+ All Categories
Home > Documents > Osaka University Knowledge Archive : OUKA...1 は じ め に 人 の 概 念 は 社 会 と そ...

Osaka University Knowledge Archive : OUKA...1 は じ め に 人 の 概 念 は 社 会 と そ...

Date post: 14-Aug-2020
Category:
Upload: others
View: 0 times
Download: 0 times
Share this document with a friend
19
Title 人類学研究における人格と自己 Author(s) 中川, 理 Citation 年報人間科学. 22 P.191-P.208 Issue Date 2001 Text Version publisher URL https://doi.org/10.18910/10438 DOI 10.18910/10438 rights Note Osaka University Knowledge Archive : OUKA Osaka University Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/ Osaka University
Transcript

Title 人類学研究における人格と自己

Author(s) 中川, 理

Citation 年報人間科学. 22 P.191-P.208

Issue Date 2001

Text Version publisher

URL https://doi.org/10.18910/10438

DOI 10.18910/10438

rights

Note

Osaka University Knowledge Archive : OUKAOsaka University Knowledge Archive : OUKA

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/

Osaka University

人類学研究における人格と自己

」理

〈要旨

」本

稿

では

、人

の概念

ついての人類学的研究

の学説史を、人格と自

己と

いう

概念

の組に注

目し

て整理す

る。

これ

ら二

つの概念

は、多様

な地域

やト

ックを扱う

研究を

人類学と

して理解可能

なも

のとす

るため

に必要な枠組

みを提供

てきた。

の語り

の枠

みを明

示化し、現在

における可能性を

摸索す

ること

が目的であ

る。

理論的争

点を明確化

するた

めの試みと

して、筆者は学説

の流れを3

つの

局面

の連続とし

て捉え

る。

(!∀社会的人格ど

心理的自

己の対立を想

定す

「二重

モデル」と

ロサ

ルド

によ

る、

この対立

が当

てはまらな

い非

西洋社会

の分析

によ

って、

これを近代

西洋

の構築物

とし

で退け

る立

の対立。

(2)

