKE,R.:8Diespanischen Verhaltensweisen之um HandelalsVoraussetzungen furda浮

VordringenderauslandischenKauaeuteh Spanienか,S.8.

42 CARANDE,R.:CarlosVy∫usbanqueros,I,lavideelondmicadeEspa苑acnunefacede∫uhegemonia

I516-1556,Madrid1943,pAg.199.(segundaed.corregidayaumenda,Carlo∫Vysusbanqueros,lavida

econ6micaenCETSlilla(I516-56),Madrid1965,p丘gl300では文言が若干異なる)

43 Zbid.,p五色.209sq.

イス′くエアにおけるジェノヴァ商人の活動への前提 13

HⅠ

これまで外国商人がイスパニアにおいて活動しうるイスパニア側の原田につ

いて考察してきた。いまや外国人がなぜイスパニアでの活動に魅力をもったか

について外国人側の積極的理由を求めなければならない。ここでは,イスパニ44

アでの外国人の中でも最も早 くから, しかも最も活動的であったジェノヴァ人

について述べよう。

イスパニ7の主たる産物は穀物,エジプ ト豆,羊毛,生皮,砂糖,染料,サ

フラン,ブ ドウ酒,それに北部の鉄などであるが,このうちキリス ト教ヨーロ

ッパの他の地域に対 して地理的環境と回教文化の接触から絶対的優位をもつも

のとして砂糖,染料,サフランが挙げられうる。他の産物はヨーロッパの特定

地域に対して相対的優位をもっていた。前者は早くからすべての他のヨーロッ

パ人の関心を誘っていた。

砂糖は元来キプロス以東の回教圏の産物であり,その後次第に西部へとその

栽培圏を広め,十一世紀中頃までにはシチ リアで大いに生産されたoさらに,

その栽培圏は西地中海のイスパニア,大西洋岸にまで移 り,1300年頃にはマラ

ガの砂糖がブルージュにさえ販売されてお り,南 ドイツのラーフェンスブルク

の一会社は,バレソシアでの砂糖購入に従事していたが,1460年頃にはその地で

の生産に手を出しているOジェノヴァの-商人 (GiovannidellaPalma)は,1404

年にポル トガルの最南部のアルガルべ (Algarve)で最初の砂糖用甘庶栽培を始め

た。ついで,ジェノヴァ人はポル トガル領マディラ群島で,さらにイスパニア領

カナl)ヤ諸島-甘庶栽培の植民を展開し,新大陸における植民活動-の先鞭を45

つけた。もっとも,現存の史料によればカナリヤ諸島で最初に (1506年)甘庶

44 ジェノヴァ人は既に十三世紀中頃セビーリャに居留地 (barrio)をもっており,1251年5月12日の

王命で特権と規則を受けている。さらに,国令は trbarrio')以外に公設市場,炉と浴場を認めており,

また固有の教会,その司祭をセビーリャの大司教に推挙する権利ならびに刑事犯以外の事件の裁判

に当る2名の consulSを選出する権利をも与えている。 (CARL丘,M・delCarmen:《Mercaderesen

Castillal),Cuadernosdehi∫lorl'adeEspaT7a,ⅩⅩⅠ-ⅩⅩⅠⅠ(1954),p細,231)

45 VERLINDEN,Ch..・T71ebeginnmgsofmoderncolonization,elevenes∫aJ,∫Withanintroduction,trams.byY.

FRECCERO,Ithaca-London1970,pp.20sq.

