+ All Categories
Home > Documents > Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF...

Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF...

Date post: 13-Jul-2020
Category:
Upload: others
View: 0 times
Download: 0 times
Share this document with a friend
20
Title 社会比較の有効性(4) Author(s) 組原, 洋 Citation 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF LAW & ECONOMICS(17): 85-103 Issue Date 2012-03-23 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/9622 Rights 沖縄大学法経学部
Transcript
Page 1: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

Title 社会比較の有効性(4)

Author(s) 組原, 洋

Citation 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNALOF LAW & ECONOMICS(17): 85-103

Issue Date 2012-03-23

URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/9622

Rights 沖縄大学法経学部

Page 2: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

【研究ノート】

社会比較の有効』性(4)

Effectivenesstocomparesocieties(4)

沖縄大学法経学部紀要第17号

組原洋*

HiroshiKUMIHARA

まえがき

本稿は、筆者が担当している比較法文明論で2011年度後期において取り上げた内容を中心にし

て再構成したものである。

周知のように、2011年3月11日の大地震は大きな影響を及ぼし続けてきている。ボランテイア

体験で指導していた学生が仙台に行っていた関係もあって、筆者は同年9月14日から16日まで仙

台と遠野の間をレンタカーで動いてみた。地震の後半年もたつのに、復旧なり復興なりがあまり

進んでいない状況をみて、ぼう然としてしまった。

その後、後期に入ってから、これも周知のように、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP:

Trans-PacificPartnership,またはTrans-PacificStrategicEconomicPartnershipAgreement)

への参加をめぐって、日本では賛否両論に分かれ激しく対立して、一時期はテレビもこの関係の

番組ばかりという様相となった。この問題では今後の日本の農業のあり方が特に問題とされたの

だが、沖縄大学地域研所で「食をめぐる地域ネットワーク形成」班に属して調べてきていたテー

マと重なった。国を二分するような意見の分裂に直面し、なぜこのように意見が分裂するのか、

それにどう対応すればよいのかについて考え続けてきた。

2011年度後半は、東北に行った直後、中国のチベットに鉄道を利用して行ったほか、8月と

2012年1月の2回台湾に行った。台湾には出来れば今後まとまった期間住んでみたいと筆者は思っ

ているため、あまり訪問目的を限定しないで、とにかく何度も通うようにしているが、人々が「今」

を生きているということ、そして、その結果状況が動いて変化していくということを強く感じさ

せられてきている。

本稿では、まず、台湾での経験をフィールドノート風に述べたあと、TPPについて筆者が感じ

たこと、すなわち、日本は明治維新の頃と同じようにいまだに受け身の形でしか状況をつくれな

いのではないか、ということについて、比較事例も検討しながら、特に法学的な側面から考察し

てみた結果について述べる。

そのような考察を経たうえで、最後に、今後進むべきグローバルの先のローカル、ないし、い

わゆるグローカルな方向‘性を提示したいと思う。

大きな問題なので、デッサン風にしか描けないであろうが、現時点で考えていることを可能な

範囲でまとめておきたい。

-85-

Page 3: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

社会比較の有効’性(4)