ロサ

ルドと

ギアツに代

表される解釈学的な人

の概念研究と

、彼(女)らの方法

は実際に

は文化的

規範

の記

であり

、人

々によ

る自

の経験を捉え

いな

いとする批判

の対

立。後者

の立場は、実

は装

いを新

たにした

モデル」

の再導入

であ

るど分かる。

(3)自

己を変

動す

る生産過程として捉え、責任

エージ

ェンシー

の割

り当

の文化

的過程

を分析す

る試

みのあらわ

れ。

のア

ローチはまだ

萌芽的段階

にあ

るが、西洋

と非西洋

の二分法と内

自己

の絶対化をと

もに乗り越え

よう

とする批判

的人類学

の試

みとし

て注

される。

ワ、ー

人格

エージ

ェンシ

ソナ

スト

・アプ

ロー

入類学研究 における人格 と自己191

1

はじめ

人の概念は社会とその成員

についての文化的概念化の最も基本的

なレベルである。人とはどのようなものか、心とは何か、精神と身

の関わりはどのようにな

っているか、人のふるまいはどのように

理解されるか。これらの基本的な観念が文化によ

って

(あるいは状

況によ

って)異なると

いう認識は、人類学理論に前提されている社

.文化と個人との関係の概念化の根本に批判を投げかけ、再定式

化を迫

ってきた。この再帰的性格が、人類学批判によ

っていかがわ

しい他者化

の言説とみなされ、独立した対象も方法も持たないこの

主題が、人類学

の中

で持続的

に重要視されてきた理由である。人

・自己の概念

の理解は、人類学理論に内在する人格

・自己の理解

との対話において有意義であ

ったと言えるだろう。しかし現在この

主題についてどのような語りが可能であるのかは不明確になってい

る。本

稿では、特に重要と思われる人格と自己の概念にしぼ

って、こ

の主題に関する諸文献を図式

的に分析する。それによ

って、方法も

用語の定義も様々であり、対象とする地域、トピ

ックも多様な研究

群が扱

った問題の理論的焦点

がど

のようなものであ

ったか整理し検

討する。このような試みはそれぞれの民族誌的研究に対して還元主

の暴力をふる

っているとの批判を免れ得ないだろう。しかし、少

なからぬ用語的理論的混乱と曖昧さを拭

い切れな

い現在の状況を考

えれば、これは必要なステップであるだろう。とくに人格と自己と

いう概念の組は、研究を人類学として

「有意味なものとする」ため

に必要な枠組みを陰に陽に提供していると思われる。そのような枠

組みの理論的含意を明らかにしたい。

2

人格と自己

2

・1

はじめに

人格

(O奠ωoP

一90興ωo弓

Φ)と自己

(ωΦ篤一Φヨ9

という二つの基本

的用語は、様々なやり方で用いられてきた。もし、各自

の使用法の

目録を作成してその違いと共通点を比べたとしても、得られるもの

は少な

いだろう。しかし、幸

いなことに、これらの用語が提出しよ

うとする

「モデル」に留意するならば、

=疋の共通性と対立点が浮

かび上が

ってくる。我々が注目するのはそのようなモデルである。

簡単に図式化しておく。

一方に人格と自己を対立物と見なす

モデル

がある。「社会的」人格と

「心理的」自己の差異を想定し、前者を人

類学の対象とみなすか、あるいは、その上で両者の関係を考慮する。

他方に、人格と自己の結びつき方の文化的多様性を追求するモデル

がある。この立場は、対立モデルが想定する人格と自己の落差の普

遍性を否定する。これら二つのモデルが提出された後の議論は、こ

れらのモデルの修正と再定式化であ

った。

192

2

・2

二重

モデ

まず、人格と自己を対立的に捉える見方を整理しておこう。この

モデルは、「人の概念」

の人類学的研究のアイデアをはじめて提出し

たテクストである一㊤ω。。年の

「人間精神

一カテゴリー

冖人の概念、

自己の概念」の冒頭部分でモース

(ζ躄ωρζ母。巴

が提案した区分

と限定から源を得ている。こ

の箇所でモースが扱うのはも

っぱら

「法と通徳に関した」概念

であり、普遍的と彼が見なす心理学的な自

己意識を言語学的問題とともに対象かち排除している

(ζ9・⊆ωω一綜O

(一〇ωQO))の彼の研究からインスピ

レーションを得た人々の多くは、こ

の分割に追随して、問題を

「法と道徳」

へと限定しようとしたコ

例えば、デ

ュモン

(一)⊆目Oづ什矯冖、O⊆一の)を見てみよう。彼は個人

(一P匹一く一島⊆)を次のように区別し

てい、る。それは

一方で

「話し、考え噛

そして欲求する経験的主体」

である。デュモンにと

って、それはす

なわち

「ど

の社会

でも見出される人類という生物種

一サンプルと

しての個体」である

(デュモン

}㊤Φω(一㊤Q。ω)H自)。他方で

「人間お

よび社会についての近代イデオ

ロギーにおいて見出される独立した、

自立的な、したが

って

(本質的

に)非社会的な、精神的存在」であ

る。彼は前者を研究対象から排除し、理念と価値の集合と定義され

るイデオロギーとしての

「個人」を研究する。」

.力刀ザス(O輿葺『興ρζ一9

器一)(○霞葺げ興ω一り⑩①)が示すように、

「法と公的イデオロギーの問題として(器

四ヨ讐冖奠

o賄一鋤≦鋤&

o昏ぎ

こΦoδ靆と

論は次のようなヴィジョンを与える。西洋杜会は、「法と

公的イデオロギーの問題之して」、聖なる物tみなされる独特な個人

に価値を置く。その

一方で、社会的関係

の価値やそれぞれの役割に

特有の社会的義務の充足のような点に、「法と公的イデオロギーの問

題として」、強調をおく社会がある。中国社会は少なくとも儒教倫理

に支配されていた問はそう

であり、また、多くのアフリカ社会は伝

統的思考と実践に統べられていた間はそうであ

った

.(心bO一)。、この立

場からは、法的

・道徳的な義務、責任と権利

の社会的配置に問題を

集中することで、「話し、考え、そして欲求する経験的主体」(デ

モン∀を問題から排除できるとされる。

それに対し

て、

モー

スの同じ提案から出発した

フォーテス

(「o答Φの℃ζΦく興)は、対象の限定に満足しなか

った

(勾o詳Φの一㊤りω

(一りお))。彼は、上のように定義された人格概念と、その外部に設定

される心理的自己との関係を問題化しようとした。彼は次

のように

論じる。

人のカテゴリーは社会に由来しズいるのであ

って、「その社会に見

出されるペルソンヌ

・モラルを特徴づける特有

の記号と指標七、そ

れを構成する道徳的法的な様

々な能ガと性質を作り出し、定義し、

実際のところ押し付けるのは社会である」

(bQQ。①)。・しかし、その

一方

でフォーテスは、個人はそのような人の概念

の受動的担い手と考え

られてはならないと強調する。・「客観的な側から見ると、社会が人に

与える特徴的な性質、能力、役割が人格の認識を可能にし、また、

公的に想定されている人格として自分自身を呈示することを可能に

する。主観的な側から見れば、どのようにして行為者としての個人

が自分が所与の状況と地位

においてそうであるべきであると期待さ

人類学研究 にお ける人格 と自己193

れている人格であると、ある

いはないと、知るのかについての問い

である。」

(NQ。、)。

フォ」テズにと

って、「この問題は

「個人と社会がどのように相互

的規制によ

って結び付けられ

ているのかという永遠の問題」

(卜」Qo刈)

に関係してい.る。.そして、彼

によると、こめ個人/社会の対立に、

モースの区別した心理的概念としての自己

(す

ヨ9

と法的倫理的概

念としての人格

(一pO興ωo導

Φ)に対応している。「ここでは、」社会的役

のシステムとしての人格の背後にそのような役割を演じる自己の

意識を理論的レベルにおいて対置している。このようにフォーテス

は、」

モースの議論を構造機能主義的なモデルに回収している。

これはモースの議論に対する唯

一の読みの可能性ではな

い。モー

スは論文の冒頭で昌心理学的概念としての官己の概念を研究対象か

ら排除し、法的倫理的概念としての人格に集中すると述べているに

も関わらず、後半部では西洋的人格概念の特徴として心理的な自己

意識に支裏られ売人格の概念を挙げている。ここにはねむれがある

(〉=①昌・一Φooα)。曖昧さの結果、この、多くの研究のインスピレーショ」

ンの源とな

っている論文は、もう

一つの読みを許容する。この点は

後で触れる。

以上述べてきたようなモデルを、自己と人格

の二重モデルと呼べ

るだろう。」こ.のモデルは、「人

の概念」の人類学的研究にと

って厄介

な問題を解決七て×れるよう

に思われたbなぜなら、心理的経験と

いう厄介な存在をしかるべき場所に押し込め、「法と道徳」の問題に

集中できるからである。

2

・.3

ロサルドの批判

齟・ロサルド

(勾Oω鋤一仙Oζ一〇げ①=ΦN

●)は、二重モデルの理論的前提をき

びしく批判する

(閃Oωρ一位O

尸一ΦQO躰)コ公的象徴形態の分析によ

って現地

の人々が自身を人とし・てど

のように定義しているかを探るギアツ

(Ω①奠貫

Ω蕨oaYの解釈学的視点を用いて

(ギアツの議論について

は後述)、彼女はフィリピ・ンめイロンゴットの人々の人の概念と感情

に・ついて検討する。そこから、・内的な自己

(只ぞ畧ΦωΦ5

と公的な人

(ωoo巨

℃興ω8)を対立させる分析の、フレームワークは噛近代的自

己のイデオロギーであり、二項対立は普遍的事実ではないと批判す

る。彼女の批判的分析億、人格と自己の関係について、・人類学研究

で用いられるもう

一つのモデルの骨格を示している。へ註、v

彼女は、イロンゴ

ットの人の概念を次のように提示する⑩イ

ロン

ゴットにおいては常数的な

「私

、.H、.」は存在せず、社会的文脈によ

って変化する

(「今H姻族の一人として私に対したイロンゴ

ットの男

は明日には私の息子となるかも七れない。この違

いは単に我々がど

のように話すかだけでなく日常生活においてど

のように振る舞うか

やどのように感じるかまで描き出す」(竃①)%

また、、個人・のパーソナ

リティの描写はまれであり、・なぜだれかれがあるやり方

で行為した

かの説明はほとんど常に公的政治的利害に言及し、個人的動機には

帰せられない。コ

般にAイロンゴットは意図を洞察せず、・責任を追

跡せず、違反者が彼

の行為を通して他人に悪

いことをしてい、たと

「知

ってトいたか・どうかを問うことで非難すべきかどうかを判断しな

い」.(一心O)し、親族や友人の期待を満たすことができなか

った理由

194

を説明しないし、また説明を迫

ったりもしない。また、イロンゴッ

下北とう

h怒り」とは儀礼的支払いという社会的行為で償えるも

のであ

ρ《

壮会的規剣に対立寸る内的状態とは考えられていな

い。

つま吻、.

被らの伯分が誰噂あ

るかと

いう感覚はの狩り、首狩め、稲

作之いつ売

一連の哘為

の冲にすえ

つけられてお鉛(「自冠」.乏その

示L」の問には必ず竜

。プは癒い。

」潯

は「・こρよ、つ資

嗾誌的『

タをも乏叢

次の理論的主

脹嘘行喙う。「私遺、、月扈/個人と珀発牲、真正のい心か%の感情、

プテイヴァシ」、」

独自性一定常性、「「内的」生活を等し炉と見噸す、

そしてそれらを

マスク、役割あ

るいはコンテクストによってかたち

つくられる

「人格」「ぺ.ルソナ」と対置する分析フレ5ームワ」クは近

弐西洋舶頑毛遊構域する二分法

の反映で吻乃と論じ乃。そしてこの

場合

∵「我々の」分謝なイロ.ンゴ「ツトの自己概念の構藻を理解するた

の枠組み

としては誤解を招

く心のであるとわか渇のである。」

(一蒔Φ)

この庄張臆「我々を内涵性の壮会納構成の問題くといぎなう。綾

女怯、「内的泊己と倣単に識割され凌沈黙である幅とさえ言つヱかる。

社畜

役謝を受け入れ、反発し、呈示するは、つな内的自忌

あらか

じめ理論葡に前提するこ之は

できな

いつこう七て、、二重モデルでう

ま《拠理きれたと想わ煮た

マ心理舶経験」

、唸再が考察の対照としな

くてはなちなくなる。

このモデルは、モース論文

のもう

一つの読みの可能性之対応して

いる。先ほど述べたように、

この論文

の後半部で、冒頭の、心理的

概念と鵡ての偵己は扱わ女炉という恨定北反して一心理的自己億識

が道徳的人格適保証す乃構図がh」、西

悌の鱒徴とな

ってい、ったと強調

している。この部分を重視するなちば(自己と人格の特定の配置が

西洋の特徴であり、泌理的なものと社会韵恋ものの異唸

っ売関係が

追求の対象となる。

、:

、、、

.

.