14 第 128巻 第 6 号

栽培用と思われる土地を受けたのはジェノヴァ人ではなく,二人のp-マ人で46

あった。染料については,イスパニアは特にヨ-ロッパで最も珍重された赤色

染料コチニールのヨーロッパでの唯一の生産地であり,奪惨的織物生産地にと

り貴重な存在であった。サフランは,北および東ヨーロッパで胡散と同様に薬

味として特に多量に用いられ,イスパニアは十五世紀末頃から南 ドイツ商人の47

大きな関心の的となった。

以上の商品以外に極めて特定な,微妙な,往々法 ・規制を外れた内密な,ま

たは完全に隠された取引があった。それは貴金属,貨幣金属,ある場合には貨

幣そのものの取引である。富についての地金主義が芽生えつつあった当時の経

済思想からみて,この取引のもつ意義は,国際貿易に著 しく大きい。しかし,

この取引の性格から公的史料になんらかの暗示を求めることが出来ず,その解

明のためには,勘定薄とか公証人文書とかの私的史料に頼らねばならない。

イスパニアでの貴金属 ・貨幣の取引に特に関心を持っていたのが,ジェ/ヴ

ァ商人である。ジェノヴァ商人は,オスマントルコ人の進出とチムール(Timur

Len近)による征服のために,イタリア商人のアジヤ海岸への接近を甚だしく困

難にした。ヴニネッィヤ商人には東方にいまだ活動領域が残されていたので,

イスパニア-の関心はそれほど強くはなかった。これに反 し,ジェノヴァ人の

東方での打撃は大きかったので,イスパニア-の取引を積極的に押し進め,か48

れらの商業機構の一環に組み入れたのである。

前述の如くイスパニア人,特にアンダルシーア人が北アフリカ-の商業 ・私

掠航海から求めた最大のものは金であった。それは平和な商業によってのみな

らず,戦争の利益すなわち多額の歯獲物として,あるいはカスティーリャの軍

事隊長への回教国王からの貢納物として流入してきたのである。このことは,

イスパニアのキ1)ス ト教諸王国とア71)カのB]教王国との間における貨幣体系

46 Zbid.,p.135.

47 KELLENBENZ,H.:《NurnbergerSafranhandlerinSpanienか,inKELLENBENZ,IL (hrsg.V.):

a.a.0.,SS.197ff.

48 KELLENBENZ,H.QDiefremdenKauaeuteaufderiberischen Halbinselvom 15.Jh.bis2:um

Endedes16.Jhs.珍,inibid"SS.270氏

イスパニアにおけるジェノヴァ商人の活動への前提 15

49の密接な関係からも窺 うことができる。アルフォソソ八世 (在位1158-12-14)時

代に回教王国のディナール貨が,まずカスティ-リャ化され, maravedi(m o-

50rabeti)と呼ばれた。この名称は当時回教徒イスパニアの統一を再興した北アフ

リカのアルモラビデス王朝 (1055-1147)に由来するものである。ついで,この

王朝に代ったアルモ-デス王朝 (1147-1269)における貨幣改革もまたキ 1)ス ト51

教王国に反作用を及ぼし,maravediに.代って doblaが登場した。 この dobla

はフェルナソド=イサベール時代までカスティーリャの金貨単位として確立さ

れるに至った。このようVLカスティ-1)ヤでは回教王国の貨幣体系が規則的に

採用されてお り,北部のレオソ王国でさえ十三世紀には二つの貨幣体系アルモ

ラビデス王朝の maravediとカPI)ソグ王朝の solidus-denarius体系が固執さ

れている。

貨幣体系の関連のみではなく,回教王国の貨幣そのものが広範にしかも自由

にキ リス ト教イスパニアで流通していたし,形態,様相,重量,品位において

も全 く同一か,あるいは著しく塀似したものであった。1170年にはアルフォソ

ソ八世が トレー ドで鋳造させた maravediは全くアルモラビデス王朝のディナ

ール貨と同一のものであり,つぎに鋳造されるdoblaも,形態と重量において

アルモ-デス王朝の doblaと酷似のものであった。貴金属の重量単位 である

man二もカスティーリャでは doblaの正確 な倍数 230gr.で,50doblaに相

当した。これらのことは回教圏の金市場がイスパニアにとりいかに重要であっ

たかを示すであろう。例えば,1272年にカスティーリャで金銀比価が1:10で

あったが,1340年のタリフア (Tarifa)の勝利後においてほ, 1:6に変化して

いる。回教圏の金市場へのこのような依存は1497年まで変化なく継続する。イ

ク リノア人はイスパニアからもたらされた金を 《aurotiberi》 と呼んでお り,か

ってこのものをカスティーリャの東部海岸から産出したものと想定していた。

49 HEERS,I,:止esho血mesd'a払iresitaliensenEspagneaumoyenage,]emarchemon卓tairel),in

ibid.SS.76g.