[1]台湾

2011年8月22日から28日まで台湾に滞在した。

直接の目的は高雄を中心とする台湾南部の土地の利用状況をざっとでいいから概観することと、

サトウキビを搾って飲料として販売する場合どのような品種が利用されているかを調べること

だった。

高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

球藩民の墓がある。明治維新直後の1871年、沖縄の住民69人がこの付近に漂着した(3人は溺死)が、

言葉が通じなかったため付近の原住民に54名が殺された。この事件が牡丹社事件で、維新政府は

中国の清王朝に責任を取るよう迫ったが、清王朝は台湾は化外の地であるとして責任を放棄した

ため西郷従道の台湾出兵を引き起こした。墓は日本統治終了後破壊されていたが、沖縄住民の子

孫などが1982年に再建した。ちょうど、沖縄が日本に組み入れられようとしていた時期の事件で

あり、沖縄の歴史研究上注目されてきているので、行ってみた(文献①参照)。

この恒春でサトウキビを搾った汁をペットボトルに入れて売っていた6その店でサトウキビ自

体も見たが、非常に丈の長い紫色のキビで、2メートル以上ある。飲んでみると、しつこくない

甘さで飲みやすかった。

また、高雄には台湾糖業博物館があるので、ここにも行った。日本統治期の製糖工場を戦後台

湾企業が引き継いだ跡地である。ここでの展示では、サトウキビは白甘蕨と紅甘蕨とに分けられ

ていて、筆者が恒春で見たサトウキビは「紅」の方である。「白」は現在沖縄でも見かける品種で、

台湾の沖縄県人会で活動している人からきいた話では、これは砂糖をつくるためのものだという

ことで、日本統治時代には食べることは禁止されていたという。

高雄の六合夜市でもサトウキビの汁は売っていたが、こちらは「白」で、飲んでみたら砂糖そ

のものを飲んでいる感じで、きつくて、これはたくさんは飲めないなと思った。

搾って飲み物として使うサトウキビの品種について「食をめぐる地域ネットワーク形成」班で

議論している関係で、その下調べの感じで行った。

その他、阿里山では樹木が保存されて公園になっているのを見た。また、台北では白いゴーヤ(ニ

ガウリ)が緑色のゴーヤと並べて普通に売られているのを見た。やはり台湾の沖縄県人会で活動

している人からきいた話では、緑色の方は沖縄から入ってきたのだということだった。

2012年1月13日から16日にかけてまた台湾に行った。この旅行は、「食をめぐる地域ネットワー

ク形成」班で一緒に活動している俊武志さんについていったようなものである。俊さんは台湾の

宜蘭生まれだというので、宜蘭に行くことにした。班で記録をやってもらっている伊波厚さんも

一緒に、3人で行った。

宜蘭は、2009年の年末に台湾を旅行をしたとき、台東から台北まで列車で通り過ぎる際にその

水田風景が目に焼きついて残って、いずれ行ってみたいと思っていた。水田といっても冬の間は

田んぼに水を張って休ませている。日本と違って水を抜かない。だから、湖の上に家がポツンポ

ツンと建っているみたいな感じの景観になる。

水は山の水だそうである。それが田んぼにまんべんなく行き渡るように、水利組合が管理して

いるようである。

-86-

Page 4: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

沖縄大学法経学部紀要第17号

出発した13日の翌日(土曜日)が台湾総統と立法院(国会)の選挙の日だった。

総統選挙は現職の国民党の馬英九氏と最大野党・民進党の察英文氏が伯仲していて、日本でも

注目されていた。選挙の争点は中国との関係をどうするかだった。馬氏は1期目のこの4年間に

中国との経済関係を強化した。そして、2011年10月に、中台の敵対状態を終わらせるべく平和協

定を結ぶことを検討すると表明した。しかし、台湾の世論は統一でも独立でもない現状維持を望

んでいて、反発を受けた。

13日の昼過ぎに沖縄から台北に着いて、台北駅で俊さんの知り合いの女‘性に会った。彼女に見

送られてバスに乗り、宜蘭に向かった。

台北からちょっと行くと長いトンネルに入り、ず-つとトンネルばかりと言っていいような状

態だった。トンネルを抜けると‘懐かしの水田風景が出てきた。1時間半ぐらいで着いた。鉄道だ

と海岸部をぐるっと回って行くので時間がかかるが、2006年にトンネルが全線開通してからはも

のすごく近くなった。

着いたところは宜蘭県の羅東鎮である。宜蘭県は台湾北東部に位置しているが、1市3鎮8郷

から成っている。鎮というのは田舎町のことであり、郷というのは日本で言えば郡部だろう。台

北駅で会った女性の親戚で、民宿を経営している李さんが迎えに来てくれた。李さんの車に乗って、

ちょっと行くと町をはずれ、水田の中を進むような感じになった。結構距離があった。途中、何

軒か民宿の看板をみた。やがて李さんの経営する民宿・伊彩園に着いた。場所は宜蘭県冬山郷富

農路である。

この民宿には2泊した。この間に観光農園を見学したかったのだが、あらかじめ許可が必要だ

そうで、今回はあきらめざるを得なかった。

台湾のテレビ番組は全部選挙一色で、みていたら、李登輝が民進党の秦氏の応援演説をしてい

るところが映った。李登輝はかつて国民党に属して、1996年~2000年に総統をやった人なので、ビッ

クリしてしまった。李登輝は現在、民進党と協力関係にある台湾団結連盟(台連)の指導者だそうで、

台連は台湾独立を唱えて2001年に結成された。

李登輝は昨年11月にガンの手術で入院し、その後も自宅療養中であったところ、このように察

氏の応援演説のために姿を見せ、「台湾の未来はあなたがたのものだ」と語ったのである。熱気が

伝わった

翌14日の投票日は晴れていた。起きたら李さんは投票に出かけたようでいなくて、われわれは

まず民宿の周辺を散歩した。やっぱり、水につかった水田の景観はすごく独特で、インパクトが

ある。こういう風景があれば観光客もやってくるだろうな、と思われた。

歩いていったら民宿のすぐ近くに珍珠社区産業体験館という施設があり、開館の準備をしてい

るところだったが、入っていくと女‘性がちやんと案内してくれた。

ここでは、主に稲ワラを使ってさまざまな工芸品を作っていた。また、仮面なども飾られていて、

自分で作品を作れるようになっていた。日本でもよく見られる感じのものである。案内してくれ

た女性は民宿の李さんと親戚だそうだった。

また、その斜め向かいが道教寺院だった。道教寺院がコミュニティの人々が集まる結節点になっ

ていることはしばしば指摘されている(文献②参照)。

朝食の後、李さんの車で李さんも一緒に、まず蘭陽博物館に行った。車は筆者が運転した。台

-87-

Page 5: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

社会比較の有効‘性(4)