・」:

2

・4

問題の所在

人格と自Eの概念の人類孝魯研究の理論的争点は、このように、

「自己」と

「人格」

「の関係をどのよう忙捉えるかにかかつていると分

かゐつ・心理舶なも切Z、社会釣なものの閥わ吻をどのような方法で、

どのように理論化するかの問題は」この種の研究にと

って躓港

の石

であ

っ売つそしイこ

.の周題はA「ごく初期

の段階から民族詰曲研究に

あらわれてい尢。

.}

レーナルト

」倉ΦΦ嘗

鵞αびζpξ一8)の

・「卞

.カモ」(レーナル干

這㊤O(一㊤鳶))は宀モ」ス論文以降で人格と自己の問題逢はゼめて主

題として取り扱

った民族誌的研究.であるつ、この中にすでに上に挙げ

売二つのモデルの緊脹関係が穏然と存在↓ている。

噛.よく知ら九ているよう至、レーナルトの理論はモースの人格論と

レヴイ劃ブリユル

(いひ煢11ゆ脈魯r炉⊆9招)の未欄心性論の両者に基礎

を置いている。したが

って、「ド

・カモ」のカナク人の人格概念の分

析において、法的道徳的カテゴリーとしての人格のあり方は、心理

的認識と対応しているよヶに記述ざれて.い.る。

つまり、関係的な、

拡散した人格は心理の面では神話的思惟や

「融即」.として表現され

人類学研 究における人格 と自己195

る。し

かし、他方で社会によ

って抑圧された自己のモデルが用いられ

ている。レーナルトは非順応的な人々の行為、例えば親の認めた結

婚相手を断

つて遠くの村

へ旅立ち首長を口説き落として結婚した女

性の例を挙げ、「彼女は自主性を持

ったのである。」

彼女は、特定の部

族の若

い娘止いう役割

(ペルソナージ

ユ)が従わなくてはならな

伝統に順応することを望まなか

っ光α彼女は自分のことを自分で決

定したのである。彼女は抗う運命に対して何度も戦わなければなら

なくなる。なぜなら社会は

人が法に背くのをきらうからである」

(卜○刈o。)と書く。「社会は入物が役割をきちんと果たさないと承知七な

いマネージヤーに似て」(卜。お

)おり、それに抗する決断は、「一つの

役を演じる人物ではなく心理的自我が

}個の差異を確立した

一人の

人格

(ペルソナ)の決断であ

った」(b。刈。。)。ここでは社会と個人の対

立構造は明らかである。

ヤ.」の記述のずれは、ロサルドの立場とフォーテスの立場の相違に

対応している。イデオロギーだけに問題を集中するという実際には

困難な限定から離れ、社会的行為の分析から

「人の概念」を記述し

ようと試みる時、法的倫理的カテゴリーと心理的カテゴリーを明確

に区分することは困難となる。レーナルトの研究は人の概念の経験

的側面

への関心の先駆けであ

った。この関心の増大に伴

い、彼に見

られた問題、我々がここまでで明確化した二つの異な

ったモデルの

問題は再び中心的課題とな

った。

3

二重

モデルの回帰をめぐ

って

3

・1

はじめに

対立は、以下に紹介する議論では立場が逆転している。新しいパ

ラダイムにまる解釈学的研究によ

って描き出される人の概念の記述

がどのような現実を描写しているのかが、その批判者によ

って問題

視された。ギアツが

「文化の科学的現象学」と呼んだ方法は、実は

規範的文化概念の記述であり、真

の自己の経験はそれに対立する。・

このような、解釈学的方法に対する批判が用いたモデルは、装いを

新たにした二重性モデルだといえる。ここでは、人類学的記述によ

る他者の生産が問題視され、「人々の主体性」の再評価が賭けられて

いた。いかにして他者と自己をラディカルに区別する言説から抜け

出すか?批

判はこの問いに対する

一つの可能な答

凡であ

った。

ここではまず、ギアツの方法論と記述についてまとめる。その後

で、彼に対する批判をまとめ、その問題点を検討する。

3

・2

アツの解釈主義的研究

ギアツ(ΩΦΦ詳N一零曾ギアツ

一りΦ一(一り。。ω))は、人々が彼ら自身と他

の人々をど

のように見ているかに関する概念構造の、公共的な象徴

形態

(言葉、イメージ、制度、行動)の分析による研究として

「人

の概念」を理解する。他者の思考を

「感情移入

(エンパシi)」と

う、結局は西洋的な人の概念の枠組みに他の人々の経験を押し込め

196

ようとする試みに他ならな

い方法によらずに、人々がそれによ

って

世界を理解する象徴形態を分析することは、彼の目指す文化の科学

に至るために必要な手段であ

った。彼はそのために思考は頭の中で

生起する神秘的なプ

ロセスではなく本質的に公共的な活動であると

いう論点を強調している。特定の時間における特定の社会の成員に

って把握される、意味あるものとしての人の経験の構…造を描写し

分析

る方法

、彼

「文

の科学

的現象

(9ω9①畧一臣0

9ΦロoヨΦ⇒oび題

9。⊆一けξΦ)」

(Ω①Φ窓N一〇刈ω冖ω罐)と呼ぶ。

彼は、」このように定義され

る方法によ

っ.てジャワ、バリ、モロッ

コの

「人の概念」を分析して

いる。ここではバリの事例だけに触れ

ておく。バリの人の概念は、

一言で言うならば

「演劇主義的」であ

る。つまり、「バリにおいては、個人の表現するもののあらゆる側面

を様式化しようとする恒常的

かつ体系的な試みがあり(個別的なも

の、すなわち人がその肉体と

心を人生ゆえにそうな

ったと

いうただ

それだけの理由でその個人の特徴として持

つようなものはおしなべ

て、バリの生そ

のも

のとして永続し決して変わることがな

いとされ

る見世物

(ぺ:ジ

ェント)の内に、居場所を割り当てられて沈黙さ

せられるのである。.存続する

のは役者

ではなく演劇的ペルソナであ

り、事実、しかるべき意味で現実に存在するのは役者ではなく演劇

的ペルソナである」

(ギアツ

一りΦ一(一Φ○。ω)口Oり)。このような特性は、

経験的に観察可能な象徴形態

を通じて認識される。まず名称体系が

ある。バリには複雑な名称体系があり、それらの使用はひとを規格

化された地位を占める存在として強調し、個人的特異性を押し隠す。

また、バリのカレンダーは時間の流れよりもその日その日の質的特

徴を強調する。そして相互行為は、

「舞台

であがること

(ω冨oq①

h二mq算)」と訳されるレク(一Φ貯)の観念にあらわされているように、人

の文化的位置が要請する公的な演技に対する関心によ

つて特徴づけ

られる。レクとは、ギアツによると、「個人の個人性iわれわれはそ

う呼ぶが、そのようなものを信じないバリの人々はもちろんそのよ

ヶには呼ばないであろ・了

が噴出して、標準化した公のアイデンテ

ィティが消え去ること

に対」する恐れである

(ギアツ

這Φ一(一㊤o。ω)"

一旨)。これらの支配的な文化的装置が互いに支えあうことによ

って

脱人格化された人格と

いう逆説が達成される。

3

・3

その批判

プール

(勺09ρ勾葺N旨oぎ

勺o畧Φ同)(℃oOδ

ち逡)は、ギアツの立

場を批判する。分析において、人格と自己の概念をしばしば

一まと

めにし、混同し、あるいは同意と見なしているというのである。確

かに、次のような

一節で少なくとも用語上人格と自己は区別きれて

いない。

・「私が詳細に調査した三つの社会、すなわちジャワ、バリ、モロ

ッコにおいて私がとりわけ興味を持

ってきたのはへその社会に住む

人々が自分自身を人

(OΦ「ωO昌)としてどのように定義するかを見定め

る試み、すなわち、ジャワ式、バリ式、モロッコ式

の自己

(。。Φ6

とは

何であるかについて人々自身が持

つ観念

(ただし、持

っていること

をう

っすらとしか気づいていな

いと

いうべきであろうYは、どのへ

人類学研究 における人格 と自己197

んに関わ

ってくるのかを見定める試みであ

っ.た。」(ギアツ

一Φ巴

(一り○。ら◎)μOω)