50 回教圏では, コ-ランの記述にしたがって金銀比価は1:10とされ,金貨 dinarは銀貨 dirhem

の10倍であった。

51 その後 maravediは AlfonsoXI(在位1312-50)時代に,計算貨幣として用いられるに至った。

16 第 128 巻 第 6 号

ところが,この称呼はアフリカのスーダン産の金を指すものであることが実証52

されるに至っている。いま,1377年に外地からジェノヴァにもたらされた金の53

出港地とその額を J・HEER・Sの最近の整理に従って示そう。

第 1表

ナ ポ リ

シ チ リ ア

プ ロ ヴ ァ ン ス

イ ベ リア 半 島

2,050リラ

8,846 〝

1,065 〝

139,612 〝

151,573 〝

第 2表

マ リ ョ ル カ

イ ピ サ

パ ル セ ロ 一一ナ

ノヾ レ ン シ ア

マ ラ ガ

セ ビ - リ ヤ

4,555リラ

375〝

906 〝

6,408 〝

3,124 〝

124,244 〝

139,612 〝

第 1表は約100人の商人が総数23隻の船舶でジェノヴァにもち込んだもので

ある。この表からみる限 り,アフリカの地名はなく,イベリア半島からのもの

が圧倒的に多額で全体の約‡を占めている。さらに,イベリア半島内で嘩 港

地とその額についてみるに,第2表の如 くである。

第 2表から,イべl)ア半島内ではセビーリャが他からかけ離れた額で,セビ

ーリャだけで,実にジ-ノヴァの金輸入額の‡を占めていたo

パルセローナは海上商業において積極的であり,ア71)カのマグリブ地域と54

直接の商業関係をもっておったにも拘らず,ジェノヴァへの金輸出が劣ってい

るのは,この都市が地中海世界でジェノヴァ商人の競争者であり,自らも金 ・

貨幣取引に従事していたからである。パルセローナに反 してセビ-リヤの海外

商業は前述の如く受動的であり,ジェノヴァ商人に格好の活動舞台を提供した。

52 HEERS.J.:GenesauXVesi'~cle,pp.66sq.

53 Zbid.,pp.69sq・にも1377年のジェノヴァの全輸出入額が掲載されているが,より新しい史料に基

づく額が HFJERS,J・:(血eshommesd'afrairesitaliensenEspagneaumoyenageか,p・79に掲載され

ているので,ここではそれに従 う。

54 次の二つの理由のために,アフリカとの結びつきは十五世紀のパルセローナの関心事となってい

た。 1)アフリカとの貿易差額がパルセロ-ナに有利であること,したがって, 2)かれらに欠け

ていた金を獲得することができること。パルセローナにとりアフリカ金は重要な取引の対象物の一

つとなっており,当時フランスの悪貨の流入をみて深刻な貨幣危機に見舞われていたことによる。

(cARR瓦RE,C.:Barcelone,centredconomigue1380-146L2,T.ⅠⅠ,Paris-Lanave1967,pp.6325q・)

イスパニアにおけるジェノヴァ商人の活動への前提 17

したがって,ジこノヴァ商人がなぜ金 ・貨幣を求めたかは後述するとして,十

四世紀の末からかれらのこの取引がセビ-リヤ,カスティーT)ヤをもつアンダ

ルシ-ヤに集中化 したのである。

ジェノヴァ人は,スーダンの金に対する関心が強く,ア71)カの諸港にも出55

向いているに拘らず,第 1表でみられるように,アフリカの諸港から直接に本

国にもち込まれたのではない。事実,金はほとんど常にイベ リア半島に送られ

たOそこで,次の疑問が生ずる。すなわち,なぜジェノヴァはイべ1)ア半島,

その他のキリス ト教王国に送らねばならなかったのか? この設問に答えるこ

とは,イスパニア側,ジェノヴァ側それぞれに貿易,貨幣,その他の複雑な要

素が作用 していると患われるから,わたしの現在の研究段階では不可能事に近

い。ただ考察の過程の中で,浮び上がった若干の注目すべき点を指摘しておき

たい。56

先ず, J.HEERSは次のように述べている。ジェノヴァはイスパニアに不

利な貿易差額にあ り,イスパニアはその生産物のあるもの(絹,生皮,羊毛,染料)

にとって,代 りの他の市場を求めようとしてお り,カスティーリャほ東洋と同

様に金を要求したので,アフリカで購入した金を,直接にカディスに向けるか,

あるいはグラナダ王国の仲介によってかしてカスティーリャにもたらす必要が

あったのであると。

ついで,HE思RSは,他の箇所で十五世紀中頃の事情としてイスパニア銀貨

《blancsdeCastille》 の輸入が,イベリア半島とのジェノヴァ商業の重要な対

象物となっておることを指摘してお り,金との関係で次のように述べている。

「ジェノヴァ人はアフリカ産金を購入する。これはイスパニアでの支払残高を

決済するために用いる。安価でえられ,袋毎で輸送されたカスティーリャの小

口貨幣の形態で銀のみを輸入する。この取引は,ジェノヴァでの銀貨使用が占

55 ス-ダソの金が地中海岸にもたらされるには,二つの通路があったO-つは,より古いもので,

サハラを越えて Ifrlqjaの諸港,掛 こ Tunisと Tripoliに達するものであるが,J・HEF・RSはこの

通路ではむしろ Oran と Honeinに達したとしている。他は,西の通路で771)カの西海岸に達す

るものである。 (HEERS,J.:Gene∫ auEveSi~cle,pp・67sq・)