湾では国際免許証は使えず、中国語翻訳文を免許証原本とともに携帯するという形で運転するこ

とが出来る。この翻訳文を2008年にJAFの沖縄支部で作成してあった。

蘭陽博物館は宜蘭県の頭城鎮にあり、宜蘭県の北の海岸沿いになる。だから、民宿からは結構

距離があって、高速に乗ってから30分ぐらいは走った。

最高速度は、一般の道が60キロ、ちょっと大きい道になると70キロが多い。高速道路は90キロ

だった。筆者は日本でもかなりスピードを出す方で、台湾でもしばしば最高速度をオーバーしたが、

そのたびに李さんは手真似で、最高速度を超えないようにと注意してきた。たぶん、取締がある

のだろう。どの車もだいたい制限速度内で走っていた。しかし、ちょっともたもたしているとす

ぐに追い越されてしまう。みんなせっかちのようである。また、バイクが多いので注意が必要で

ある。

蘭陽博物館は建物の形が非常にかわっていて、普通の建物を斜めに倒してその上の角を切り取っ

たような形である。博物館でもらった説明書には、「大地と共生する建築」とあり、この付近の海

岸一帯にみられる「ケスタ」と呼ばれる波状の地形をモチーフに、巨大な石の組み合わさった建

築物を設計し、大地との融合を実現しているのだという。

長いエスカレーターで最上階の4階まで行って、そこから下におりていく。テーマは順に、「序

章」、「山のフロア」、「平野のフロア」、「海のフロア」、そして「時のトンネル」である。

序章では、雨のライトで、細かな雨が綿々と降る宜蘭を表している。やっぱり水がメインの場

所なのである。そして、山、平野、海とそろっているので、多様な生態系を内包している。実際、

展示の最初の方に生物多様性の説明がある。

興味を持っていた宜薗県礁渓郷二龍村のハーリーは200年あまりの歴史があるそうだ。

時のトンネルというのは、歴史の流れを示している。その中のかなりの部分が日本統治時代で

ある。日本人が宜蘭に入植したのは1895年だったことが分かる。第2次大戦末期の1945年4月20

日に宜蘭でも空爆(AirRaid)があった。

それから、普通の道を走って、南の方向に戻っていって、民宿からそんなに離れていない国立

伝統芸術センターに行った。このセンターは日本の明治村を模倣し、各地の伝統的な建物を移築

したものである。だいたい見終わってから、モーターボートに乗った。このセンターは冬山河沿

いにあって、大きな橋が架かっているところまで行って、また戻ってきた。堤の上はサイクリン

グ用の道路になっている。

この後、羅東の食堂で食べた。テレビでは開票状況の速報が始まっていて、馬氏がかなり勝っ

ていた。民宿に戻ってからも速報を見続けていたが、馬氏と察氏との順番が変わることはなく、

そのまま馬氏の当選が確実になった。

各地の得票数をみると、察氏が勝ったのは高雄など南部の一部地域のほかは何とこの宜薗だけ

なのである。宜蘭県は、中華民国政府による開発が遅れたため反国民党感‘情が強く、台湾語が根

強く使われている。また、かつての党外の中心人物、現在の民進党の幹部になる人材を多く輩出

している。

また、沖縄に戻ってから読んだ朝日新聞記事(文献③)によれば立法院選挙では小政党も議

席を獲得した。立法院の議席構成は、国民党64、民進党40のほか、親民党と台連がそれぞれ3議

席獲得した。親民党は、2000年に国民党から分裂してつくられ、反独立の立場である。台連は2008

-88-

Page 6: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

沖縄大学法経学部紀要第17号

年の選挙で議席を失ったが、今回回復できたのは、先に述べたように李登輝が応援演説して支持

者の気持ちをつかんだからだと言われる。総統選挙では察氏に投票しても立法院の比例代表では

台連に投票する有権者が増え、民進党はその分、割を食った。

同日の朝日新聞は、これと並んで、中国でネット市民が総統選に夢中になったことも報じている。

興味は結果よりも選挙の熱気そのものに向かい、統一か独立かといった原則論は影が薄かったと

いう(文献④)。日本でも、こういう燃え上がるような選挙が出来るかどうか疑わしい。

李さんも察氏に投票したそうだが、見たところ冷静のようだった。羅東の食堂での雰囲気も選

挙でどうこうということはなかった。それより、週末のためもあってか、家族連れがたくさん来

てにぎやかに食べていることにビックリした。

総統選挙結果が決まってからは、李さんの鼓弓の演奏を聴いた。弦は本来は馬のしっぽだそうだ。

李さんは、先生を呼ぶといって、実際ちょっとしたら李さんに教えている先生がやってきてしば

らく演奏してくれた。

15日も、朝起きてから水田の中の小道を散歩した。朝食後出発して、宜蘭市内に入り、あちこ

ちまわった。宜蘭大学にも行ったのだが、日曜日で人がいなかった。

宜薗市のバスターミナルに行くと、ほぼ5分単位ぐらいに台北行きのバスが出ていた。羅東で

はなく宜蘭市からだと1時間足らずで台北に着いた。値段も片道120元ぐらい(1元が約3円)な

ので、台北は完全に日帰り圏に入ってしまっている。宜蘭で配布されていた立法院選挙の国民党

サイドの宣伝用冊子には、道路だけでなく、鉄道の新線敷設計画も政策として挙げられていた。

台北に着いてから、俊さんの知り合いの台湾人で94歳になる人を訪ねた。その人の奥さんは88

歳である。

2人とも流暢に日本語を話し、着いたときはNHKで大相撲をみていたし、その後、日本の歌

謡番組を収録したビデオもみせられた。本棚には、平野久美子「トオサンの桜散りゆく台湾の中

の日本」(文献⑤)という本も置いてあった。

日本に帰ってから、この本を買って読んだ。

トオサンというのは日本語の「父さん」の発音に漢字の「多桑」を当てはめた台湾語だそうだ。

この題の映画が1994年に制作されたそうで、英語のタイトルは「ABorrowedLifel(かりそめの

人生)というのだそうである。

映画の主人公のトオサンは炭鉱労働者だが、戦後国民党政権の教育を受けた息子には、日本び

いきのトオサンは「漢好」(売国奴)にしか見えない。孫は北京語しか話せない。そんなトオサン

のたった1つの望みは、いつの日か心の母国日本へ行き、富士山と皇居を拝むことだったのだが、

肺病が悪化して入院せざるを得なくなり、長患いで家族に迷惑をかけまいと、トオサンはある日

病室から飛び降りる。

サクラはアジアの至る所で花を咲かせるが、江戸時代の国学者はサクラを日本固有の花と考え

るようになって、時代が下がると大和魂のシンボルとなり、日本の国花として、武士道の象徴と

して、海外にも知られるようになった。

台湾ではカンヒザクラ(寒緋桜。タイワンヤマザクラ)が自生し、旧正月のころ、紅い花が満

開になる。それと前後して、深い山間には、日本のヒガンザクラ(彼岸桜)に似たムシヤザクラ(霧

社桜)が自生し白い花を咲かせる。台湾を植民地化した日本は、官民一体となって盛んにサクラ

-89-

Page 7: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

社会比較の有効‘性(4)

を植樹した。大正末期には阿里山へのお花見ツアーが人気を博していたという。

日本の敗戦後、台湾でも朝鮮半島でもサクラは次々に切り倒された。そして、中華民国の国花

とされるウメの植樹が優先された。

しかし、トオサンたちはサクラを忘れなかった、ということで、この本は、浦里から霧社まで

の浦霧公路を桜並木にしたトオサン(王海清さん)の話から始まり、終わっている。

日本が台湾の人々に与えた基礎教育の底力、影響力をまざまざと見せつけられるのだが、しか

しそれは台湾の人々が日本統治時代を全面的に肯定しているということではない。日本にかわっ

て1945年10月に台湾を接収した蒋介石の国民党政権のやり方があまりにも無法、非道であったた

め、戦前の日本統治が「まだ、まし」に見えただけだ、ということである。

実際、筆者なども、80年代前半までは、台湾に対しては何をされるか分からない‘怖いイメージ

を持っていた。大変な反共政権が恐怖政治を行っていると思っていたのである。そして、この本

には、その「大変な時代」を生きてきたトオサンたちの具体的な証言が載せられている。緑島監

獄のことはこの本で初めて知った。この本はトオサンたちの‘懐メロみたいな話の本だろうと思っ

ていたので、非常に意外だった。

1984~1985年頃から各国の人権団体が台湾の状況に目を向けるようになり、台湾国内でも民主

化要求が盛んになっていった結果、最後の思想犯が出所したのは1990年になってからである。し

かし、犠牲者1万人以上といわれる白色テロはいまだに解明されていない。

そして、省籍を乗り越えて、台湾人と中国人が融合していく中でもなお両者の間には根本的な

違いがある、という意識が、2000年以降の台湾政治の底流に流れている。

トオサン世代は、何しろ日本語が通じるので、筆者にとっては有り難い存在である。しかし、

これらの人々は今や絶滅して行きつつあるだけでなく、台湾近・現代史を経験してきた人たちだ

から、様々な思いが詰まった見えにくい人たちでもある。

この日の夕食は、老夫婦と息子たちと一緒に食べたのだが、長男さんが国立政治大学で土地経

済学を学んだということなので、「平均地権」と書いて、知っているかきいてみた。漢字で書いた

から、一般的な意味としては分かったようだが、どうだろうか。

ちょっと古い本だが、川瀬光義「台湾の土地政策平均地権の研究」(文献⑥)という本を筆者

は持っている。

平均地権とは、土地投機をなくし、土地の合理的な利用を促進することを目的として、土地を

活用することが必要な人に土地を取得して利用する機会を保証する政策で、簡単に言うと、公共

施設などの整備により周辺地域の利便‘性が高まった結果土地価格が上昇した分(いわゆる開発利

益)は公共のために還元させて、土地所有者個人の利得として保持させない政策である。

孫文は、ヨーロッパ滞在の経験などから、中国の近代化を進める上で土地改革の必要性を痛感し、

平均地権思想を発展させていった。彼は、民族主義・民権主義・民生主義という3本柱からなる

三民主義を唱えたが、その中で、民生主義というのは、経済的な不平等を改善し国家主導で近代

化と社会福祉を充実させることであり、平均地権と重要産業の国有化とが主要な政策であると考

えられていた。この民生主義は社会主義、共産主義でもあるように見えるが、彼は土地の私有は

否定しなかった。

孫文の考えでは、国づくりにおいてまず地方自治が優先されており、県を自治単位とした地方

-90-

1

Page 8: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

沖縄大学法経学部紀要第17号

自治確立に必要な事項の1つとされたのが平均地権であった。まず私有地の地価を定め、地方政

府はその地価に基づいて徴税し、随時地価に基づいて買収でき、政治による改良や社会進歩によっ

て地価が上昇した場合その利益は全県民の共有となるとしたのである。

現実に平均地権政策が実施されたのは第2次大戦後の都市化が進む台湾においてであった。台

湾は、当初は農地改革が成功し、農業生産力と農村工業とが発展したことから、発展途上国の中

では比較的都市化の進展が抑制されてきたと言われるが、次第に台北を中心とした北部地域への

集中が進んできた。これに伴い農業用地の遊休化も進み、日本と同様、都市計画の用途区分の空

洞化が発生している。台北市での住宅価格も大幅に上昇した結果、勤労者の住宅取得は著しく困

難となった。これに対する住宅政策は十分ではなかった。

このように、平均地権政策は都市化との格闘の歴史であった。しかし、必ずしも孫文が考えた

とおりの内容ではなかったものの、一貫して平均地権の考えに沿った政策が実施されてきた。そ

して、このような政策実施の人材を養成するために大学に地政学部、地政研究所(大学院)が設

けられ、土地についての総合的な教育を受けた人材の養成が図られている。地政学部は国立政治

大学と中興大学とに設けられている。

「トオサンの桜」から受けた国民党のイメージとちょっとちぐはぐなのだが、蒋介石のあとを継

いだ蒋経国は、共産主義者になるべくソ連のモスクワ中山大学に留学し、1927年に卒業した人で

ある。

台湾から帰国した後に読んだ小川仁志「日本を再生!ご近所の公共哲学」(文献⑦)という本

の「第1章公共哲学の時代一公と私は対立するものなのか?」に、小川氏が公共哲学というも

のに目覚めたのは勤務していた伊藤忠派遣の留学生として1990年代中頃に台湾に滞在した時の経

験によると書かれている。

台湾では当時、それまで国民党に虐げられていた野党民進党の陳水扇が台北市長に当選しそう

だということで、国を二分した運動が展開されていた。そして、1994年、陳水扇は当選した。バ

ブル時代に青春を過ごしてそれまで自分のことしか考えていなかった小川氏は、必死になってやっ

ている台湾の選挙戦を目の当たりにして、「社会のために生きる」という目的を見つけたのだという。

[2]TPPをめぐって

TPP加入の是非をめぐっては、2010年10月に当時の菅直人首相が参加の検討を指示して以来た

くさんの本が出版された。

たとえば「TPP反対の大義」というブックレット(文献⑧)の目次をみてみると、筆頭に置か

れているのが宇沢弘文氏の「TPPは社会的共通資本を破壊する」と題する意見であり、並んでい

る執筆者の名前をざっとみた感じでは、ローカルな地域のつながりを大切にしようという方向の

考えの人が多い。

TPP推進の立場がグローバル化に向かい、新自由主義と親和的な考え方とつながるとして、

TPP反対の立場というのはどのような考え方なのであろうか。これは反「自由」の立場なのか。

具体的にはどういう理念にもとづくものなのだろうか。

例えば「平等」なのか、どうか。

歴史的には、確かに「自由」と「平等」とが対立関係においてとらえられることは少なくなかっ

-91-

Page 9: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

社会比較の有効‘性(4)