では、理論的レベルではどうだろうか。上に見たように、「バリの

人々がそれらを通して個々のひとを定義し、認識し、ひとに反応す

る、要するに人について考え

るための文化的装置」(OΦ①暮N一Φ蕊"

ω①O)、ここでは名称体系、カレンダi、感情の用語が検討されてい

る。よつて、ここで考察され

ているのは

「怯と公共的イデオロギi」

の問題ではなくて行為者

の経験の問題であるのだが、この

「経験」

は、他者の意識に直接問われたものではなぐて、象徴によ

って介在

された経験である。このよう

に理解きれた、公的な象徴パターンの

読解による他者の主観性についての具体的な記述は、時に読み手を

戸惑わせる。

個人の特異性を抑圧し人を非時間的な地位カテゴリーの

一時的な

占有者とする名称体系の説明

の中で、曾祖父と曾孫に対する名称が

同じであり、、

「二つの世代は、「そしてそして両世代を構成する個々入

は文化納に同

一である

(o巳ε鐔ξ

一αΦ暮強Φ島)」(OΦ興臼

一り刈ω"ω譯)と

書くとき、それ億単に同じ名だ乏

かう意味なのか、それ之も

「同

視される」`という意味で書

いているのか。個人の特異性の表出を妨

げる社会的相互行為の儀礼化

にρいて、「個人の個人性」・を

「われわ

れはそう呼ぶが、そのようなものを信じな

いバリの人々はもちろん

そのまうには呼ぜないだろ、ユ

と言う時、「信じなか」上いう言葉逢

どう理懈す乳ばまいのかつ瑣末に見えるが、このような磊述の問題

は昌全体的モデルをどのよ、つに構想するかの問題に直結している。

そして、実際バリの人格と自己の概念についてウィカン(芝算9P

¢弓

一)(≦欝雪山OO。刈)が、よ

一般的に理論的枠組みについてスパイ

ロ(ωロ『ρ竃①一8「ユ国乂ω且圏o一ΦΦω)が、批判しているQ・-

ウィカ.ンの議論は、ギアツによるバリの人の概念解釈の批判であ

り、も、つ一つの解釈の呈示である。ウィカ

」ンはバリ人の

「黒魔術」

に対する恐れの感情の分析によ

って、ギアツが

「演劇的」之形容す

る、個人的特異性を抑圧して相互行為を社会的役割の儀礼的上演

と規格化するバ」リ的人

の概念の

「下に」、個人的思考走他者

の意図

(とりわけ悪意)に対する非常な興味があると論ずるコバリ人の明朗

で滑らかな感情の標準化された呈示は、実は、危険な黒魔術その他

の社会的制裁を呼ぶ結果となる否定的感情と振る舞

いを隠蔽し、読

み取られないようにするための手段である。「パブリックな洗練とプ

ライヴ

ェートな恐れ」は、「上演された」感情と

「感じられた」感情、

自己呈示と防御された自己として行為者自身に認識されている。ギ

アツの文化概念の分析は、杜会的出来事の流れの中で経験されるリ

アリティ、「本当に彼らが経験しているのは何なのか」を逃七てしま

うのだ、とウィカンは論じるつ

スパイロ

(Q。営『.oおOω)は、ウィカンをはじめとするアジアの事例

を援用しつつ、西洋の自己の概念を

「特異

(OΦo色巴

」とする、非西

洋の自己概念をそれとは対照的なものとして描く研究を批判する。

ここでギアツは他の、理論的立場の異なる研究者たちとともに特異

性の主張者として批判されていゐ。スパイロによるとこれら影響力

を持

つ研究では、h自己」の概念の定義が曖昧であり、「方法論的にも

198

不十分であるため、結果とし

ての、

エゴ中心的で独立して自律的な

西洋的盲己と社会中心的で相互依存的で文脈依存的な非西洋的自己

を対立させる二分法は不適切

である。従来

・「非西洋型」と言われて

きた社会についての近年の研究成果は、これ・らの社会に独立した自

己の概念が存在することを教えるという。

ズパイ

ロの議論によると、ギ

アツ鳳文化的象徴

の分析

「のみ」に

基づ

いてバリの自己概念を描き出した。このよう

にして得られた自

己の概念は規範的な文化的概念

であるにもかかわらず、バリ人によ

る自己表象そのものと同

一視

七た。七かし、両者は同じではない。

「行動の観察と心理的探求」によるウィカツの研究は両者の問のずれ

と対立の存在を明らかにしている。仮面の裏には私的自己があるの

である。西洋については逆が

いえる。規範的概念が

「個人主義」で

っても実際

の自己表象がそれ

に同型であゐとは限らない。むしろ

多く

の心理学的研究が指摘す

る通りハ自己の経験は

「相互依存的」

でありうる。

スパイロ信

「自己呈示」と.「自己表象」(行為者自身

「自己の感

覚」)、規範七経験のギャップを強調する。・彼の狙いは、西洋と非西

洋の極端な二分法

の解消であ

った。非西洋は

「特異性」

の論者が述

べるほど社会中心的で文脈依存

的ではなく、西洋は個人中心的で文

脈独立的ではないというわけである。

广このまうに、ギアツの研究は規範的文化概念の記述であると理解

され主観的経験は別・のレベルに設定される。この理論的モデル化は、

人格と自己を対置する一.一重モデルへの形を変えた回帰であるコ

3

・4

一一重モデルへの回帰

・、」

議論は、人類学は他者を時間から切り離された静的な世界で文化

に従

って生きる存在として描き出してきた、社会変化と人々のエー

ジェンシーにより注目しなくてはならな

いとするよりひろい人類学

批判に動機づけられていた。

.例えば、「人の概念と

エージ

ェンシー

"アフリカ諸文化における自

己と他者の経験」Qgo厨8

0口α内贄b盆位ρ)一㊤㊤O)と題された論集は

フォーテスの枠組みを継承することを明言し、文化的思考

のモデル

と生きられた経験の弁証法的関係を追及してい・る。編者によると、

人格の概念化は、」法的恋あ

の・であれ規範的なものであれ、人の

「経

験」の広がりを押さえようとしてこなか

った。「「形式化した人の概念

は静的で予定された社会的世界の描写ではな

い。.過去から継承され

た価値と目標と今ここにおける人々の社会的存在を構成する様

々な

問題と緊急事態が適合するような世界を構築し再構築す.るために

人々が活動的に用いる手段なのである。」q碧訐o⇒畧Ω囚輿ロ一Φ㊤Ω

b。。。)ここでは、自己の経験、..欲求、自由と対置される文化的概念の道

具性がより強調される。

このように理解された人格に.つい・ての文化的概念と自己の経験の

関係が所与の社会内でどのようにどのように構造化されているかの

モデルを探求するも

のもある。

マジオ(ζ超①oこ⇔暮

Φ暮Φζp。注Φ)