56 Ibid.,p.69.

18 第 128 巻 第 6 号

めている地位のためにのみ可能である。 とに角,イタリアで局地取引が蒙って57

いた貴金属の欠乏-の救済となりうる。」

さて,前段に掲げた HFJERS のジェノヴァへの金の流入状態を示す史料は

1377年に由来するものであり,後段での銀に関係する叙述は十五世紀中頃のも

のであるので,両者を直接に関連づけることは不可能である。特に十四世紀か

ら十五世紀にかけてヨーロッパは金貨の鋳造が一般化したとはいえ,ヨーロッ

パ-の金供給は回教圏に依存することが大きかったので,前に示したようにカ

スティ-リャでの金銀比価は1272年に 1:10であったのが,1340年には1:6

に変化 している。恒常的な交通事情に欠けていた当時においてほ,金価格の時

間的変動と場所的差異は当然激しかったと云わなければならない。時間的変動

の激 しかったことについては,これが貨幣変更の頻発の一つの誘因となってい58

たことを十四世紀のフランスで論じた際に既に検討した。金価格の時間的変動

と場所的差異とが1377年の史料にみられるようなイスパニア特にセビ-リャを

通じてのジェノヴァ-の金流入を惹き起こしたのではなかろうか。ジェノヴァ

への金流入にかんする時間的に連続した史料ならびにこれに対応した両都市の

金価格の変動を示す史料がない限 り,飽 くまで推測の域を脱 しえない。

また,ヨーロッパと回教圏との問の金銀にかんする当時の一般的趨勢にも注

目しておきたい。アフリカ特にスーダソの金の産出量が上昇することによって

回教圏の金銀比価は,これまでの状態に比し,銀の割高に変化した。このこと

に応じてヨーロッパからの銀の回教圏への流出は増大し,これと引き換えにヨ

ーロッパへは多量の金の流入をみた。ここで,回教圏貿易に関係しない地域に59

おいても十四 ・十五世紀に金貨の鋳造が進められるに至ったのである。

以上のことを考慮 した場合に,孤立 した現象から一般的結論を引き出すこと

57 Zbid.,p.71.

58 拙稿 「中世末期におけるフラソスの貨幣変更 (mt▲tatiomonetae)の意義」,国民経済雑誌,第125

巻第 5号 (1972),6ページ以下。

59 WATSON,A.M.:ttBacktogold-andsiiverl),TheeconoTTlichwtoryreuww,see.series,γol.XX (1967),

pp.lsqq.