た。西欧の中でも英国などはまず自由度が高まり遅れて平等を達成した社会とされている。冷戦

期の対立も自由と平等の対立というふうに把握できよう。しかし、現在では、どちらか一方とい

う選択はもはや成り立たない。

だから、対立しているのは、自由とか平等とかの人間にとっての価値ではなく、人間が生きて

いけるための「自然」を残すべきかどうか、ということについての対立と考えた方が理解しやすい。

ローカルな場にあるのは「自然」であり、「自然」は均一ではない、という風に考えると、反「自

由」の内容は個別性」ではないかとも考えられる。

自然が残されているようなローカルな場がなくなってしまってもいいのか、と直接尋ねられれ

ば、なくなってもいいとは誰も言わないだろう。しかし、現実には、そのようなローカルな場は

どんどんなくなっていっている。

TPPについて学生に説明するために講義で使った本は、中村靖彦「日本の食糧が危ない」(文献

⑨)である。直接には、この本の「第八章貿易の自由化と食料安保は両立するか?」に、TPP

とはどのようなものであるかについての説明と著者の立場が述べられている。

最初に断っておくと、この本の題名に「食糧」という言葉が使われているが、例えば第八章は「食

料」となっているし、読んだ限りでは「食糧」と「食料」の区別が判然としない。広辞苑で見てみると、

食糧とは主食のことで、つまり、穀物のことではないかと思われる。特にそういう意味でない限

りは「食料」で統一したい。

まず、TPPと並んで、RTA、FTA,EPAといった言葉が目くらましみたいにしばしば出てくる。

ガット・WTO体制下で、一定の条件の下に地域貿易協定(RTA)が認められているが、これによっ

て特定国間だけでの自由化取り決めをする勢力が拡大してきた。RTAの内容はいくつかに分類さ

れるが、ほとんどは自由貿易協定(FTA)である(文献⑩)。

経済連携協定(EPA)というのはFTAの要素に加えて、例えば人の移動や投資、政府調達、2

国間協力等を含めて締結される包括的な協定である。そして、TPPはこのEPAに分類される。

この定義からも分かるように、TPPは農業に限らない協定であるので、農業対TPPという把

握では全体を見誤る結果になりかねない。

TPPの原加盟国はシンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイで、その後、米国とオー

ストラリアが参加することによってその重要度は一気に高まった。

本来はWTO協議で全体的に決められるべき貿易ルールが、その協議が鯵着状態になり、2011

末には合意形成は当分出来ないという状況がハッキリした。その分、RTAが盛んになってきたの

である。

1993年のガット・ウルグアイ・ラウンドの時、コメをどうするかで大騒動になった。日本はコ

メの特別扱いを認められたかわり、義務的な輸入が課せられた(ミニマム・アクセス米)。

今回もTPP参加推進論と反対論のたたき合いが演じられたが、中村氏は、どちら側の主張も一

方的すぎると言われる。筆者も同感である。

推進論の中で、民主党の前原誠司氏が、日本の農業産出額はGDPの1.5%しかない云々と発言

して問題となったが、先進国ならこの比率が低いのはあたりまえで、米国1.1%、英国とドイツ0.9%

等となっている。日本の工業製品などの競争力が他国を圧倒できるかどうかも疑わしい面がある。

-92-

Page 10: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

沖縄大学法経学部紀要第17号

推進論の試算も根拠がよく分からないし、役所によって数字が異なる。

反対論の主張もよく分からない。カロリーベースの自給率が40%から14%にまで低下するとい

う根拠もハッキリしないし、例えばコメが新潟産コシヒカリ、有機米などのこだわり米をのぞき

全部輸入になるというのは現実的に考えにくい。

中村氏は、ウルグアイ・ラウンド交渉時にはコメの関税化に賛成であったが、今回のTPP加入

問題については迷っていて、どちらかと言えばTPP参加をためらう気持ちが強いと言われる。

理由は2つあって、第1に、ウルグアイ・ラウンドの時は全ガット加盟国間の交渉だったが、

TPPは9カ国で、日本は米国、オーストラリアに振り回されてしまうのではないか、との危‘倶か

らである。そして、今後大切なのはアジアだが、日本の進むべき方向がTPPと一致するかどうか

についても疑問がある。第2に、あまりに農業が悪であるかのような空気が充満していて、協定

の全体が見えてこない点が不安であり、様子をみてからで遅くあるまい、と。そして、日本は今

どんな国を目指すべきなのか、ということが大切であると言われる。

というわけで、中村氏は具体的な協議に入ることには消極の意見であった(現実には協議が始

まっている)が、具体的な協議に入る前の条件として、中村氏が提案されているのは、第1に、

2国間のFTAとかEPAに本格的に取り組むべきことである。2国間なら双方の貿易上の弱点は

話し合いによってある程度は容認でき、例えば米韓では牛肉については結局触れずにFTA交渉で

合意に達した。第2に、食料安保との関係では、何でもかんでも守るという姿勢ではいけないと

いうことで、選挙の票のために守らなくてよい階層を守ってきたことは払拭すべきであると言わ

れる。だからといって、過疎の地域を食料安保とは関係ないから目にかけなくていいというので

はなく、この地域には農業の多面的機能とか別の視点からの対応をすればよいと言われる。第3

に、これは第2の提案とダブっているが、コメは貿易上の特例であるという主張をそろそろ修正

すべきだということである。消費はいくら拡大の音頭をとっても増えない、にもかかわらず国際

交渉でもコメが特別扱いになっているのはひとえに国内事‘情による。それだけ大事にしていなが

ら、野菜などと比べて稲作における後継者が少ないのは、手厚い保護のおかげで足腰が弱くなり、

経営感覚がなくなってしまったからではないか、と。

以上のように中村氏の意見をまとめてみると、現時点で考えてもしごくまつとうな意見である

と筆者には思われる。

しかし、同時に痛感させられるのは、中村氏がこの本を出版された2011年5月時点から考えて

も随分状況の変化があったということである。特に国際的な状況は大きく変わってきて、ユーロ

の危機は現在まで続いているし、中東の政情も動き続けてきている。農業との関連で考えても、

従来EUは日本のお手本になり得るかのように見えていたのだが、どうであろうか。

このように、どんどん変化していく状況の中で、日本は、国レベルでは方向をまとめきれない

状況が続いている。政治的にも、例えば民主党と自民党との違いがハッキリしなくなってきて、

何を目指しているのかがハッキリしなくなっている。

国レベルでの態度決定が出来ないでいるということは、ある意味でグローバル化の帰結とも言

えるので、世界的に共通の動向と言える側面もないではない。グローバル化によって国家が制御

できる部分が減って国家は無力化していき、「主権国家の黄昏」論が唱えられるに至っている(文

献⑪第4回「主権国家はどうなるの?」)。

-93-

Page 11: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

社会比較の有効‘性(4)