(ζ超Φo一りり㎝)は、サモアの事例について存在論的前提と・道徳的言説、

区分けする言説、戦略的言説の三つの言説実践を区別することでこ

れを試みている。

マジオによると、存在論的前提としてのサモアの

人類学研究におけ る人格 と自己199

人の概念は、人は役割を演じる存在であるというものであるが、こ

の前提では人の経験すべてをカヴァーすることができない。存在論

的前提はふるま

いの善し悪しを判断する道徳的言説のかたちで規範

として働く。道徳的言説によ

って抑圧された自己の側面は、公式的

コンテクストと非公式

のコンテクストでの語りの使い分け

(区分

けする言説)にあらわれる。非公式なコンテクストで、サモア人は

まるで行為者

の社会的地位の差異がないかのように振る舞

(道徳

的に悪とされる)を行なうのである。また、伝統的価値の遵守や集

団のための行為を装い.つつみずからの政治的目的を達成しようとす

る言説、「戦略的言説」によっても

「道徳的言説」によっては捉えら

れないが暗

に認められている自己性が表現されると

マジオは論じる。

ここで、「人の概念」の文化的モデルは、道徳韵規範に切りつめられ、

個的経験の表出を圧迫し、役割

へと還元する存在であると理解され

ている。それに対して、人々は、公式の場面と非公式の場面に応じ

た言説の使

い分けや、文字通りの意味と隠された意図の区別によ

て、私的な経験を表出するとされる。

3

・5

二重

モデ

一つ

の形

もう

一つ

のヴ

ァリ

エー

ョン

、規

の概

に対

て自

己意

ではな

く、

で微

「政

」を

置す

る。

アブ

ルゴ

ツド

(≧

⊆∴じ9ひqげO恥

噂】じ旨鋤)は

エジプ

のあ

ベド

ン社

で顕

つの感

-用

の相

の分

を行

(≧∪⊆宀轟

『o住

一りOO)。

そ」の二

つと

(ヨoα⑦ω巳

、当

(Φヨぴ霞

ωωヨΦ暮

)、

(曁四8①)と訳しうるハ・シャム(口器70ヨ)と愛の感情である。アブルゴ

002

ッドは、

ハシャムは父系制親族システムに基づ

いた社会秩序に適合

した感情であり、そのヒエラルキー的権力構造とその再生産にあ

た道徳性を押し付け、違反を規制することを示す

(G◎cQ-ω㎝)。恋愛詩

のかたちで詠まれる

「愛」の感情表出は、この支配的な感情の構

造"社会構造に対する、文化的に基礎付けられた

「抵抗」であると

解釈する。し

かし、ここでハシャムと愛の関係は、社会的拘束に対

する個人の自由、あるいは倫理的日社会的制限と個人的表現という

かたちで図式化されない、と彼女は言う。なぜなら恋愛詩はべドウ

ィンの民族的独立性を主張する文脈では肯定的に捉えられる文化的

実践であるからである。しかし、たとえ政治的意図を同定できなく

ても、愛の詩における愛

の感情表出は政治的行為、あるいは政治的

声明であるとアブルゴッドは主張するρ支配的な社会構造11感情

構造を危険にさらし、撹乱するからである。

この議論は

「文化化された」人格と自己の二重モデルに準ずるか

たちを取

っている。つまり、規範的な社会的役割関係とそれを制御

する感情のシステムに対して、文化的に構築された

「愛」が置かれ、

両者の関係が服従か抵抗かの政治的関係とされる。特徴的な違

いは、

愛の表出がいわば

「意図なき抵抗」とみなされている点である。こ

こで愛は自己の経験であるのみならず、「支配的な社会秩序に対する

反乱の実践的なあらわれであると解釈される。「内的意図」は想定さ

れな

い。しかし行為は抵抗として特徴づけられる。、ここでもまた規

範的人格とその対立物の政治的相互作用が想定されている。

3

つ6

「文化化された」人

格と自己の二重

モデ

この理論的スタンスが従来

の二重モデルに対して異なる点は、ア

ン卞.リュi

・ストラザーン(Qっ爲9誓興p>⇒脅霎

×ω冥四普興巳

O㊤。。)の

指摘する通り、個人が社会の外部にある力として設定されず、規範

的人格と且己経験をともに文化的に構成されるものとみなす点であ

る。例えばウィカンは公的領域が文化的であり、私的領域が個人に

特異であると見なすことを安易

であると否定する。なぜなら、「文化

は感情の組織化

の核と自己の構築にまで侵入し、内的経験を文化的

にかたどられたパタ.iン紅基づかせるからである」(類涛9ロ一Φ。。S

ωお)。モデルは複雑化する。

フォーテスでは、自己は社会的な人格

の外部にある普遍であ

った。「文化化された」モデルでは人格は文化

的に構築されている。自己経験もまた。そして両者が社会生活にお

.いて交渉的関係にあるど見なされる。〔註、}

3

・7

問題点

これらの二分法

の再導入は、別の二分法、西洋対非西洋

のそれを

緩和

・解消するための矯正法として論じられた。主体的西洋に対す

.る非主体的な非西洋という単純

で強固な二分法は、主張されてきた

ほど極端ではな

い・。その主張

の方策として再導入されたのが、人

格/自己の二重性であ

った。

問題は、二重性が

一般化されている点である。規範と行為者の対

立は、その民族誌的装いにもかかわらず、多くの場合、モデルから

演繹して求められる。これは、既に見た通り、エージェンシーの重

要性が、本質的に先行する理論的枠組みに対する批判として構想さ

れたからである。社会的な人格が規範的に働くとすれば、内面、社

会的重圧、服従といっ元点が相互的な行為、解釈、反応の流れの中

で、あるいは再帰的な行為の特徴づけにおいてどのようにあらわれ

るか。この点がしばしばないがしろにされている。実践的抵抗の理

論は内面性を回避し

つつも文化的行為を政治的行為と特徴づけるζ

とで同じ罠にはま

っている。

ただしこの点について、ウィカンは出来事の流れの中で、逆境の

中でのふるまいの

「優美さ」や感情

「朗らかさ」の

「下に」呪術

に対する

「恐れ」や

「悲嘆」が読み込まれていく社会的過程を事例

で示している。内的意図の推論や感情

への関心が相互行為を特徴づ

けていると分かる。こごで、規範性は社会的レベルで上演されてい

る。こめ点で馬ウィカンの議論はギアツに対する矯正として機能し

ている。

しかし、彼女の解読が理論的モデルとして敷延された時、妥当性

は疑わしくなる。多くの社会的過程の中に個人的意図の推論に基づ

く相互行為があるという観察と、社会的過程とは文化的概念と生き

られた経験の齎の交渉であるという理論的定式化

の間には大きな隔

たりがある。行為を私釣意図

へ帰する理解がある

(ないような社会

は考えにくい)、あるいは支配的であることは、そのような

「超越的

自己」がア・・プリオリに想定されていることを示さない。

「文化化された」人格/自己の二重モデルは、理論的に定式化さ

れた時、ロサルドの示したようなモデルと真

っ向から対立する。前

人類学研究における人格 と自己201

に見たように、彼女が批判す

るのはまさにこのような理論的枠組み

であるからである。こうして、議論は隘路に入

ってしまう。しかし

実際は、ある社会内において、内的意図

への強い関心は、それに反

する行為

の理解と完全に相互排除的であると考える理由はない。こ

のような対立の絶対化は、ある単

一の枠組みが社会全体を安定して

カヴアーしているという幻想から起る。この視点を解除するために

自己および人格を既に出来上が

った、与えられたものと見なす観点

を括弧入れし、その上で個別状況を分析しうる手段を模索しなくて

はならな

い。

4

自己の修辞的構築

4

・・1

自己の修辞的構築

全体的モデルを括弧入れし、より限定された主題を再検討しよう

とする試みがあらわれている。ここではすでに自己と人格の全体的

コンフィギュレーション