イスパニアにおけるジェノヴァ商人の活動への前提 19

がいかに困難であるかが理解できるであろう。 しかし,次のことだけは云い う

るであろう。セビ-リヤとカディスがアメリカからの貴金属の流入をみない以

前において既に金銀の世界の中心市場となってお り,その主役がイタ リア商人

特にジェノヴァ商人によって果たされていたこと,これである。

さて,ジェノヴァはなぜイスパニアで金を求めたかについては,もし上述の

推測が正しいならば,金 ・貨幣取引それ自体の中に利潤磯会をみつけていたと

云えるであろう。 しかしジェノヴァの金-の欲動 まそれだけではない。ジェノ

ヴァは優れた金細工工業を所有 してお り,その原料獲得の見地からでもあろう

し,また,1377年にジェノヴァ商人が直接にイスパニアから東方に輸出した金60

量は全体の18%にも及んでお り,ジェノヴァがエジプ ト,シリアなどでの取引

をより一層容易にするためでもあったであろう。

さらに金の問題を離れて,ジェノヴァ人にとりイスパニアはフランドルとの

取引決済を行な う場所 として利用 したことも附加しなければならない。世界の

市場としての地位を占めているフランドルにとりイスパニアは不利な貿易差額

をもっているが,他方イタ リアはフランドルにとり有利な貿易差額であったの61で,ジェノヴァ人はイスパニアを仲介とする為替操作を通じて南北貿易の決算

の場をイスパニアに求めることによって,貿易そのものの円滑な運営を可能に

した。HEY.RSはジェノヴァはイスパニアにとり不利な貿易差額であったと指

摘 しているが,その根拠が必ず しも明確ではないOもL HTIERS の指摘通 り

であるならば,イスパニアから金の流出はなく,貿易差額をよりよく均衡させ

ることになったであろう。

む す び

十六世紀のイスパニアの黄金時代において外国商人が経済面で常に指導的役62

割を演じていることは,最近の R.PIKEの優れた二著ならびに 《はしがき》

60 HEERS,J.:((Leshommesd'afrairesitaliensenEspagneaumoyenagey),pp.80sq・

61 DE ROOVER,R.:((LabalalつCeCOmmerCialeentre】esPays-Basetl'ItalieauXVesi主clet),Revue

belgedephtlologteetd'hi∫tom,T.XXXVII(1959),pp.374sqq.

62 PIKE,R.:Enterpr才Jeandadventure,lheGenoe∫einSevillcandtheopeningoflheNew WTorld,Ithaca-N・

Y・1966;- :Arislocraliandhader∫,Sevillum ∫ocielyinlhesixteentj"entury,Ithaca-London1972.

20 第 128巻 第 6 号

でも触れた国際学会の成果などによって明らかなところである。上述してきた

ことは,外国商人がなぜイスパニアでこのような華やかな活動舞台をもったか

について,初期の最大の立役者ジェノヴァ商人にかんし若干の考察を加えたも

のであった。その結果は,1492年のユダヤ教徒-の審問と追放 に至 るまでは

《改宗者》の重要な経済的,社会的役割をみることができるが,これと並んで

既にジェノヴァ商人がセビーリャ,カディスに強力に進出していたことを知る

ことができた。ジェノヴァ商人はセビーリャ,カディスを金 ・貨幣取引におけ

る重要な拠点として,これらの地をこの取引の中心市場にまで育て上げていた

のである。

このようなジェノヴァ商人に対 してイスパニア人は長年回教徒との対決に迫

られており,騎士的精神の崇拝と中世的制度の枠の中で生活していたのである。

海外-の関係においても経済的意図より以上に深く培われたキリス ト教化-の

情熱によって支配されていたと云えるであろう。このような状態にあるならば,

イスパニア人自体による十六世紀の経済的開花をみようとすることは所詮無理

であり,経済的関心に芽生えた外国商人のイニシアチブに依存しなければなら

なかった。イスパニアが海外進出などにおいて近世-の先鞭をつけたとしても,

その本質は以下のように理解され うるであろう。イスパニアそれ自体紘,いま

だ中世的枠の中にあり,それを踏台としてルネッサンスの近世的精神とくに経

済的関心を展開したのは,ジェノヴァ商人を中心とした外国商人であったので

ある。 しかし,社会的枠が本質的に中世的なものであるならば,外国商人のイ

ニシアチブも一時的開花をみたとしても,つまるところ継続的に発展を約束す

るものではない。換言すれば,イスパニアは中世的質の文化の中にあり,ルネ

ッサンスとともに芽生えた量の文化をイタリア商人によってもち込まれたとし

ても十分な展開を示すことができなかったのである。果たしてイスパニア人は

空間的世界を意識していたのであろうか。依然としてキリス ト教的世界という

質の世界にとどまっていたのであろう。これ才子反して,イタリア商人こそ空間63

的世界に開限してお り,質の世界の枠の上に量的空間意識が展開しても,その

イスパニアにおけるジェノヴァ商人の活動への前提 21

展 開はおのず と限界があることは 自明である。

したがって, イスパ ニアの十六世紀の繁栄は,中世の質の文化の中で近世的

量 的要素が展開 しえた最大限を示す もの と云えるであろ う。

(本研究は,四十八年度科学研究費一般研究D 「十六世紀のイスパニアにおける外国

人企業家の活動」の一部である)

63 掛こ植民活動に例をとれば,エルベ河以東の西ヨ-ロソバの植民活動とジェノヴァ,ヴェネツィ

アのVヴァソナ地方の植民活動と対比してみた場合,前者の動機がスラグ人のキリスト教化を主目

的としているのに反し,後者は主として経済的観点を基静こしていると云えるであろうO後者の性

格を考える際には,とりあえず,VERLINDF・N,Ch・:TjlebeginumgofmoderncoloniてaLion,elevene∫JayS

zuilhanintroduction,trans・byY・FRECCEROJthaca-London1970が参考となるであろうQ


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