その無力さは環境など全地球的な問題でとりわけ顕著であるが、例えば日本の農業について考

えてみると、そもそもカロリーベースで自給率が40%しかなくて、大量の農産物を現に輸入して

いるわけであるから「平成の開国」などという言い方は大げさすぎる。

震災が起こってみたら、日本の農業がいかに外国人研修生という形の労働者に頼ってきたかも

明らかになった。高齢化の進んだ日本の農村では、重い野菜を収穫して運ぶといった仕事をする

日本人はいなくなってしまったのである。今は中国内陸の農村地帯はまだまだ貧しいが、やがて

格差是正が進んで日本への研修労働がさほど魅力がなくなればどうであろうか。

激安のコンビニ弁当も中国からの輸入品なしには成り立たない。

しかし、日本の場合は、特に農業に関しては、日本特有の事情によって国レベルでの態度決定

が妨げられているという側面が大きいと考えられる。

特に、戦後の農地改革は非常に大きな影響を及ぼしている。

戦前の日本は、数が限られた地主と多くの小作人による農業が支配的であった。戦後、ただみ

たいな額で地主の土地は取り上げられ、小作人に分配された。解放された農地は150万へクタール

に達した。農地は、当初は食料生産のために使われたが、高度成長期に入ってから以降、農村住

民は労働力として都市に吸い寄せられた。

農林省は、農地の貸し借りが増えて農地の規模が拡大化するであろうことを期待した。ところが、

農地の価格も上がったので、農地は財産になって、売ることも、貸し借りも期待したようには進

まなかった。

行政も農業のための農地を大事にしていたとは言えない。公共事業のための農地転用を無条件

で認めることにして、高速道路、新幹線、学校建設など用地転用はフリーパスで認められること

となった。1970年にコメの減反が始まったとき、その調整金を支払うための資金捻出のため、国

道に沿った100mの範囲ならば自由に利用できるように改められた。当時の農林大臣は倉石忠雄、

自民党幹事長は田中角栄であった。このように、食料自給率の向上という考え方とは正反対の政

策を行政や政治家は強引に進めていき、かくして農地は減っていった。

農地改革後600万ヘクタールあった日本の農地は、2000年に500万へクタールを切り、2008年には

462.8万へクタールになった。この中に耕作放棄地が38万へクタール含まれている。耕作放棄地は、

条件が悪くしかも高齢化の進んだところだけでなく、比較的便利な場所でも、相続人が放置する

ことで発生して増えていった。

1997年4月に内閣府に総理大臣の諮問機関である「食料・農業・農村基本問題調査会」が設け

られた。1961年に農業基本法が制定されてから40年近く経って、内外の情勢や農業を取り巻く環

境が大きく変わっているので新たな農業基本法を作るべきだとの声が高まり、その検討の場とし

て調査会は設置された。すでにバブルがはじけた後で、土地価格は下がり始めていたが、農地を

守ることの大切さを農業者や農業団体は唱えながら、一方では、地権者たちは機会があればその

土地を金に換えることを常に頭に入れていた。

2009年に農地法改正が可決された。改正のポイントは、「所有から利用へ」で、大切なのは所有

より利用であることが法律でうたわれたのである。

その結果、農地を借りることができる法人の幅が広がり、株式会社も借りることは普通にでき

るようになった。公共事業のための転用には知事の許可が必要となった。遊休農地の所有者に対

-94-

Page 12: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

沖縄大学法経学部紀要第17号

して、農業委員会が調査に基づいて指導、勧告できるようになった。・農地を相続したら届け出が

必要になって、耕作放棄地になることに歯止めをかけようとした。

このような流れの中で、中村氏の、農地の所有権の公有化ではなく、利用権の公有化をしたら

どうか、という提案が出てくる。

公有化というとほとんどの人は国有化を頭に描く。それがどういう結果になったかは旧ソ連の

歴史をみても明らかだし、私有財産制度を保障する日本国憲法とも両立しない。

中村氏が提案されるのは利用権の公有である。農地委員会を母体にした組織を作って農地全体

を管理してもらい、相続はしたが農業をするつもりがなく、耕作放棄地になっているような農地は、

利用権は公有なのだから、市町村でも、農協でも工夫してつくればいい、と言われる。このよう

な説明で方向性は理解できるが、具体的な制度の形が今ひとつハッキリ把握できない。

司馬遼太郎は、1976年に「土地と日本人」という対談集を出した(文献⑫)。彼は早くから土地

を公有化しなければ日本はどうにもならなくなる、という主張をしていた。

司馬氏の主張は、農地に限らず、土地一般についての話であるが、彼の場合もやはり国有化を

イメージしてはいなかったらしい。土地が金儲けの手段としてしかとらえられていない状態になっ

てしまって、農地改革の遺産である農業の民主化という光の部分はあせてしまい、今や闇の部分

が前面に出てくるようになった。個人個人が私欲でふくらんで、気持ちもバラバラになった。

だから、開発利益を土地所有者個人に保持させない平均地権の考え方には非常に興味を感じた

が、政策として成功したとは言い難いようである。

2008年を基準にカロリーベースの自給率を41%から50%に引きあげようという農水省の努力目

標が2010年3月30日の閣議で決定された。

これに対して野口悠紀雄氏は「自給率は低ければ低いほどいい」と主張されている(文献⑬等

参照)。

同氏はまず、自給率の計算方法に問題があるということで、カロリーベースという計算方法は

食料自給率を低く見せるための意図的なものだと指摘される。食料自給率の計算方法は、カロリー

ベースのほかに金額ベース、量ベースと3種類ある。カロリーベースが使われる理由の大きな理

由は、畜産物の自給率の計算の際に、餌までさかのぼって計算するからである。例えば卵はほと

んどが国内の養鶏場で生産されるから量ベースでは96%の自給率になるが、餌は90%以上海外か

らの輸入である。その結果、カロリーベースでの卵の自給率は9%に過ぎなくなる。台湾の食料

自給率も、カロリーベースで計算すれば日本より低いのだそうである。ところが、列車やバスか

ら見える農村風景は立派なもので、これでなぜ自給率が日本より低いのかピンと来なかった。植

えられているものが多くは野菜であるためだろう。野菜はカロリーが低いのに不可欠である。日

本でも、量ベースだと、野菜の自給率は量ベースでは野菜の自給率は80%になる。金額ベースで

計算すれば、日本の食料自給率は70%ぐらいになるという。

その上で、食料の輸入が出来なくなることはないとして、分散投資が安全だ言われるのだが、

これは直ちにはうなずけない。

例えば2008年春以降の食料不安に際して多くの生産国は相次いでコメなどの輸出禁止に踏み

切った。フィリピンなどの消費国がパニックになった。2010年にロシアは小麦の輸出を止めた。

-95-

Page 13: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

社会比較の有効‘性(4)