については語り得ず、試みは限定的となる。

しかし一二重モデルや実践的抵抗

の理論に対する批判としての価値

を持つている。

バタグリ

(切鉾β伽Qぎ

"UΦσσ○蕁)らは、「自己製作

の修辞

(罕

Φ8ユoωo騰ωΦ郎ヨ四冠コσq)」と題された論集で、「自己」は安定した

「生産物11出来上が

ったもの」

であるという考え方から離れ、異なっ

た文化的状況によ

って変動する自己の概念の不安定な状態を捉える

視点を提出している。バタグリア

(bd98σq=巴

⑩り㎝)は、自己の概念

は安定不変ではなく、文化的にかたどられた相互行為の流れの中で

実現されるものであり、状況に応じてある形の想像的秩序をもたら

す常に不安定な生産過程である、とする(卜。)。この指摘は、前も

って

存在する、粉飾されるべき

「自己」は想定できな

いと

いう警告であ

り、したが

って、自己

(あるいは非自己)が製作される修辞的行為

の過程を分析すべきであるという方法の提案であるコ「文化化された」

二重モデルでは、「自己は既に出来上が

ったモノと捉えられるため、

社会的過程の中での個人的意図や感情

への関心億そのモノの

「表現」

「呈示」と見なされる。それに対して、.「自己裝作の修辞」のアプロ

ーチは生成

の場に踏みとどまることによ

って図式

への還元を避けよ

うと試みる。

このアプ

ローチは

エージ

ェンシーの位置づけを問題化する。主体

は必ずしもその行為の意識的中心、経験の座とば見なされな

いから

である。自己-行為はそこからはなれた主体に生起しうる。行為する

「主体」は不変的に必ずしも意識的にその自己性の経験と認識、ある

いは装われた彼(女)の感覚の源というわけではない(蔭)(Ohω窪四讐①ヨ

。。)。詮3.

4

・2

・パ

スピ

ーチ

・アク

理論

の西

に対

であ

・パ

ナリ

スト

と呼

一連

の研

同様

関心

より

に注

た形

であ

(頸

づΦ閏.)と

アー

ァイ

(H吋く一づΦ℃一⊆9帥け汀

↓●)は

「責任

エージ

ェンシ

の割

り当

ては

、創

202

的な解釈プ

ロセスと見なしう

る。このプ

ロセスは解釈された行動の

取、る象徴形態、その社会的環境

、その文化的

マトリクス、そして証

言の動…機と知識によ

っている」(昏)とし、意図と責任の分配の分析を

行なう。同論集でデ

ュランテ

(一)⊆「鋤Pけr>一Φωω餌づ山「○)(U弩碧

一ΦOω)はふ事例として伝統的サモア村落

の会議における、フォノ

(胤9

0)と呼ばれる演説を分析

している。このような場において、雄

弁家

(o螽8居)の発言は、発話時の彼らの心理的状態や意図によ

て判断されず、発言がもたらした結果と関連して判断されると、デ

ュランティは主張する。・その意味で、フォノの発話は

「意図なき責

任」であるといえる。雄弁家は、首長

(位の上の人)のためにしゃ

べるとき、メッセンジャーであ

るにもかかわらず発話の帰結に対す

る責任を負う。デュボワ

θ¢.切o一ωしo巨

≦し(∪ロ切9ω一りりGQ)はデュ

ランティと異なり発話者に

「意図も責任も帰されない」卜占の発話

を分析する。彼の分析するト占

の意味生成過程においては話者

の意

図は読み取られないし、また、卜占の内容に対して責任も負わない。

確かに、占者には正しい儀礼的手続きに従おうとする意図や儀礼的

に規定された言葉を正確に発話

しようとする意図が認められる。し

かし、それ・らは特定の託宣

の発話内容

に対する実践的な後ろ盾

(O「9⊃M四5P鋤け一〇σ塾冫O貯一口騎)を提供す

るような意図ではない。その点に関し

ては、」発話者は他

のエージ

ェンシーの代弁者に過ぎず、この点につ

いては責任を負わないのである。アンチ

・パーソナリストはこのよ

うに、内的意図があらゆる局面

で常に存在すると

いう想定を批判す

る。

クソルダス

(Oωo「9ω↓プo目9ω一.)(Oωoa鋤ω一㊤Φ刈)は、アンチ

・パ

ーソナリストの批判を評価し

つつ、その不備を指摘する。そして、

アメリカのカソリ

ック

一カリスマティック

・リニューアル

(09置90

0訂「一ωヨ曽冖一〇幻①p①≦9一)と呼ばれる宗教運動の預言の分析によ

って、

「矯正の矯正」を行なおうとする。クソルダスによると、意図、責任、

発話のコントロールに関連する人類学者の批判は、個人的発話者の

意図を普遍的に意味生成の過程の中心に位置付ける説明に対する重

要な矯正とな

ってきたが、同時に、主観的意図によ

って特徴づけら

れる西洋

の発話者と集団的決定によ

って特徴づけられる非西洋の発

話者との二分法的分割ぺと陥る危険があ

った。それを矯正するため

には、次の二つの問題を認識しなくてはならない。すなわち、①

ンチパーソナリスト

の多くは、強固に形式化され、自発性

の発揮の

可能性の少な

い固定されたテクストの上演を扱うジャンルとしてき

.た。儀礼言語、卜占、起源神話、先祖の言葉などである。②

「意図

なき意味」の理想形として選択される主観的状態は、日常的な自覚

的発話の対極にあるトランスである。この背後には、日常的自己は

主観的でエゴ中心的な西洋的自己のモデルにしたがって作られ℃い

るのに対して非日常的な自己はトランスした社会中心的非西洋的自

己となるという考えがある。この考えでは、話者はトランスを偽装

して日常的自己を維持するか、トランス状態に入

ったもう

一.つの自

己が固定されたテクストの上演を行なうかするしかな

いと

いう理論

的行き止まりに陥る。

それに対してカリスマ的預言は起源神話の語りのように固定され

人類学研究 における人格 と自己203

たテクストのジャンルでもな

いし、トランス状態において非日常的

官己に取

って代わられる日常的自己を想定するようなジャンルでも

ない。預言の発話は.「私

」が神である

一人称の発話であり(話者で

ある人間は単なる神のスポークスマンでしかない。しかし、この預

言は.「意図なき意味」ではな

い。なぜなち預言者はみずからの言葉

が真に神によってインスピレートされたも.のかそれとも悪魔や自分

の感情によ

って動機づけられているのかを見分けるために意識を研

ぎ澄ませているからである。だが、それでもなお発話が聴衆によ

て聖なる言説として究極的な権威を認められる限りにおいて、それ

は議論の余地のな

い神の意志

の声であるとみなされる⑩クソ.ルダス

は、預言がこのような

「二重化された主観性」によ

って特徴づけら

れる、と

いう。話者は

≒本当

には」話していな

いにもかかわらず、

自分の言うことに対して責任

を負

っていると意識しているのである。

.このような

「聖なる自己」は粉飾された自己、単なる自己呈示と

はいえない。預言は話者の隠された意図に還元されず、聴衆と問主

観的に構築される真正の神の意図が認め与れるからである。・クソル

ダスはこの事例は君臨する意図的な

エゴの権威をアンチ

・パーソナ

リスト的批判と同様に脱中心化するとともに、欧米の文脈における

間主観的な意味構築の格好の民族誌的事例を提供し、西洋と非西洋

の二分法を緩和すると述べて

いる。

・言語人類学的アプローチは人格と自己の問題の

一つの中心である

意図と責任の分配について、より接近tた、限定されているが理論

的興味は大き

い議論を提起してくれる。クソルダスの事例に見られ

るように、二分法

の解消のために再び主体性の理論を導入する必要

042

はな

い。デユランティとデユボワもそれぞれ注意するように、アン

・パーソナリストの主張は当該社会に内面的意図の賦与がな

い、

あるいはそれが重要ではない、ではなくそれが唯

一の筋道ではない、.