海外からの需要が多く、国内消費者のニーズに応えられなくなるからとの決断であったという。

外貨の獲得を犠牲にしても国内事』情を優先したのである。たぶん今後も同じようなことは起こる

であろう。

中国は2010年にGDPが日本を追い越して世界第2位になった。1人あたりにすれば日本の10分

の1程度であるが、着実に伸びていっている。中国は、1970年から2005年までの間に1人あたり

所得が10倍になった。当然食料需要に変化が起こり、肉類や油脂の摂取が急増した。食用油を搾

るための大豆の輸入量は今や世界一である。穀物需要も2倍以上に増え、大豆で起こったことが

近い将来トウモロコシでも起こるのではないかと中村氏は言われる。

これに対して、川島博之氏は、「農民国家中国の限界」(文献⑭)において、レスターーブラ

ウンの「中国爆食論」は間違っていたと言われるが、やっぱり、都市と農村の格差を縮小できな

いと農業をしたいという人たちは減っていく。経済成長率が10%近くの状況ではどうしても農業

はおろそかになり、より金になる仕事を求めて農村の労働力は都市へと吸い寄せられていく。歯

止めになっていた戸籍制度もだんだん規制が緩和されてきている。このようにして、穀物の作付

け面積で見ても1978年に.合計1億2000万へクタール以上あったのが、近年は1億へクタールちょっ

とに減ってきている。

これに加えて、中国の環境問題、特に水の汚染が深刻になっていることはよく知られている。

その理由として、窒素肥料の大量使用が挙げられるほか、黄河流域の降水量が少ないことも影響

している。そのため、「南水北調」という巨大プロジェクトが進められている。南の長江の水を

運河を使って北へ流そうというもので、3本のルートのうち東側のルートはすでに完成している。

これに気候の影響とか考えれば中国からの輸入は将来必ずしも順調にいかないと考えるのが現

実的であろう。

そして、食料の需要が急増しそうな国は中国だけではないし、世界全体の人口増加は相変わら

ずである。

世界的には、いろいろな国の農地取得競争が激しさを増していて、表面的には私企業でも、裏

にいるのは国家である。特にアフリカが目立って狙われている。

食料自給率が低い国では備蓄量が頼りになるはずであるが、最近の日本の政府備蓄量は信じら

れないぐらいに少ない。コメ1.4ケ月分、食料用小麦1.8ケ月分、食品用大豆約2週間分、飼料用

穀物約1ヶ月分。もちろん流通在庫は民間倉庫にあるからこれだけが非常時の備えではないが、

ビックリするに足る少なさではないだろうか。

このように考えてくると、食料問題は国の安全保障問題的な‘性格が非常に強くなってくる。

中村氏の本の最後に、スイスの山の斜面で牛を放牧している人からきいた話が載っている。

「農業はね、決して儲かる仕事じゃないんだよ。だけど生き甲斐なんだ」

永世中立国スイスでは農業者の存在は国境線の警備に当たる意味もある。

スイスは食料安保の点から見てきわめて先進的である。国、産地、流通、家庭それぞれの段階

に応じて備蓄を義務づけている。

日本では戦後生まれ人口が78%を超え、飢えを知らない人たちがグルメを味わっている。山下

惣一氏が中村氏に次のように話したそうだ。山下氏を見て、きれいな身なりのお母さんが、

「ボクね、一生懸命勉強しないと、大きくなったらあの人みたいになるんだよ」

-96-

Page 14: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

沖縄大学法経学部紀要第17号

どうしてこうも差が出るのだろうか。国の成り立ちが違うのではないだろうか。

糊窪能生「「株式会社の農業参入」をどう評価すべきか一農地制度の視角から一」(文献⑮)に

日本との比較でスイスの農政と農民土地法について述べられている。

スイスは平地が少なく、ヨーロッパ諸国の中でも狭小な農業構造を形成し、食料自給率もそん

なに高くない、といった点で日本と共通するところがある。

スイス連邦憲法は農業条項を持っている(104条)。条文は、美根慶樹「スイス歴史が生んだ

異色の憲法」(文献⑯)に収録されているものを参照した。

同条第1項は、全住民に対して確実な食料供給を行うこと、天然資源を保全し郷土の景観を維

持すること、国土全体に特定の場所に集中しない状態で人が居住することをもって連邦の農業政

策の目的としている。

同条第2項では、・農民による土地開拓を奨励し、連邦は農民の自助を補完し、やむを得ない場

合は経済自由の原則から離れることも許されている。

同条第3項は、農業が多くの機能を発揮するために連邦はさまざまな措置をとるものとし、権

限や課題を列挙しているが、その筆頭のa号で、「連邦は、環境保護の原則にかなうのであれば

労働にふさわしい報酬を農民に得させるために、直接的支払いにより、農民の収入を補完する」

とされ、これがいわゆる直接支払による農家の所得補填である。また、f号で「連邦は、農民の

土地所有を安定化させるための規則を制定することができる」とあり、この権限に従って連邦は

1991年に農民土地法を制定した。

直接支払というのは、一定の条件にかなった農業をやると、生産物に対してでなく、農業をや

るということ自体を理由にもらえるお金である。

スイスの場合、アルプス地方を中心に山が存在し、農業には条件が不利である。そこで、この

直接支払によって生産コストを補填し、農業生産を支え、農民に規模拡大のインセンティブを与

えるわけである。その結果、スイスには耕作放棄地は存在しない。

スイスでは法人は直接支払いの受給権から排除され(直接支払令2条第2項)、かつ、農民土地

法によって土地所有権の取得からも排除されている。憲法104条第1項の課題は法人企業ではない

農民的経営によってこそよく遂行されうると考えられている。

連邦憲法のレベルでこのような農業条項を規定できたことに筆者は大きな驚きを感じた。この

ような農業条項が出来た背景には、日本の都道府県に相当するカントン(「州」と訳されることも

「邦」と訳されることもある)の連合体として国が形成され、連邦憲法3条でもカントンに主権が

あるとされていることが挙げられよう。九州よりちょっと大きいぐらいの国に26のカントンがあ

り、それぞれの憲法を持っている。

[3]持続可能な地域づくりと法一デッサン風に-

2012年1月19日に、自治体学入門で、「地方自治制度の比較」という題で講義した。この時、ス

イスの農業と並んで、ブラジルのクリチバ市のまちづくりについても紹介した(文献⑰参照)。

最近クリチバ市は人口がふくれあがってきて、大都市化が進み、広域化が進んでいて、ゲイテイッ

ド・コミュニテイが郊外自治体でつくられ始めているが、これも見方によっては最初の都市計画

が成功した結果起こっていることである。

-97-

Page 15: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

社会比較の有効性(4)

クリチバ市のまちづくりの一番のポイントは強制ではない自発的な市民参加を実現できたこと

である。クリチバ市もブラジルの町だから貧しい人たちはいて、そして、5年間撤去命令がなく

住み続ければ土地を所有できることになっていることから、一旦不法占拠されてしまうとあとが

大変である。どうしてもファベーラができてしまう。クリチバ市は、そういった人たちも排除し

ないで市民として取り込んでいった。そして、人間を中心に位置づけた発想を原点に、バスを中

心とする公共交通政策や、環境政策、福祉政策などを展開していった。

市民の自発的な参加を実現できるようになるまでには一定の時間がかかるわけで、都市計画の

立案と実現の中心となったジヤイメ・レルネル氏がまとまった期間市長として市政を担当して、

政策をぶれないで実施できたことも大きい。

スイスとクリチバという2つの事例を並べてみたとき、持続可能な地域づくりという形でまと

められることに気がついた。

持続可能な地域づくりということでは、日本でも、例えば、総務省の定住自立圏構想などはそ

ういう方向を目指した政策であろう。

総務省のHPによってこの構想を見てみよう(文献⑱)。

我が国は、今後、特に地方においては、大幅な人口減少と急速な少子化・高齢化が見込まれて

いるので、そのような状況を踏まえ、地方圏において安心して暮らせる地域を各地に形成し、地

方圏から3大都市圏への人口流出を食い止めるとともに、3大都市圏の住民にもそれぞれのライ

フステージやライフスタイルに応じた居住の選択肢を提供し、地方圏への人の流れを創出するこ

とが求められるとしている。

そして、市町村の主体的取組として、「中心市」の都市機能と「周辺市町村」の農林水産業、自

然環境、歴史、文化など、それぞれの魅力を活用して、NP○や企業といった民間の担い手を含め、

相互に役割分担し、連携・協力することにより、地域住民のいのちと暮らしを守るため圏域全体

で必要な生活機能を確保し、地方圏への人口定住を促進する政策ということである。

これは、広井良典氏が「創造的福祉社会」(文献⑲)で提唱されている、一極集中でも多極分散

でもない、「多極集中」に近い内容かもしれない。

いずれにしても、都会と田舎とで格差があることを前提にして、田舎を何とか維持していける

ようにしないといけないという問題意識では共通している。

この問題を法的な視点から見たらどうなるのだろうかと考えて、すぐに思い浮かんだのは、1

票の格差をめぐる訴訟である。

日本では憲法14条の法の下の平等に反するとして各地で1票の格差をめぐる訴訟が提起されて

いる。

これまでの最高裁判所の判例をみると、衆議院の場合で約2倍以上、参議院の場合では約6倍

以上の差が生じた場合には、違憲ないしは違憲状態との判決が出されている。投票価値の不平等

が一般的に合理性を欠く状態が違憲状態であり、これが合理的な期間内に是正されない場合に違

憲とされる。

そういう判決に沿って選挙制度を改正すれば、当然都会の意見が強くなる。そうなると、田舎

はますますさびれていくのではないか。それでいいのか。その結果田舎のコミュニテイも崩壊し

ていく。それでいいのか。

-98-

Page 16: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

沖縄大学法経学部紀要第17号

意識的にこのような状態をつくり出したわけではなく、田舎の過疎化に伴ってこういう状態に

なってしまったわけだが、それは自然現象という訳ではなく、「自由」とか「平等」とかを尊重し

た結果として現実化したものではないか。

グローバル化の流れが、このような動きをさらに加速している。国家も相対的に力を失うとと

もに個人もまたバラバラになっていっている。

バラバラになった個人が、古い残津を消して、もう一度コミュニテイを形成していけるならば

めでたい話かもしれないし、例えば、広井氏などはそのような期待を持っておられるように見える。

では、期待通りに、旧来のコミュニティが都市型のコミュニテイヘと生まれ変われるのだろうか。

旧来の地縁型から都市型のテーマ型コミュニティへ組み替えは出来るのか。

これについては、今村晴彦・園田紫乃・金子郁容「コミュニティのちから一“遠慮がちな”ソー

シャル・キャピタルの発見一」(文献⑳)が参考になる。

健康、環境、教育、治安などの社会課題は本来国が解決すべきだと従来は考えられてきた。しかし、

国や行政がこれぞという手を打てないでいる問題にコミュニテイのちからが働いて改善する可能

‘性がある。政府や行政や、企業だけでは十分解決できない社会課題が続出してきており、また、

現代ではコミュニティがいたるところで崩壊しており、社会全体のつながりが消失しつつあるこ

とによる社会不安があるが、そんな中で、「助け合い」「ご近所づきあい」が現代でも大いに効力

があるかもしれないということが実証的に明らかにされるようになった。政府や企業の力によら

ず当事者たちの「つながりの力」によるコミュニテイによる問題解決が「コミュニテイ・ソリュー

ション」である。こういう考え方の理論的な基礎となっているのが、ソーシャル・キャピタル(社

会関係資本)の考え方である。ソーシャル・キャピタルとは、地域コミュニテイにおける「つな

がり」や「信頼関係」を生み出す共同資源であり、ソーシャル・キャピタルが高いほど医療・保健・

教育・経済・防犯など様々な分野で「うまくいく」ことが実証されている。コミュニティのメンバー

間の日常的な活動によって様々な結びつきが形成され、相互信頼と自発的な協力関係が生まれや

すくなる。

どんな地域もグループもまったく何も「コミュニテイのちから」が備わっていないということ

はあり得ない。すでに存在するが眠っている、ないし、忘れている「コミュニテイのちから」を

ひきだすことが必要である。その実践例が、この本にはたくさん収録されている。日本各地で起こっ

ているコミュニティ・ソリューションの事例をみると強烈な個性を持ったリーダーシップだけで

なく、静かで控えめな力が人々の間に浸透していることが問題解決の源になっている。

法のあり方との関係では、もっと視点を広げて見ることによって、現在の法システムの限界、

というより、現在の法システムが生まれた条件があらわになる。これを広井・文献⑲の第3章第

4節「近代における「倫理の外部化」-マンデヴイル的転回」によってみてみよう。

バーナードーデーマンデヴイル(BernarddeMandeville,1670年~1733年)はオランダ生まれ

のイギリスの精神科医で思想家(風刺、散文)である。主著「蜂の寓話一私益すなわち公益」は、

多くの思想家に影響を与え、思想史、経済史などで重要な位置を占めるとされる。

マンデヴィルの主張は、「蜂の寓話」の副題通り、「私益すなわち公益」というものである。欲

望が少なく、求めるものが少なければ少ないだけ、気楽だし、家庭では敬愛されるだろうし、神

-99-

Page 17: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

社会比較の有効‘性(4)