である。この議論は私的自己と公的人格の

「理論的」前提に対立し

ているのであ

って、内的意図そのものに対してではな

い。西洋/非

西洋の対立は

一般化された主体性の再導入ではなく、文脈化された

官己の構成プロセスへの注目によ

って緩和される。

5

おわ

りに

近年の人類学の理論的傾向、つまり主体性の回帰を顧みるならば、

上に見たような人のエージ

ェンシーの曖昧化

への執着は、奇妙で、

反動的之さえ

いえるかもしれない。しかし^、現時点

では断片的なも

のとどま

っているとはいえ、エージ

ェンシーの修辞的構…築について

の民族誌的試みの成果は、ロサルドらが切り開いた地平がはやばや

と撤退されるべき性質のものではないことを示している。全

ての人

に出来合

いの主体性や実践的抵抗

の性質を与えて贖罪されたと信じ

るよりも、「内的自己とは単に識別された沈黙である」とするロサル

ドのラディカルな想定に踏みとどまるべきだろう。どのような語り

が内的自己とその呈示の落差を創り出していくのか、あるいはいか

ないのか。どのような社会的相互行為のプ

ロセスによ

って主体性が

あらわれ、あるいは曖昧化されるのか。これらのプロセスに現れる

語りの多様性を読み解くことが、我

々の課題である。

以上のまうに、本稿は人格と自己と

いう概念の組に焦点を当てて

理論的な流れを整理し、理解

しようと勤めてきた。しかし、より包

括的な理解のためには、これだけでは十分ではな

い。人の概念につ

いての人類学的語りを形作

っている他

の諸概念も検討しなくてはな

らない。最後に、特別な探求を必要とするだろう問題を二つだけ掲

げておく。

個人と非個人。個人(性)・個人主義と、非個人(性)・関係性

・分割

(◎一く帥α⊆P=け《)・全体主義と様々に呼ばれるその否定の対立は、時

に自己と人格の対立と向

一・視され、時には異な

った対立軸と捉えら

れつつ存続してきた。個人/非個人対亠11は、陰に陽に、すべての研

究者にと

ってなくてはならな

い概念的対として考えられてきた。言

い方を変えれば、この対立は、その外側に出てしまえば人格と自己

の人類学的研究が意味を成さなくなるような限界としてあるように

見える。

意図-責任と倫理的相対性の問題。意図-責任問題ば、人の概念の

人類学と

いう研究枠組みの中

では、社会構造内における相互の位置

関係によつて流動的に変化する(つまりキリスト教倫理のように絶対

的ではない)道徳性についての議論と組み合わされていた

(ΦδQ・幻Φ巴

一り芻)。

ロサルドにおいても、人格

のコ/テクスト依存性と行為と意

図の問題は並置されている。だ

が、近年これら二つの問題は遊離す.

る傾向にあるように思われる。

バタグリアはエージェンシーの位置

づけの問題と個人性と関係性

(邑

鋤牙

ξ

)のレトリックの問題を区別

ている

(bd讐δ

ゆq二p・一ΦΦ㎝)。またストラザーンとスチ

ュワート

(ω8≦p。登

℃笹ヨ似冨ご

は、

一方で

「責任の体現「というタイトルのも

とに、パプア

・ニューギニアのメルパ

(ζΦ一髱)の人々について内的

意図と責任の、身体

の問題

へのスライドを論じており、他方では、

「人格を求めて」で親族関係を拡張することで逆説的に自己を実現す

る、言い換えれば、関係性によ

って個人性を達成するメルパの人々

について論じている

(ω霞餌昏Φ篝

9・a

ω8≦四畧

一㊤ΦQ。ρ一Φ㊤㏄σ)。もちろ

ん人類学者は両者の関わりの探求を放棄したわけではま

ったくない。

例えばデュランティは社会的ヒエラルキーと発言の責任との相互関

係を重視している。しかし、クソルダスの例が示すように、意図と

責任の問題は社会的紐帯の問題に従属はしていない。

これらの点について整理し、解読していくことによ

って、人の概

念の人類学的研究に賭けられているのがなになのか、より明確に捉

えることができるだろう。

1注

(2)

同時

に、自分

が他者とは異な

ーって

いるど

いう

パーソナル

・アイ

ンティディの感覚を

つと

いう限定

された意

にお

いては自

己は

普遍的であ

ると述

べているゆ.、

ハリ

(国霞同す

O冨o①O居Φα《)はこ

のよう

な、ぞ江

それの概念が独

立し

て文

化的

に構築

され

いるとす

る立場を

モデ

ル化

いる。

彼女は自己と人格、

および個人

の分析概念を

明確

に区

別す

べき

あるとす

(H山鋤「冠一ω一⑩QQり)。彼女

にょると、個人は生物学的な人間

人類学研究 における人格 と自己205

(3V

一員

として

の存

の概念

である。自

己の概念と

は、

「そ

の人自

「誰か

であ

ること」

ついて

の経験を含む、経

の生起する

とし

ての入間存在

の概念

化」

(①O一)

であ

る。

よ.って研究は、こ

のよう

に定義

された自己

が社会

の中でど

のよう

に概念化

され

てい

るか探る

こど

にあ

る。それ

に対して、人格

の概念

の研究は、

エー

ェン.下、目的

へと意識的

に向

かう行為

の著者と

して

の人間、あ

いは

の他

の存

(死者、動

物そ

の他

)

の.概念化

を取り扱う

この意味

にお

いて人は社会秩序

の中

に社会内

エレジ

ェント

(9。9q窪

ヨめ09①蔓〉と

して位

置つ

げられ

ている。人

であ

ることとは、行為

認められ

るふ6ま

いの書

き手

とし

ての

「誰

か」

であ

ることを意

する。人類学

者は、

このような

エージ

ェンシー能力

の社会的分

配を

、社会

のソーシ

ャル

・カイ

ンド

6109巴

臨⇒α)の構造的分配

、個人

のライ

・コースの中で

の継起的保有と

いう

つの繋が

った観点

から理解

でき

る。

ーク

ッグ

(閑一葺

ロ蝉貫

一〇厂

一〇げp)と

ワイ

(妻7搾9

0①o歐器くζ.X困蹄百

讐ユor鋤巳

詳Φ一ΦQ。㎝)もまた、個人的動機

構築

が行動

の組

織化

の座と

なるような人格

のモデルを

批判し、

スノサイ

コロジーすなわち

「人

のアイ

デンティティ、行為

そし

験に

ついての文

化的理解」

を探求す

る。彼

ちが特

に焦

点を当

て分析す

る.のは

「人格、人

の行動と経験

の文化

的定式

化と、そ

よう

な定式化を社会

生活

にお

いて伝

達す

る相互行為的実践」(Φ)で

る。

考文献

アー

ツ、

クリフオード

一Φり一(一り。。ω)

『ロ」カル

・ノレ

ツジ

一解釈人類学論

集』

原景昭

●小泉潤

一.一・山

下晋司

.山下淑美訳

東京

冖岩波書店

ュモン、ルイ

一りΦω(一り○◎9Q)

『個人主義論考

一近代

イデオロギ

ーに

ついての

.人

展望

』.渡

・浅

一訳

"言

.レ

ーナ

ルト

、モー

ス一〇ΦO(一Φミ

)『ド

・ガ

".メラ

ア世

の人

.東

冖せか

蠱旦房

〉巨

二⑰qげoF

=冨

一8

、ω三

沖言oqロ呂

ユ8

5

bσ巴

〇三

コδ<Φ8

.、.3

い暮

N鴇

9

Φユp$

p>σ午

じ轟

ωし一Φ8

ピ畧

田。q①餌巳

9

8

。ま

8

0胤①ヨo鉱oP

O⇔ヨ耳

己oqΦ"O餌ヨ酵

己oq①ご巨く興

匹亳

勺「①ωωb

心ムO

一①P

乞こ

・一り。。『

.9

8

0Qo蔓

oP

9

9

。ヨ

p

ζ

拶瑳

ω.、言

9

9

ρ

。冨

Φ誘

8

くΦpO。田器

p・コα。。8〈窪

ピ爵

Φω(巴

ω.)一㊤。。㎝↓菷

$

8⑰Q。蔓

ロ興ωOP

O四日再

鉱mQ①一〇四∋σユ島ΦQ①q巳<Φ誘詳《即

①ωω噂bσ①ム㎝

しu翁。け80Q匿

℃UΦσげo蠶

(巴

一8

㎝寄

Φ8ユoωohωΦ示ヨ

9評ヨoQ'切興匹2

動巳

いoω

〉お

Φ蕾

"C巳<①邑

q

o8

四嵩8N巳

餌牢

Φωω

しd讐

8σq鼠

」)Φσσo騫

一Φ8

.づδ

⊆Φヨ〇二N50qヨ

ΦωΦ篤.ヨ

ゆ簿

80q冨

"U①σσo鐔

(Φα.)一8

幻げΦ8

二〇ω

oh。。①一暁ーヨ

帥q「bd①蒔

一2

四づα

いoω〉コひqΦ一①軌

¢巳く興

臨蔓

OhO巴詫o∋

一β。甲

Φωω噂一山㎝

0錠

二9

ω矯ζ

一〇冨

Φ一.一〇Φ『

.勺興

ω8

.、ヨ

しdp。簑

9。a

"≧

一Φp

α

一〇p讐

Q∩U9

8

H(巴

ωし一8

①国コ身

oδ9

象鋤o噛ωoo巨

国鼠

8

一け霞

9。讐

8

0δ堕

ピOP畠O巨

幻O¢二ΦαひQρ

Φ-心NN

Oωoa

日70日

一●一8

づ「09

Φ畠

α9

Φ

℃Φ風o「ヨo口8

0眺B①8

9

0蝋.-

>BΦ鼠o穹

〉韓

ξ

8

0δ⑰q醇

りΦ(b。)b

b。一-ωω卜。

U霞

ρ

Φωω畧

o一8

ω

.、H葺

Φ葺

δ霧

"ωΦ冖噛も

NΦω8

一詳覧

>pΦωω錯

8。譽

国号

8

飲。qB

讐一8

.,ぎ

国≡し

Φ即

p巳

一&

H三

(巴

ωし一〇〇ωカΦω8

ロ匹σ臨一¢

α①三伍雪

8

oN皀

山一ωσ緯

ωP

OpB耳

匡oq軌

OPヨげユαoq①q艮く興

皿蔓

勹触①ωωb

やミ

U⊆

bd9

ωこ

o『昌

.一〇りω

.、ζ

$

旨oq

≦一9

0三

け①葺

一〇コニ

Φωωo磊

.ヰ

08

二8

.ーヨ

国三

9。器

9巳

島戸9

.日

.ワ

〈甘

Φ

(.①αω・)一8

。。

.幻Φω℃8

匹げ聾蔓

鋤巳

①三山⑦コ8

o螽

一9ωo霞

ωp

Opヨ耳

乙αq軌

09・ヨσ二αoqΦ

¢三く興

ω諄く勹准

ωρ心Q。も

206

Fortes, Meyer 1993(1973) "On the concept of person among the Tallensi"

in Dieterlen, Germaine (ed.) 1993(1973) La notion de personne en

Afrique noire, Paris:L'Harmattan, 283-319

Geertz, Clifford 1973 "Person, time, and conduct in Bali" in The

interpretation of cultures, New York: BasicBooks, 360-411

Harris, Grace Gredy 1989 "Concepts of individual, self, and person in

description and analysis" Amrerican Anthropologist 91, 599-612

Hill, Jane H. and Judith T. Irvine (eds.) 1993 Responsibility and evidence

in oral disourse. Cambridge: Cambridge University Press

Hill, Jane H. and Judith T. Irvine 1993 "Introduction" in Hill, Jane H. and

Judith T. Irvine (eds.) 1993 Responsibility and evidence in oral

disourse. Cambridge: Cambridge University Press, 1-23

Jackson, Michael and Ivan Karp (eds.) 1990 Personhood and Agency: The

experience of self and other in african cultures, Uppsala Studies in

Cultural Anthropology 14, Uppsala:University of Uppsala

Jackson, Michael and Ivan Karp "Introduction" in Jackson, Michael and Ivan Karp (eds.) 1990 Personhood and Agency: The experience of self

and other in african cultures, Uppsala Studies in Cultural

Anthropology 14, Uppsala:University of Uppsala 15-30

Kirkpatrick, John and Geoffrey M. White 1985 "Exploring

Ethnopsychologies" in White, Geoffrey M. and John Kirkpatrick

(eds.) 1985 Person, self and experience: Exploring pacific

ethnopsychologies, Berkeley: University of California Press 3-32

Mageo, Jannette Marie 1995 "The reconfiguring self American

Anthropologist 97(2), 282-296

Mauss, Marcel 1950(1938) "Une categorie de 1'esprit humain: La notion

de personne, celle de "moi"" in Sociologie et anthropologie,

Paris:PUF 331-362

Poole, Fritz John Porter 1994 "Socialisation, enculturation and the

developpement of personal identity" in Ingold, Tim (ed.) Companion

Encyclopedia of Anthropology: Humanity, Culture and Social Life,

London and New York: Routledge 831-860

Read K. E. 1955 "Morality and the concept of the person among the

Gahuku-Gama" Oceania 25(4),233-282

Rosaldo, Michelle Z. 1984 "Toward an anthropology of self and feeling"

in R. Sweder and R. Levine (eds.) Culture theory: Essays on mind, self

and emotion, Cambridge: Cambridge University Press, 137-157

Spiro, Melford E. 1993 "Is the western conception of the self peculiar

within the context of the world cultures?" Ethos 21, 107-153

Strathern, Andrew 1998 "Garder le corps a 1'esprit" in Godelier, Maurice

and Michel Panoff (eds.), La production du corps: Approches

anthropologiques et historiques, Amsteldam:Editions des Archives

Contemporaines 63-79

Strathern, Andrew and Pamela J. Stewart 1998a "The embodiment of

responsability: "Confession" and "compensation" in Mount Hagen,

Papua New Guinea" Pacific Studies 21(1-2),43-64

Strathern, Andrew and Pamela J. Stewart 1998b "Seeking personhood:

Anthropologicalaccounts and local concepts in Mount Hagen, Papua

New Guinea" Oceania 68,170-188

Strathern, M. 1987 "Introduction" in M. Strathern (ed.) Dealing with

inequality: Analysing gender relation in Melanesia and beyond.

Cambridge: Cambridge University Press 1-32

Wikan Unni 1987 "Public grace and private fears: gaity, offence, and

sorcery in Northern Bali" Ethos 15:337-365

N 4M

0 N

Concepts of Person and Self in Anthropological Work

NAKAGAWA Osamu

This paper examines the theories of personhood in anthropological writings . Especially, we focus on a pair of notions that are person and self. These two notions have given and continue to give a

framework necessary to make diverse ethnographical studies intelligible . We try to ferret out this discursive framework and to find out actual possibility of anthropological study of person and self.

The author submits three phases in the development of theory as a trial, to grasp clearly the points

at issue. (1) The "dual model" which opposes social person to psychological self vs. Michelle Rosaldo's critique which claims that this analytic framework is not universally applicable. (2) The interpretive

approach to personhood by Geertz and Rosaldo vs. the critique against it, which argues that they in

fact describe the normative cultural conception, not the experience of the self by natives . But this critique is revealed to re-introduce newly-fashioned "dual model". (3) The enterprises that try to seize

selfhood as a chronically unstable productivity and to analyze cultural processes in which the responsible agency is attributed. This critical approach remains to be experimental. However , it is

remarkable as an attempt to overcome both West-and-the-rest dichotomy and the essentialism of inner

self.

Key Words

person, self, experience, agency, antipersonalist approach

208


Recommended