と世間に受け入れられるであろうが、そういう個人レベルでの美徳は社会全体の利益にはつなが

らないと彼はいうのである。個人が私利を追求することが経済のパイ拡大につながり、それが社

会全体の利益増大をもたらすというわけで、まさしく資本主義を支える論理である。

これを「倫理」ないし規範という観点から考えると、「倫理の外部化」だというのが広井氏の主

張である。

一般に、近代以前の伝統的社会においては、倫理ないし規範は内的に個人の行動を律するもの

として存在していた。ところが、近代では次のような二重の意味で「倫理の外部化」が生じている。

第1に、貧困削減あるいは貧者の救済と、それを通じた一定の平等の実現といったこと(富の

再分配)は政府の役割とされ、市場経済の領域においては個人が私利追求を行うことはむしろ積

極的に肯定される。

第2に、人間や社会を律する価値原理は個人の「自由」が基軸となり、その一方で個人の「権利」

というコンセプトが立てられ、後者が前者を「外在的に」規制するものとされた。この、「外在的」

という意味が分かりにくいが、その意味は、ある個人の「自由」を制約するものは原理的に存在

しないが(つまり、以前の時代の「徳」といった、個人を内面において律するような価値は存在

しないが)、それが他者の「自由」あるいは「権利」と抵触する限りで個人の自由は制約を受ける、

という意味だそうである。

「権利」というのは当初、「自由権」という形で「自由」の根拠づけとして、つまり、個人の自

由が、「正しいこと(right)」であるという正当化の論理として、展開していったのだが、よく知ら

れているように、それだけではカバーできなくなって、社会権、とりわけ生存権という権利が出

現してきたのである。これは、言うまでもなく、社会民主主義なり福祉国家なりの出現と重なり合っ

ているものである。

このような「倫理の外部化」は、外部化された装置がなければ問題が解決しないほど貧困や格

差が深刻で大規模なものとなったからとも考えられる。言い換えれば、個人の徳や内面的な倫理、

そして行動原理を説くだけでは到底追いつかないような新たな状況が生まれたということである。

そして、今や第3の定常化(文献⑰[2]3参照)の時を迎えて、権利概念を拡張するだけで

は不十分であり、価値そのものについての根本的な再考が求められるようになっているというの

が広井氏の主張だと理解される。

次の第5節「ポスト資本主義/定常型社会における価値」で、われわれが現在迎えつつある、

市場経済の拡大・成長が終駕する「定常型社会」においては、新たな形での倫理ないし価値が求

められているのではないか、言い換えれば「倫理の再・内部化」という課題にわれわれは直面し

ているのではないかと広井氏は述べられる。

狩猟採集を基本とする人間社会の初期段階から、血縁性をこえた「互恵的利他主義」が見られた。

互恵的利他主義というのは、たとえば、ある種の鳥が危険な病気を媒介するダニを互いに毛づく

ろいして取り合うといったような行為で、これは相互に相手を利用することでもあり、実のとこ

ろ「互恵的利己主義」ともいえる。お返しはすぐになされずに,しばらくして出会ったときにな

されるということもある。ちやんとお返しをしない者への対応は、ゲーム理論の分野で考察され

てきた。

狩猟採集社会が定常期に入ったとき(「心のビッグバン」期)に、コミュニテイというものが明

-100-

Page 18: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

沖縄大学法経学部紀要第17号

確に成立し、コミュニテイに対する同調的な行動規範が成立する。このような規範はやがて内面

化されて、ある種の自立'性を持つようになり、規範を守った場合に一定のプラスの感'情を抱いた

り、逆の場合にマイナスの感』情を持ったりするようになり、社会的感‘情といわれるものが生まれる。

どういうコミュニティが生き残るか、ということは遺伝子』情報によるのではなく、「文化進化」と

いわれる世代間や個体間のコミュニケーションを通じて伝えられる情報によってなされるとされる。

これに続いて、約1万年前に農耕が開始した。農耕社会では狩猟採集社会と比較してはるかに

強い同調的な行動や集団的な管理を必要とする。また、食料やその他の資源の貯蔵や蓄積が一般

的になり、分配ということが大きなテーマとなる。

農耕社会の拡大・成長期においては、同調的ないし協力的行動を取ることが生産拡大につながり、

個人の利得ともなるので、規範と欲求の相乗効果が生まれる。

しかし、農耕社会が定常期を迎えると、枢軸時代/精神革命の諸思想が生まれた。これらは、

普遍的な価値原理を志向するものであり、何らかの意味での欲望の内的な規制を含んでいた。加

えて、格差が広がり、階層化が進んだので、何らかの意味での格差是正や貧困救済や平等を説く

という性格を持っていた。

18世紀前後以降、市場経済、あるいは資本主義の展開に伴い、上記のように倫理の外部化が行

われた。産業化社会の前半においては個人の自由の追求が共通善にもつながった。

現在迎えている第3の定常期が、枢軸時代/精神革命時の状況と比較して違うのは、1つは、

近代の産業化社会を経てきてわれわれはすでに「独立した個人」をベースとする社会を築いてい

ることである。自由や権利の限界は認めても、それを否定してしまうことはできないだろう。

もう1つは、すでに地球の有限』性を認識しているということであり、地球の各地域の全体を一

歩外から眺める視点に立てるようになっているということである。それは、世界の均質化という

方向とは逆に、世界の各地域の風土や文化や宗教や思想等々の多様性を理解できるようになって

いるということである。

こういう時代において求められる価値は広井氏によれば次の2点に要約される。

第1に、個人を起点としつつ、その根底にあるコミュニテイや自然の次元を回復していくこと

である。

個人の基礎にはコミュニテイがあり、コミュニテイの基礎には自然がある。だから、個人の次

元の価値は認めつつ、コミュニテイや自然の次元の価値を統合していくことが必要になるという

わけである。

第2に、超越‘性に向かうベクトルと内在性に向かうベクトルとが循環的に融合するような‘性格

のものとなると広井氏は言われる。地球の外的な限界ないし天井にぶつかって、転回を余儀なく

され、同時に、そのような天井から地球を眺め返せば各地域の多様‘性に気づかされるし、文化や

思想の多様性も風土的・環境的多様‘性の故であることが理解される。その結果、個人というのも、

自然やコミュニティに規定された存在であることが自覚されるわけである。こうして、自然やコ

ミュニテイから独立する方向で個人のあり方が追求されてきていたのが、再び自然やコミユニ

テイが内在的なものとして再認識される。これを循環構造と名づけ得るのではないかと広井氏は

言われる。

この結果導かれるのは、難しい言い方だと思うのだが、「規範的価値と存在の価値の融合~存在

-101-

Page 19: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

社会比較の有効性(4)

と価値の融合」と呼ばれるような方向だそうだ。その内容は、要するに、存在するもので無駄な

ものはなに1つない、ということのようである。

この本では、さらに、「ポジテイブ・ウェルフェア」という概念が説明されている。従来の「福祉」

が、概して貧困や病気、失業等に対する事後的な救済が中心で、その限りでネガティブな性格の

ものであったのに対して、この考え方は、むしろ福祉を「個人の潜在的な可能』性や価値を引き出

していく」積極的なものとしてとらえる。要するに、どんな人も固有の内在的な価値を持っていて、

それを引き出していくこと、あるいはそれが実現されるように支援や働きかけを行うことが福祉

だというのである。

確かに、こういう考え方だと、存在するもので無駄なものはなに1つない、という考え方とつ

ながる。そして、経済成長や生産の量的拡大といった一義的なベクトルから解放された状況にお

いてこそ人々の創造』性は多様な形で開花していく、という理解とあいまって、「規範的価値と存在

的価値の融合」という発想と呼応するのだと広井氏は言われる。

今後、具体的に法というものをどのように構成していけばよいのかについては、次の機会に譲

りたい。

*沖縄大学法経学部教授

①平良勝保「近代日本最初の「植民地」沖縄と旧慣調査1972-1908」(藤原書店.2011年)

②郭中端・堀込憲二「中国人の街づくり」(相模書房・1980年)

③朝日新聞(東京版)2012年1月16日朝刊「立法院、小政党も議席」(村上太輝夫・小山謙太郎)

④同「中国ネット市民、総統選に夢中」(林望)

⑤平野久美子「トオサンの桜散りゆく台湾の中の日本」(小学館.2007年)

⑥川瀬光義「台湾の土地政策平均地権の研究」(青木書店・1992年)

⑦小川仁志「日本を再生!ご近所の公共哲学」(技術評論社.2011年)

⑧農山漁村文化協会編「TPP反対の大義」(農山漁村文化協会・2010年)

⑨中村靖彦「日本の食糧が危ない」(岩波新書・2011年)

⑩滝川敏明「WTO法一実務・ケース・政策一」(三省堂・2005年)

⑪松井芳郎「国際法から世界を見る[第3版]」(東信堂・2011年)

⑫司馬遼太郎「土地と日本人く対談集>」(中央公論社。1976年、文庫版1980年)

⑬野口悠紀雄・佐々 木かをり「食料自給率は、低ければ低いほどいい」http://www.ewoman.

co.jp/winwin/124/2/4

⑭川島博之「農民国家中国の限界」(東洋経済・2010年)

⑮糊漂能生「「株式会社の農業参入」をどう評価すべきか一農地制度の視角から-」(梶井功編

集代表・矢坂雅充編集担当「日本農業年報56民主党農政一政策の混迷は解消されるのか一」

(農林統計協会・2010年)所収)

⑯美根慶樹「スイス歴史が生んだ異色の憲法」(ミネルヴア書房・2003年)

⑰拙稿「社会比較の有効性(3)」(沖縄大学法経学部紀要第14号.2010年11月所収)

⑱総務省「定住自立圏構想」http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/kenkyu/teizyu/index.

-102-

Page 20: Title 沖縄大学法経学部紀要 = Okinawa University JOURNAL OF …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/... · 高雄から台湾の南端にあるリゾート・墾丁の手前にある、町(鎮)としては最南端の恒春に琉

沖縄大学法経学部紀要第17号

html

広井良典「創造的福祉社会一「成長」後の社会構ヲ

今村晴彦・園田紫乃・金子郁容「コミュニティの

ピタルの発見一」(慶応義塾大学出版会.2010年)

「成長」後の社会構想と人間・地域・価値」(ちくま新書・2011年)

¥「コミュニティのちから-“遠慮がちな”ソーシャル・キャ

⑲⑳

(120130脱稿)

-103-


Recommended